羽虫

 その羽音は、常人の気を狂わすなにか特殊な効果でも有しているのだろうか。

 鳴る、鳴る、とかく圧迫感のある重低音を衝撃として送り続ける。その様にはある種の狂気すら感じられるほどで、しかしそれを感じる客観性を、音の檻の中の人間たちは奪われていった。

「う……ウ……」

 機械仕掛けの肉体を得たといっても、生身の身体を持っていたころと同じように、痛みも苦しみも感じてしまう。それが、彼らの弱点だった。いい打開策など、浮かぶはずもない。

 しかし、メシアだけは、薄れいく意識のなかである不可思議な事実に気づいた。

「こいつら、よく生きてられるな・・・・・・・

 羽音に消され、その気づきは他機に伝えられることはなかった。だが、メシアの勘付きはこの〝メゾン区第二空軍〟の正体に迫る、実に鋭いものだったのである。

 そしてふわ、と浮くように意識が途絶えた。


「……オキタカ?」

「ッ?! ここは……? そしてお前は誰だ」

 真っ白な壁と床、そして天井。いや、それらの境界は視認できないままだ。彼は自分が球体の中にいるのか、流体の中にいるのかさえ判別できなかった。滑らかな白しかメシアの目には入らず、彼は自分が寝かされている部屋の形すら把握できない。

「ワタシカ……? ワタシハ〝ム〟だ」

「無だと?」

 機械音声はあちこちに反響し、どこが発信源かもわからない。自分と他の境すら曖昧になろうかという精神状態にメシアは侵されていたが、何とか理性を振り絞って恐怖に耐えた。

「その〝無〟が、何の用だ」

 ムと名乗った声は応えず、ただどこかからか金属の軋むような音が、徐々に大きく聞こえてくる。それは〝羽音〟と同じく、人を不快にさせる音には違いなかった。

 そう、羽音。メシアはこの時に、ここに連れてこられる前の出来事を思い出す。正体不明の小さな戦闘機に視界を遮られ、意識を失ったのだと理解した。それならば気になるのは仲間の行方――ではない。

 正体不明の戦闘機には、確かに〝赤地に三匹の鷹〟の紋章があった。あれはメゾン区所属の軍隊にしかない、所属不明の軍団にあるはずのない模様。

「お目覚めは如何ですかな」

 気配もなく後ろから声がする。メシアは身体をくねらせてその方向を見た。そこには、顔の下半分が隠れるほどの豊かな髭に、目尻の下がった優しそうな顔立ち、そしてゆったりとした白い服を着た老人が立っていた。

「我ら誇り高きメゾン区に逆らうとは、それにあろうことかタエがねえ……」

「……! まさかお前は!」

 メシアが捨てた名を知る人物、それはメストス階級にはただ一人しかいない。

「私は君を見込んでよくして上げたのではなかったかね?」

「人違いだろう。俺はメシアという」

「……ほう? 汝分不相応にも救世主を自称するか! ハッ、笑止! お前に黒肌の民は救えない」

 メシアの試みを打ち砕いてやる、という意気に溢れた言葉ではあったが、そこにただならぬ違和感をメシアは感じる。その違和感に気づいた瞬間、メシアは攻勢に転じた。

「……へえ、メシアが救世主を意味するなんて、俺も初めて知ったよ。それより何だ? 〝ム〟とかいう人工知能に唆されたのかもしれないが、俺は敵機と交戦してたたけの二等兵だ」

「――……?!」

 老人にわずかながら動揺が生まれた。それをメシアは見逃さない。

「お前誰だが知らないが、任務に励んでいただけの兵隊とっ捕まえて軟禁するなんて命知らずだな。戦線維持法に反してメゾン区長に首切られるぞ」

 団結と反逆を恐れられ敵機との一対一の交戦しか経験してこなかった黒肌の民が、他の戦闘員の名や称号を知ることはない。だから、自身をタエと呼んだときに、老人が〝戦闘員を統括する者である〟ことは容易に想像できた。それはすなわち区長だったが、知らんぷりを決め込む。

 戦闘員の戦闘記録などと分析する知能が存在しているのは薄々知っていた。それがこの「ム」なのだろうとあたりをつけた。存在だけは知っているそれに、区長はご執心であるとも。そばに部下も臣下も置かず、ただ優秀な人工知能にまつりごとを任せていると。そのムの領域に、区長自らが干渉した。捕虜の尋問くらいなら人工知能に任せればいいのに。

 区長は人工知能の能力を疑った。それがメシアの導き出した答えだった。

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