112夜叉虎

「よかったのですか?」


 シエルの説得に珍しく成功し、彼女を置いて始まった翌日。

 ミルムが先導して雑草を刈るその後ろ。ルシルの隣を歩くリゼットは問いかけた。


「何がだ?」


「シエル様ですよ。案外あっさり適応するかもしれませんよ」


「かもな」


「だったら――」


「たとえ魚になれたとてきおうしても、大したメリットないだろ」


 相変わらずミルムに的確な指示を出しながら気のない返事をする。

 意識しなくても……自然体でありながら警戒が緩まない。

 警戒と思考を切り分けられることが危険地域での最低条件だが、実行できる者はわずかである。

 意識を張りつめ続けることなど誰にとっても不可能だからだ。


「そうですか? 何処へでもついていけますよ」


「馬鹿言え。何処へでも行けないから、お前は・・・あちこちに・・・・・行かされた《・・・・・》んだろうが」


「……そう、でしたね」


 神域と言っても千差万別。大雑把に区分しても陸海空とある。

 高度、緯度、経度、気温、湿度、日照時間や降水量などの物理的に観測できる環境からはじまり。

 磁場、霊脈、龍脈、星穴といった体感するには難しいものや、生態系の特殊性など。

 それこそ深海や火山なんて極地も一つに数えられるほどに千差万別なのだ。

 複雑に条件が絡み合っていて正確に分類ができず、『人が住めない場所しんいき』と二分するしか方法がない。


 だから聖女リゼットは、あらゆる環境に適応できるよう、教会の持つ修行場しんいきをあちこち連れ回された。

 最も危険なのはやはり最初。初めて『人界』とは異なるルールを押し付けられるからだ。

 常人であれば99%以上で狂ってしまう。修験者であってもせいぜい半々と言ったところか。


 しかし一度適応できれば、二つ目以降は比較的容易になる。

 あくまで『比較的』なのは、運動が得意な者が多くのスポーツに適応できるようなものと考えればいい。

 それと同様に得手・不得手は歴然と存在し、サッカーができるから野球も得意とは限らない。

 一般人よりかなりマシなだけで、環境に適応した魚や鳥プロたちには遠く及ばないのは誰にでもわかるだろう。


「むしろ戻ってこれなくなるリスクを考えれば神域に近付くべきじゃない」


「……まぁ、魚は水中の生き物ですからね」


 しばしば神域に適応することを『新たな能力を獲得する』と解釈されるが勘違いだ。

 別種の生物への強制進化・・・・と言った方が正しく、逆に『その神域内でしか生きられない』ようになる可能性も高い。

 故にリゼットは『狂うか死ぬか』と言ったのだ。

 神域に適応してなお、人の領域で生きられるのは、ゼロといっても差し支えないほどの誤差かくりつ

 ゆえに帰還者は、ただそれだけで異端えいゆうとなる。


「必要ならさせる。けど、あいつの本質的は商人だ。

 そんな物騒な目に遭わせる必要性はないし、『無いようにする』のが俺の仕事だろ」


「それを彼女に伝えてあげないのですか? 単に実力不足だと勘違いしていますよ」


「俺の勝手な判断を押し付けてるのに言えるかよ」


「……まったく、お優しいことで」


 危険な神域を『人の身』で歩く規格外ふたりは、雑談に花を咲かせつつ進んでいく。

 そんな折、ミルムが静かに警戒を口にした。


「ルシル。なんぞ来よったぞ」


「距離8ってところか。よく気付いた」


「うむ。もっとわっちを褒めるとよい!」


「そんなことしてると――」


 ルシルは対面していた満面の笑みを浮かべたミルムの胸元を掴んで引き寄せる。

 合わせて反対の手を突き出し何かを受け止めた。


 ――ガチンッ!


 勢いよく噛み合わされた牙の空振り音。

 先ほどまではしゃいでいたミルムの頭があった場所である。

 的確な攻撃により、この視界の悪い中でも敵の認識が十全に働いているとわかる。


「なんじゃ!?」


「いや、だからその『なんぞ』の登場だよ」


 ミルムを丸呑みできるほどもある幽鬼のような青白い夜叉虎ホロウタイガーの巨大な顔。

 尾の先には青い鬼火が灯り、白虎は風もないのに毛皮をなびかせ、薄氷のような目が爛々と輝いている。

 その顔を撫でるように受け止めるルシルに、ぶふーと白い息を吹き付けていた。


夜叉虎ホロウタイガー? この森に、ですか?」


「何じゃ!」


「肉食の魔物でな。食った獲物の魂魄エーテルを使役して、狩りの際に囮とか包囲に使う」


 リゼットの言葉にルシルが補足する。

 しかし本体自ら突っ込んでくるとなると、何らかのアクシデントで魂魄エーテルを逃がしたか。

 それとも後詰かこいに配置したか――いつずれにしても、この場に居ないのは違和感がある。


 ――ガサガザッ


「なるほど。共食い・・・ってわけか」


 現れたのは、さらに二回りほども大きな夜叉虎ホロウタイガー

 どうやら一匹目が『使役されている』ようで、よくよく見れば白い毛先の輪郭が虚ろに揺らいでいる。

 元々が青みがかった白虎のような見た目なので見分けがつけにくい。

 それにしても。

 肉薄してさえ分別が難しいほどに強力な個体を使役するとは、二匹目ほんたいは歴戦と言っていいだろう。

 その証拠に、周囲に揺らめく魂魄エーテルがふわりふわりと漂い始める。


「強いのか?」


「単体だとそこそこ。シエルが工夫してなんとかってところか。まぁ、ミルムじゃちっと無理だろうな」


「そんなにかっ!」


「ちなみにこいつらの本領発揮は捕食に慣れてからだ。

 こいつみたいな同族狩りは珍しいが、食うほど・生きるほどに絶対服従の眷属が増えていって手が付けられない」


 ぼぼぼと周囲に青く仄暗い魂魄エーテルともって形を成し、死霊の軍勢が周囲に満ちる。

 魔物・動物は区別されず、なんなら人型も存在する。

 どうやら相当やんちゃ・・・・夜叉虎ホロウタイガーらしい、とルシルは判断した。

 そして夜叉虎ホロウタイガーが『はずれ』と呼ばれる何より残念な点が――


「結局は一匹に違いない。だから、取り巻きがどれだけ居ても素材にく増えないんだよなぁ」


「なんじゃと!! だったらこれらは何なのじゃ!?」


「だから魂魄エーテルだって。なんて言えばいいかな。

 精神体アストラル? いや、まぁ……どっちにせよ重さを変えられる空気みたいなもんだよ」


 はぁ、と盛大な溜息を零す。

 何せ身体は夜叉虎ホロウタイガーが食ってるので残っているわけがない。

 ゆえに長く生きるほどに厄介になり、その分だけ素材の品質も上がっていく。

 だが・・、あまりに厄介すぎる性質と難易度に、得られる報酬がまったく釣り合わない。

 これでは誰も手を出したがらない。

 それこそ都市部でもなければ、村ごと損切りを選ばされるほど毛嫌いされていた。


 唯一の救いは生息範囲が狭いことと、竜種に匹敵するほど数が少ないことだろうか。

 まぁ、あんなものがあちこちで闊歩する世の中であれば、それこそ人類は存在していない。

 とはいえ――


聖女リゼに遭ったのが運の尽き――」


 ルシルが流暢に語っていると、リゼットが渾身のメイスが振り下ろされたのだった。

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