111神域
「だ、大丈夫ですか! ルシル様!」
身体操作を得意とするルシルが、指定したエリア外に落ちたとなれば誰もが目を疑う。
その類に漏れないシエルも、ルシルの引っ掛かる木の下まで慌てて駆け寄り声を掛けた。
真上に飛ぶのも、着地場所を選ぶのも、普段の彼なら風があってもなくても自在だったはずである。
それが何故か上手くいかない……この感覚は、割と最近味わったことがある。
「あぁ、俺は何ともない。ミルム、せっかくだから助けてくれよ」
「せっかくとは何じゃまったく」
バスンバスンとルシルを支える木の枝を器用に伐り飛ばしていく。
自重でずるりと落下するルシルは、今度こそきちんと着地を決めた。
シエルが駆け寄り、枝葉で汚れた服を払いながら「どうされたのですか」と問う。
調子が悪いのならば今すぐにでも帰る――そう言い出しそうな彼女に、ルシルはいたって真剣な目で告げた。
「
唐突な戦力外通告にシエルは反射的に「なぜです!?」と叫ぶ。
不調をきたしたのはルシルではないのか。
珍しく慌て、混乱する彼女を宥めるように、ルシルは声を静めて落ち着かせる。
「最初の『不帰の森』って時点で気付くべきだったんだ。
いや、ここに来た……人の侵入を拒むほど自然が濃い時点でもよかった」
「何を言って……?」
「おなじみの植物なのに、その再生力は異常の一言。
手つかずだからと植物の巨大さに感心していたが、動物や魔物が一回りはでかい。
そして極めつけが方角を始めとした各種感覚に狂いはないのに、
「それって……」
「あぁ、島の祠みたいだろ。深すぎる自然の領域……それが『神域』だ」
「しん、いき……?」
「本当に『神』が居るかどうかって話じゃなくてな。
たとえばこの森はきっと恵みをもたすが、これだけ茂っていればいつ
差し込む光は薄く、朝・夕の準備を遅らせて身動きできる時間をごっそり削る。
草木が揺れるのは風か敵か。反響して聞こえる音は仲間のものか。
こんな
人が快適に過ごせる環境ってのは、想像よりも遥かに人工的だ。『楽しめる自然』ってのは本来存在しえないものなんだ」
「……それは未開拓の
「そうれもそうなんだが……なんと言えば伝わるか」
うーんとルシルが唸る。
どうにも体感や概念といったものを伝えるのは難しい。
であれば、できる相手に託せばいいと、リゼットへと視線を向けてバトンを投げた。
「こういう
「否定はしませんが、得意でもありませんよ。では僭越ながら代わりに。
未開拓地が危険なのは未知が大きな問題です。
いいえ、それ以前に『人が生活できる領域』が
そうした、人が踏み込めないほどの『深い自然』は、異界や神域と言って区別されています」
「それが
「『その中の一つ』と表現した方がより正確でしょう。
ざっくり言えば、表現できないけれど『嫌な空気』を感じる場所などが
「……事故物件、とかですかね?」
「そこで不動産の話が出てくるのが
自然の話をしているのに、完全に人工物をぶち込んでくるシエルに、思わずリゼットはくすりと笑ってしまう。
しかしそれもまた真実である。
たとえ自然とは程遠い人工物であろうとも、『異界』となる場所はいくらでも存在する。
そのせいで神隠しや音鳴りがしたり、幻覚らしきものが見えたりするのだ。
「要は人が長期に渡って過ごせる
そして神域に入ると『人では理解不能な感覚』を強制的に刺激されます。
たとえるなら
海に投げ出されてもすぐには死にません。水面に上がれば息が吸えますからね。
けれど長期に渡って生き続けられるか、と問われれば、どう考えても快適ではないでしょう。
体力や体温を奪われ、食事やましてや水さえない環境で、どれだけの期間持つでしょうか。
こうして多くの人は環境に屈して
「その
「ですが私はこの地でも……」
「えぇ、平然としていますよね。
それはおそらく、
加えてミルム様の
わたくしたちがすぐに気付けなかったのも、ルシルが飛んで気付いたのも、それが原因だと考えられます」
滔々と続く説明の中、様子を見守っていたミルムが「わっちのお陰か!」と声を上げる。
見上げてくる彼女に、ルシルは口元に指を立てて「しーっ」と黙っているように合図をする。
「おう、お前の魔術で快適だからな」
「うむ!」
「ちょっと静かにしてような。今忙しいからな」
「わかったのじゃ!」
両手を上げて反応するミルムに「全然わかってねぇ……」とルシルが頭を振る。
空気が読めない
「……英雄のお二人であれば大丈夫なのですか?」
「俺は問題なし。そもそも魔族領ってこんな感じだ。
リゼも聖女修行とかで山とか川とか海とかに連れてかれただろ」
「その説明では
「はっ、歴代最速で聖女の称号を手にしたヤツが言うかね」
「早く帰りたい一心で……」
「そりゃまた驚きの
ミルムを数に入れないのは、そもそも彼女は『
最悪はぐれてもすぐには狂わないだろうし、ルシルがミルムと離れることの方が
それにしても。理解が及ばないとはいえ、英雄が二人して制止するとなると、ただ事ではない場所なのだろう。
元々シエルを戦場に連れて行くつもりのなかったルシルからすると妥当すぎる決定でもある。
「……わ、かりました」
「不服さがにじみ出てるぞ」
「ですが必ず帰ってきてください」
「そのつもりだ。というか
「むしろそれが問題……」
「どういう意m「無事に帰ってきてくださいね!」……お、おう、理解してくれて助かる」
きゅっと目を吊り上げるシエルに言えるのはそれだけだった。
その横でリゼットは盛大な溜息を入れ、ミルムは「でかいのを持って帰るぞ!」と今後の意気込みを語っていた。
空気の読めなさは尊いのかもしれない。
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