091生餌の冴え
モーラの巨体がブルリと大きく揺らいだように感じる。
そして元々黄色く濁って見えていたかどうかも怪しい巨大な目は、一層影の色を増した。
かと思えば、モーラが海中に戻って……いや、あの巨艦がゆっくりと
「ルシル様っ!」
ハラハラと見守っていたクラリスが思わず一歩踏み出して叫ぶ。
当然、そんな挙動で現実は変えられない。
そもそも声すら他の騒音に紛れて届きはしない。
・
・
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沈みゆくモーラから少し離れた海面を、小さな気泡が弾けて揺らす。
その数は一気に増え、沸騰したようにボコボコと暴れたかと思えば、巨大な水柱が立ち上がった。
「ぷはぁっ!! もう二度とモーラとやりたくねぇな!」
水柱と共に空中に飛び出したルシルは、まだ口内に残るモーラの血をぺッペッと吐き出し愚痴る。
巨艦とさえ謳われる巨大魚モーラにしては、余りに小さい魔核をルシルは手に握っていた。
核に宿る魔力密度が尋常ではない。現在の島で必要とする魔力量を余裕で網羅してしまうだろう。
そう、ルシルはたった一人で災害指定巨獣の討伐を果たしたのだ。
そんな大偉業に浸る時間は残念ながらない。
その反面、巨艦モーラに追い立てられていた可能性に、淡い期待を抱くも
まったく現実ってのは甘くないもんだ、とルシルは嘆息する。
むしろ
「……何だ? 何かが変だぞ?」
海面から飛び上がって高度を得たことにより、戦場を立体的に俯瞰するルシルの直感が囁く。
しかしそれが何かまでは紐づかず、普段のルシルにはない、気味の悪さが付きまとう。
とはいえ、そんな
目の前の戦場をどうにかするのが先決だ。
視界の端では、先ほど討伐したモーラが、障壁の機能が停止して海に沈んでいるのが見える。
津波の心配を一瞬するが、そのままゆったりと腹を海面にぷかりと浮いた。
あれほどの巨体を反発で浮かび上がらせ、津波まで起こした障壁の規格外さを思い知らされる。
それと懸念していた寄生している魔物たちもしばらくは問題ないだろう。
巨艦モーラは、生きていれば彼らに住処を。
死骸となった今では
少なくとも食い尽くすまでの猶予は十分にあるはずだ。
短い自由落下でおおよその緊急性を把握したルシルは、モーラの遺骸を置き去りに戦場を駆け抜ける。
・
・
・
「よかった――」
力が抜け、とさっ、と砂浜に膝をつく。
ルシルを盲信するシエルの口から、安堵の言葉が漏れた。
巨大なほどに内側への攻撃が有効なのは理解出る。
が、実行するかどうかは全くの別問題だ。
まったく、こちらの心配も知らないで……シエルは目じりに浮かぶ涙を拭って無言で非難する。
「ほぅ、ルシルはやるのぉ」
「あのモーラを一人で倒せる人類はルシル様以外には存在しないでしょうね」
「正面対決なら竜種でも手こずりそうだの」
「えぇ、まったく」
そんなモーラの唯一無二の弱点はとにかく頭が悪いことだ。
たとえば海の生き物ではあるので、陸に上がれば干上がって死ぬのは当然のこと。
しかし障壁の強度から、陸海空を走破できるため進行方向に頓着がない。
そのため陸地に乗り上げて勝手に干上がったりすることさえある。
それだけで済めばいいのだが、残る死骸が腐敗して臭いや疫病が広がる可能性がある。
急いで片付けようにも大きすぎ、何なら寄生魔物が溢れて二次災害を起こす。
何ならモーラを含めた魔物がアンデット化を果たす、なんて悪夢も過去には起きている。
放置にしても処分にしても被害が拡大するので、人里に近付かないことを祈るほかない。
それほどまでに災害指定巨獣の認定は重かった。
ちなみに竜種の場合、高い知性を持つため比較にあまり意味はない。
「しかしさっきの波には困ったものだ。全身濡れてしもうたわ」
「タオルはお持ちですか?」
「うむ! シエルの教え通り、ポーチに入れておる!」
「ミルム様さすがです。身体が冷えないように拭いてくださいね」
「シエルはいいのか?」
「私はこれから流された素材を回収しに行きます。後で貸してくださいね」
「任された! ではこやつらはわっちが責任を持とう!」
「お願いします」
モーラの津波はルシルの手によって分断された。
その波紋は周囲の島々をめぐっているだろうが微々たるもの。
天災を個人が解決したことには違いない。
相変わらずやることが破天荒だ、とシエルが微笑む。
自らの仕事を全うしようと海に入ろうとすると、背後から「シエル様!!」と呼び止められる。
聞き覚えのある声に振り向くシエルが見たのは――
「クラ、リス……?」
懸命にこちらに走ってくる彼女は、ルシルの命に従って海岸を見張っているはず。
それがここに来るということは、撤退するほどルシルが
先ほどまでの高揚感から一転、背筋を這う怖気に慌てて戦況の確認に視線を向けるが――どうにもそんな様子はない。
戦場を縦横無尽に駆け回っているのは、あちこちで水柱が上がり、魔物が宙を舞っていることから明白だった。
「なぜこちらに……?」
「ま、魔物の、流れが、おかしいのです」
「流れ?」
「はぁ、はぁ……なるほど。
こちらからでは角度の関係でわからないんですね」
上がった息を整えるクラリスが、ちらりと海に視線を向けて確信を深める。
だが、シエルには全く状況が見えてこない。
「どういうことです?」
「私のところへ魔物が来ません」
「え、えぇ? それはルシル様が……」
「違うのです。最初から、私の方には『向かって来ない』のです」
「どういう――」
魔物から最も近いのは、当然ながら海上を駆けるルシルだ。
その次が海岸線に陣取るクラリスで、同じ海沿いとはいえ内陸部に面するシエルやミルムは最後方になる。
目的が何であれ、動物と魔物の生態はほぼ同じ。
賢い個体も中には居るが、戦闘を主戦場とするルシルの判断からもわかるように、最優先は安全や餌の確保だ。
それを前提にした配置であり、つまりは『
だからこそシエルとミルムの安全は最低限保たれていた。
もちろん、腹具合などで優先順位は変わるだろう。
しかし
しかもそれを遠方のシエルだけでなく、戦場に立つルシルが気付けないはずが――
「クラリス、貴方は先ほど角度と言いましたか」
「はい。
逆に私が居た海岸からは、ルシル様が突出する魔物を抑えるために、左右に大きく動いているのがわかりました」
「奥行き? なるほど、だから『角度』と言ったのですね」
「ある程度、島に近付いた魔物は、目標を二分してしまうようです」
つまりは
そして『奥行き』となれば、直線状に何かが存在するわけで……。
「……もっと苦労のない魔物の
視線を向けた先には、狩りたてほやほやの魔物の死骸が血を垂れ流している。
しかしそれは戦場でも同じ。むしろルシルが
「かもしれませんが、おそらく目的はシエル様たちだと思います」
「それで護衛のためにこちらに来たのですね」
「
「はい? ではどういう意味です?」
「このことをルシル様にどうにかして伝えるためです。
クラリスは確信を込めてシエルに訴えた。
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