089方向転換の代償

「なん――っ!?」


 思わず口を突いて言葉が出そうになるが、ルシルにはその時間さえ惜しい。

 彼には詳細な理由までは分からなかったが、バウンドアレはどう考えてもヤバいと直感が警告する。

 眼前のモーラへの執着を即座に断ち切り、島へときびすを返した。

 そしてその判断は間違いなく正しいものだった。


 結論から言えば、モーラが行ったのは障壁の密度を上げただけ。

 しかしそれによって発生する現象は劇的で、海水にまで障壁が反応するようになったのだ。

 結果、鍋に満たした油に水滴を落とすように、モーラの身体が海水に沈むことができなくなった・・・・・・・

 いいや、もっと正確に表すならば、水中に沈めていたボールが浮力によって飛び出すように。

 海水の頸木くびきから解き放たれたモーラは、その馬鹿げた身体を空中へと跳ね上げたのだ。


 しかし島ほどのサイズの物体が、海水を巻き添えに上下に大きく動けばどうなるか。

 当然、押し退け・引きずられた大量の海水が周囲へと溢れて流れ出す。

 それでもモーラを中心に全方位に伝播する波紋は、距離が延びるほどに拡散し、気にするほどではなくなるだろう。


 だが、ここにはすぐ近くに島がある。

 拡散するよりも遥か前に、浅い海底を波が高速で駆け上がる。

 そうして押し寄せる高く強固な波……津波・・は、もはや壁。

 人の身長を遥かに凌ぎ、海が近付くような錯覚さえ起こす。

 しかも高さがたとえ膝丈くらいであろうとも、常人では耐えられない。


 そんな船よりも早く伝播する津波を、ルシルは一心に追う。

 重なり合う魔物の軍勢を一瞬で通り過ぎ、砂浜で佇むクラリスを抱き上げる。

 クラリス本人は起きた事象に何一つ気付いていない。


「シエル! 対処しろ!!」


 胸元に収まるクラリスが、ルシルの大声に身体を竦ませる。

 ルシルの声量に身を縮めた彼女を、砲弾のように上空へと投げ出した。

 そうして両手が開いたルシルは――



 ――海に向かってゆったりと正眼に剣を構える



 極限の集中力により凝縮された何かが周囲を満たす。

 ピーンと空気が引き絞られる。

 極寒のような澄んだ冷たさの中で、ルシルはただ一太刀、剣身さえ見えぬ速度で振う。


 その一閃でまず空間に見えない亀裂を刻む。

 一拍遅れて眼前の砂浜が割れ、切られたことに気付いたのか、空間が悲鳴を上げてズレた。

 さらに遅れることもう一拍、踏み込んだ砂浜にクレーターが生まれ。

 最後の一拍で海に透明なガラスを置いたように、すらりと一直線に左右に分断される。

 その斬撃は、音もなくモーラまで静かに届くも、残念ながら障壁に阻まれ周囲に霧散した。

 衝撃のすさまじさを物語るかのように、周辺に突風が吹き荒れる。


「ふぅぅぅ……」


 津波すらも切断し、海ごと割って左右に押し流したルシルは深く息を吐き出す。

 全身から白い湯気を上げ、あちこちの筋肉がぴくぴくと小さく痙攣している。

 握り込んだ手を開けば、潰れた柄が砂浜にポトリと落ちた。

 そう、構えた際にあったはずの剣身が消失し、握り潰された柄だけが。

 しかし津波の脅威から脱しただけではまだ早い。


「きぃゃーーーーーー!?」


 上空高く投げ上げたクラリスが、悲鳴と共に落下してくる。

 憔悴したルシルは、夢遊病者のようなゆらりとした動きでも、しっかりと彼女を抱き止める。

 腕の中のクラリスに向け、ルシルは「無事かクラリス」と小さく囁いた。

 その優し気な声色とは相対的に、大荒れの海を鋭く見つめていた。


「え、は、はいっ!」


「ならよかった。すまんがお前の短剣を貸してくれ」


「た、短剣ですか? 長い方ではなく?」


「長剣を借りちゃお前が戦えないだろ」


 熱病患者のように火照った顔でルシルが笑う。

 たしかに今はモーラの足止めにも成功しているし、津波と剣閃によって海上の魔物たちは大いに混乱している。

 いいや、盛大に割れた海が滝のように崩れ、轟音を上げながら海を撹拌させ、被害は甚大らしい。


 現に海底にあったはずの砂、泥などが巻き上げられてどんよりと濁っている。

 そればかりか硬いサンゴや石が流れに乗り、身を削る砂嵐の様相を呈している。

 小魚程度ならすり身にされかねず、魔物の侵攻で狂った生態系は、ますます混迷を極めていそうだ。

 巨艦モーラの異名もさることながら、大英雄ルシルの手腕もまた天変地異を平気で起こしていた。


 だから切り込むなら今かもしれない――。

 ルシルが剣を寄越せという理由もわかる。

 が、それは現場を知らない馬鹿どもの妄言だ。


「そんな身体で! まだ戦うと!」


「そんな身体? ははっ、俺に傷なんかないぞ」


「傷は表面だけではないでしょう!

 けれど使いすぎた身体はこんなにも熱を発しています!

 疲労も! 体力も! 消耗したのに! なぜ、こんな場面で貴方は笑えるのです!」


 腕に抱かれたまま、クラリスは涙を浮かべ、ルシルの胸倉をつかんで叫ぶ。

 魔物の大群が押し寄せるような現象は、大氾濫スタンピードという『天災』に分類される。

 それはつまり、甘んじて受け入れるべき被害であり、対抗すべきものではないことを意味する。


 それなのに、彼女はルシルが勇者だから、英雄だから、という理由だけで送り出してしまった。

 海を駆け、瞬く間に魔物を討伐できても、あくまで一部。全体には程遠い。

 天災に分類される大氾濫スタンピードの層はあまりに厚く、単体で災害に分類されるモーラまで出張ってきてしまっている。

 こんなものを『勇者』の肩書きルシルだけに背負わせてしまった自分を、彼女は本気で悔いている。


「クラリス、お前がそんな顔・・・・してるからだろ」


「え――」


 ルシルの言葉にきつく閉じていた目を開く。

 そこには凛々しく、野性的な笑みを浮かべるルシルの顔がある。

 ルシルは器用に片手でクラリスを抱え直して頭を撫でた。


「まったく、くしゃくしゃに泣きやがって。綺麗な顔が台無しだ。

 俺は、お前やシエル、ミルムたちが笑って過ごせる世界がいいんだよ。

 だからクラリスが気に病む必要なんかない。俺は俺で、好き勝手に生きてんだからな」


 そう言って砂浜にクラリスを立たせ、腰に佩いていた短剣を借り受ける。

 すらりと洗練された長剣とは違い、手の平に乗る短剣は剣身が厚く頑強そうだ。

 握りに凹凸はないものの、柄の端に輪をあしらっていて、実用性重視らしい。

 きっと船上で重宝するのだろう。


「それに戦ってるのは俺だけじゃないからな」


 ぽん、と戦友クラリスの肩に手を乗せ、ルシルは笑って戦場へと戻る。

 誰もが死地と疑わない、大氾濫スタンピードを引き起こした絶望の海へと。

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