082絶望の海魔
世界が認める勇者相手に『心配』など、頭ではおこがましいと理解している。
しかし、それでもたった一人で成せる範囲に限界はある。
いや、そうだと思っていた、が
クラリスの常識は、この日をもってアップデートされたのだから。
「ん? もう来たのか。まだ敵さんの方が到着してないからもうちょっと待ってくれ」
ルシルは凪いだ水平線を見つめて振り返りもしない。
それでも穏やかな声色は近付く彼女たちへの気遣いを感じさせる。
その様子に、クラリスは『背中に目でも付いている』という
確かに気配を殺す、みたいなことはしていない。
それでも海獣が上陸するとされる地域に踏み込むのだ。
全員がある程度の警戒もしていたし、クラリスに至っては臨戦態勢だった。
それなのに――
――ザバァッ!
クラリスの思考を断つように、海面が勢いよく盛り上がった。
「海魔の方だったか。昼飯は
その様子を見上げてルシルは暢気につぶやいた。
現れたのは海の魔物と言えばの筆頭格、船上で出くわしたくない魔物の一つに挙げられる
この手の魔物は神秘を扱えず、代わりに海魔の中でも特に巨大でやたらと頑丈という特徴を持つ。
つまり攻撃・防御ともに身体能力によるごり押しで、遠距離から魔術が撃ち込まれるような攻撃はない。
とはいえ、そんなことが慰めにならないほどの攻撃範囲と強靭さを誇る。
巨大なガレオン船をも真っ二つに引き裂くほどに。
また、海というフィールドは、
落水するだけで身動きが取れず、装備の重さだけ体力と体温を奪われ沈んでいく。
人にとっては死地に違いなく、ゆえに一般的な対策の第一工程は陸上への引き揚げになる。
まずはロープ付きの銛を射掛けて数を頼んで力ずくで海中から引きずり出す。
これができないことには始まらないが、超重量に加えて
そもそもただの猪の突進でさえ常人の手に余るというのに、数十メートルもの巨体に損傷を与える攻撃となれば難度は別格。
人手はどれだけあっても足りず、なんとか陸に上げてからも、巨体を相手にとにかく死ぬまで攻撃し続けるしかない。
軍港であればバリスタや投石機の運用さえ視野に入り、もはや攻城戦を思わせるほどの規模になる。
「シエル、討伐でのご所望は?」
そんな討伐することさえ難しい海魔を相手に、身体を伸ばすルシルは気楽に背中越しで問う。
問われたシエルは合いの手を入れるように
「綺麗であれば構いません。核は破壊しないでもらえると非常に助かります」
即座に注文を伝えれば、ふんふんとルシルが頷いた。
海と接するアトラスで育ったクラリスからすると、すでに十分絶望に値する状況である。
だというのに、シエルは平然としたままで、降り注ぐ海水の雨を風の魔術で弾くくらいの反応だ。
ミルムに視線を向ければ「おぉ、今回は大物じゃなっ!」と嬉々としてはしゃぐ始末。
誰も共闘しようなどと思わず、完全に観客モードである。
もちろん、クラリス一人が張り切って戦線に出ても秒と掛からず死ぬだろう。
海面から飛び出すのは太く長い二本の触腕。
船さえも握り潰す怪腕は、あらゆるものを捕捉して手中に収める。
何者も逃がさず数多の生物を捕獲・狩猟してきた先兵が、鞭のように振り降ろされる。
伸ばされた触腕を、ルシルは跳ねるように前に踏み込んで半ばから断ち切った。
未だ身体の大半は海中にあるため、根元からとはいかなかった。
触腕の重みが消えた
それを見送るほどルシルは生易しくはない。
役目を終えた剣を砂浜に突き立て、慣性で宙を舞う切り落とした触腕を掴み取る。
力を殺さぬように向きを修正し、
目標は海面からゆらゆらと立ち上がるもう一本の触腕だ。
その勢いに空気を引き裂く声が上がり、鉤縄のように触腕を絡みつかせた。
体格差は論じるまでも……いいや、比較など無意味なほどの対比。
どう考えてもルシルが吹き飛ぶ未来しかない状況下で――
「ふんっ!」
驚くべきことに、人の身で
しかもその代償はただの一息のみ。
ただし凄絶な衝撃を表すように、ルシルの足元の砂浜が爆散して抉れた。
ルシルは『砂地は衝撃を分散する分、踏ん張りがきかないな』などと暢気な感想を持つくらい。
仰け反りから一転、つんのめるように陸側に引きずり出される。
引き千切れそうなほど張り詰める触腕だけでなく、海中に潜んでいた本体ごとだ。
やっていることは一般的な対策と変わらない。
が、たった一人で実現してしまうなど常軌を逸している。
付け加えるなら、切って捕まえて引っ張る、三動作しかしていない。
顎が外れんばかりに口を開けるクラリスの姿を、シエルは横目にくすりと笑う。
あっさり陸揚げされたとて、
普通の魚のようにビチビチ跳ねるだけでも天災に匹敵する。
そもそも別物の軟体生物は、地上に出ても平然と活動できる。
でなくては海上から顔を出すことなんて不可能だ。
ともあれ、暴れられては背後に控える三人に被害が及びかねない。
砂の爆心地の底でいつの間にか剣を握るルシルは、まだ切断されていない伸びきった触腕目掛けて飛び出した。
混迷の中にある
瞬く間に距離を潰したルシルは、丁寧に触腕を胴と泣き別れさせた。
しかしこの手のタイプには再生持ちが多いため、うかうかしていられない。
触腕の喪失に気付かれる前に胴体の下に潜り込む。
ルシルは人に
数秒足らずの短く低い浮遊ではあるものの、
きっと見たこともない景色に戸惑っていることだろう。
真下に潜り込んだルシルが狙うのは、胴の中心にある超高硬度を誇るクチバシだ。
人の肉や骨、装備は言うまでもなく。
船や要塞の木材、石材、鋼材までもを噛み砕く危険物だ。
ちなみに消化された鉱物は、触腕の先に無数に突き出す合金の爪に利用されているらしい。
自前の膂力に加え、取りつくのも、引き裂くのも容易にこなすのはこのためだ。
いかなルシルでも
だから重力に引かれ落下を始めた
クチバシを握ったままの回転は、撫でるように周囲の靭帯を傷付ける。
そうして吸収できぬほどの捩じりを加え、未だ繋がったままの『中身』もろともズタズタに引き裂いた。
どれだけ強靭であっても動かせなければ関係ない。
駒のように回ったルシルは剣を手放し、クチバシを両手で掴む。
同時に自分の身体を引き上げるようにジャンプし、胴の『外側』に足を掛け――海に向けて力任せに蹴り飛ばす。
それによって無傷の核が
「
ルシルは砂浜に突き立つ剣を拾い、軽く一振りしてから鞘に納めて呟いた。
海水を被っているので後でミルムに水を貰わないとな、なんて剣の手入れのことを考えて。
掛けた時間は
百人単位に様々な道具を駆使してようやく討伐できるはずの海魔は、勇者一人の手により、文字通りあっという間に『解体』された。
驚愕に口が閉じられないクラリスを見て、ルシルは「呆けた顔してどうした?」と気楽に笑うのだった。
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