1-7
夢を見た。
昔の、昔の夢を見た。
ああ、
私がまだ誰の家の子でもなかった頃の夢。
周りの大人達は、私の周りを取り囲む環境はその多くが酷く、そして現実の醜さを私の心に刻んでいく。
あの日もフェンス越しに悪い世界を見ていた。どうしてあの人達は──、どうして誰も助ける人がいないの──、誰かがいつか変えなきゃいけないんじゃない?
私は遠くを眺めるのが好きな子供だったが、反対に遥は近くの、例えば庭の花なんかを愛でるのが好きなやつだった────。
……不幸だけど、そこそこ幸せだった日々よ。
あの頃の空は今ほど穢れてはいなかったのに。
遠くの方から靴が床を叩く音が聞こえる。
コン、コン、コン。一定のリズムで緩やかに大きくなる。
しっかし身体が痛いな。いつの間にか壁にもたれかかって座らされている。昨日はきちんとベッドで眠ったはずなんだが。それにどうやら手首に硬い腕輪が掛けられているようだ。これはどういう状況だ?
ガツンと太ももの辺りに鈍い痛み。
「敵か」
「いつまで眠っているのよ。起きなさい」
この可愛らしい声を無理やり平坦に冷静にしたような声はカナリアか。
「いいから目を開けるのよ」
おや?
「ここはどこだ?」
目が覚めると私とカナリアは狭い部屋の端に金属の鎖で繋がれていた。窓は高いところに細長い横長のものがあるだけで外の様子は分からない。床には薄く埃が積もっていて普段この部屋が使われていないことが分かる。
「どうやら捕まったようね」
「?」
さて、どうしたものか。私達を捕まえてどうするつもりなのだろうか。
カチャリと鍵の回る音がしてゆっくりと扉が開かれる。そして、襟の立ったコートを着た暑苦しそうな格好の男が一人、女が一人、入ってくる。男の方は昼に見たテレビに出ていたやつだ。
「あなた方が侵入者ですか?」
「侵入? 人聞きが悪いわね」
「困るんですよ。あなた方みたいな余所者に自由にされるとねえ」
「別に、何もするつもりもなかったわ」
「そうですか。そっちの人はどうでしょうか」
男は私の目の前に来て腰をかがめ「おや」と一言こぼしてから、私の髪を掴んだ。何をする。
「おい、この髪は地毛か? それに」
機械的な動作で私の目の上下に指を当てて無理矢理開く。
いったい何なんだ。私は出来る限りやつの目を睨みつけた。
「瞳も完全に黒、ですねえ。ということは髪の方も……ふむ、これはもしかしたら……」
「俺の目がどうしたんだよ」
「いえ、知らなくて良いことですよ。あなた、名前は?」
「……泡沫だが」
「上の名前を聞いているんですよ。いったいどこの〈家〉の出なんですか?」
「上の名前は、ない」
「ふん、孤児ですか。みすぼらしいことですねえ」
「こいつ!」
「それに比べてそちらのお嬢さんは……なかなか豪華な衣装じゃないですか。名を名乗りなさい」
「貴様のような下賤のものに名乗る名などないわ」
「ふむ。髪の色はともかくとして、瞳が少し赤いですかねえ。本当に、二人とも色々と隠しているみたいですけど、先に洗いざらい話してしまった方が楽ですよぉ。こちらに調べさせる手間を掛けさせないでくださいねえ」
そう言うと男はドアの向こうへ、その後すぐに錠の掛かる音が聴こえてきた。
あの男は少し変ではないか。いくら何でも問答無用で拘束してさらにこの扱いよう、いったい何の権限があってこんなこと。それに、やたらと人の目とか髪を気にしていたな。
「なあカナリア。髪の色とか、瞳とか。なにかあるのか?」
私が問いかけるとカナリアが微妙に顔を曇らせたように見えた。
「それは、人種に関係するわね」
「だから、それがどうかしたのか? 国籍はともかく、人種なんてものはある程度でしか分かれてないじゃないか。いちいち気にかけてどうなるものでもない」
「一般的には、そうね」
一般的には? 確かに私のように髪の色も瞳の色も漆黒な人間はそれほど見かけないように思うが、それも所詮地域差じゃないのか? 少なくともそれに関して私は今まで意識してきていないのだが。
「まあ、そう思っているのならいいわ」
なんだか答えをはぐらかされたようだ。
「それよりこれからのことを考えましょう。どうやってここから抜け出すのか。この部屋の様子はもちろん監視されているでしょうから、うかつなことは言えないのだけれど」
「この手錠みたいなやつ、どうにかして外せないか?」
カナリアは静かに首を振る。いきなり黙ってどうしたのだろうか、と一応狭い部屋の中を見回す。出られるのがあのドアだけっていうのがネックだよなあ。この部屋から出たとして、この建物の出口までどれだけの障害があることやら、こっちは何の武器もないってのに。
ゴソゴソとカナリアが身体を寄せて、あまり動かせないはずの手をこちらに寄せてくる。
その小さな手が私の指を握る。少しひんやりしていた。
『聞こえる? 聞こえる?』
「え?」
『声を出さない。聞こえるのだったら一回頷いて』
コクリ。
カナリアの声そのものが直接私の中に流れ込んでくる。自分の中でカナリアが喋っているようでむずがゆい。
『多分だけど、そっちから言葉を送ることは出来ないのよね。だって、泡沫は魔術が出来ないんだもの。じゃあ、逆にこちらから探りを入れるのは……。(ああでもそれだと泡沫の見られたくないものまで見てしまうわね。それだと流石に嫌でしょうから)まあ、無理ね。あなたの心なんて読みたくもない』
なんだか聞こえてはいけない内容も聞こえてきてないか。カナリアって口の割には結構私のことを考えてもくれているらしい。まあここで注意してやると二重の意味で怒られるだろうし、今は茶化す場面でもないだろう。
『さて、困ったことにどうやらこの手錠には魔術の発動を抑制する機能があるようなのよね』
「この手錠はどうにかならないのか」
「無理じゃないかしら」
『正直、この程度のものなら何とかならないこともないのだけれど』
「本当に、無理か」
私たちはこのまま、何も出来ないまま──。
ただ目の前にある悪に屈して生きるのか。
「今すぐここを出て、この町を覆っている催眠を解きたい」
間違ったものを正すのは当然だろ?
だが今は、今この瞬間には力が足りない。
「仕方がないわね。力を貸すわよ」
深い吐息の後にカナリアの雰囲気が豹変する。
その瞳が自ら光を発しているかのように強く開かれる。私にも感じ取れる、激しくそれでいて綺麗に整えられたカナリアのプレッシャーを……。
「少し、手首に来るわよ」
バチンッ!
甲高い音とともに金属製の輪っかが弾け飛ぶ。
「次は錠ね」
言いながらカナリアがドアノブをゆっくり回すと、カチャリと軽い音とともにまるで鍵などなかったかのようにドアが開く。
「さて、近くに鞄があるはずだから回収に行くわよ」
「俺は何をすればいい」
「視界の確保をお願い」
「了解」
カナリアに続いてその階を探索していく。部屋に入るごとにセキュリティーがあるもカナリアは難なく外していく。
不思議なことにこれだけ広いフロアに職員が一人もいないらしい。私達を監禁しておいてこの警備の手薄さはなんなんだ?
それからあっさりとカナリアの鞄は見つかり回収しようとしたときだった。部屋の照明が落ちて階下の方でシャッターの降りる音がした。いったい何のセキュリティーが発動したのだろうと私は無駄な思考を巡らせるが、
「出入り口が塞がれたようね。あの二人もすぐにここに来るわ」
カナリアは全てを察しているようで判断も早い。
下の出口が塞がれたと知るなりすぐに屋上へ方向を変える。この建物の窓は全て開閉が不可能なものになっているので、確かに屋上しか出口は残っていない。
「敵と遭遇する前にこれを渡しておくわ。いざというときはお願い」
カナリアが鞄の中から変にまっすぐで、持ち手が手の大きさに合わせて輪っかに閉じている短剣を渡してくる。刃物なんて使ったことがないはずなのにその短剣はよく手に馴染んだ。オマケに見た目よりも軽く、それでいて軽すぎることはない。
そしてその短剣ともう一つ、赤い液体の入った小瓶を取り出すとカナリアはそれを飲み干した。
幸いなことに屋上への扉は通常の施錠だけだったのでカナリアの魔術で難なく開いた。
そしてどうにか下へ降りようと縁の方へ歩いて建物の下を見る。
人がいた。
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