過去6「真相②」
「ぎははははははっ!」
次に俺が意識を取り戻したとき、目の前に広がっていた光景。
——血だまり。
「ぎははははははっ!」
男が狂った笑い声と共に何度も、何度も手に持った巨大な槌を振り下ろしていた。それが地面の血だまりに触れるたびに、ぴしゃり、ぴしゃりと不快な水音を立てる。
その血だまりの中心にあったのは、ひしゃげ、つぶされた肉塊。
真っ赤なそれの間からのぞいていたのは、長い金色の髪だった。
その瞬間、俺は我を失った。
いや、俺は自分を捨てた。
そして、――獣が再び唸り声を上げた。
俺の剣は男の首を正確に貫いていた。
男の目にすでに光はない。ほんの数瞬前まで生き物だったそれは一個の物体になり果てていた。
師であるロアの言葉を思い出す。
『人が誰かを殺す瞬間なんて、意外にあっさりしたものだよ』
ロアは子供だった俺に語った。
『でも、その瞬間のことは、きっと生涯、忘れられない』
人を殺すときの生々しい感触が手にこびりついていた。
『呪魔』などというものは本当は関係ないのかもしれない。
人は誰だって簡単に殺人者になれる。
――なってしまうのだ。
俺はこのとき、本当の意味で殺人者となった。
それは唐突に始まった。
「……な?」
どくん、と心臓が跳ねた。
男を貫いた剣の先から何かが自分に向かってやってくる。俺は思わず、飛びのこうとするが、そんな考えもむなしく、その何かはものすごい速さで俺の中に入った。
どす黒く、粘りついたそれは俺の中に入り込み、俺の身体を犯していく。
この感触を俺はすでに知っていた。
(これは――『呪魔』の感染……?!)
そうだ。
『呪魔』は、感染者を殺した者に憑りつく。この男を殺したのは俺だ。ならば、この男の『呪魔』は俺に感染することになる。
俺の中に元々あったそれと、男からやってきたそれは、一つに混ざり合っていく。
「が……あ……」
自分という存在そのものに刃物を入れられ、無理矢理にかき回されてでもいるような感覚。二つのそれは、互いに反発し、殺し合いながら、片方が片方を飲み込む形で一つとなる。弱肉強食。男のそれを、俺の中の『呪魔』は呑み込んだのだ。
その瞬間、俺の中で『呪魔』の存在が膨れ上がる。男のものを取り込んだことで、力が増したのだろうか。今までは何とか抑え込めていた殺人衝動がまたも膨れ上がっていく。一瞬でも油断すれば、俺はまた狂気に堕ちる。
俺は自分の中で戦いながら、横目で血だまりに沈んていたミリアに目をやった。
彼女は不老不死だ。たとえ、どれだけ惨たらしく殺されようと死ぬことはない。
その考えは間違っていなかったようだ。初めて彼女の首を落としたときと同じように彼女の身体は少しずつ再生していき、やがて、一個の人間としての身体を取り戻していた。
(……よかった)
俺は彼女が死なずに済んだことを安堵した。
彼女の無事を確認したからだろうか。俺の中に冷静な部分が戻ってくる。これ以上、獣に身をゆだねる気はない。俺は自分を染め上げようとする殺意を何とか振り払う。
「はあ……はあ……」
膝をつき、荒い息をする。
俺は何とか男の『呪魔』を受容しきった。
このまま、倒れてしまいたかったが、今、意識を手放せば、また獣に堕ちるかもしれない。俺は剣を杖がわりにして、立ち上がる。そして、ミリアの方へ歩を進める。
彼女を血だまりから引き上げ、脱いだ俺のシャツを着せてやる。
そうこうしているうちに、彼女は文字通り息を吹き返し、意識を取り戻した。
彼女は俺の顔を見ると、ほっと息をつき、微笑んだ。
「よかった……無事だったんですね……」
まず、人のことを気に掛けるのはいかにも彼女らしかった。
「ああ……おまえは大丈夫か……?」
「はい……なんとか……」
「………………」
そう答える彼女の顔色は蒼白だ。直前まであんな惨たらしいやり方で殺され、死んでいたのだ。当然と言えば、当然だろう。
俺は彼女が生き返ったことに安堵した。
それはなぜだろう。
彼女の生き返りには大変な苦痛が付きまとう。
このまま、生きていても殺されなければ、また激痛に襲われる。
ならば、彼女は生き返らなかった方が幸せなのではなかろうか。
もし、彼女を殺す方法があったなら――
俺は彼女をどうしてやりたいのだろうか。
「見事だ、ヴァイス」
そのときだった。
俺は声のした方向に、ゆっくりと向き直る。
(まさか――)
不意に胸の中の心臓が暴れ出す。その脈動が俺の全身を震わせる。
そして、俺は声の主と目を合わせる。
そこに立っていたのは、長身の男性。平然と、悠然と、そこにその男は立っていた。
「久しぶりですね、ヴァイス」
——ゼーア=ストレフスキ。忘れもしない俺の仇。
奴の言葉に応じるよりも先に身体が動いていた。
(——『殺す』)
確かに、そう考えた。先程まで戦っていた男に抱いていた逡巡は、もうなかった。この男だけは必ず『殺す』。
瞬間、一陣の疾風が駆け抜ける。自身の身体能力で出せる最高速で剣を男の身体に向かって繰り出す。考えがあったわけではない。ただ、そうせずにはいられなかった。
剣を繰り出した直後に、冷静さが戻ってくる。
しまった、これでは、話を聞きだす前に殺してしまう――
だが、それは杞憂だった。
俺の剣はむなしくも空をきっていた。
「は?」
「うん。良い太刀筋です。しかし、まだ遅い」
気が付くと、俺の背後からそんな声が届き、
「ぐはっ」
肺から空気が絞り出される。俺は地面に叩きつけられていた。
何が起こった……?
いや、起こった出来事は至極単純だ。ゼーアは俺の一撃を軽々と躱して、俺の背後に回り、俺を地面に引き倒したのだ。
それは理解できている。問題は、なぜこの男にそのような芸当が可能なのか。
俺の身体能力は、もはや一国の都を滅ぼすレベルに達している。いかに怒りに我を失った一撃とはいえ、それをこうも易々と躱すということは――
「ヴァイスさん!」
ミリアの悲痛な叫び声が聞こえる。
「ゼーア……おまえ、まさか……」
それは最悪の想像だ。だが、状況証拠から考えれば、答えはただ一つしか見つからない。
俺は自分の身を守るため、ゆっくりと剣を構えながら言う。
「『呪魔』の感染者か……?」
男はかつて、俺が『先生』と呼んでいた頃と同じ、穏やかな微笑みを浮かべて言った。
「はい、その通りです」
「私もまたあなたと同じ『呪魔』の感染者なのですよ、ヴァイス」
「……いつからだ?」
俺はたぎる怒りを意志で抑え込みながら尋ねる。今は情報が必要だ。
「最初から、と言えばいいのでしょうか? 少なくとも君と会ったときには、私も感染していました」
ゼーアはまるで生徒に講義でもしているかのような教師然とした調子で話しを続ける。
「いつか、あなたに話しましたよね? 施設が発見した最初の感染者。その男を研究所に連行し、調査した後、私が殺しました。感染のメカニズムを調べる必要がありましたからね。私が志願し、実験体となったのです」
「……なぜ、それを黙っていた」
「君に聞かれなかったからね。もし、君が『おまえは感染者か?』と聞いていれば、『はい』と応えるつもりだったよ。なにせ、私は君の『先生』だからね。質問には、極力応じてやらないと」
彼の人を食ったような物言いに、俺はさらに炎をたぎらせる。だが、駄目だ。やけくそになっても勝てる相手でないのは、初撃で嫌でも理解させられた。今は冷静になれ。
「あの!」
そのとき、俺たち二人とは別のところから声が上がる。
「司教様……ですよね……?」
ミリアだった。
ミリアは顔面を蒼白にし、声を震わせている。
ゼーアはそんな彼女に向かって柔和に微笑みかける。
「はい。私は確かにゼーア=ストレフスキです。ミリア、久しぶりだね」
「司教様……再会が叶ったことは大変喜ばしいことです……しかし、なぜ、お二人はいがみ合っておられるのですか……? お二人はどういうご関係なのですか……」
俺はミリアにゼーアとは知り合いだとは話していたが、その因縁についてまでは語っていなかった。
ゼーアは言う。
「いがみ合ってなどいません。ただ、不幸なすれ違いがあっただけですよ。私たちの関係は、教師と生徒、と言ったところでしょうか?」
「ふざけるな!」
俺は激昂し、声を荒げ、奴の言葉を遮る。どこまでも人を食った男だ。剣を握る手に一層力がこもる。
しかし、ゼーアはそんな俺の様子を気に留めることもなく話を続ける。
「ミリア、君に最後に会ったときに説明したように、私は儀式に失敗した後、今度こそ『神の器』を完成させる方法を、ずっとあの施設で研究していたんだ。そして、その方法は判明した」
「『神の器』を?」
そう言われたミリアの瞳に光が差す。
『神の器』となることが彼女の使命。それは彼女がずっと語ってきたことだった。それが、もしも叶うのだとすれば……。彼女が期待の眼差しを向けるのも無理からぬことだった。
ミリアはそれこそ神の啓示を待ち望む敬虔な信徒のように息を呑んで、ゼーアの言葉の続きを待った。
そんなミリアの様子を見たゼーアは、眉を曲げて困ったような顔で笑う。そんな薄い笑いを浮かべたまま、彼はこう言った。
「君にとっては残念な結論になるんだけどね」
「え……?」
ゼーアの言葉に、ミリアは思わず声を震わせる。
そして、ゼーアは小さく息を吐いてから言った。
「その方法とは、より強大な力を持った器を使用すること」
それでも、ゼーアはあくまでも微笑みを崩さなかった。
「ミリア、君ではなく、もっとより良い器を用意すること。それが儀式を成立させる条件だったんだ」
「え……」
ミリアは唖然とした顔でゼーアを見ていた。
「ミリア、君は間違いなく敬虔な信徒だった。それは私も保証する。だけれど、高貴なる『神の器』になるためには、ただそれだけでは不十分であったんだ。肉体的なスペックが不足していた。簡単に言えば、身体が弱すぎた。上の者は『聖痕』を根拠に君を『器』に選んだが、もう少し奇跡と肉体の相性を重視すべきだったんだよ」
ミリアは震える声で言う。
「司教様……それでは、私は――」
「そう。もう用済みだ。本当に申し訳ないんだけれど、もう消えてもらいたいんだ」
ミリアはその場でへたり込みながら、呟く。
「そん……な……」
それがどれだけ心無い言葉なのか。当事者ではない俺にもはっきりと理解できる。ミリアはずっと『神の器』になるためだけに生きてきた。その生き方をこの男はたった一言で否定した。しかも、それを他ならぬミリアを育て、教え、導いてきたこの男だが言ってしまったのだ。ミリアが我を失うのも無理からぬことだ。
「前提として、この世界に『器』は一つしか存在できない。神はもちろん唯一無二。であれば、それに応ずる『器』もただ一つというわけ。君は失敗作とはいえ、『器』としての性質を獲得してしまっている。だから、また新たな『器』を造るためには、まず君を消すところから始めないといけないんだ」
ゼーアはそこまで語ると俺の方に視線を向けた。
「そのために、私は君を育てたんだ、ヴァイス」
「……は?」
俺に話が向けられると予想しても居なかった俺は間抜けな声を漏らす。
そのために、俺を育てた……?
「どういう意味だ! ゼーア!」
ゼーアは余裕の微笑みを崩さないまま話を続ける。
「今語ったように新たな『器』を造るためには、失敗作であるミリアという『器』を壊さなければならないんだ。しかし、良く知っているように、彼女は『器』として『不壊』の性質を得ているがために、決して壊れない。それは施設にいた間の「試練」で思い知っていると思う。では、それを壊すためにはどうすればよいのか? 解りますか? ミリア」
ゼーアはミリアに目を向ける。
ミリアは地面にへたりこみ、うつむいたままだ。だが、ゼーアの問いかけにびくりと身体を震わせる。
「ヒントを差し上げましょう。初代の『神の器』もまた、『不壊』の性質を持っていました。しかし、今はその『器』はこの世界にはありません。では、なぜ『不壊』の性質を持っているにも関わらず、もうこの世界に存在していないのでしたか?」
そう言われたミリアはゆっくりと顔を上げる。
眼球が飛び出るのではないかと思われるくらいにはっきりと目を見開いて、彼女は呟く。
「……まさか」
「そう、そのまさかです。ミリアは答えにたどり着いたようだ。君は私の教え子の中でも飛び切り優秀でしたからね」
「おい! わけのわかないこと言ってんじゃねえ!」
俺はついに辛抱が出来なくなり、口を挟む。
「『神の器』を壊すために俺を育てたっていうのは、どういうことだ!」
ゼーアは再び俺に向き直り、言葉を紡ぐ。
「では、ヴァイスのために解説をしましょう」
ゼーアは語り始める。
「『神の書』によれば、初代の『器』は、神が自身の役割を果たした後で、自ら破壊したと書かれています。言い換えれば『不壊』の性質を持っていても、神だけは破壊できる、というわけです」
ミリアの不老不死の力は神によって与えられたものだ。ならば、同じ神ならば殺すこともできる。そういうことだろうか。
「そこで必要になってくるのが『呪魔』なのです」
「『呪魔』が……?」
「これはヴァイスにも教えましたが、『呪魔』がこの世界で確認されたのは今からおおよそ七年前。ヴァイス、君が施設にやってくる約一年前です」
その情報は確かに初めて施設を訪れた日に聞かされた記憶がある。
「では、正確に初めて『呪魔』が発生した日はいつか」
ヴァイスは再びミリアに目を向けて言った。
「それはミリア、君の誕生日の日です」
ミリアの誕生日……? つまり――
「そう、我々の『降臨の儀』の日」
ゼーアは口の端を歪めて言った。
「『呪魔』は我々が『神の器』の創成に失敗し、生まれた災害なのです」
「神は『器』を気に入らず、降臨しなかった。しかし、『不壊』の性質を持った『器』を放置しておけば、いつか、自分が顕現したいと思ったときに邪魔になる。よって、『器』を破壊しておこうと試みた。『呪魔』はそうやって産み落とされました」
俺たちは口を挟むこともできず、黙ってゼーアの言葉に打たれ続ける。
「『呪魔』は創成の神、ロセウス様によってつくられた概念。だからこそ、呪魔はロセウス様と同じ性質を持っています。であるからこそ、『不壊』である『器』も壊せるというわけです」
この男の言うことが正しいと仮定する。だが、それでは説明が付かないことがある。
「おまえの言うことが正しいなら、俺がミリアを殺せば、ミリアは生き返らないはずだ! だが、実際にミリアは今もこうして生きている」
俺は事実として何度もミリアの命を奪っている。先程、俺が殺した『呪魔』の男もミリアを殺害している。しかし、まだミリアは生きている。これはおかしい。
「いい質問です、ヴァイス」
ゼーアは嬉しそうに微笑んで言う。
「その答えは我々の持つ『呪魔』が不完全から、というのが答えのようです。『器』は失敗作ながら『不壊』の性質を得ている。それに対抗するためには、神と同じ性質を持っているだけでは足りず、神に限りなく近いエネルギーを持っていなければならないのです」
「……要は、俺がまだ弱いから殺しきれない、と?」
「おおむねその理解であっています。だからこそ、君の力を高めるために、五年間、君に多くの人間を殺させたわけです。『呪魔』の力は多くの人を殺せば殺すほど高まりますから」
ここでようやくこの男の思惑を理解する。俺にあの王都での虐殺を行わせたのは、俺の力を高め、ミリアという失敗作を処分させるため。
そのためだけに、俺はあれだけの人を殺すことを余儀なくさせられた。
はらわたが煮えくり返るなどという表現では足りないほどの憎悪の熱が俺の身体を焦がしている。今すぐにでも、この男は殺さねば。
「私にしてみれば、『器』を壊すのは誰でも構わないのです。私でも、君でも、あるいはほかの誰かでも。そこにこだわりはありません。ですから、私は感染者の中でも優秀だった君を選び、施設から解き放ったのです」
もはや、この男の言葉は聞いていなかった。これ以上、一秒だってこんな薄汚い言葉は聞いていたくない。
俺は行動を開始する。
「——後ろだ!」
俺はゼーアの背後を見つめながら叫ぶ。
本当は後ろに何もありはしない。ただ、奴の気を引くためだけのはったりだ。かつて、ロアも言っていた。「戦場では、卑怯者と人を非難する奴から死ぬ」。自分の方が弱いなら、持てるカードはすべて使い切らなくては。
ゼーアは俺の言葉に気を取られ、背後を振り返る。その一瞬の隙を俺は逃さない。
俺は持っていた剣を手首の力だけで、ほとんどノーモーションで投げつける。『呪魔』の身体能力だからこそ可能な荒業だ。持っていた剣はまるで矢のような速度で、ゼーアの首元めがけ飛んでいく。
しかし、ゼーアはそれを皮一枚の距離で躱す。
奇襲は失敗。しかし、奴の態勢は崩れている。俺は腰に下げていたもう一本の剣を抜き、ゼーアに斬りかかる。
(——とった!)
いかな実力者でも、崩れた体勢はこの一撃は躱せない。
その瞬間、ゼーアと俺の目が合う。
この男は自分が切り付けられる一瞬だというにもかかわらず、本当に嬉しそうに微笑んでいた。
俺は手を緩めることなく、剣を振り下ろした。
俺の剣は奴の身体を両断――するはずだった。
「なっ……」
奴の身体は確かに斬った。そのはずだ。だが、あまりに感触がなさすぎる。まるで、霧や霞でも切ったかのような――
次の瞬間、斬られたはずのゼーアの身体が一瞬で立ち消えた。
「やれやれ、幻術を使っていなければ、少し危なかったかもしれませんね」
ゼーアはいつの間にか俺の背後に立っている。
俺は反射で剣を振りぬこうとするが、動けない。身体が何かに縛り付けられでもしたかのように動けないのだ。
「ま、魔術か……?」
昔、これと同じような力を振るわれたことがある。不可視の縄のようなもので俺の身動きを奪っているのだ。
「その通りです。神の奇跡は広範囲に強大な影響を及ぼすときには便利ですが、こと対人戦では魔術の汎用性には一歩劣りますね。何事も適材適所。使い分けが大事です」
殺される……!
身体が震えた。
この男の目の前で無防備な姿をさらしては、平静を保つことはできなかった。この男は確実に自分よりも一枚上手だ。悔しいが認めざるを得ない。
こんな獣のような身で生きるくらいなら、いっそ死んだ方がまし。そんな風に考えていたこともあった。だが、こうして明確に死を目の前に突き付けられると、死への恐怖が喉元までせぐりあげてくる。
——死にたくない。
そんな思いが自分の心を塗りつぶす。
そして、塗りつぶされたそれをみて、「ああ、自分はまだ死にたくなかったんだ」となぜだか他人事のように納得してしまって――
頬に一筋の涙が伝う。
「……安心しなさい。私は君を殺すつもりはないよ」
ゼーアはそこで初めて微笑を消し、顔をしかめた。だが、俺の拘束を緩めてくれるつもりはないようだった。
「先ほども言ったように私は『器』が壊せさえすればいいんだ。壊すのが誰なのかは拘らない。私が君を殺せば、私は今よりも強大な力を手にする。『呪魔』の感染者はその性質故に普通の人間以上の力を蓄えているからね。感染者が感染者を殺すのが一番手っ取り早い成長方法だ」
動け、動け!
俺は必死に拘束を解こうとする。しかし、不可視の縄は俺にがっちりと結びついて離れない。
「だが、たとえ私が君の力を奪い、吸収しても『器』の破壊には至らなさそうだ。それほど、この『器』は強大なんだ。今の私のペースでは、『器』を壊せるようになるまでに、千年近くかかってしまうんじゃないかな」
ゼーアは俺の前に回って、俺の顔をのぞき込む。
「だからこそ、君は生かしておく。君自身がたくさんの人間や『呪魔』の感染者を殺した後に、私が君を殺せば、千年かかるはずのペースが五百年で済むかもしれない。君と同じレベルの力を持った『呪魔』の感染者を見つければ、もっと早くなる」
俺は無力だ。
仇が目と鼻の先に居るにも関わらず、何もできない。
「だから、せいぜいたくさんの人間や『呪魔』の感染者を殺してくれ。それが私からの最後のお願いだ」
――強くなりたい。
この男を殺せるくらいに強く。
ゼーアはくるりと俺に背を向ける。
「……もし、君が私を殺せるくらいに強くなれば……まあ、それはそれでよいことかもしれないね」
そんな言葉を残して、ゼーアは歩き去っていく。
そして、ゼーアは背を向けたまま、呟いた。
「……じゃあね、ミリア。……儀式を成功させてやれなくて、すまなかった」
そのまま、男は消え去り、この場所には俺とミリアだけが残されたのだった。
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