過去7「誓いの言葉」

 ゼーアとの邂逅の後、ミリアは熱を出し、倒れた。

 意識を失った彼女を隠れ家へと連れ帰り、ベッドに寝かせる。彼女は顔を真っ赤にして、荒い息をしていた。俺は濡らした布で彼女の汗を拭ってやるが、次から次へと汗が噴き出してくる。

 結局、その日彼女が意識を取り戻すことはなかった。




 次の日になっても彼女は眠ったままだ。

 悪夢でも見ているのだろうか、彼女は始終うなされていた。

 それも無理もないことだろう。昨日、彼女はゼーアから『神の器』として失格の烙印を押された。それは、言うなれば、今まで生きてきた自分の人生そのものを否定されたに等しい。それでショックを受けるなという方が難しいだろう。

 俺は彼女の小さな手をそっと握りしめる。暖かい血の通った柔らかな掌。

 早く目を覚ましてくれ。

 ただ、それだけを祈って、俺は彼女の隣で彼女の目覚めを待ち続けた。




 三日経って、彼女はようやく起き上がれるまでに回復した。


「すいません……ご迷惑をおかけしました……」


 そんな風に呟く彼女の身体はずいぶんと小さく見えた。

 俺は一体、彼女のために何をしてやれるのだろう。




「俺はどうしたらいい?」


 俺は湖の側に積まれた小さな石に向かって声をかける。

 それは俺の師であるロアの墓だった。この下にロアは眠っている。

 ロアならば、俺の母親ならば、一体何と言ってくれるだろうか。

 うじうじするなと背中をはたかれるだろうか。それとも、優しく頭を撫でてくれるだろうか。あの人ならどちらもあり得る。ロアはそういう人だった。

 だが当然、死人は何も答えてなどくれない。俺は他ならぬ自分自身で結論を出さなくてはならない。

 見上げると夜空には宝石箱をひっくり返したような星が瞬いていた。




「ミリア」


 ミリアの病状はだいぶ落ち着いている。以前のように起き上がり、普通に行動することができるようになり始めていた。

 だが、彼女の表情は暗いままだった。気が付けば、何事かを考えているかのように俯き、身じろぎ一つしなくなるのだ。それはまるで、そうやってどこかの世界に逃避することでしか、自己を保てなくなっているのではないかと、俺には思われた。触れれば崩れる砂でできた山みたいに、彼女は脆く、弱くなってしまった。

 だからこそ、俺は問わねばならない。


「おまえは何がしたい?」


 ミリアは俺の問いかけにそっと顔を上げる。

 きれいな青い瞳に光はない。

 彼女は呆けた顔で俺の方を見ていた。


「おまえが、ミリア自身がやりたいことを教えてくれ。俺はおまえを支えるから」


 それが俺が出した結論だった。

 いくら俺が思い悩もうと、最終的な決断を下すのは彼女だ。ならば、どういう行動を起こすにせよ、まず、彼女の意志を問わねば始まらない。


「ミリア、おまえはどうしたい?」

「……どう……というのは」


 張りのないかすれた声で彼女は尋ねる。


「おまえはもう『神の器』である必要はない」

「………………」

「だったら、おまえは残りの人生を自分で決めなくてはならない」


 彼女はこれまで他人の期待に応え、他人に命じられたまま、人生を生きてきた。しかし、彼女はその道しるべを失った。もはや、彼女の行く末を示す者は誰も居ない。


「『神の器』ではないミリア=ローゼンハートとしての人生を生きていかないといけないんだ」


 俺にそう言われた彼女はびくりと身を震わせた。

 そして、おびえた表情でこちらを見る。


「……そんなこと言われても」


 彼女はうつろな瞳で、力なく呟く。

 確かに、自分で自分の進む道を決める。それは簡単なようでいて、難しいことだ。選んだ道が正しいかどうかなんて、きっと誰にも解らない。

 それに自分が選んだ以上は、責任はすべて自分に存在する。誰のせいにもできない。それは本当に怖いことだと思う。

 それでも決めなくてはならない。


「………………」


 ――それがきっと、本当の意味で生きるということだから。

 ミリアは俺の言葉に打たれるがままだった。


「——ミリア」

「——ない」

「え?」

「——解らないですよ、そんなこと!」


 彼女はそう叫んで、突然、椅子から立ち上がると、家を飛び出した。




 俺はすぐに彼女の後を追った。


「待て!」


 彼女はわき目も振らずに一目散にかけていく。あんな様子ではいつか怪我をする。


「仕方ない……」


 俺は『呪魔』の感染者としての身体能力を使って、一足飛びに彼女に追いつく。

 その瞬間、彼女はバランスを崩し、その場でこけそうになる。俺はそれをそっと抱きとめた。


「落ち着け!」

「………………」

「……泣いてるのか」


 彼女は両目からぼろぼろと涙を流していた。このまま流し続ければ、彼女のすべてが干上がってしまうのではないか。そんな風に思ってしまうくらいに涙は次から次へと溢れていく。

 彼女は俺の顔を見て、そっと自分の目元を拭う。濡れた自分の手を見て、はっとした顔をする。まるで、自分が涙を流していることに驚いたような様子だった。今まで無自覚の内に泣いていたのだろうか。支えている彼女の身体が小さく震えていた。

 そして、呟く。


「……すいません……でした」


 少しは冷静さを取り戻したらしい彼女を、俺はそっと降ろしてやる。


「いや、俺も性急に話を進め過ぎたのかもしれない……」


 ずっと人の作った道の上を歩いてきた彼女にとって、これは生まれて初めての選択なのだ。混乱し、迷うのも無理もない。


「ゆっくり、考えればいいから」


 俺たちは家に戻る。俺の前を歩く彼女の背中は、触れただけで折れてしまいそうなほど小さい。

 俺は彼女のためにいったい何ができるのだろう。

 その日は、それ以上、何も言葉を交わすことなく終わった。




 それから数日、二人の間にあったのは沈黙だけだった。

 いつまでこんな気づまりな時間が続くのかと思うと、正直、気が滅入った。

 だが、俺は辛抱強く、彼女の言葉を待った。

 今は彼女を信じて待つべきだ。

 そう思ったからだ。

 それから、さらに数日経ったある日、彼女は言った。


「首を斬ってくれませんか……」


 前に一度死んでからそろそろ二週間が経過する。いつものペースでは、そろそろ人体を保っていられる限界だった。

 俺の方も自分の中の『呪魔』が血を求め、暴れ始めていたから彼女の言葉を二つ返事で了承した。

 俺は剣を取り、二人で湖のほとりまで歩く。

 湖のそばまでやってくると、彼女は着ていた服を脱ぐ。服を着たままでは、首を刎ねたときに服が血で汚れてしまうから。どうせ首から先が再生するときには、裸身をさらすのだ。ならば、服を脱いでいた方が効率的だ。

 彼女の首を刎ねることにも慣れ始めていた。初めの内は迷いや戸惑いもあった。だが今は一点の曇りもない剣を振れる。そんな自信がある。

 いつもはミリアは黙って俺のされるがままになっている。

 しかし、今日はいつもとは違った。

 俺はミリアの首を落とすため、彼女の背後に立っている。ミリアは俺に背を向けたまま、言った。


「……私はこれからどう生きていけばいいのでしょうか」


 消え入りそうなか細い声。

 俺は思わず、剣を握る手を緩める。


「ずっと『器』になるためだけに生きてきました。それ以外の生き方なんて知らないんです」


 彼女は滔々と語り続ける。


「ヴァイスさんは私のやりたいことは何かとおっしゃいました。それで考えてみました。『器』ではない、人間としての私がやりたいこととはなんだろう……と」


 俺は黙って、彼女の言葉を待つ。


「……何もなかった」

「………………」

「何もなかったんです。私には『私』というものが、何もなかったんです」


 彼女にはおおよそ人間に存在する欲というものがない。そうやって育てられてきたから。


「私はずっと人間ではありませんでした。そんな私が今更人間なんかになれるはずがなかったんです……」


 彼女の表情は見えない。だけれど、解る。


「泣いているのか……」

「う……うう……」


 小さな背中だった。触れれば壊れてしまいそうな華奢な背中。彼女はそっと目元を拭う。


「……ヴァイスさん……やりたいこと、一つだけありました……」


 彼女はそう言って、ゆっくりとこちらを振り返る。


「——私を殺してください」


 彼女は涙を目の端に浮かべたまま、微笑んで言った。


「司教様によれば私は居るだけで迷惑な存在なようです。だったら、私は早く死んで――」


 ——もう限界だった。


 俺は剣を捨て、彼女を抱きしめていた。


「ヴァイスさん……?」

「ミリア、おまえは俺がいつか必ず『殺して』やる」


 『殺す』。それは俺にとっての誓いの言葉。

 俺は彼女の綺麗な青の瞳をのぞき込む。


「でも、それはおまえが迷惑だからとか、邪魔だからとか、そんな理由ではない」


 俺は万感の思いを込めて、言葉を紡ぐ。


「俺はおまえを愛している」


 ミリアの瞳が大きく見開かれる。


「だから、だから、俺が死ぬときに、この世から居なくなる、そのときに――」


 俺の心からの想い。


「——一緒に死んでくれ……」


 俺は彼女から目を逸らさず、まっすぐに彼女を見て告げる。


「もう、おまえは苦しまなくていいんだ。ミリア、おまえは、おまえの生きたいように生きて、最後に死ねばいいんだ」


 彼女は人間だ。だから、自分のために生きる。それが当たり前なんだ。見知らぬ他者のためでも、天に居る神のためでも、愛する誰かのためですらない。

 ただ、自分のためだけの人生を生きてほしかった。

 そして、いつか生を全うし、安らかな最期を迎えてほしかった。

 俺の願いは、本当に、ただそれだけだったんだ。

 彼女の瞳から一筋の涙がこぼれる。それはまるで流れ星のように一瞬の内に消え去る。だけれど、その一筋が呼び水となり、彼女の大きな瞳から堰を切ったような涙が溢れ出した。


「いいん……ですか……?」

「………………」

「もう苦しまなくてもいいんですか……?」

「ああ」

「私は『死んでも』いいんですか……?」

「ああ」

「私は……私も、普通の人みたいに誰かを好きになってもいいんですか……?」

「ああ」

「私も……私も、あなたを愛していいんですか……?」


 俺は再び、彼女を強く抱き寄せる。


「いい……いいに決まってる」


 いっそ、壊れてしまえばいい。こうやって一つになったまま、二人で消えられたなら。それは、実は幸せなことなのかもしれない。

 俺は彼女をもう絶対に離さない。

 そう、決めた。


「ミリア、ずっと一緒に居よう。俺たちの命が尽きる、その瞬間まで」

「はい……はい……一緒です……ずっと……ずっと」


 そうやって、俺たちはずっとお互いの身体を抱きしめた。

 ――この幸せな一瞬を切り取って、世界が終わったなら。

 そんな益体もない想像に身を任せ、俺はゆっくりと目を瞑った。




 こうして、俺たちの長い長い旅が始まった。


 ――『呪魔』を殺し、ミリアを永遠の生から解放する。


 それが俺たちの旅の目的だ。

 『呪魔』は放っておけば、人を殺し続ける。野放しにしておくことはできなかった。もちろん、『呪魔』の感染者はある意味で、俺と同じ被害者だ。だから、何らかの方法で殺人衝動を抑えられるのならば、無理に殺すつもりはない。あくまでも、殺すのは自分を抑えられぬ相手だけ。目的のために罪のない人間をも殺す殺人鬼になるつもりはなかった。

 ゼーアのことも許すつもりはない。奴は今もどこかでミリアを殺すために、人を殺し、自身の鎌を研いでいるはずだ。

 ミリアを殺すという意味で、俺と奴の目的は一致しているという考え方もできる。だが、そこにある想いは全く違う。奴にミリアを殺させるつもりはなかった。

 ミリアを最期に眠らせてやるのは、この俺だ。

 それだけは絶対に譲れない。

 それが俺の最後の意地だった。




 ミリアは以前よりも明るくなった。滑稽な劇を鑑賞したとき、おいしいものを食べたとき、美しい光景を見たとき、子供のような無邪気な笑みを浮かべる。


「世界にはこんなに面白いものがたくさんあったのですね……」


 まだ見ぬ世界に思いを馳せ、遠い空を見上げる。

 ミリアはそんな当たり前のことができる人間になっていた。


「ヴァイスさん、私、もっと世界を見て回りたいです。美しいものが見たい。面白いものが見たい。楽しいものが見たい。心を震わせる何かに、もっともっと出会ってみたい」


 彼女は俺の方を振り返る。

 彼女は太陽よりもまぶしい笑顔で俺を見る。


「楽しみにしていますね」


 ミリアはそう言って、俺の胸に飛び込む。


「いつか、あなたと同じ墓で眠ること。それが私の夢です」




 俺は誓う。

 必ず彼女の夢を叶える。

 たとえ、何十年、何百年かかっても。

 ――彼女を殺し、眠らせる。

 そのためなら、俺はどんなことでも――


 ――どんなことでもしようって、心に誓ったんだ。

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