第4話「ひまわりの墓②」

「この壁の向こうを見てみたいと思わない?」


 まだお父さんもお母さんも生きていて、私たちが幼かったころ。私は忌まわしい壁を見上げながら、妹にそう尋ねた。

 私たちは外の世界を知らない。だから、外の世界を知る方法は外からやってきた人間の伝聞か、本を読むことだけ。だけれど、見たことないからこそ、私の中で外の世界は、まるで夜空に輝く一等星のようにきらきらと輝く存在になっていた。

 遥か一面先まで続く水があるという海。

 一年中冷たい雪が降り積もるという雪山。

 燃え盛る火が吹き出し続けているという火山。

 草一つ生えない砂の世界だという砂漠。

 世界にはまだまだ私が見たことがないものがある。それはきっと私がやってくるのを待っている。幼い私はそう信じてやまなかった。

 もちろん、壁の向こうに行けるわけがないということは理解していた。罪を犯し、ここに連れてこられた人間は、何らかの方法で壁を越えて、外に出ようと試みる。壁を超えるところまではできた人間は居たらしい。しかし、どうにかして、高い壁を越えられたとしても、外には獰猛な魔獣が居る。外に出た人間の悲痛な叫び声。それを聞いた村の住人は、外に出ようとすることを諦めるのだ。

 それでも、外に出たいという気持ちはみんなが持っている。私はそう思っていた。罪を犯してここに放り込まれた人間はまだしも、私やリムのようにここで生まれた人間には何の非もない。ご先祖様が犯した失敗など私が知ったことではないからだ。

 だけど――


「壁の向こうには行けないんだよ、お姉ちゃん」


 リムはそんなことを微笑んで言うのだ。

 その頃は私もまだ子供だった。だから、真剣に外に出ようと考えを巡らせていたわけではない。だから、リムに壁の向こうの世界の話をしたのは、あくまで世間話の延長に過ぎない。

 それでも、私は妹は「外が見たい」と言ってくれると思っていた。

 ただ、外の世界に焦がれ、夢を見るくらいのことはできると思っていた。


「ほら、ひまわりを狩らないと」


 リムはそう言って、私の手を引く。

 彼女はもう外に出ることを諦めてしまっていた。

 いや、正しくは、外に出ようと考えることすらできないのだ。

 生まれながらにして自由を奪われてきた彼女は夢を見ることすらできない。

 そんなことに気が付いた瞬間、私の胸は壊れてしまうんじゃないかってくらいに痛くなった。

 こんなに辛いこと、悲しいことが他にあるだろうか。

 私たちは夢見る権利すら与えられていなかった。 


 ※   ※   ※   ※   ※   ※   ※  


「相変わらず、酷い場所だな、ここは!」


 苛立ちを隠そうともせず、吐き捨てるようにそう叫んだのは、豪奢な鎧に身を包んだ男だ。


「なぜ、このような場所に我が来ねばならないのか、理解に苦しむ!」

「まったく、おっしゃる通りでございます、ラグーザ様」


 ラグーザと呼ばれた男の供回りを務める者は淡々とした調子で追従する。

 ラグーザは、ハルの国の下級貴族の次男坊である。ハルの国の貴族特有の夜空に輝く月のような銀髪に、勢いよく燃える炎のような赤い瞳。切れ長の瞳やすっきりと通った鼻を見れば、線の細い優男といった風貌なのであるが、眉間に寄せた皺や食い縛った口元のためか、身分のある者特有の雅さというものはどうにも感じられない。


「ローレンシアの血を引く我がせねばならないような仕事なのか、汚ならしいひまわりを集める仕事は」

「王は、この任務の秘匿性を鑑み、ラグーザ様にこの任務をお任せになったものと思います。他の貴族や成り上がり者は信用ならぬということでしょう」


 従者は慣れた調子でラグーザを宥める。

 すると、ラグーザは鼻をならし「ああ、忌々しい」と吐き捨てた。悪態をついたことで多少なりとも溜飲を下げたのか、それで、ようやく彼は静かになる。彼に付き従う十数人の兵も、彼がとりあえずは怒りを鎮めたことにほっと胸を撫で下ろす。

 一行は道なき道を徒で進む。近隣の街道までは馬で進めるのだが、例のひまわりの村の近辺は鬱蒼と繁る木々で覆われているため、馬で進むのは困難なのである。故に彼らは自らの脚での行軍を余儀なくさせられていた。そのことがラグーザを不機嫌にさせたのだ。

 森の中にはハルの国が放った魔獣がうろついている。しかし、魔獣がラグーザたちを襲うことはない。ラグーザはこの任務のために、魔獣を手懐ける特殊な鈴を渡されているからだ。特別に訓練された魔獣はこの鈴を持つ者を襲わない。もちろん、理性の乏しい獣ゆえ、しつけを無視し、暴走するものも居るがそれは例外だ。彼らはその鈴を持つがために魔獣の巣食う森の中を悠然と進むことができる。

 ラグーザの一行は長い時間をかけ、森の中を進み、ようやくひまわりの村の壁の前まで辿り着く。


「おい、門を開けろ」


 ラグーザが供の者に向かって叫ぶと、三人が大きな閂がかけられた大門に向かって慌てて飛び付く。閂を外して、重い鉄の門を数人がかりで押し開ける。そうして、ようやく壁の向こうの光景が見えるようになった。

 そこにあったのは、もちろん、眼の覚めるような一面のひまわり畑であった。


「ふんっ! 相変わらずだな」


 ラグーザは憎々しげに、太陽に向かって咲くひまわりを睨み付けた。


「おい! 迎えはどうした! このラグーザ=ローレンシアがやってきたのだぞ!」


 そのように大きな声で吐き捨てたときだった。


「貴族様!」


 ラグーザに向かって、若い女の声が飛ぶ。

 ラグーザはゆっくりとその声の方向に視線を向ける。

 亜麻色の髪をした一人の少女が、地面に膝をついていた。


「遠路はるばる我が村にやってきてくださったことを、心より感謝申し上げます」


 少女はそう言って、深く頭を下げた。


「ほう……」


 そんな少女を見て、ラグーザは声を漏らす。彼は頭を垂れる少女を見据えながら言う。


「このような辺鄙な所にも、最低限の礼節を弁えた者も居ると見える」


 ラグーザは声に少しばかりの喜悦を滲ませて、口の端を緩めた。

 ラグーザがこの村を訪れるのは三度目のことである。今までの二度の訪問の際、自分を出迎える者は皆無だった。彼はそのことも内心、不満に思っていた。故に、この少女の膝をついて自分を迎えるという行動は素直に好ましく感じた。

 彼は頭を下げている少女に向かって声をかける。


「許す。表を上げよ」

「ありがとうございます」


 少女は礼を述べてから、そっと顔を上げる。

 二人の目が合うと、辺りに妙な緊張感のようなものが張り詰めた。その空気を醸し出したのが少女のあまりにも真剣な表情だ。彼女は生中な追従のためにこの場に現れたわけではないことは、彼女を見た誰にも察せられた。

 少女は一度大きく呼吸をしてから、黙り込んだラグーザに向かって言う。


「は、発言の許可をいただいてもよろしいでしょうか?」


 震える声を抑えながら、彼女は恐る恐る言葉を切り出す。


「………………」


 ラグーザは彼女を上から下までなめ回すように見てから言った。


「……よかろう。特別に許可する」


 固い声音ではあったものの、発言の許可をもらえたことに、少女は露骨な安堵の息を漏らした。


「ただし!」

「…………!」


 そんな少女の心弛びを咎めるような叱声でラグーザは言う。


「この我に時間をとらせるに値する内容でなかったならば、どうなるか。覚悟はできているのであろうな」

「………………」


 少女はラグーザの威圧的な言葉に露骨に顔を青くする。口をぱくぱくと動かしているが、言葉は出てこない。完全に呑まれてしまっている。

 そんな少女の様子を見て、ラグーザは落胆する。暇潰しにはなるかと一瞬でも期待した自分が愚かであった。さっさと任務を果たして帰還しよう。そう考え、少女に背を向けた刹那。


「妹を外に出してください!」


 その言葉に後ろを振り返ると少女は地面に膝をつき、深々と土下座をしていた。


「妹は身体が弱く、これ以上はここでの生活に耐えられません! ですので、妹だけでも外に出してはいただげませんか!」

「………………」

「私が妹の分も働きます。だから――」

「面を上げよ」


 ラグーザは少女の決死の訴えを遮り、淡々とした調子で言った。少女は恐る恐る顔を上げる。


「人が土下座をするというのは、余程のことだろう」


 ラグーザは眉を寄せることも、口の端を歪めることもない。彼の表情からはいかなる感情も読み取れない。


「地面に額を擦り付けてまで訴えたい決死の願いを無下にするのは気が咎めるというものだ」


 少女はラグーザの物言いに一縷の希望を見いだす。もしかすれば、この人は妹を外の世界に連れ出してくれるかもしれない。

 少女は目を輝かせる。とくんとくんと胸が高鳴る。もしかしたら、本当に妹は助かるかもしれない。

 もう、ひまわりの墓を増やさずに済むかもしれない――

 一瞬の沈黙。

 周囲の時すらも止まってしまったかのような静寂の刹那の後、ラグーザは口の端をにたりと歪めて吐き捨てた。


「――相手が人間であればだかな!」

「……え?」


 先程までの神妙な様子から豹変したラグーザは、露骨な嘲笑を顔面に張り付けて叫ぶ。


「なんだ、貴様。まさか罪人の分際で人扱いしてもらえるなどと厚かましいことを考えていたのか?!」


 ラグーザは歯茎をむき出しにして笑う。


「貴様らは家畜だ! この汚らわしい場所でせせこましく毒のひまわりを育て続けるためだけに生きるゴミ虫だ! そんな虫けらからの陳情など聞くに値せん! 貴様も、貴様の妹とやらも、ここで死ぬ! それはどう足掻いても覆らぬ現実だ!」


 ラグーザは呆然とする少女を見下ろして言った。


「高貴なる貴族たる我と言葉を交わす栄誉を与えられた感涙に咽びながら、絶望の澱に沈み、果てるがよいわ! ふはははははっ!」


 少女を悪し様に罵り、高笑を浴びせかける。これは紛うことなき八つ当たりであった。ラグーザは自分が意に沿わない仕事をやらされていることに対する鬱憤を晴らすために、少女の純真凄烈たる思いを踏みにじったのである。少女の絶望に満ちた表情は彼を満足させた。彼の中の苛立ちは少し凪いだ。


「よし! さっさと任務を済ませて帰還するぞ! 」


 ラグーザが少女に背を向けた瞬間だった。


「……は?」


 ラグーザは自身の足元に何かがぶつかったことを知覚し、ゆっくりと視線を下ろした。

 少女が自分の脚にすがり付いていた。


「お願いです! 妹だけでも外に――」

「――おい」


 ラグーザはこのときの自分の行動を覚えていない。それだけ彼がこの瞬間に激昂していたからだ。


「――家畜が汚らわしい手でさわんじゃねえ!」


 ラグーザは自分の脚にまとわりつく少女を思いっきり蹴飛ばした。


「がはっ!」


 少女は肺から大きく空気を吐き出しながら、遥か後方まで蹴り飛ばされた。彼女の華奢な身体は川面に投げられた石のように何度も跳ねて、ひまわりたちにぶつかってようやく止まった。


「ああ、汚らわしい! 家畜が我に触れるなど……! おい! 何をしている! 早く布で我のブーツを拭え!」


 従者たちは慌てて彼に駆け寄ると持っていたハンカチで少女が触れたブーツを磨いた。


「忌々しい……忌々しい……」


 それでもなお怒りが収まらないラグーザは腰に下げた鞘から剣を抜く。

 そして、剣を構えながら、自らが蹴飛ばした少女ににじりよっていく。


「許さん……許さん……」


 青筋を立て、目を血走らせ、口元でぶつぶつと言葉を紡ぐ。彼の激情が煮え立っていることは誰の目にも明らかだった。

 そして、ついに彼は少女の目の前に立つ。

 少女は痛みを堪えながら顔を上げる。

 そこには剣を振りかざした鬼のような顔をした男が立っていた。


「この不敬、死をもって購え!」


 男は腹の底から出した大声と共に、少女に剣を振り下ろした。

 その剣は少女を両断する。

 彼の従者たちはそう考えた。今から行われるであろう惨劇を恐れ、目を背けた。

 しかし、彼らの予想に反して、少女の断末魔の悲鳴は一向に聞こえてこない。代わりに聞こえてきたのは――


 ――鋭い金属音


 彼らはそれを不審に思い、そっと顔を上げる。


「――なんだ、貴様は」

「貴族ってのは、どこの国でも腐っているものだな……!」

「ヴァイスさん!」


 ラグーザが振り下ろした剣を、咄嗟に割って入ったヴァイスが受け止めたのだ。

 ヴァイスは剣をラグーザの方に押し込みながら叫ぶ。


「覚悟しろ、外道。貴様が家畜と蔑む人間の恐ろしさというものを教えてやる……!」


 ヴァイスは悪鬼羅刹もかくやという表情でラグーザを睨み付けていた。

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