第1話「夢の果て③」
マイは状況を飲み込めず、ただ唖然としているしかない。
だが、そうしている間にも時は進む。目の前では激しい打ち合いが発生していた。
先程、自分とスバルの間に割り込み、スバルの剣を受け止めた何者かが、スバルと剣を交わしている。切り上げ、打ち払い、鍔競り合い。金属同士がぶつかる甲高い音が辺りに響いている。暗い夜の森に白い火花が舞う。
それらはまるで何もかもを吹き飛ばす疾風のごとき速度で行われている。到底、その全貌を把握することは叶わない。だが、少なくともこの突如現れた人物は、狂気に囚われたスバルから自分を守るために戦ってくれていることは間違いないようだ。スバルの剣戟をすべて受け止め、いなしている。
「はっ……はっ……」
呼吸が荒くなっていることを今になってようやく自覚する。ずっと、緊張で息を詰めていたのだ。心臓が全身に血液を送り出す音が、耳の中で鐘の音のように響いていた。
「大丈夫ですか」
そのとき、不意に後ろから声がかかる。
振り返るとそこには一人の少女が立っていた。
長い金の髪は月明かりを受けつややかに輝き、海のような深い青色の瞳はぶれることなくまっすぐに前を見つめている。年の頃は自分とそう変わりはない。十四か、十五といったところだろう。
純白の貫頭衣は、確かロセウスの神官の正装。ということは、この人はロセウス教の司祭なのだろうか。
「立てますか?」
差し伸べられた手。それに反射的に手を伸ばす。この際、相手は誰でもいい。誰かに手を引いてほしかった。
彼女に助け起こされ、ようやく自分の二本の足で地を踏みしめる力を取り戻す。まだ、足は震えているが、立っていられないほどではない。
「とりあえず、こちらに避難しましょう」
そう言って、彼女はマイの手を引いて、屋敷の入り口の方へと走って行った。
「申し訳ありません……お嬢様」
屋敷の裏口の側まで戻ると、屋敷のメイドたちが目に涙を溜めて立っていた。
「お嬢様を……お父様をお助けすることができず……」
メイドたちは皆、震え、互いの身体を抱き合っていた。子供のように泣く彼女たちを責める気は起こらなかった。おびえる彼女たちを見て、ようやく少しだけ冷静さを取り戻す。自分は彼女たちの主人である。自分に仕える者たちの前でみっともない姿を見せるわけにはいかない。
彼女たちを手で制し、自分の手を引いてくれた少女に向かって問う。
「……あなたは何か事情をご存じなのでしょうか」
少女はこの恐ろしい惨事の中でも毅然としている。何も事情を知らないということはなさそうだ。
すると、少女はどこか申し訳なさそうな顔をしながら、ゆっくりと頷いた。
「時間がありません。かいつまんで説明します」
そう前置きして少女は話し始める。
「あそこで暴れている少年には『呪魔』という呪いが憑りついています」
「『呪魔』……?」
「一言で言えば、憑りついたものを残虐な殺人者に変えてしまうという恐ろしい呪いです」
「………………!」
そんなものが……。
それは魔術を日常の中で使う魔術道具でしか知らないマイからしてみれば、そう簡単に納得できる話ではなかった。彼女にとって魔術は生活を便利にする技術であって、あのように人を変貌させる恐ろしい術などではなかったからだ。
けれども、事実としてスバルはあのように我を忘れて暴れている。スバルが彼自身の意志で自分に向かって剣を向けた、と考えるよりはまだ信じられる話だった。
「『呪魔』に憑りつかれたものは、あのように常人を超える身体能力を得て、目につく人間を殺しつくすまで元の人格に戻ることはありません……」
「そんな……」
そんな風に話をしている間も、スバルと謎の男は死闘を続けている。
「貴方のお名前を伺ってもよろしいですか?」
少女はマイに向かって、真剣な表情で問いかける。
「マイです……マイ=ヴェルトスタニア」
「マイさん……あなたはあの方を助けたいですか?」
「?!」
少女の問いかけにマイは思わず息を呑む。
だが、次の瞬間、叫ぶ。
「助けたい!」
マイは少女の小さい肩に縋りついて声を張り上げる。
「教えてください! あの人を助ける方法を」
もう、あんな風に人を傷つけるスバルを見たくはなかった。
すると、少女は悲し気な表情でわずかに顔を伏せた。一瞬の間の後に、顔を上げ、まっすぐにマイを見つめて言った。
「『呪魔』に憑りつかれ、あの状態になってしまった人間を元に戻す方法はわかりません……ですが、もしかすると、親しい人間の言葉や、あるいは、普段の習慣のようなものを再現すれば、元に戻るという可能性があります。私の知る限り、その方法で元の人格を取り戻した人も居ます」
親しい人間の言葉や習慣……?
今、この場に居る人間の中でスバルと最も親しいのは間違いなく自分だ。だが、先程の様子を見る限り、スバルに自分の言葉は届いていない。であれば、残るは習慣とやらにかけるしかないが――
そのとき、マイの視界の片隅にあるものが目に入る。
長い棒状のものが地面に転がっている。
——笛だ。
先程、部屋に居たときに笛をいじっていたから、部屋を飛び出したときに一緒に持ち出してしまったのだ。
「これなら――」
殺す殺す殺す殺す殺す殺す――
意識に浮かぶのは殺意のみ。目の前に居る人間はすべて殺す。そこに理由などない。殺害は悦楽であり快感。破壊は喜悦であり歓喜。ああ、なぜ、これほど楽しみを、自分は今まで無視して来たのだろう。人は呼吸をし、食事をし、睡眠をとる。そこに理由など必要ない。それと同じで、自分が人を殺すということに理由など必要はない。殺せるなら殺せ。殺せなくても殺せ。何があっても殺せ。
殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ――
がきんと、耳を塞ぎたくなるような金属音が高く鳴る。
初めて自分の剣が止まる。
「——は?」
誰だ邪魔をするのは?
せっかく気持ちよく剣を振っていたのに。
せっかく気持ちよく暴れていたのに。
せっかく気持ちよく殺していたのに。
誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ――
目の前に立っていたのは、一人の男。色素の抜けた真っ白な髪に紅い瞳。動きやすさを重視した軽装鎧に身を包んだ優男。そんな男が構えた剣でこちらの振りおろした剣を受け止めていた。
誰だ、こいつは?
そう考えた次の瞬間、思考が飛ぶ。
「ぐはあ!」
大きく後ろに吹っ飛ばされ、地面に叩きつけられる。
だが、すぐに起き上がり態勢を立て直す。やはり、普段よりも身体が軽い。
みぞおちの辺りに鈍い痛み。おそらくは鍔迫り合いの硬直の一瞬に腹をけり上げられたのだろう。おかげで無様にも地面に転がる羽目になった。鍔迫り合いと同時に放った蹴りで自分を吹き飛ばすとは、恐るべき膂力であった。
——そう来たか……
一方的に殺すのも飽きてきたところだ。
少しばかり趣向を変えて、死闘の末に殺してやろう。
「面白くなってきやがった……」
剣を握りなおし、男に向かって真っすぐに突っ込んでいく。
「——死ね」
そこからは目を覆いたくなるような殺し合いだった。
剣を振るい、拳をぶつけ、爪で切り裂き、牙で噛み千切る。
もはや人間同士の戦いとは言えない。そこで行われていたのは、理性のない獣のそれだった。
鎧を着た男はその狂乱の攻撃をいなし、さばき、致命傷を避けている。狂った男の一撃は重い。まともに攻撃をくらえば、ただでは済まないだろう。
一進一退の攻防は続く。
どれだけの打ち合いを行っただろうか。状況は膠着しつつあった。お互いに決め手を見いだせずにいたのだ。ともすれば、そのまま一晩中、続きそうな攻防。
その中で状況を動かしたのは、突如、聞こえてきた笛の音だった。
マイは笛を奏でた。
震える指で、荒れる息で、それでも必死に笛を演奏する。
凄惨な現場には不似合いの穏やかで優しい旋律。それは、スバルが好きだと言ってくれた曲だった。ずっと、聞いていたいと言ってくれた曲だった。
(お願い……スバル……!)
スバルはよく笛の音を聞いて、眠っていた。もしかしたら、この笛で彼の気を静められるかもしれない。もう自分にできることはこれしかない。だから、これに賭けるしかない。
ああ、神様。どうか、哀れな私たちをお救いください。
マイは祈る。
心の底から祈る。
これほどまでに真摯に神に祈ったのは、ともすれば初めてのことかもしれない。それは今まで自分が恵まれた生活を送ってきたことを示していた。神様などに頼らなくても、自分はずっと幸せで居られたから。
もし、天に居られる神様が今この危難をお救いくださるなら、自分の残りの人生のすべてを神に捧げてもいい。
(元に戻って……!)
必死の思いでマイはスバルを見た。
スバルはこちらを見て、動きを止めていた。そして、どこか呆けたような表情でマイの顔を見ている。
(反応している!)
やはり、笛を選んだのは正解だった。このまま、演奏し続ければ、もしかしたら、彼を正気に戻せるかもしれない。笛を持つ指に力が入る。
「うわああああああああああああっ!」
すると、スバルは頭を抱えて呻きだす。
「ううううううっ!」
悲痛な呻きを上げて、こちらを睨んている。
おそらく、彼の中で理性と狂乱の獣が戦っているのだ。
(お願い、勝って!)
そんな獣なんかに負けないで……。
スバルは優しくて、暖かくて、一緒に居ると元気をくれて――
――そんなあなただからこそ、私はずっと二人で歩んでいきたいと思った。
(帰ってきて……!)
信じる。
彼は呪いなんてわけのわからないものには負けない。
絶対に。
——彼は私を守ってくれる騎士なのだから
(スバル……!)
「マ……イ……?」
彼の口から、そんな言葉がこぼれる。
スバルは、まるで十年来の知り合いと再会したような表情でこちらを見ている。
「マイ……?」
彼は確かに自分の名を言った。
(戻った……!)
次の瞬間、スバルはマイの方へと走ってくる。居てもたってもいられなくなったというように、なりふり構わず、彼はこちらに飛び込んでくる。
「スバル!」
思わず、笛を口元から離し、彼を抱きとめようとして――
「——駄目!」
背後から少女の悲痛な叫び声。
そして、スバルは大きく剣を振り被って、こちらに向かって真っすぐに剣を振り下ろした。
「うぐ……」
何が起こったのか解らない。
確か、自分に向かってスバルが剣を振るって、斬られて――
だけれど、自分の身体には傷はない。自分は再び腰を抜かし、地面にへたりこんでいる。そんな状態のまま、そっと顔を上げる。
「え……?」
目の前の光景を自分の中で処理できず、思わず間抜けな声を漏らす。遠くの景色に焦点を合わせるように、ぼやけた目の前の現実を少しずつ咀嚼し、呑み込んでいく。
「ああ……!」
自分の前に立っていたのは、例の司祭の少女だった。
そして、彼女の左肩には深々と剣が刺さっていた。ようやく事態を理解する。この少女は自分を庇って、スバルの刃を身で受け止めたのだ。彼女の肩から赤い血が滲んでいる。
「ぐ……」
少女は辛そうなうめき声を漏らしている。
だが、もはや自分にはどうすることもできない。
(私ではスバルの目を覚まさせてあげられなかった……)
それは自分とスバルの間にあったと思っていたものが否定されたということに等しかった。自分と彼の心は繋がっている。そう信じていた。だが、それは自分の一方的で独りよがりな感情だったのだろうか。
(ああ、このまま死のう)
不意にそんなことを思う。
このまま、彼に斬り殺されて死ぬ。それはある意味では幸せな結末なのかもしれない。たとえ、生きていたって彼と一緒に居られることはないのだ。なら、他ならぬ彼の手にかかって生を終えるというのも悪くない最期かもしれない。
だから、マイはすべてを諦め、受け入れることにした。
願わくば——死後の楽園で彼と再会できますように。
ただ、それだけを願って、そっと目を閉じた。
そのときだった。
「ごめんなさい……」
それは司祭の少女の声だった。
その声につられて、そっと目を開ける。
斬られた肩を真っ赤に染めた少女は振り返り、こちらを見下ろしていた。その青い瞳からは大粒の涙が溢れ出していた。
「ごめんなさい……」
彼女は悲痛な表情で、そう繰り返し、こちらに謝る。
なぜ……?
彼女は自分を庇い、助けてくれたのだから、謝る筋合いなどないはずなのに。
彼女は肩に刺さった剣をそっと引き抜き、脇に寄る。そのおかげで彼女の背に隠れていたスバルの姿が見られるようになる。
その彼の姿を見て、マイは思わず呻く。
「ああ……ああ……!」
彼の身体の中心から何かが飛び出している。真っ直ぐ伸びた棒状の何か。
それは鋭い切っ先の剣だった。
スバルは背後から長い剣で胸を突き刺されていた。
そっと剣が抜かれる。彼の胸にはぽっかりと穴が空いていた。その穴から勢いよく真っ赤な血が噴き出す。それはまるで不意に振り出した雨のように、その血はマイの全身を濡らした。
「いやああああああああああああああっ!」
――生きてほしかった。
たとえ、一緒には居られないのだとしても、隣では生きられないのだとしても、どこか遠い空の下で幸せに笑って生きてほしかった。彼の隣に居るのが自分でなくたってよかった。ただ、彼が幸せに人生を全うして、いつか一度でもいい笑って話せたら――
ただ、そんなささやかな願いは、たった一太刀で断ち切られた。
「ああああああああああああああっ!」
その慟哭は森を裂き、夜を裂き、遠く遠く、遥か見上げる先にある天を衝いた。
ああ、なぜこんなことになってしまったのだろう。
いったい自分の何が悪かったというのだろう。
学はない。金もない。地位も、名誉もない。確かに自分は人に誇れる何かなど何一つ持っていなかった。だけれど、これほどひどい最期を迎えねばならないほどに、何かいけないことをしたのだろうか。
命の灯が消えていく。
自分はもうすぐ死ぬ。それだけははっきりと、明確に理解できた。霞がかっていた思考が晴れていく。死を目の前にしたことで、ようやく自分を取り戻せたのかもしれない。
斬り殺した人々には申し訳ないことをしたと思う。特にマイの父を殺してしまったのは、辛かった。きっと、彼女は気が狂うじゃないかってくらいに嘆き悲しむだろう。だけれど、自分にはそんな彼女の肩を抱いてやる資格はない。小さな背中をただ黙って見つめる権利すらない。
ただ、彼女を斬らずに済んだ。
それだけが不幸中の幸いだった。もしも、彼女を殺してしまっていたら、たとえ、自分で自分を百回殺したとしても、自分のことを許せなかっただろう。そういう意味で、鎧の剣士と神官の少女には感謝をしなくてはならない。
暗くて冷たい何か。ねっとりと張り付くような粘度を持った黒い物体が、火口から漏れいずる溶岩のようにゆっくりとこちらに向かってくる。
――これが死だ。
この暗くて冷たい何かが死というものなのだ。
なぜだか、それは理解できた。
死が目の前に迫っていた。
せめて、最期に一つだけ……。
彼女に、マイに、伝えなくては――。
「マ……イ……」
「スバル!」
マイはスバルに縋りついて泣く。もはや、誰もその行動を止めなかった。スバルが間もなく死ぬということは、誰の目にも明らかだったからだ。
「スバル……スバル……!」
マイは必死に彼の傷口を押さえていた。そうすれば、彼の命が漏れ出ることを防げると固く信じているかのように、ただひたすらに彼の傷口を塞いでいた。
「もういい……」
スバルは、そんな彼女を消え入りそうな声で制して言った。
「最期に言わせてくれ……」
マイは彼に残ったすべてを見逃さないように目を見開いて、彼を見る。彼の言葉のほんの欠片も聞き逃さぬように必死で耳を傾ける。
「なに……スバル……」
優しい声で返事をして、マイは彼の言葉を待った。
彼を見ていれば解る。彼の中で今、いろいろな感情が、想いが去来している。でも、それを一つ一つ語っている時間は、もう彼には残されてはいない。だから、彼は最後の力を振り絞って、たった一言を彼女に向かって言った。
「……愛して……いた」
それが彼の遺した最後の言葉だった。
その言葉の中に、彼と過ごした九年間のすべてがあった。感謝も、贖罪も、祈りも、願いも。その一言にはすべてが詰まっていた。少なくとも、マイは彼のすべてをそこから受け取った。
「うん……うん……私も……私もあなたを……」
握った彼の手から力が失われていく。生の痕跡が消えていく。マイは彼のその手を強く強く握りしめる。自分に残った全身全霊をかけて、彼に自分の想いを伝えるために。
「——愛しています」
マイは言った。
「ずっと、ずっと、これからも、この先も、あなたを、スバルを愛しています……」
マイの言葉にスバルは最後に目を見開いて――
「——————」
スバルは静かに息を引き取った。
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