第1話「夢の果て②」

 面倒だな。

 領主の護衛の男はそんなことを考えながら、あくびを噛み殺す。


「あれは今日にでも、屋敷に忍び込むやもしれん。念のため、今日は裏口の方も気を付けて見張っておいてくれ」


 雇い主の命令とあっては断れないが、正直、煩わしいと思う。

 屋敷の裏口の石垣に腰掛け、空を見上げる。そこには、赤々と輝く満月が鎮座していた。

 普段は寝ずの番をするのは一人。それを数名の人間で交代で行っている。だが、今日に限っては二人体制だ。例の餓鬼が忍び込み、万が一にでもうちのお嬢さんをかどわかすようなことがあってはならないからだ。明日は山向こうの村の許嫁との顔合わせが予定されている。首尾よく進めば、そのまま婚約の儀まで進むことになる。万が一にもあの餓鬼に邪魔されるわけにはいかなかった。

 それは解る。解るが、どうにも面倒な話だった。

 つまり、自分は来るかも解らぬあの餓鬼のために、普段よりも多く働かされているということになる。あの餓鬼が余計なことを考えなければ、今頃、自分はベッドで眠っていられたわけだ。

 そう考えると無性に腹立たしくなってくる。

 万が一にでも、あの餓鬼が自分の前に現われたときは、ただじゃおかない。

 領主からは殺すなとは言われているが、怪我をさせるなとまでは言われていない。少々痛い目を見させて、二度と余計な真似ができないようにさせてやる。人間は与えられた分を逸脱すべきではないのだ。そんな当然の世界の真理を思い知らせてやろう。

 そんなことを考えていたときだった。

 茂みの向こうで何かが蠢く音がする。がさがさと生い茂る葉をかき分ける気配がある。

 男はとっさに立ち上がり、腰元の剣に手を伸ばす。

 例の餓鬼が来たのか、それとも――

 いかなる事態にも対応しようと、男は警備の本分を全うしようと頭を巡らせる。

 身構える男の前に茂みの陰から一つの人影が飛び出してくる。

 それを見て、男は言う。


「あーあ、来ちまったか」


 それはまさしく例の餓鬼だった。いつもうちのお嬢さんに付きまとう小汚い餓鬼。来ちまった以上は仕方がない。これも仕事だ。少しばかり灸を据えてやらねば。

 餓鬼はぶつぶつと何事かを呟きながら、こちらにゆっくりと歩いてくる。

 その手には一振りの剣が握られていた。


「おいおい、本気でやり合おうって言うのか?」


 相手が素手ならこちらも剣を抜くつもりはなかった。だが、抜刀している相手に丸腰というわけにはいかない。こちらも剣を抜く。

 身体つきを見れば多少は鍛えていることはわかるが、所詮は素人。元傭兵の自分の敵ではない。剣を打ち払った後、痛めつけて、領主の前に突き出そう。そう考えていた最中だった。


(なんだ……?)


 男はそのとき、初めて気が付く。

 少年の様子がどこかおかしいということに。

 見かけは何も変わらない。昨日、見た通りの餓鬼だ。だが、餓鬼がまとっている空気が決定的な変質を遂げていた。

 ほとばしる敵意と殺意。それが尋常ならざるものであったのだ。

 男はかつての戦場での光景が頭によぎる。命のやり取りを行う戦場ですら、ここまでの殺気はそうそうお目にかかれない。


(おいおい、まじかよ……)


 ぞくりと。

 背筋が凍る。

 彼が一歩、歩を進める度にこちらにかかる重圧は強くなっていく。まるで両肩に重しでも乗せられているかのようだ。身体が固くなる。


「たった一日で何をしたんだ……」


 昨日、見たときは何の変哲もない餓鬼だった相手が、たった一日でこうも変わるものか?

 男は改めて剣を握りなおす。呼吸を整える。

 ビビってんじゃねえ。どんな空気をまとってようと相手はただの餓鬼だ。

 自分を叱咤し、少年に向き合う。

 最後にもう一度、大きく息を吸い込んでから叫ぶ。


「なめてんじゃねえぞ! クソガキ!」


 男は弾かれた矢の勢いで、剣を振り被り、少年に斬りかかった。




「……スバル?」


 屋敷の中。マイは自室に居た。今日は自分の部屋から出てはいけない。お父様にそう言いつけられたからだ。おかげで日課であった庭での笛の練習もできていない。

 手元にある笛をそっと撫でる。

 もともと、笛は様々な習い事の中の一つでしかなかった。特別好きでも、嫌いでもない。やれと言われたからやっただけのものだった。だけれど、初めてスバルに会ったあの日、


「すごい……」


 彼は目を輝かせてこちらを見ていた。

 ——それからだ、笛を吹くことが大好きになったのは。


「スバル……」


 もっと、スバルに自分の演奏を聞いてほしい。

 もっと、スバルに隣に居てほしい。

 ずっと、ずっと、スバルと一緒に居られたなら――

 そんなことを考えていたときだった。


「……何?」


 不意に胸騒ぎがして、窓を開けて、森の方を見る。いつもなら、あの裏口付近にスバルが居るはずだけど――

 窓を開けて気が付く。家の裏手が騒がしい。金属がぶつかり合う甲高い音が聞こえる。そして、次の瞬間――


「ぎゃあああああああ!」


 思わず耳を塞ぎたくなるような、あまりにも悲痛な叫び声。この声はお父様の護衛の方の……?

 その声に反応して、屋敷の周囲を警戒していた他の警備の者が声の方向へ走って行くのが見える。自分の部屋の窓からは肝心の現場は見えない。


「スバル……!」


 マイはいてもたっても居られなくなり、自室を飛び出した。


「いけません! お嬢様!」


 屋敷のメイドたちの静止を振り切って、裏口に向かう。


(スバル……!)


 胸騒ぎがする。ぞわぞわとした不快な何かが胸の中で蠢く。スバルの身に何かが起こっている。これが虫の知らせという奴なのだろうか。


(早く……! 早く……!)


 脚に絡まりそうになる長いスカートをたくし上げ、転げ落ちるような勢いで階段を下りる。曲がり角で壁にぶつかりそうになることも厭わず、はじかれた矢のように一目散にかける。

 ようやく裏口へと続く扉が見える。

 そこに縋りつくように手を伸ばして、扉を押し開けた。


「はあ……はあ……」


 肩で息をしながら裏口の辺りを見る。


「ああ……!」


 すでに惨劇は始まっていた。

 裏口の周囲の地面は真っ赤な血で染まっている。そんな血だまりの中に幾人もの人が倒れている。皆、苦しそうなうめき声を上げている。血液独特の鉄のような匂いが辺りに充満していた。

 そして、その惨劇の中心に居るのは――


「スバル!」


 スバルはその累々と倒れ伏した人々の中心に立っている。その彼は片手で何かを持ち上げている。

 それは――


「お父様!」


 他ならぬマイの父だった。

 スバルは片手でマイの父の首元を掴み、軽々と持ち上げている。父の身体も決して華奢ではない。それを片手で持ち上げるなど、普通の鍛え方では到底できるはずがない。


「うぐぐぐ……!」


 父は顔を真っ赤にして、浮いた足をばたつかせている。


 ——あれでは死んでしまう。


「駄目! 駄目よ、スバル!」


 たとえ、どんな理由があったって人をこんな風に傷つけていいはずがない。


「お父様を離して!」


 マイは血だまりを踏み越えて、二人の間に割って入ろうとする。

 だが、


「———————」


 スバルはぼそりと声にもならぬ声で何かを呟いたかと思うと、右手に持っていた剣を振り被り、


「ダメー!」


 躊躇もためらいもなく、その剣を振り下ろした。


「あ……」


 お父様は小さな声を漏らし、次の瞬間、その身体から噴水のような勢いで大量の鮮血をまき散らした。スバルはお父様を地面に放り投げる。お父様はそのまま動かなくなった。


「お父様! お父様!」


 マイは倒れた父に縋りつく。

 幼いころに母を失ったマイにとって、父は唯一の肉親だった。厳しいことを言うこともあったが、いつも自分を守り、助けてくれる、尊敬すべき父親だった。そんな父親が血まみれで地面に横たわっている。そんな現実を飲み込むことはできそうもなかった。


「なんで……なんで……」


 そのこぼれた言葉に意味はなかった。混乱の末に漏れた自動的な呻きだ。だけれど、一つ「なんで」と問うたびに、思考は絡まり、一つの線となっていく。その線が指し示す先に立っているのがスバルだった。

 マイはゆっくりと背後に立っているスバルを振り返る。


「なんで……スバル……?」


 確かに、お父様はスバルに心無い言葉をかけたかもしれない。

 自分たちの関係に反対し、遠ざけようとしていたかもしれない。

 けれども、少なくともこんな風に惨たらしく殺されるほどのことはしていなかったはずだ。

 マイはまだスバルを信じていた。スバルが一言何かを言ってくれれば、すべてが嘘になる。そんな幻想すら抱けていたかもしれない。


「スバル……?」


 マイは震える手でスバルに手を伸ばす。

 何かを言って。

 説明をして。

 私を優しく抱きしめて。

 だけれど、マイは気が付く。


「え……?」


 スバルの瞳に映っているのは目の前に居る自分ではない。

 ——狂乱。

 その瞳は爛々と輝きまっすぐに前を見つめているのに、何も捉えてはいない。瞳の中に様々な感情が渦を巻いている。憤怒、悲哀、絶望、喜悦。それらをぐちゃぐちゃにかき回して、混ぜ合わせたような混沌。彼の瞳にあったのは、その圧倒的な黒だけだった。


 ——これはスバルじゃない。


「あなた、誰なの……?」


 マイは思わず、一歩後ろに下がる。

 姿かたちは間違いなく、いつものスバルだ。

 だが、その中身に入っているのは、不器用だけど、優しい、あのスバルではなかった。

 ためらいもなく、人を切り捨てる化け物。

 それが、今のスバルの中にあるもの。

 その人の形をした怪物は一歩前に歩を進める。瞳に光はなく、その手には先ほど父を切り捨てた剣が握られている。その切っ先が鈍く光る。


「やめて……来ないで……」


 マイは後じさりをしようとするが、その瞬間、足を取られてしりもちをついてしまう。足元に倒れていた父の身体を踏んでしまったのだ。

 だが、そんなことを気にする余裕もなく、マイは立ち上がり、逃げ出そうと思うのだが、身体が言うことを効かない。腰が引けてしまっているのだ。


(屋敷の中に逃げないと……)


 頭ではわかっているのだが、それとは裏腹に身体はもうピクリとも動かなかった。

 悠然とした足運びでスバルは、地面に座り込む、マイの前に立つ。

 そして、彼はゆっくりと手に持っていた剣を振り被った。


「嫌……」


 マイは左右に首を振る。涙が込み上げてくる。


「嫌……」


 なんでこんなことになってしまったの……?


「嫌……」


 誰か……誰か……。

 それは祈りとも願いとも呼べない逃避。迫りくる絶望的な現実から目を逸らし、ありもしない希望にすがる弱者のそれだ。だが、マイに残された選択肢は一つしかなかった。

 ――どうか、神様、奇跡を。

 強く目を瞑るマイに、スバルはその剣を勢いよく振り下ろし――

 轟音。響く、甲高い金属音。

 世界が震えたのではないかと思われるくらいの衝撃。

 その剣がマイに当たる直前、何者かが二人の間に割り込んだ。


「——少し遅すぎたようだな」



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