第3話「化物の爪①」

 深い深い闇の中

 駆ける、駆ける、ひたすらに

 でも、それは後ろからどんどんどんどん迫ってくる

 もういいや

 私はそれに身を委ね

 ナイフを拾うことにしました

 何度も何度も何度も何度も

 それをまっすぐに振り下ろして

 さよならバイバイ

 ――掌に伝わる感触は不思議と心地が良かった




「『呪魔』に感染した人間は殺人衝動に憑りつかれます」


 綺麗な人だと思った。

 長い金髪は、太陽をいっぱいに浴びて育った麦の穂を思い出させる。

 青い瞳は、昔一度だけ見た遠い海を。

 そして、その優しい微笑みは、あの人を――


「貴方はその『呪魔』の呪いによって、超常の力を得、このようなことが起こってしまったのです」


 その人は表情に悲痛を滲ませる。視線の先を追うと、そこにあったのは、どす黒い血だまり。その真ん中には一つの骸が転がっている。


 ――さっき自分がやったことだ。


「だから、貴方は何も気に病むことはありません。悪いのは呪いです。貴方は悪くないのですから」


 そう言って、綺麗な人は私をそっと抱きしめる。優しくて暖かな温もり。きっとお日様に抱かれたこんな気分になるんじゃないか。そんなことを考える。

 この人は神様なんじゃないだろうか。それくらいにこの女の人は輝いて見える。

 神様がどんな人なのか私は知らない。お父さんはいつも神に悪態をついていた。お父さんの話では神様は、自分を助けてくれないろくでもない奴だそうだ。だけど、逆に言えば、お父さんを助けない神様はいい人なのかもしれない。だって、お父さんは世界で一番悪い人だったから。

 だから、お父さんがあの血だまりの上に転がっていても、私は少しも悲しいなんて思えなかった。




「この子は自分を制御できています」

「しかし、それは今、一人殺した直後だからで」

「解っています。しかし、少なくとも可能性がないというわけではないでしょう」

「まあ、そうなんだが」


 お姉ちゃんの名前はミリアというらしい。そして、剣を持った男の人はヴァイスと名乗った。

 私は二人に言われるがままにふらふらと彼らの後ろを歩いていた。あの父親を殺してしまった以上、もう自分には行く当てなどない。死体の処理を手伝ってくれた恩義もある。とりあえずは言われた通りにしよう。

 ヴァイスはつかつかとこちらに歩み寄ってくる。そして、私を上から下へ値踏みするように見て、眉間に皺を寄せる。


「おまえ、人を殺したい衝動は残っていないのか?」

「………………」


 私は何も応えず、目に力を込めてヴァイスを睨み返した。なぜだか、この人の言葉に応えるのは嫌だった。


「ヴァイス、駄目ですよ、そんな言い方」


 ミリアお姉ちゃんは、私とヴァイスの間に割って入り、しゃがみ込んで、背の低い私に目線を合わせて言った。


「お名前を教えてくれますか?」

「……エイラ」


 私は喉の奥から言葉を一つ絞り出す。


「エイラちゃん、あなたは今からその呪いに向き合って生きていかなければなりません」


 ミリアお姉ちゃんは真剣な眼差しを私に向ける。


「エイラちゃんがもしその呪いに呑み込まれれば、大変なことになります。だから、貴方はその呪いに負けずに生きていくのです」

「……負けたらどうなるの?」


 私が私の中にある呪いに負けて、屈してしまったら?

 ミリアさんは、私の背中に手を回して、私を抱きしめ、私の頭を撫でてくれる。


「大丈夫です。負けません。貴方は絶対に負けないから」


 自分の中にある黒い感情。それは今はおとなしく眠ってくれているけど、もし、これが目を覚ましたら……。そう考えると身が震える。だけど――


「……わかった」


 この人と一緒なら何とかなるかもしれない。

 根拠はないけれど、そんなことを考えた。




 私は二人に連れられ、故郷を後にする。

 村を出るときにそっと自分が住んでいた家の方を見る。家とも呼べないほどの粗末な小屋だ。いざ、ここを出て行くという心持ちで改めて見てみると、よくこんな場所に住んでいたなと思うくらいに小汚いあばら家。あれが今しがたまで自分を閉じ込める檻だった。だけど、私は自分でその檻の鍵を壊してしまった。鍵の壊れた檻は檻としての用をなさない。だから、私はきっとここには二度と戻ってこないだろう。だけれど、何の感慨も湧いてこない。


『おい、こいつってあの丘の上に住家に住んでる――』

『ああ、例のあれだ――』

『なんだよ、だったら――』


 この村には良い思い出なんて一つもない。

 それよりも――


「行きましょう」


 そう言って、優しく手を引いてくれるミリアお姉ちゃん。

 私はそこから先は二度と後ろを振り返らず、まっすぐに前を向いて歩きだした。




 そして、私とミリアお姉ちゃん、ヴァイスの三人での暮らしが始まった。


「ここが貴方の家だと思っていいですからね、エイラちゃん」


 ミリアお姉ちゃんはいい人だ。お日様みたいに暖かくて、陽だまりみたいに優しい匂いがする。私を見ても、嫌な顔を一つしない。私が不安な気持ちになっているとすぐにやってきて、優しく抱きしめてくれる。


「大丈夫。貴方は呪いなんかに絶対に負けないから」


 そんなミリアお姉ちゃんの言葉を聞くと、私の中の真っ黒な感情は少しだけ小さくなる。そんな気がした。


「おい、餓鬼。俺は餓鬼が相手でも容赦はしない。この家に住む以上は仕事はきちんとやってもらうぞ」


 ヴァイスは嫌な奴だ。冬の木枯らしみたいに冷たくて、ハリネズミみたいにツンツンしている。子供の私にも容赦なく、仕事を言いつけてくる。掃除や洗濯、裁縫。どれも家にいた頃に比べたら大した仕事でなかったからよかったけど。


「ほう、思ったよりやるじゃねえか」


 ヴァイスは私の働きぶりを見て、にかりと笑う。この程度の仕事量ならば普段の半分も働いてもいないというのに、こんなことを言うのだ。


「まあ、しゃあねえ。働いた分くらいは食わせてやるか」


 そんなことを言って、私の頭をぐしゃぐしゃと撫でる。私は彼の手を振り払う。そういう乱暴な扱いは好きではない。

 だけれど、不思議と嫌ではなかった。




「なんでおまえを拾ったか、だと?」


 小屋の近くに流れる川で釣りをしているヴァイスに向かって問う。

 私は人殺しだ。普通ならば、村の自警団に突き出されて終わっていたはずだ。それなのに、なぜこの二人は自分を匿ってくれるのだろう。


「まず、前提として、俺はまだお前を認めたわけじゃない」


 そんな風に前置きして彼は言う。


「だけど、少なくとも機会くらいはやってもいいと思ってる。真っ当な人間として生きなおす機会を」


 真っ当な人間。それは私という存在から対極にある概念だ。そんなものに私が本当になれるのだろうか。

 私が黙り込んでいると、


「わわっ」


 彼は不意に私の頭をぐしゃぐしゃと撫でる。


「餓鬼が難しい顔してんじゃねえよ。餓鬼は餓鬼らしくへらへら笑ってればいいんだ。そうすりゃ、気が付いたら真っ当に生きてるもんさ」


 そんな風に言って、歯を出して豪快に笑うのだ。


「もう、離して!」


 私は彼の手を撥ね退けようとする。


「ははは、そう言われると離したくなくなる」

「いじわる!」


 彼の手はごつごつとしていて、大きくて、だけど、なぜだか優しかった。




「なんでエイラちゃんを助けたか、ですか?」


 鍋の中では裏の山で摘んできた山菜が舞っている。さっきヴァイスが釣ってきた魚はミリアお姉ちゃんが捌いて焼いている。魚の焼けるいい匂いが小屋の中に満ちている。


「失われなくて済む命なら失われない方がいいからです」


 ミリアお姉ちゃんは、鍋を覗き込みながら呟く。


「悲しいことに命というのは、誰かの命を奪わなければ生きていけません」


 そう言っているミリアお姉ちゃんの視線の先には鍋で焼かれる魚。


「それは人間同士だってそう。戦争や争いでたくさんの人が死にます。それは本当に悲しいことです。でも、私にはすべての命を救えるような力はありません」


 そこでミリアお姉ちゃんは私の方をちらりと見る。


「だから、せめて、私の手の届く範囲にある命は一つでも多く助けたいんです」


 そう言って、彼女はにこりと笑った。


「………………」


 ミリアお姉ちゃんの考え方はよく解った。

 だけれど、それは少しだけ間違っているように思う。

 確かに殺さなくてもいい命なら殺さない方がいい。だけど、殺さなくてはならない命というものもあるはずだ。放っておけば、周囲に害をなし、何もかもを傷つける。そういう命であっても、お姉ちゃんは救うべきだと胸を張って言えるのだろうか。


「わわっ」


 私がそんなことを考えていると、不意に暖かな何かに包まれる。ミリアお姉ちゃんは突然、私を抱きしめていた。


「ふふ、あんまり難しい顔をしているのはやめましょうね」


 そう言って、私に優しく微笑みかける。


「ほら、裏で薪を切っているヴァイスを呼びに行ってください。ご飯にしますよって」

「……うん」


 お姉ちゃんが言っていることは、すべてが正しいとは思えない。だけれど、もう少し信じてみてもいいんじゃないか。そんなことを思った。




「今日は、町に買い物に行きましょう」


 ある日、ミリアお姉ちゃんは私に向かって、そう言った。


「…………町」


 あまり町に出るのは好きではない。あの村ほどではないけれど、町にもあまり良い思い出はないからだ。


「……町はまだ怖いですか?」


 ミリアお姉ちゃんは優しい声で尋ねる。


「………………」


 私は何も言えず、黙りこくってしまう。

 本当のことを言えば、まだ町は怖い。だけれど、一生、こうやって山の奥にひきこもっているわけにはいかないことも解っている。それに、大好きなミリアお姉ちゃんにこんな悲しそうな顔をさせたくはなかった。

 そのときだった。


「……うわ!」


 不意に私の頭の上に何かが覆いかぶさる。


「な、なに?」


 私は慌てて、頭の上に載っていた何かを引っぺがす。

 私はそれを手に取って、しげしげと眺める。


「これ……」


 それは緑色のフードのついたポンチョだった。森の中でこれを被っていたら、ちょっとやそっとでは人に気が付かれなさそうな色をしている。


「それでも被っておけば、ましじゃねえか?」


 私が振り返ると、ヴァイスが腕を組んで立っていた。


「本当は野戦強襲用のポンチョだが、顔を隠す用途には使えるだろ。大きさが合わないからちょっとばかり仕立て直す必要があるが」

「………………」


 私はもう一度しげしげとポンチョを見る。これを被って、顔を隠していれば、町に出られるかもしれない。


「どうだ?」


 にやりと笑うヴァイスを見て、ちょっとだけ腹が立ったけど、


「……悪くない」


 無神経な彼にしては気の利いた提案だったので、無下に扱うのはやめておいてあげることにする。


「……ありがと」



 

 私はミリアお姉ちゃんとヴァイスの三人で町に出かける。私は町には良い思い出がなかったけれど、町そのものを嫌っていたわけではない。大通りに並ぶ屋台から出る肉が焼けるいい匂いがする。村では見たことないような色とりどりの野菜が並んでいる。村の中央の広場では、大道芸人たちが楽器を奏でている。そんな町の様子は決して嫌いではなかった。


「しばらくは、あの隠れ家に定住するんだろ? 畑も作り直した方がいいか?」

「そうですね。少なくとも一年、あそこから動かないならあった方が――」


 二人はこれからの生活に必要なものの買い出しの相談をしている。私は邪魔にならないように二人の後を黙ってついて行く。今日、町までやってきたのは、あくまで買い出しのため。別に遊びに来たわけじゃない。解っている。だから、我がままを言って、二人を困らせるようなことは――


「おい、餓鬼」


 ヴァイスは不意にこちらを振り返って言う。


「どの屋台にするか選ばせてやる」

「え……」


 私は思わず伏せていた顔を上げて、ヴァイスの顔を見る。


「昼飯だよ。今日はおまえに選ぶ権利を譲ってやろう」

「ええ。今日はエイラちゃんが食べたいものを食べましょう」

「あ、ただし、向こうの竜肉とかユニコーンはダメだかんな。あれ、めっちゃ高いから。安い奴にしとけよ、うちは常に貧乏なんだから」

「………………」


 まただ。

 不意に、何か熱いものが胸に込み上げてくる。

 この二人と居ると、こんな気持ちになってばかりだ。一体、この感情は何なのだろう。

 遠い昔、同じ気持ちになったことがあったような気がする。

 まだ、あの人が、お母さんが生きていたときに――

 何故だか、目頭が熱い。どうして、私は泣きそうになっているのだろう。


「エイラちゃん」


 ミリアお姉ちゃんは私に向かって微笑みかける。


「こんな程度のことで泣いていたら駄目ですよ」

「……え?」

「こんなことは家族だったら、当たり前のことなんですから」

「あ……」


 言葉を失う。

 私にとって家族というのは、自分を縛り付ける鎖以上の意味はなかった。だけど、この人が言っている家族というのが、そういう意味でないことだけは、はっきりと解る。

 本当の家族というものがどういうものなのか、私にはまだ理解できない。だけど、それはきっと私がずっとほしかったものなのだろう。それが手に入ったら、私は――


「うう…………」


 泣くもんかと思ったのに、涙は次から次へと頬を伝う。涙なんて、もう何年も流していなかったはずなのに。悲しいときの涙は我慢できても、嬉しい涙は我慢できない。そんなことを私は知った。


「ははは、泣き虫だな、こいつは」

「……うるさい!」

「お、やるのか? 俺にかなうかな?」

「うるさいうるさい!」


 もう少しだけ、ここに居よう。そんな風に思えた。


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