過去4「神のために生きるということ②」

 私は母に手を引かれ、村を囲う壁を乗り越え、村の外に出ました。

 なぜ私は村の掟を破り、外に出てしまったのか。その理由をうまく説明することはできません。掟を破ることは、やってはいけないことであると理解していますし、今は反省もしています。

 けれども、今、もう一度あの場面を繰り返すことがあったとしても、私は母について行ってしまうような気がします。

 それだけ、そのときの母には有無を言わせない何かがありました。

 この人を一人にするわけにはいかない。

 申し訳ありません、と心の中で謝罪の言葉を繰り返しながら、私は母の背を追いました。




 生まれて初めて見る外の世界。

 と言っても、村の壁を一枚越えただけ。そこにあるのは鬱蒼と生い茂る森だけでした。


「急ぎなさい。壁には感知のための奇跡がかけられている。きっと、もう気づかれているわ」


 母は木々の太い根が入り組んだ足場の悪い道をかけていきます。私はこけないように気をつけながら、ついて行きます。私は常日ごろから絶対に怪我だけはしないように言いつけられていました。なぜなら、この身体はあくまで神のためのものだからです。私は慎重に森の中を抜けました。




 どれだけ走ったでしょうか。

 いつしか私たちは、ごつごつとした岩の転がる山の中腹にたどり着きました。村からほとんど夜通しかけてきましたから、私たちはすでに体力の限界に達していました。そこで適当な洞窟で身体を休めることにしたのです。

 そこは洞窟と申しましても、入り口から奥まで見渡せる程度の小さな穴でした。

 二人で身を寄せ合い、村からの追手に気を払いながら、私たちは束の間の休息をとりました。

 母は私を抱き、絶対に放そうとはしませんでした。たとえ一時でも私から目を放せば最後、二度と会えなくなると思っているかのようでした。それは今にして思えば、的外れな妄想というわけではなかったのかもしれません。実際に、私が母と言葉をかわしたのは、この日が最後になったのですから。

 母の心臓の音が聞こえます。とくんとくん、と。そのとき、私の脳裏に不思議な光景がよぎります。私はぬるま湯のようなものに漬かっていて、何か暖かなものにくるまれています。私とその暖かな何かを結ぶ糸のようなものを感じます。見たのではなく、感じたのです。

 それはともすれば、私が母から産まれてくる前、私が母の一部だったときの記憶だったのかもしれません。母の鼓動の音が呼び水となって、そんな記憶がまるで蜃気楼のようにぼんやりと私の中で像を結んだのか、と。

 私もいつの日かこの身に子を宿し、その子をこの世界に導くことになるのでしょうか。

 そんな想像が頭をよぎります。


 ――それは無理だ


 私はそんな想像をすぐに振りほどきます。

 私は『神の器』。私という存在はただ、神に身体を捧げるためだけにある。いわば、この身体は私のものではなく、神からの大切な預かりものなのです。そんな身に人の子を宿すことなど、許されるはずがありません。


 ――ふと、気づく。


「あれ……?」


 私の頬を一筋の涙が滑り落ちていきました。

 なぜ、なぜでしょうか。

 私はこの落涙に対する答えを未だ持っていません。

 その答えは見つけてはならない、探してはならない。

 私はそう直感しました。

 だから、私はその涙に答えを与えることを放棄しました。

 しかし、母は私が流した小さな涙にすぐに気が付きました。

 それを見た母は意外にも表情を崩しませんでした。というのは、母は洞窟で私を抱きとめている間、ずっと今まで見せたことのない表情をしていました。

 それは一言で表現するなら慈愛の微笑みでした。

 教会で見せていただいたロセウス様を描いたとされる絵画を思い出します。その絵の中のロセウス様も同じような表情をしてらっしゃいました。

 いつも、不安げに眉を曲げている普段の母からは想像もできないような微笑みでした。

 母は私をまっすぐに見つめて、そして、海の底から届くような、静かで厳かな声で言いました。


「あなたに話しておかねばならないことがあります」


 母はそこで慈愛の微笑みに、わずかに悲しみを混ぜました。


「きっと、これが最後になるでしょうから」


 私は何も言えませんでした。ただ、黙って母の言葉を待ちました。

 母は私を抱いたまま、ゆっくりと語り始めました。


「私はプレカーリーを訪れるより前は、身体を売って生活をしていました。男たちに自分の身体を許すことでわずかな金銭をもらい、それで生活の糧を得ていたのです」


 母の告白に衝撃を受けなかったと言えば、それは嘘になります。私も母の言葉の意味が理解できぬほど、子供というわけではありませんでしたから。

 私は何も言うことができず、ただ母の言葉に耳を傾けます。


「それは地獄のような日々でした。どれだけ屈辱的な行為を強要されても抗議をすることはかないません。それでも、きちんと対価を与えてくれる男はまだましです。ときには、代金を踏み倒すようなものもいました」


 そう語る母の言葉はわずかに震えていました。


「何度死のうと思ったことでしょう。夜眠りにつくとき、このまま二度と目が覚めなければ。そんな風に思ったことも一度や二度ではありません。当時の私にとって、死こそが最も大いなる幸いであるとさえ思っていたのです」


 私は震える母をもう一度、強く抱きしめました。それくらいしか、私にできることはなかったのです。


「そんなときに出会ったのがゼーア……司教様でした」


 私は思わず、身をすくめます。この話に司教様が登場すると思ってはいなかったからです。


「司教様は私を救い、人並みの生活へと導いてくださいました。司教様は、他ならぬ私の恩人です。ですが――」


 そのときでした。

 母が急に話をやめ、立ち上がったのです。


「お母様?」

「――逃げますよ」


 母の視線の先にはいくつもの灯り。松明を携えた村の人々が私たちを追ってきたのです。


「急ぎなさい!」


 母は私の手を引いたまま走り出そうとしました。

 しかし、母はすぐに足を止めました。

 その先には一人の人影。


「残念です。エリス……」


 そこに立っていたのは司教様でした。

 母はすぐに踵を返そうとします。しかし、いつの間にか後ろにも村人が立っています。もはや、逃げ道は一つも残されていませんでした。


「お母様……」


 周囲を取り囲まれた中、母は私をもう一度強く抱きしめました。私の身体が壊れてしまうのではないかと自分でも心配になってしまうくらいに、母は強く私を抱いたのです。

 そして、母は私の耳元でささやきました。


「ごめんなさい……私はあなたを利用した……あなたのその胸のあざを見て、『神の器』としてささげたの……そうすれば、私は『器』を産んだ母として、祈りの村の住人となり安寧な暮らしができると思ったから……」


 その告白に動揺しなかったと言えば、嘘になります。たとえ、信徒であっても皆が祈りの村に入れるわけではありません。村の住人になるためには、審査が必要なのだと聞いています。村に居るのは、皆選ばれた敬虔な信徒たちなのです。

 母は村の住人になる資格を得るために、私を『神の器』として捧げたのだと言いました。もちろん、私は『神の器』となることを誇りと感じていましたが、母がそのような利己的な目的のために私を捧げたのだという事実は私を揺さぶりました。

 母に弱いところがあるのは悟っていました。それでも、母はロセウス様を心から慕い、信じていると、私は疑ってもいなかったのです。


「ごめんなさい、本当にごめんなさい……」


 母はもはやうわ言のように謝罪の言葉を繰り返すだけでした。

 そんな私たちに司教様はゆっくりと歩み寄ってきます。

 このときの私はまだ事の重大さを理解できていませんでした。村の住人の皆さんは一様に良い方たちばかりでしたが、それでも時折、「失敗」をなさることもあります。祭りの際の振る舞い酒を飲みすぎて我を忘れてしまったり、不幸な誤解でいさかいを起こし喧嘩をしてしまったり。そうしたとき、司教様は村の長として「罰」を与えることがありました。「罰」と申し上げてもせいぜいが掃除や水くみ、一番きつい罰でも数日の外出禁止がせいぜいでした。ですから、私は村の掟を破り、村の外に出てしまったことも、誠心誠意謝れば、司教様は最後には許してくださると思っていたのです。

 ですが、司教様は今までに見せたことのないような冷たい目で私たちを見下ろしていました。そして、悲哀をにじませた声でこう言いました。


「エリス……あなたを村から追放します……」




「お母様! お母様!」


 私は村の人々に無理矢理に手をひかれ、村への道を逆戻りさせられます。

 母はその場に残らされ、地面に力なく崩れ落ちていました。

 そして、私に向かって叫ぶのです。


「逃げなさい! 逃げなさい、ミリア! 器になんてならなくていい! 神様なんて信じなくていい! ただ、自分の幸せだけを考えるのです! ミリア!」


 絶叫とも呼ぶべき母の言葉は、未だに私にこびりついて離れません。

 それが私と母の最後の別れとなったのです。




 村に連れ戻された私は自宅謹慎を命じられました。

 自宅の入り口は村人が交代で見張りに着きました。


「ごめんなあ、ミリアちゃん……」


 見張りの村人たちは皆一様に申し訳なさそうな顔で私に謝ります。その謝罪はいったい何に対する謝罪だったのでしょう。私は彼らを問いただすことはできませんでした。




「明日はついに『降臨の儀』ですね」


 儀式の前日。すなわち、私の十五の誕生日の前日。私は自宅から教会へと連れられました。今日はここで一晩を過ごし、最後の穢れを落とし、身を清めるのです。

 司教様はいつも通り優しく微笑んで私を迎えてくださいました。

 一瞬、母を追ってきた際の司教様の冷たい目を思い出します。しかし、私はそれを忘れることにいたしました。考えても、どうにもならないことだと思ったからです。


「お母様のことは残念でした……」


 司教様は私の胸中を見抜いたのでしょうか。そんなことを言いました。


「彼女は敬虔な信徒ではありましたが、少し弱いところがありました。私が彼女のその弱さを正しき方向へ導いてあげなくてはならなかったのですが……」

「……司教様のせいではありません」


 あれは母の弱さです。司教様が自分を責めるようなことではありませんでした。

 もし、責められるべき人間が居るとすれば、それはきっと私です。『神の器』という大役を仰せつかりながら、身内一人の心すら救えませんでした。こんなことでは、万人を救う大業をなせるはずもありません。


「……私が『神の器』となり、皆を救います……世界中の神の御子を救います……お母様も……遠くでそれを見守ってくださると思います……」


 司教様は遥かなる青空を見上げているような優しい瞳で私を見て言いました。


「……きっとお母様も喜んでいることでしょう」




 そして、儀式は始まりました。

 『降臨の儀』。それは神を『神の器』に降ろすための儀式。

 大昔、ロセウス様はこの世界の原型を造った後、眠りに就かれました。ロセウス様と言えど、創世はそれだけの一大事であったのです。しかし、神の眠りの間、世界は少しずつ悪い方へ傾いていきました。灼熱の太陽が地面を焼き、草木が枯れ果てました。かと思えば、大空を覆いつくす風雨が、川を、海を混ぜ返しました。世界は滅びへと向かっていきました。

 それを覆したのが『降臨の義』でした。

 当時の人々は『神の器』にロセウス様を降ろし、世界に安寧をもたらしてもらったのです。それから数百年後、ロセウス様は「世界に救いは満ちた」と言い、自らの器を破壊して、天に帰ったと言われています。

 ロセウス様がこの世界を去り、幾星霜。世界には再び危機が訪れています。

 飢餓、天災、戦争。

 いくつもの困難がこの世界には満ちています。

 そして、人々は少しずつロセウス様への祈りを忘れ始めています。

 もう一度、ロセウス様にこの世界に降りてきていただくしかない。信徒たちはそう考えました。

 しかし、長い年月の間に、『降臨の儀』の仔細は解らなくなっていました。

 八方ふさがりかと思われた信徒たちに道を示したのが、司教様、ゼーア=ステルフスキ様だったのです。

 司教様は散逸した資料を収集し、綿密な分析を行いました。その結果、ついに、儀式の方式を蘇らせることに成功したのでした。

 今回の『降臨の儀』はそんな司教様は労苦の結晶でした。

 祈りの村に集まった信徒はそんな司教様にすべてを捧げると決めたものたちばかり。

 私ももちろん、その一人です。

 絶対に失敗させるわけにはいきません。

 ここに居るものたちの肩には今、この世界、すべての御子を救う責任がのしかかっているのですから。

 私は教会の中央に据え付けられた祭壇の方へ一歩ずつ歩を進めていきます。

 その祭壇の周囲には、修道着に身を包んだ村の人々が跪いています。

 教会で一緒に学んだ少女が居ました。

 共に畑を耕したおばさんが居ました。

 川から魚を取って来てくれるおじいさんが居ました。

 皆、私を育て、共に生きてきた大切な同士でした。

 そんな人々は恭しく私を見つめています。

 私は今から神にこの身を捧げます。きっと、村のみんなは私を通して、ロセウス様を見ていたのでしょう。

 私は慎重に自らの身を祭壇に横たえます。教会の高い天井が見えました。ロセウス様は一体どこからやってくるのだろう。そのお姿を私も一目見ることは叶うのだろうか。そんなことを思ったことを覚えています。

 そして、真っ白い修道服に身を包んだ司教様がゆっくりと祭壇の方へとやってきました。

 司教様は優しい慈しみの瞳で私を見つめ、ゆっくりと頷きます。

 ここから先は、もう後戻りはできません。私は身体を明け渡すために全身から力を抜きます。

 ついに我々の悲願が成就する。

 私は嬉しくてなりませんでした。

 それは本当です。

 しかし、同時に、たった一つの疑念がありました。

 それは母の最後の言葉でした。


『逃げなさい! 逃げなさい、ミリア! 器になんてならなくていい! 神様なんて信じなくていい! ただ、自分の幸せだけを考えるのです! ミリア!』


 なぜ母はあんなことを言ったのでしょうか。

 儀式が成功すれば世界中のすべての人間は救われます。

 なのに、母は『逃げなさい』と言う。

 いったい、なぜ?


(『神の器』になるべきではないの……?)


 私は今でもこのときのことを後悔しています。

 私がこんな余計なことを考えず、ただひたすらに神の降臨を願っていれば。


 ――きっと、あんな悲劇は起こらなかったはずなのに。




 そして、司教様はゆっくりと聖句を唱え始めました。


「天にまします我らが母よ。

 聖なるお言葉をよこしたまえ。

 光り輝く御姿をみせたまえ。

 我ら、そのための礎となり、道を示さん」


 聖句を唱え始める始めると祭壇を囲んでいた信徒たちが次々と倒れだしました。

 彼らは皆、神の器を支えるためにその命を投げ出したのです。

 私は『神の器』などと言われていましたが、所詮は人間です。伝承に語られる最初の『神の器』ならいざ知らず、私の中に神を降ろせば、その強大なお力に私の矮小な体躯など一瞬の内に砕け散るでしょう。

 そうならないためにはどうすればよいか。

 私の身体を強くするほかありません。

 それがこの儀式の第一段階でした。

 すなわち、祈りの村の住人の命を使い、『神の器』を補強する。

 この村の住人は始めから儀式の人柱になるために集められていたのです。

 もちろん、それはどの村人も了承済みのことでした。むしろ、敬虔な信徒は皆、こぞってこの村に来たがりました。それはそうでしょう。自らの命を投げ出し、神を支える。これ以上の喜びが果たしてあるでしょうか。

 『神のために生きる』

 それを最も素晴らしい形で実践できるのですから、当然のことでありました。

 すべての住人が倒れ伏したころ、その命は祭壇を通じて、ゆっくりと私に流れ込みます。


「……っ!」


 ――何かが入ってくる!


 私は思わず、身をよじります。

 全身の穴という穴から何かが私の中に入ってくるのです。それはあまりにも不快な感覚でした。いや、入ってきているのは、敬虔な信徒の命そのものなのですから、そのような言い方はすべきではないのでしょうが、弱い私にとっては、それはあまりにもおぞましい感覚であったのです。

 身体の中を何かがはい回っている。虫のように極小な生命体が、何十匹、いや、何百何千という単位のそれが、私の体内で蠢いているのです。


「あああああああああああああああっ!」


 私は痙攣をおこし、泡を吹き始めていました。

 もはや全身を襲っているのは不快感などという生易しいものではなく、耐えがたい激痛でした。

 私は激痛に身体を跳ね上げますが、手足は祭壇に繋がれているため、逃げ出すこともできません。

 意識を手放そうともしました。しかし、全身を石臼でひき潰すかのような激痛が私に逃避を許しませんでした。


「やめて! やめてえええええ!」


 私は思わず、そう叫んでいました。

 すぐにでも儀式をやめてくれ。

 それが無理ならせめて早く私の意識を消してくれ。

 そう心の底から祈ったのです。

 そこから先のことはよく覚えていません。これはあくまで私の身体を『神の器』にふさわしいものに組み替えるための処置です。ですから、この後に、ロセウス様に降臨していただくための儀を司教様は行ったはずなのです。

 しかし、激痛に全身をすりつぶされていた私はそのときの記憶がありません。

 ただ、村の住人たちが私の中で暴れ回る恐ろしさに耐えることで必死だったのでした。




 ほんの刹那、夢を見た。

 母は涙を流して私を見ていた。




「………………」


 次に意識を取り戻したときに目に入ったのは、いつもと変わらない教会の天井でした。

 そして、その次の瞬間に気が付きます。


 ——なぜ私は私のままなの……?


 私は身体を神に明け渡し、消えていなければならないはずなのに。


 ——まさか……


 あまりにも恐ろしい想像に身がすくみます。


 ――そんなはずはない。


 ――ありえない。


 ――あってはならない。


 私はそっと首を横に向けます。

 そこには、果たして命を使い果たし、絶命した村人たちが居ました。彼らは皆一様に同じ表情を浮かべていました。


 ――苦悶。


 目を見開き、涙を流し、何かを恨むように歯を食いしばっていました。

 ああ、なぜ一体こんなことに?

 皆、命を捧げることは了承していました。しかし、皆、神の手に優しく抱かれ、天に召される。そんな最期を想像していました。このような絶望の死が訪れると思ってなどいなかったはずです。

 私は首を反対に向けます。

 そこに居たのは一人だけ。

 司教様です。

 彼の表情は絶望と悲哀に溺れていました。頬を伝う涙は拭われることもなく、地面に滴り落ちていました。

 私たちは長い間、無言で見つめ合いました。そうして、黙っていれば、この悲惨過ぎる現実を夢にできる。そんな思いがどこかにありました。しかし、いつまでもそんなありもしない幻想に浸っているわけにはいきません。先に口を開いたのは司教様の方でした。


「申し訳ない……儀式は失敗しました……」


 それはあまりにも絶望的な言葉でした。




 村人の命は皆、私という『器』の中に入りましたが、肝心のロセウス様は私の中に降りて下さらなかったのです。

 儀式は失敗に終わりました。


「すまない……すまない……」


 司教様は何度も私に頭を下げました。

 そうしている間、司教様はずっと涙を流されていました。司教様が干からびてしまうのではないかというくらいに、その流れが止まることはありませんでした。


 私たちは二人で村人の埋葬を行いました。

 その苦痛に満ちた表情は直視に堪えませんでしたが、私はそれをあえて正面から受け止めました。それが愚かな私に対する何よりの罰であると考えたからです。物を言わぬ彼らの遺体が、何よりも雄弁に恐ろしい現実を語っていたのです。

 そして、村人たちの埋葬が済んだころ、それは初めて起こりました。


「……っ!」


 どくりと、心臓が跳ねました。全身をめぐる血流の波が、まるで嵐の河のように加速します。身体が燃えるように熱くなり、身体を何者かに無理矢理に引き延ばされているかのような激痛が走ります。


「あ……ああ……」


 今でこそ多少、自分で身体を制御できるようになりましたが、このときは、そのようなことは思いもよらないことで、ただなされるがままになり、私は苦痛で地面にのたうち回りました。

 後で解ったことですが、このとき、私の身体は生命力の暴走を起こしていました。

 『神の器』として設計され、生命力を凝縮されていながら、それを制御する意思はただの人間なのです。それは暴れ馬の手綱を赤ん坊に握らせているようなものでした。ゆえに、私の中の無限の生命力は暴走し、逆に私自身を苛んだのです。

 それでも、身体は『器』として丈夫に作り替えられていますから、命を手放すこともできません。

 地獄のような日々が始まりました。



 

 全身をすりこぎでひき潰されるような苦痛が一日中続きました。それに伴って、私の身体は醜く肥大していきます。私の中にある無限の生命力が逃げ場所を求めた結果、器である人体の形を歪めているのです。


「あああああああ……」


 私の全身は肥大し、奇怪な肉の塊へと変貌していきます。

 ある程度の大きさまで膨れ上がった後は、全身から腕や足が生えてきます。一本や二本ではありません。十本、二十本、放っておけばいくらでも生えてきそうな勢いです。

 新しい腕が生えるたびに激痛が走ります。成長痛という概念があります。幼い子供が成熟した身体へと変わるほんの一時、身体の組み代わりについて行けず、痛みを伴うことがあるそうです。私を襲った激痛ももしかしたら、それに近い概念だったのかもしれません。私の身体はあまりにも醜く成長していきました。

 何度も意識を手放そうとしました。しかし、あまりにも強すぎる痛みは、逆に忘我の世界に逃げ出すことを許しません。私はひたすらにこの苦痛に耐え続けました。




 そんな激痛の中、私にとある思いが芽生えます。

 これは罰なのかもしれない。

 儀式は失敗に終わりました。その原因は私の精神の弱さにありました。あのとき、儀式の瞬間、私はほんの少し、儀式のことを疑いました。母の遺した言葉が気にかかってしまったのです。しかし、悪いのは母ではありません。そんな言葉に縋ってしまった私自身です。

 村の皆を疑いました。

 司教様を疑いました。

 神を疑いました。

 ロセウス様が降臨なさらなかったのも当然です。このような薄汚い魂が入っていた器になぞ、決して入りたくはないでしょう。

 この地獄の責め苦はおそらくは神が私に与えた罰であり、試練なのです。

 試練であるならば、私は耐えなくてはなりません。

 私の身体はすでに私一人のものではありません。

 文字通り、村の皆の命を預かっているのです。決してあきらめて良いものではありません。

 だから、私はその責め苦を受け入れていくことにしたのです。



「……目が覚めましたか?」


 気が付くと、私は見慣れない場所に居ました。

 灯りはありましたが、薄暗い場所でした。周囲の壁は固い石でできています。そして、私の目の前には鉄格子がありました。

 その鉄格子の向こうに司教様は立っていました。司教様はかつてと変わらない慈しみ深い笑みで私を見て下さっていました。


「意識を取り戻したのですね。よかったです」


 その言葉で私は自分が元の人間の姿に戻っていることに気が付きました。自分の中で蠢く魂も今は落ち着いています。


「ミリア、よく聞きなさい。君が意識を失っていた間に起こったことについて説明します」


 司教様は、不意に真剣な表情をなさって言いました。


「ここは王都。そこにあるとある秘密施設です」

「秘密施設……?」


 それは聞きなれない言葉でした。


「ここは奇跡を研究するために作られた施設。一般人は知らない場所です」


 奇跡。それは私の耳に荘厳な響きを持って届きました。私にとっては心の底から欲しいものでした。


「この施設に教会の伝手で入れてもらいました。今日から君はこの施設で暮らし、『試練』を受けることになります」

「……『試練』ですか?」

「ああ。大変、残念なことだが、儀式は失敗に終わりました……その原因は君の心にあります」


 ――失敗の原因は私の心。

 その言葉はもちろん、私の心をえぐりましたが、同時にどこか安心してしまっている自分も居ました。ようやく、私は裁かれる。そんな思いがどこかにあったのかもしれません。


「『試練』の内容は私も知りません……私は失敗しました。ゆえに君の身柄を預かる権利を失ったのです」

「そんな……」

「気に病むことではありません。失敗は私にも原因はあるのですから。むしろ、この施設に残ることを許されただけでも温情というものでしょう」


 そう言って、司教様は鉄格子越しに私の頭をそっと撫でます。


「私は君に会う権利はありません。ですから、これがおそらくは最後の会話になるでしょう」

「司教様……」

「一度しか言わないから、よく聞いてください……」


 そして、司教様は私の目を深く深くのぞき込んで言いました。


「——あなたのことは必ず助けます」




 その日から私の『試練』は始まりました。

 一日の始まりは、私の首が刎ねられるところから始まります。肥大した身体を元に戻すためには、私は一度殺されなくてはならないのです。首がごとりと落とされる瞬間、私には大変な苦痛が走ります。刃物によって肉と肉が切り離されていく感触がはっきりと解ります。血液は滝のように激しく吹き出して、私の全身を濡らします。肉が断ち切れると次は骨です。これが大変な痛みなのです。骨というのは想像以上に固いものです。ですから、いかに刃物と言えど、一太刀で断ち切ることは難しいのです。ですから私は何度も、何度も刃物で首を叩かれることになります。一度、刃が振り下ろされるたびに喉の奥からカエルの鳴くような奇怪な声がこぼれます。私が喋ろうとしているのではありません。首の奥にあった空気が刃物に一撃によって押し出され、まるで楽器のように自動的にこのような音を漏らさせるのです。

 そうやって、首を落とされてようやく、私は元の身体を取り戻し始めます。基本的に首を起点に私の身体は再生されていきます。正確には自身の魂がある場所を起点に身体は再生するようです。ですので、やろうと思えば、別の部位の方から肉体を再生させることもできますが、なかなか再生することができず、かえって苦痛が長引くので、結局、首を刎ねてもらった方が早く苦痛から解放されるのです。

 元の身体に戻ると私は様々な『試練』を受けます。

 焼きごてを当てられたり、限界まで水を飲まされたり、腕を斬り落とされたり、目をえぐりつぶされたり。ともかく『苦痛』となるであろうことは一通り試されたかのように思います。


「これは『試練』であり、『罰』なのだ」


 新しい担当の司教様はそうおっしゃいました。

 『神の器』となることに失敗した『罪』。

 その『罪』が『罰』によってあがなわれたとき、ロセウス様は今度こそ降臨なさるのだ。そうおっしゃったのです。

 私はその言葉に縋りました。この苦痛の果て、いつか報われる日が来るのかもしれない。それだけが私に残された希望になっていきました。

 たとえどれだけ小さくても希望さえあれば、人は生きていけます。

 私はその小さな希望を大切に大切に抱きとめました。


「今日は針による串刺しだ」


「今度は魔術によって内臓を破壊してみよう」


「……切り刻まれるんだ。もう服は必要ないな」


 私は全身を苛まれ、壊され、犯されました。

 しかし、そのどれもが『罰』であるのなら受け入れました。

 それ以外に私に選べる道などなかったのですから。




 この施設に来てからどれだけの月日が流れたでしょうか。

 毎日のように絶命させられた結果、私の時間間隔は曖昧になっています。しかし、数年が経ったことは間違いないと思います。

 私の容姿は儀式の日から変わりません。

 一度死ねば、あの日の姿に私の身体はリセットされるようです。

 ですから、私は何年たっても十五歳のまま。

 時は止まったままです。

 身体の再生具合もある程度、制御できるようになりました。再生力が暴走し、苦痛を生じることも少なくなりました。それでも数週間に一度は死ななければ、全身から悲鳴を上げながら肉塊へと変わってしまうのですが、最初に比べればずいぶんとましです。

 逆に年月が経つにつれ、『試練』の頻度は減っていきました。

 もう、与える『罰』が思いつかなったのでしょうか。

 私は徐々に放置されることが多くなっていきました。



 

 もう私という存在に価値はないのでしょうか。

 最近はずっとそんなことを考えています。

 しかし、司教様はおっしゃっていました。会いには行けないが、近くに居る。必ず助ける、と。

 私はただその言葉だけにすがって、生をつないできました。




 そして、今、あなたに出会ったのです。

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