過去8「旅の終わり、そして、はじまり」

 味気のない冷たい天井。毎日、ただそれをじっと見上げる。そんな生活に俺は飽き飽きしていた。だが、こんなつまらない天井を見つめていられる時間も、あとどれだけ残っているだろうか。


「ヴァイスさん……汗を拭きますね……」


 ミリアはもはや自力で起き上がることもできなくなった俺の身体の汗を優しく拭う。だが、身体に触れられているという感覚も、もうほとんど感じられなかった。

 死が目の前まで迫っていた。


「もう……俺は死ぬんだな……」

「駄目ですよ。そんなことを言っては」


 ミリアは出会った頃と変わらない笑顔で言う。


「いつか、私を殺して一緒の墓に入れてくれるんでしょ」


 彼女が努めて軽い調子で話しているのが解る。深刻な顔をすれば、そのときが本当の最後となってしまうと思ってでもいるかのように、彼女は俺の言葉を取り合おうとしない。

 俺の身体の自由が利かなくなり始めたのは、俺の歳が三十を越したころ。若くはなくとも、さすがに老人というにはさすがに早すぎる歳だ。

 まず、手に力が入らなくなり始めた。初めの頃はただ疲労がたまっているのだろうと思った。だが、いくら休んでも力は戻っては来なかった。

 次に、足もとがおぼつかなくなり、立っていられなくなり始めた。その頃になって、ようやく自分の身体の異常に気が付いた。

 治療のできる魔術師を探す。と言っても、俺の身体の事情を考えれば相談できる相手は少なかった。それでも、伝手を辿って何とか診察してもらい、そこから得られた情報をまとめる。それによると、どうやら、俺の身体はもう老人のそれと言ってもおかしくないほどの状態だったらしい。実年齢を考えれば、異様な状態であるようなのだ。

 原因は、おそらく『呪魔』だ。『呪魔』は奪った人の命を魔力に変換し、感染者の中に蓄える。つまり、『呪魔』は本来、感染者が持てる魔力以上に強大な魔力を、感染者に蓄えさせることになる。それはたとえるなら、麻袋にとめどなく水を注ぎこんでいるようなものなのだろう。限界を超えて膨れ上がったそれは、いつか破裂してしまう。

 俺は長くない。それは他の誰よりも自分がよく解った。

 ミリアはその事実を受け止めきれなかった。


「大丈夫です」


 そう言って、優しく笑う。


「すぐに元気になりますから」


 そんな気休めの言葉で現実から目を逸らし続けていた。


 ——だが、いつまでもそうしているわけにはいかない。


「ミリア」


 俺は優しく、愛しい女の名前を呼ぶ。


「——聞いてくれ」


 彼女は俺の気持ちに、覚悟に気が付いたのだろう。張り付けた明るい微笑みの仮面を外した。


「俺はもうすぐ死ぬ」

「………………」


 彼女は泣きそうな顔で黙って、俺を見つめていた。


「おまえを『殺し』てやれなくて、本当にすまない……」

「…………う……うう」


 彼女は口元を覆い、嗚咽を漏らす。彼女にこんな顔をさせてしまったことで、俺の心は強く痛んだ。

 だが、最期に伝えるべきことは伝えておかねばならない。


「——あの子を呼んでくれ」




 ベッドの横に一人の人物が立つ。


 ――俺の息子。


 俺とミリアとの間に産まれた子供だった。

 幼いころの俺にそっくりな生意気な面をした子供だった。


「おまえは、俺の後を継いで、悪しき『呪魔』を滅し、おまえの母であるミリアを、いつか『殺して』やってくれ」


 それはこうやって、床に伏せり始める前から考えていたことだった。

 だから、俺は息子に自分の持てる技術のすべてを仕込んだ。剣の振り方から、戦闘における立ち回り方、魔物の対処法、旅をする上で必要な心構え。教えなくてはならないことはいくらでもあったが、残された時間は長くない。残りは旅の中で、自分で学んでもらおう。


「よく聞け……今日からおまえが、『ヴァイス』だ」


 旅を始めて約十年。未だにミリアの『不壊』を破れるだけの力には及ばない。

 だから――


「俺が死ぬ前に――俺の首を刎ねろ」


 俺の息子には、『呪魔』が感染していた。

 『呪魔』。これは遺伝によっても感染するらしい。いわゆる「末代までの呪い」という奴だろう。どこまでも悪辣にできた災害だ。これを造った神様はよほど人間が憎いと見える。


「俺の中にある『呪魔』をおまえに引き継ぐ。おまえもまた、自分の命が尽きる前に、自分の子に、自分を殺させ、集めた『呪魔』を引き継がせろ」


 俺はミリアを『殺す』ために何でもすると決めた。

 十年で終わらないなら二十年。二十年で終わらないなら四十年。

 自分一人で終わらせられないなら、子孫にまで。


「すまない……」


 残酷なことを言っていることは解っている。

 ひどい父親だとも思っている。

 だが、それでも俺はたとえ、世界中の人間から人非人と罵られようとも、ミリアを静かに眠らせてやりたかった。

 一緒の墓に入りたかった。


「——ごほっ!」


 喉の奥から何かがせぐりあげてくる。口元を押さえた手を見る。そこには、真っ赤な血がべったりとついていた。


「ヴァイスさん!」


 ミリアは俺に飛びつく。


「——薬を」

「——いや、もういい」


 どうやら、これが本当の最期のようだ。


「——ミリア、俺が殺してやれなくて、本当にすまなかった」

「いいえ! いいえ! 謝らないで!」


 ミリアは俺の血に濡れた手を臆することなく、掴み叫ぶ。


「あなたは私を救ってくれた。私を人間にしてくれた」


 彼女は目にいっぱいに涙をためている。


「——私に数えきれないほどの幸せをくれた……」


 彼女は目を細めて、微笑む。


「すべて、あなたがこの手でくれたもの……」


 ――ああ、そうか。

 俺はたくさんの人を殺した。そんな自分が生きていてもいいのだろうか。ずっと考えていた。

 こんな風に血に濡れた手で誰かを抱きしめていいのか、と。


「いいの……いいの……」


 彼女は優しい手つきで俺の手をずっと握りしめている。彼女の手には、俺が吐いた血がべったりとついている。だけれど、彼女はそれを厭うことなく、むしろ愛おしそうにそっと俺の手を自身の頬に寄せた。


「大丈夫よ……あなたは一人じゃない……あなたの喜びは私の喜び……あなたの罪は私の罪……私は二人で一つ……輪のようにつながっている……」


 そうだ……俺たちは繋がっていた。

 こうして出会うことは必然だった。


「だから、大丈夫。必ず、行きます。あなたのところへ。何十年、何百年かかっても、必ずあなたの元に」


 ああ――よかった。

 ――よかった。 

 自分の魂が肉体から離れようとしている。これが本当に最期。

 夢とも現実ともつかない空間で、一人の人間が近づいてくる。

 すまないな、息子よ。


 ――あとは頼んだ。


 俺という存在は呑み込まれ、消えていく。

 



 ——先に逝って、待っている。




 そうして、俺という存在は生を終えた。

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