過去5「一つの輪」

 気が付けば、太陽は天高く昇りきっていた。中空に輝く太陽はこの王都で起こった惨劇のことなど何も知らないような顔で、悠然と俺たちを見下ろしている。

 ミリアの壮絶な過去。それを聞いてまず抱いた感情は怒りだった。

 それは理不尽に対する怒りだ。彼女の話を信じる限り、彼女には非も落ち度もない。だが、彼女は痛みを伴い、永遠に再生し続ける身体になるという地獄のような責め苦を未だに受け続けているという。

 そんな理不尽が許されていいのか?

 俺は強く拳を握りしめる。

 次に抱いた感情はゼーアに対する怒りだ。

 やはり、すべての元凶はあの男だ。

 自分が多くの人を殺してしまったことも、ミリアが死ねない身体になったことも、すべてはあの男につながっている。

 燃え滾る溶岩のような怒りに俺は歯を食い縛る。やはり、あの男だけは絶対に生かしておくわけにはいかない。


「あの……」


 ミリアが心配そうな顔でこちらを見ていた。

 彼女の表情を見て、今の自分がどんな顔をしていたのかを悟った。


「いや……すまない」


 俺は一度深呼吸をしてから言った。


「色々と聞いて悪かった」

「いえ……それは構わないのですが……」


 ミリアはまるで水底を見通そうとでもするような瞳で俺の顔を見て、言った。


「大丈夫ですか……?」

「……え」

「いえ、すいません……何か、辛そうなご様子をされていたので」

「………………」


 俺は思わず、口をつぐんだ。

 辛そうな様子?

 確かにゼーアに対する怒りはあった。だが、辛いという気持ちには心当たりはなかった。


「いえ、すいません。余計なことを言いました……」


 ミリアはそれこそ辛そうな顔をして、うつむくのだった。




「俺はひとまず故郷に帰ろうと思う……」


 その日の夜、瓦礫にうずもれた街中で焚火を囲みながら、俺は言った。

 黙って火に当たっていたミリアはそっとこちらを見た。


「ずっとここに居ても仕方がないからな……」


 このとき、ミリアにはこんな風に言ったが、王都を離れる本当の理由は、追手を恐れてのことだった。理由はともあれ、俺は街を壊し、人を殺した。遠からず追手がやってくるだろう。

 殺されることを恐れたわけではない。

 むしろ、俺は殺すことを恐れた。

 自分がどれくらいの強さになっているのか、それは判然としない。

 しかし、少なくとも俺一人の力で都を一つ落としたのは事実だ。生半可な相手に殺されることはない。だからこそ、俺がまた『呪魔』に屈し、余計な死人が出るかもしれない。俺はそれを恐れたのだ。

 一方で、ゼーアを追う手がかりを探すために都に残るという選択肢もあった。だが、あれは周到な男だ。俺が見つけられるような手がかりなど残してはいないだろう。


「明日の朝、この都を発つ」


 俺はミリアに視線を送る。


「……おまえはどうする?」

「私は……」


 ミリアはそう呟いて、俯く。彼女の美しいブルーの瞳に、焚火の赤が反射していた。


「……連れて行ってもらうことはできませんか」


 彼女はか細い声で、そう言った。


「ご迷惑であることは承知しています。しかし、私にはもう故郷もありません。行く当てなどないのです。ですから……」


 俺は迷った。

 確かに少女を一人、こんな廃墟と化した街に置いていくのは忍びなかった。だが、一緒に居れば、俺にまた殺人衝動が訪れたとき、彼女を殺してしまうかもしれない。

 彼女は不老不死だ。であれば、彼女を殺すことを厭う必要はないのかもしれない。だが、そんな風に割り切れるほど、俺は、まだ達観してもいなかった。


「……一番近くの村までなら」


 俺はどうにかそんな言葉を絞り出すのだった。




 その日の夜、俺たちはそれぞれ適当な民家のベッドを借りて眠った。彼女は最後まで人の家に勝手に入ることを渋っていたが、俺が半ば無理矢理中に入れた。無人の人家の屋根を借りることくらいをためらっていては、これからの先の旅路が思いやられるからだ。

 彼女は今、隣室のベッドで眠っているはずだ。


「………………」


 なぜ彼女の同行を許可したのだろう。

 本気でもう誰も殺したくないのであれば、俺は誰ともかかわりを持たず、今すぐにでも人気のない山奥にでも籠った方がいいはずだ。

 彼女はゼーアにつながる希少な手がかりだ。彼女を手元に置いておけば、あの男が何らかの行動を起こす可能性がある。そういう打算もある。

 だが、自分の本音はそんなところにないことは明らかだ。

 俺は誰かを救いたかった。

 いつかゼーアに向かって語った自分の言葉を思い出す。

 かつてロアが俺を拾い、育てたように、自分が背負った罪の大きさに押しつぶされないようにするためには、「誰かを救う」という「救い」が必要だった。誰かに手を差し伸べている間だけは、まだ自分がこの世界に居ても良いのだと思えたから。

 だが、自分にいったい何ができるのだろう。

 この俺の手は血で汚れている。

 こんな血塗れの手で、誰かの手を握ることなど、本当にできるのだろうか。




 明朝、俺たちは王都を出発した。

 食料など必要最低限の旅支度は、壊れた民家から失敬した。盗品であることはミリアには告げなかった。彼女はきっと気にするだろうと思ったから。

 馬が手に入ればよかったが、あいにくと馬は一匹もいなかった。おそらくは王都の壊滅騒ぎですべて逃げ出してしまったのであろう。俺たちは徒歩で移動することにした。

 俺は王都のある場所を正確に知らなかった。それはミリアもまた同様だった。二人ともほとんど拉致同然にこの場所に連れてこられていたからだ。それでも、自分の故郷、すなわち、ロアと過ごしたあの隠れ家のある方向くらいは見当がついたので、俺はその方向に進路を取ることにした。

 歩いている間、俺たちは無言だった。

 いったい何を話せばいいのかわからなかったからだ。

 そこにあったのは気まずい沈黙だった。彼女の方も似たような気持ちになっていることは察せられた。だけれど、俺はそれを打開する術を見出すことができずにいた。

 俺たちは黙々と歩を進めた。




 適当な場所で野営を行う。

 何とか手に入ったぼろ布をテント代わりに木々の間にロープで渡す。これで雨露は防げる。後は毛布で身をくるみ、火事にならぬように用心しながら、焚火を起こすことにする。どこかの町でもう少しましな装備を整えなくてはならない。まだ、旅路は長いはずだから。

 そうなると俺たちは自然、身を寄せ合って眠ることになる。

 彼女は横になるとすぐに寝息を立て始めた。やはり、慣れぬ旅で疲労がたまっていたのだろう。ここまではほとんど一日中、歩き通しだったのだ。無理からぬことだ。

 それはまた俺も同様だった。身体的な疲労はほとんどない。どうやら、『呪魔』による身体強化は体力面にも及んでいるようだ。これなら、一晩中戦い続けることだって不可能ではないだろう。

 だが、慣れぬ旅路と気づまりな道行きは確実に俺の精神を削っていた。そんな磨耗した精神を回復させるためにも、俺はすぐにでも眠ってしまいたかった。

 しかし、隣で少女が眠っていて平然と眠れるほど、俺は餓鬼でも大人でもなかった。

 毛布に身をくるんだミリアは寝息を立てて、呼吸で胸を上下させていた。俺はそんな様子を直視できず、目を逸らす。

 どうにか高ぶりを静め、彼女に背を向けて、横になる。

 いったい、彼女は俺のことをどう思っているのだろう。

 ふと、そんなことが気にかかった。

 彼女からしてみれば、俺は素性の知れない怪しい男だ。きっと、他にすがる相手もいないために、俺の旅路に同行しているのだろう。どこかで別の頼れる相手を見つければ、そちらに助けを求めるはずだ。

 そう考えると、彼女と過ごす時間は、そう長くないのかもしれない。

 その考えは俺を安堵せしめた。このような気まずい時間はそう長くは続かないのだと思ったから。

 だが、同時にちくりと胸が痛んだことも事実だった。

 俺と彼女は仲間なのではないか。そんな思いがどこかに芽生え始めていたからだ。

 俺と彼女は自分が原因で多くの人の死を招いた。

 そこには、ゼーアという共通の敵がいる。

 俺たちは互いに手を取って、あの男を打倒すべき同士なのでは。そんな思いが鎌首をもたげ始めていた。

 だが、駄目だ。

 俺と彼女の間には決定的な違いがある。

 自分の手を汚したか、否か。

 確かに俺たちは被害者という意味では共通しているかもしれない。

 だが、俺は確かにこの手で多くの命を奪った。

 原因は他にあったとはいえ、俺が殺人者であることには代わりはない。

 俺は薄汚い人殺しだ。

 それに対して、彼女は純粋な被害者だ。

 しかも、未だに痛みという罰を背負って生きている。

 そんな彼女に仲間意識を持つというのは、いかにも身勝手というものだろう。

 やはり、俺は早急に彼女から離れるべきだ。俺のような殺人者と一緒に居れば、いつ彼女に被害が及ぶか解らない。

 俺はそんなことを考えているうちに、いつしか眠りに落ちていた。



 

 夢を見た。

 どこか真っ白い空間。

 そこで俺は誰かの首を絞めていた。

 俺の腕に込められた力は確実にその誰かの命を削って行く。

 そして、その誰かの身体が跳ね上がる。絶命の苦しみが身体に緊張をもたらしたのだろう。しかし、次の瞬間には、その人物の身体はだらりと力を失う。命の灯が消えたのだ。

 俺はゆっくりと立ち上がり、その人物の顔を見る。

 それは他ならぬミリアだった。




 次の日も俺たちの旅は続く。

 険しい山道を彼女を助けながら登っていく。まだ村は見つかりそうにない。

 その日は前日以上に俺は寡黙だった。彼女に合わせる顔がなかったからだ。

 あれは夢だ。それは解っている。だが、そうやって割り切ることはできそうもなかった。

 一刻も早く、彼女から離れなければ。




 そのような思いとは裏腹に、彼女を預けられそうな適当な村落は見つからない。選んだ進路が悪かったのだろうか。確かにこのあたりの山地は、定住するには、あまり向いた場所とは言えなかった。反対の平地を目指せば、今頃適当な集落についていただろうに。

 その日も昨日と同じように俺たちは身を寄せ合って眠る。

 俺はまた煩悶とした思いを抱えながら、無理矢理に眠りに就いた。




 その日もまた夢を見た。

 昨日と同じ彼女を絞め殺す夢だ。

 握った首の肉の感覚が伝わってくるほどに生々しい夢だった。




 それから数日、そんなことが続いた。

 日中は無言で山を越え、夜は彼女を殺す夢を見る。

 そんな日々を過ごすうちに俺の中にある獣の衝動が日に日に強くなっていくのが解る。ふとした拍子に彼女を視界に入れたとき、彼女の首に手が伸びそうになる。夢の再現を、そう思ってしまうのだ。

 そうした思いは日一日と強くなり、徐々に俺の脳髄を塗りつぶしていこうとする。暗黒の感情は色濃い。たった一滴でも俺のすべての色を塗り変えてしまう。

 俺が獣に堕ちるのは時間の問題だった。



 

 その日の夜、俺は半ば衝動的にテントを飛び出した。

 一緒に居れば、彼女を殺してしまう。そう直感したからだ。最後に残った理性が、俺の足を動かした。

 離れた川のほとりまでやってきて、そこで膝をつく。

 焼けるような何かが自分の胸の内から全身に広がっていく。その熱が、俺の手を、足を、頭を焦がす。自分の中にある理性の灯は、今、完全に立ち消えようとしている。

 最後に人を殺してからおおよそ十日。それが飢えを抑える限界というところか。施設に居た頃は記憶にはないが、ほぼ毎日、人を殺していたらしいから、それで、この衝動は抑圧されていたらしい。こんな激情は、山中の村で初めて人を殺した日以来だった。

 俺はナイフを取り出すと、自分の手首を切り始めた。

 これが自分の衝動を抑える最終手段だった。そうやって熱を抜くことでしか、俺は自分を止められなかったのだ。

 このまま、首を掻き切りたい。

 そう思ったのも嘘ではない。

 しかし、そうしようとすると、手は止まる。それはまるで、見えない誰かに腕を強く握られてでもいるかのように、身じろぎ一つできなくなるのだ。魂そのものに静止がかけられているとでも言うべきだろうか。首に向けたナイフの切っ先はほんの少しも動こうとはしないのだ。

 昔、ロアが言っていたことを思い出す。死のうと思っても死ねなかった。彼女はそう言っていた。どうやら、『呪魔』に感染したものは、自害はできぬらしい。理屈は解らない。だが、意に添わぬ殺人を行わせる呪いだ。感染者の行動を縛るくらいは容易だろう。どこまでも悪辣極まりない仕組みだ。

 自分の手首を濡らし、荒い息をする。

 おさまれ、おさまれ。

 衝動が消えることはない。だが、せめて、少しでも弱くなれば。そんなことを考える。

 そのときだった。

 背後から草をかきわける音が聞こえる。

 俺はとっさに振り返り、身構える。


「大丈夫ですか……?」


 そこに立っていたのはミリアだった。

 なぜ……?

 俺の顔を見て、彼女は言った。


「目を覚ますと隣にヴァイスさんが居なかったものですから……」


 彼女は俺を探して、ここまでさまよい出てしまったのだ。

 俺はとっさに血に濡れた手首を隠す。彼女に入らぬ心配をかけぬためだ。


「あ、血が……!」


 だが、俺の願いもむなしく、彼女は俺の手の異常に気が付く。


「早く手当てを――」

「近づくな!」


 俺は思わず、声を張り上げていた。

 彼女の瞳が恐懼に染まる。


「近づくな……」


 俺は震える声を絞り出す。


「近づいたら、きっと俺はおまえを斬ってしまう……だから、近づくな……」

「そんなこと――」

「——俺は人殺しだ」


 その言葉を口にしたとき、俺の胸にかすかな痛みが走った。


「人殺しなんだ……」


 一度口にすると、俺の言葉は、まるでずっと水を溜めていた堰が切れたかのように喋り出す。


「あの都に居た人々を殺したのは俺なんだ。全部俺がやった。兵士も、騎士も、罪なき民衆も。全部、全部、俺が殺した。殺したんだ。俺がこの手で。剣を握って、次々と首を刎ねた。まるで果物でも切るみたいに、次から次から切っていって、嘘みたいな血しぶきが舞って、辺りは血の霧で満ちるんだ。鉄臭い血の匂いがこびりついてとれなくなる。俺の身体は血にまみれている。まみれているんだ」


 俺は跪き、空を仰いだ。


「俺は人殺しなんだ……」


 星の宝石をばらまいたような夜空。まるで、空に空いた穴みたいな丸い月が俺を見下ろしていた。


「だから、俺に近づくな。俺はおまえも――」


 俺がそう言っている最中だった。

 俺は暖かな何かに包まれる。

 俺はそっと目線を下ろす。

 すぐ目の前に、ミリアがいた。

 俺は彼女に抱きしめられていた。

 まるで母親が幼子を抱きしめるように優しく彼女は俺を抱く。彼女の小さな身体がとても大きく感じる。優しく柔らかな温もり。

 俺は呆然とする。


「大丈夫ですから」


 彼女は子守歌でも歌っているような声色で言った。


「私は以前から貴方のことを知っていました」

「……え」


 それは意外な言葉だった。


「知っていたと言っても、司教様のお一人から同じ施設に居る他の方々について伺ったときに小耳に挟んだ程度の話です。ですけれど、貴方の症状のことは、おおよそのことは知っています」


 ミリアはゆっくりと言葉を紡ぐ。


「大丈夫です。あなたは悪くありません。……あなたがあの都の人々を殺めてしまったことは残念なことです……悲しいことです……それでも、あなたが悪いわけではありません」

「……何を言って」

「……辛かったですよね」

「………………」

「あなたの気持ちが解るなんて言うつもりはありません。あなたの苦しみは、あなただけのものです。他の誰も、その苦しみを解ることなどできないでしょう。それでも、その重荷を少しでも減らせるように支えることはできると思います……」


 俺は何も言えなくなる。

 きっと、他の誰かに同じことを言われても、俺ははねのけていたのではないかと思う。知ったような口をきくなと声を荒げていたかもしれない。

 でも、ミリアだったから。

 同じ人の命を奪ってしまった苦しみを持つ彼女だったから。

 俺は彼女にされるがままになる。


「……私はあなたを許します。きっと、あなたを恨んだり、呪ったり。そんな悲しい思いを抱いてしまう方々は居ると思います。それでも、私だけはあなたを許します」


 俺はぽつりとつぶやく。


「……なんでだ」

「………………」

「なんで、おまえは俺にそんな優しい言葉をかける……」


 彼女からしてみれば、俺は自分を殺すかもしれない危ない奴だ。たった数日、一緒に過ごしただけの間柄。俺を救わなければならない義理など少しもありはしないのだ。なぜ、彼女はこんな風に俺に寄り添ってくれるのか。

 ミリアは俺の目を見て、呟く。


「なぜでしょうね?」


 彼女の瞳は潤んでいた。


「でも、放っておけないんです。きっと、私とあなたは繋がっていた。そんな思いがどこかにあるんです」


 彼女は言う。


「私たちは苦しみを背負っています。あなたは殺す苦しみを。私は生きる苦しみを。それは正反対だけれど、だからこそ、きっと繋がっている。それはまるで、輪のようなものなのだと思います。それはきっと運命とも――」


 そして、彼女は真剣な目をして言う。


「——私を殺してください」


 俺は思わず、息を呑む。


「私は何度でも生き返る無限の命を持っています。ならば、あなたの中の衝動を抑えるために、私の首を刎ねても問題はありません。私は生き返ります」

「そんなことできるはずが――」

「——お願いです」


 それは彼女が初めて見せる強いまなざしだった。 


「すでにお話したように、私の身体は放っておけば常に再生を続けます。今だって、私の身体は再生を続けています。服に隠れていてわかりませんが、私の全身から腕が生え始めています。見えない部分の体内でも、細胞が増殖して臓器が数を増やしています。このまま続けば、またあのような肉塊になり果てるでしょう」

「そんな……」


 初めて会ったときの彼女の姿を思い出す。あまりにもおぞましい姿。また、あんな身体になってしまうというのか。


「私の身体は一度死ねばリセットされます。逆に言えば、死ぬ以外に元の状態に戻る術はないのです。肉塊となっているときは地獄のような痛みを味わいます。ですから、私を殺してくださることは、むしろ私の利益でもあるのです」

「………………」

「お願いします。どうか私を『殺して』ください」


 『殺す』。その言葉の重みが再び俺の肩にのしかかる。

 本当にいいのか?

 迷いは消えない。だけれど、自分の中の獣はもう抑えがたい。一瞬でも気を抜けば、獣は檻を破り、外に飛び出すだろう。それを抑えるためには、餌を与えるしかない。殺しという名の餌を。

 俺は再びナイフを握る。

 それを見て、彼女は淡く微笑む。そして、目を細めて、ゆっくりと頷いた。

 俺はもう一度強くナイフを握る。


 ——せめて苦しませぬように


 俺は風よりも速くナイフを振るう。

 彼女の首はゆっくりとずれて、滑り落ちようとする。

 俺はそれを優しく、優しく、抱きとめた。

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