過去2「先生」

 ロアの死から数日、俺は例の孤児院に連れ戻されていた。

 ロアの遺体の側で呆然と座り込んでいた俺を院長が連れ帰ったのだ。ロアが言っていたように院長は彼女の昔の馴染みであったらしく、おおよその事情も知っていたようだ。だから、彼は何も言わず、ロアの埋葬を行い、俺を連れ帰った。

 それから俺はただ漫然と日々を過ごしていた。

 一日中ベッドに横たわり、黙って天井を見続けた。今のこの暮らしの方が夢の中の出来事で、現実の俺はまだロアと共にあの隠れ家で暮らしている。そんな益体のない妄想に浸ることで何とか自我を保っていた。

 夜になると夢を見る。俺が暮らしていた村が焼かれる夢だ。村人たちは次々に殺されていく。村の建物は焼き払われ、壊されていく。それをやっているのはロアだ。俺の第二の母親とも言える彼女だった。俺はなぜか手に短剣を持っている。気が付くと次の瞬間、俺の短剣はロアの胸元に深々と刺さり――

 そこで目が覚める。

 自分の手を見る。そこには短剣などはなく、もちろん血に濡れても居ない。そんな様子を見て、俺は落涙する。その涙の意味は自分でも判然としない。安堵なのか、後悔なのか。ともかく、俺はただひたすらに泣き続けた。

 そんな日々に変化が訪れる。

 俺が水を求め、夜中に井戸の側にやってきたときだった。


「おお、ヴァイス。調子はよくなったかい?」


 長い白ひげを蓄えた院長は、年を重ねたものだけが出せる柔らかな笑みで俺を見た。この人は俺が血に濡れていた現場を見た後でも柔和な態度を少しも変えようとしない。だから、俺はこの人のことはそれなりに信用していたし、ある程度心を開いてもいた。

 だが、その日、院長を見て、俺に訪れた感情は――

 ——殺す


「――ヴァイス?」


 院長のいぶかしんだ言葉で我に帰る。

 ——俺は今一体何を考えていた?

 俺はなんでもないとだけ言って、自分の部屋へ駆け戻った。

 俺の中で何かが蠢きだしていた。




 その日以来、俺の中である感情が強くなっていく。

 ――殺人衝動。

 出会う人、誰もを殺してやりたい、命を奪ってやりたい。

 そんな気持ちがまるで爆発でも起こしたみたいに不意にやってくる。

 どす黒い狂気の奔流が俺の自意識を塗りつぶし、俺という存在を獣に変えていく。

 気が付けば、相手の首に手を伸ばしかけていることさえあった。そんなとき、俺は自分で自分の手を抑えながら、その場を後にする。一人になれば、衝動は少しずつ紛れていった。

 だが、それでも抑えきれなくなったときは、自分の身体を傷つける。腕をつねったり、引っかいたり、それでも止まらなければ道具を使う。痛みは俺を元の人間へと引き戻してくれる。その瞬間だけが、心から安堵できる時間になっていく。

 誰に言われるでもなく、気が付く。

 これはきっとロアに訪れた症状と同じだ。

 ロアはいつしか殺人衝動というものを抑えられなくなっていき、俺が居た村を滅ぼした。そして、他者を傷つけることを防ぐために、自分自身を切り刻んでいた。

 確証はない。だが、状況を見るに、自分がロアと同じ状態になってしまったことは明らかだった。

 そのことを認めたとき、最初に訪れた感情は他ならぬ恐怖だった。

 獣と化したロアの姿を思い出す。このままではいつか自分もああなってしまう。

 そして、罪もない人々を殺す殺人鬼になってしまう。

 それが恐怖でなくてなんであろうか。自分は傭兵になろうと思っていた。だから、いつの日か誰かの命を奪わねばならない日が来ることは覚悟していたつもりだ。だが、それは責任と矜持を持った殺しだ。狂乱と歓喜に任せ、殺し尽くす。そんな自分を看過することなどできようはずもなかった。

 次に考えたことは、これでロアの身に起こった謎を解明できるのではないかということだ。自分がロアと同じ何かに憑りつかれたということははっきりとしている。ならば、自分に起こっている出来事を調べることで、ロアの身に起こったことの意味がわかるのではないか。そう思ったのだ。

 だが、そんな小さな希望は、また人を殺してしまうかもしれないという大きな絶望を前にしてはあまりに無力だった。

 俺は今まで以上に一層に部屋の中に籠り続けた。




「ヴァイスよ、部屋に入れてもらっていいかね?」


 そんな日々が数日続いたある日、ついに院長が俺の部屋へとやってきた。俺はひきこもり、食事すらしていなかったから、院長もさすがにこれ以上、そっとしておくわけにもいかないと考えたのだろう。


「……やめろ……入ってくるな」


 俺は乾ききった喉から細い声を出す。

 今、誰かと顔を合わせれば、きっと――


「せめて水だけでも――」


 そう言って、院長は鍵を開け、俺の部屋の中に――




「ヴァイス……おぬし……なぜ……」


 院長の声で俺は我を取り戻す。

 部屋の中には散乱した食事とこぼれた水。

 そして、真っ赤な血。まるで燃え盛る炎のような鮮血が、床に点々とした模様を描いていた。

 俺が自らの爪で院長を切り付けたのだ。

 腰を抜かした院長の腕から赤い血が滴り落ちていた。

 俺はその光景を見た瞬間、走り出した。わき目も振らず、ただひたすらに建物の外を目指した。廊下で誰かの姿を認めそうになったが、自分で自分の顔をはたいて、無理矢理に目を逸らした。そうでもしなければ、再び、俺は自我を失い、人を殺しつくす怪物へと堕ちる。そんな確信とも言える予感があった。

 俺は孤児院を飛び出した。



 

 数時間後、俺は山の中に居た。

 はっきりとした考えがあったわけではない。ただ、ひたすらに人が居ない方へと走り続けた結果、山にたどり着いたのだ。鬱蒼と生い茂る木々が俺を見下ろしている。そんな木々すらも俺を責めているような気がして、俺は思わず目を瞑る。

 数日、飲まず食わずだった身で、走り続けた結果、俺は一歩も動けないほどに衰弱していた。

 このまま、死ぬのか?

 そんな考えが頭をよぎる。

 構わない。

 そう思った。

 誰かを殺してまで生きたいとは思わない。

 このまま眠るように死ねるなら、化物の自分の最期としては上等すぎるくらいだ。


 ――このまま死のう


 そう考えた次の瞬間、俺の頬から、つと涙がこぼれ落ちていた。

 俺はなぜ泣いているのだろう。

 そんなことを考えながら、俺はそっと意識を手放した。




 ――何が起こった?


 次の瞬間、我を取り戻した俺の前にいたのは、床に横たわっている女性だった。初め女性は水たまりの中で倒れているのかと思った。だが、すぐに気が付く。それは水ではない。真っ赤な血だ。まるで作り物の絵の具のように赤いそれは、床を血だまりに変えていた。

 恐る恐る自分の手を見る。

 自分の両手は真っ赤に染まっていた。


 ——俺がこの人を殺したのだ。


「うあ……ああ……」


 まともな声さえ出すことはできない。

 血の独特の鉄臭い匂いが部屋の中に充満していた。

 嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ。

 認めたくはなかった。自分が殺人鬼になってしまったなどという事実は。

 絶対に認められることではなかった。

 だが、物言わぬ死体が何よりも雄弁に語りかけてくる。


 ――おまえが殺した。


「うわあああああああああああああああああああああああああっ!」


 天に届くほどの絶叫。

 その後のことは記憶にない。




 後から聞かされた話をまとめるとこういうことになる。

 俺は山の中で飢えと疲労のために意識を失い、倒れた。それを見つけた人が居たのだ。その人物は俺を自分の住む村へと連れ帰り、介抱した。意識を取り戻した俺は、もう俺ではなかった。俺は自分を助けてくれた恩人を殺したのだ。




「化け物め!」


 次に自我を取りもどしたとき、俺が見たのは、自分の首元に突き付けられた剣だった。

 俺は思わず、息を呑む。

 俺は身じろぎ一つとることができない。十字架に張り付けられたかのような姿勢で指一つ動かせなくなっている。

 きっと、これは魔術だろう。魔術の力によって、俺を無理矢理抑えつけているのだ。

 魔術についてはからっきしなので、これがどれだけの力量を持った魔術なのかは判断がつかなかった。

 俺の首に剣を突きつける鎧を来た男。鎧の胸元に刻まれた印に目をやる。

 光を掴む掌の図。

 これは、グロリア王国の国章。つまり、彼はグロリアの騎士なのだ。

 グロリアの騎士は長い金の髪を結んだ伊達男であったが、その表情からは敵意と憎悪が見て取れた。


「貴様、自分がやったことの自覚はあるか?」


 その騎士は、まっすぐに俺を睨んで、そう問うた。

 俺は魔術で張り付けにされているせいで、目を逸らすことすら許されなかった。

 俺はすでに擦り切れ、つぶれた喉から嗄れ声を絞り出す。


「俺は人を殺したのか……?」


 騎士は俺から目を逸らすことなく、まっすぐにこちらを睨みつけながら、自分の後ろを指さした。その瞬間、俺は目線だけでその先を追う。

 その先に広がっていたのは地獄だった。

 かつて、自分の村で起こった悪夢が明滅する。

 そこにあったのは、死体の山と焼き払われた村の残骸だった。

 これを……俺が……?

 そう自覚した瞬間、体内から何かがせぐりあげてくる。


「うっ!」


 次の瞬間、俺は胃の内容物をぶちまけていた。酸っぱいすえた匂いが口内に広がる。ここ数日、何も口にしていなかったため、ほとんど何も出るものなかったのだが、俺の吐き気は収まらず、俺は涙を流しながら、胃液を吐き出し続けた。


「……はあ……はあ」


 荒い息をする。意識が朦朧とする。今すぐにでも意識を手放したかったが、そうしたが最後、俺はまた人を殺してしまうかもしれない。だから、気絶することさえできない。

 どうしてこうなってしまったのだろう。

 俺が一体何をしたというのだろう。

 神よ、なぜ、俺にこのような試練を与える。

 生まれてこの方、神など信じたこともなかったが、この瞬間だけは神を憎んだ。


「その様子……やはり、感染者か……」


 騎士の男はそう言った次の瞬間、身体を縛り付けていた力が不意に抜ける。磔の術が解かれたのだ。


「うっ……」


 地面に倒れこんだ俺に今度は見えない縄のようなものが巻き付く。これも魔術だろうか。


「可哀そうだが拘束を解くわけにはいかない。次、いつ発作が起きるかわからんからな」


 男は自分の腰に下げていた袋から水筒を取り出すと、俺にそっと水を飲ませてくれた。

 それによって、一息ついた俺に向かって言う。


「おまえを王都の研究施設まで連行する」




「初めまして」


 俺は縛り付けられたまま、馬で運ばれ、はるばる王都まで連れてこられた。そこから先、俺は目隠しをされた。だから、自分がどこに運ばれているのかもわからなかった。そして、次に目隠しが取られたとき、俺の前に居たのは、先ほどの騎士とは別の人物だった。


「私の名はゼーア=ステルフスキ。この秘密施設の研究員です。我々は君を歓迎します」


 ゼーアと名乗った男は、真っ白いローブのようなものを羽織っていた。年の頃は二十台といったところだろうか。青く長い髪に怜悧な瞳。一見するとまるで、生真面目な学校の教師か司祭のような風貌の男だった。


「秘密施設……研究員……?」


 どちらも聞きなれない言葉だった。

 ゼーアは自分の前に悠然と立っていた。対して、俺は椅子に座らされ、魔術で縛りつけられていた。相変わらず、身じろぎ一つとることはできない。


「はい、ここは君のような症状の人々を保護するための施設です」

「俺のような……?」


 ここに来て、ようやく自分に殺人衝動が起こっていないことに気が付く。先程、騎士に連行されている間もそうだった。

 予想だが、先ほど、多くの人間を殺したことで一時的に衝動が収まったのかもしれない。食事をすれば空腹が収まり、睡眠をとれば寝不足が解消されるのと同じ理屈だろうか。

 だが、そうした衝動が消えたわけではないことは解る。

 飢えれば、きっとまた俺は人を殺そうとするだろう。

 俺は問う。


「俺はいったいどうなってしまったんだ……?」


 俺は知りたかった。自分がいったいどんな化け物となってしまったのか。それを知らなければ、何も始まらなかった。

 俺の言葉を受けて、ゼーアは真剣な表情で答える。


「あなたに起こった殺人衝動を起こす症状のことを、我々は『呪魔』と呼称しています」

「『呪魔』……?」

「要するに呪いの一種と捉えてもらうのが、一番楽な理解かと」


 呪いという概念そのものは知っている。魔術師が敵対する相手を操るために使う不可視の術。だが、俺の知る限り、呪いというのは、人の気分を害したり、精神に不均衡をもたらすというのがせいぜいで、人を意のままに操ったり、ましてや、人を殺させるなどという大仰な真似ができる技ではなかったはずなのだが。


「もちろん、普通の呪いではありません。特別製の呪いです。ですから、我々はこれを通常の呪いとの区別のため、仮に『呪魔』と呼んでいるのです」


 ゼーアの言葉を聞いて、俺は考える。


「その口ぶりだと、俺以外にも居るのか、感染者は」

「……はい、残念なことですが」


 ゼーアは言う。


「『呪魔』の発生が我が国で初めて確認されたのは、およそ一年前。とある村で起こった虐殺事件がきっかけです。感染者は八歳の子供。驚くべきことに、八歳の子供が十五人もの村の大人を殺害したのです」

「………………」

「これは君も自覚しているかもしれませんが、『呪魔』の感染者は身体能力が異常に向上します。魔力も爆発的に増大し、魔力を使った戦闘が可能になります」


 ロアを殺した日のことを思い返す。確かにロアの身体能力はおおよその人間を超えるものへと変貌していた。また、俺自身もあれだけの人を殺害せしめるほどの力を持っていたとは思えない。ならば、『呪魔』そのものに戦闘力を向上させる力があるという考えは当たっているだろう。


「次に起こった事件は、その八歳の子供を殺した村の男性が起こしたものです。『呪魔』は感染者を殺した人間に感染する性質があるのか……もしくは、死んだ感染者の近くに居る人間に感染するようです。この男は、五十五人もの村人を殺した末にようやく取り押さえられました」


 やはり、そうなのか。

 『呪魔』とやらの感染者を殺した人間もまた『呪魔』になる。

 俺はロアを殺したから、感染した。ロアは傭兵だ。戦場で誰かを殺したこともあっただろう。きっと、ロアは戦場で『呪魔』に感染したのだ。


「こうした事件が国内で散発しました。ゆえに、この施設は感染者を捕らえ、保護することにしたのです」


 俺はその言葉を聞いて、考える。


「……ということは、この施設そのものは昔からあったのか」

「そうです」


 ゼーアは平然と首肯する。


「ここはグロリアの魔術研究施設です。『魔術革命』以来、魔術は気休めのまじないから生活になくてはならないものに変わりました。その魔術を研究するために作られたのが、この研究施設です」


 ゼーアは俺の目をまっすぐに見据える。


「魔術とは人を幸せにするために存在するものです。私はこの研究施設の一員として、『呪魔』の被害者を魔術で救いたいと思っています」


 俺は彼から目を逸らせなくなる。


「大丈夫です。あなたは何も悪くありません。あなたは私が救います」


 そう言って、ゼーアは優しく俺に微笑みかけた。それはまるで親が泣きじゃくる幼い子供を見つめるかのような表情。

 それは不意打ちだった。

 彼の言葉を聞いて、俺の中にあった何かが崩れた。まるで張りつめていた糸がぷつりと切れたかのようだった。

 気が付くと俺は滂沱の涙を流していた。

 涙はあふれ、止まらない。


「う……うう……」


 ずっと死のうと考えていた。

 化け物に堕ちた自分に生きる資格などあるはずがない。速やかに命を断つことだけが、俺に許された最後の償いだと思っていた。

 だけど、本当に死にたかったわけではなかったのだ。

 助けてほしかった、救ってほしかった。

 俺が悪いんじゃないと誰かに言ってほしかった。

 俺は本当は救いを求めていたのだ。


「う……わああああああっ!」


 俺は子供のように声を上げて、泣きじゃくった。

 そんな俺をゼーアは優しい目で見つめていた。




 それから、俺の研究施設での暮らしは始まった。


「不自由をさせて申し訳ないのだけれど、君にはここで暮らしてもらいます」


 ゼーアは申し訳なさそうな顔で、俺をとある部屋に入れた。周囲は堅牢な石造りで、窓一つない。唯一の出入り口である扉には厳重な鍵がかかっていた。それはまさに独房と呼んで差し支えないような部屋だった。


「こういう部屋でなければ、発作が起こったときに君を抑えきれないからね」


 それは妥当な考えだったとも思ったし、むしろこういう部屋の方が自分にはふさわしい。そういうふうに思ったりもした。


「そして、本当に可哀そうだとは思うのだが、毎日この薬を飲んでもらいます」


 ゼーアは俺に向かって瓶から出した一粒の薬を差し出した。


「これは……?」

「これは最近になって開発された魔力抑制剤です」

「魔力抑制剤……?」


 ゼーアは言う。


「『呪魔』による殺人衝動は魔力の暴走によって起きることが解っています。だから、この薬によって魔力を抑えれば、発作を抑制できるのです」

「そんなことが……?」


 これさえあれば、俺はもうあんな化け物にならずに済むのか……?


「だが、問題も多い。まず、これを服用していたからといって、発作を完全に抑え込むことは不可能です。強い感情や衝動に誘発されて場合も発作は起こる。だから、これはあくまで気休めの効果しかない」


 やはり、そう都合よくいくものではないらしい。


「あと、もう一つ。この薬には重篤な副作用がある」

「副作用?」

「これを服用すると猛烈な眠気に襲われ、ほとんど起きていることができなくなる」


 ゼーアは説明を続ける。


「これを服用すれば、一粒でおおよそ丸一日の間、眠り続けることになる。だから、これを毎日服用するとすれば、一日の間に活動できる時間は一時間にも満たないだろうね……」

「そんな……」


 朝起きて、薬を飲み、また眠る。そんな生活を送らねばならないというのか……?


「可哀そうだとは思う……。だが、少なくとも眠り続けている間は発作を起こさないで済むという利点があるともいえる」


 確かにそうだ。さすがに、眠った状態で人を殺すなどということはありえない。そういう意味では、その副作用自体も、実は利点とも考えられるかもしれない。

 ゼーアは真剣な面差しを崩さずに話し続ける。


「もちろん、一生そのままにするつもりはない。我々は日夜、呪魔の研究に励んでいる。数年の間には呪魔を根絶する方法を見つけるつもりです。この薬による処置は、それまでの応急処置であると思ってほしい」

「………………」

「受け入れてはくれないかい?」


 俺は一瞬の逡巡の後に言った。


「……わかった」


 元より俺に他に選べる選択肢があるはずもなかった。何よりも大事なのはこれ以上を、人を殺さないことだ。狂乱の獣に堕ちないことだ。ゆえに俺はゼーアの提案を承諾した。


「……すまない、ありがとう」




 それから、俺の独房での日々が始まった。


「やあ、ヴァイス、今朝の調子はどうだい?」


 朝、目覚めるとすぐにゼーアがやってくる。日に一度の食事を取りながら、小一時間ばかり彼と話をする。

 一日の大半を眠って過ごす俺にとってゼーアと話すこの時間だけが、唯一人間らしい活動の時間であった。

「最近、研究施設の近くにも花が咲き始めたよ」だとか、「だんだん、暑くなってきたね」といったような世間話をかわしたり、「魔術というのは、魔力を式によってくみ上げることで発動する」だとか、「魔力は実体をもたないが、それを別の物質に流し込むことで物質を強化することができる」というような講義をしてくれたりした。

 俺はいつしかゼーアを「先生」と呼ぶようになっていた。


「先生は、なんで俺にこんなに良くしてくれるんだ?」


 俺がそう尋ねると、「別に普通に接しているだけですけどね」と前置きした後に言った。


「まあ、強いて言うなら、その方が面白いからですかね」


 彼はどこかはにかんでそう答えた。


「私はね。色々なことを知りたいんです。魔術の研究をしているのもそういう理由です。知らなかったことを知る。そこに喜びを見出す、そういう人間なんです」


 そう言って、彼は俺の方を見る。


「だから、私はいろいろな人と話すのが好きです。人は誰でも自分だけの世界を持っています。人と話せば、自分が知らなかった世界を知ることができる」

「………………」


 自分だけの世界。こんな俺の中に、誰かを面白がらせるような世界などあるのだろうか。俺はそんなことを思う。


「私が積極的に君に会いに来るのは、まあ、そういう理由です。君と話していると面白い。だから、私は会いに来る。ただ、それだけの話なんですよ」


 自分にそんな価値があるとは思えない。けれど、それでも自分がこの人の役に立てるというなら、それは素直に喜ばしいことだと思えた。


「……先生、俺はいつかまた外に出られるのかな?」


 俺がぽつりとつぶやくと、ゼーアは、


「大丈夫ですよ」


 と、柔和な笑顔で応える。

 俺はいつかまた普通の人間のように生きられる日を夢想しながら、日々眠りにつくのだった。




 一日の大半を眠って過ごす俺は、必然、夢を見ることが多くなっていった。

 昔の平穏だった生活を思い出す夢を見ることもあれば、ロアと暮らしていた頃の夢を見ることもあった。しかし、そんな夢を見ることができた日は、数少ない幸運な日だ。

 大抵の場合は悪夢が襲い掛かってくる。

 俺が見知らぬ誰かを殺している夢だ。それは俺があの村で実際に行った虐殺の記憶だったのかもしれないし、あるいは、まったく架空の記憶だったのかもしれない。ただ、そのどちらであったにせよ、俺は夢の中で次々と人間を殺害していく。その方法も日々洗練されていく。最初は獣のように暴れ、相手を引き裂くだけだった殺害方法が、必要最小限の動きで的確に人体の急所を突くようになっていく。ときには、手に入れた武器を使い、瞬時に人の首を刎ねたりもした。

 夢の中で殺人を重ねるたびに、俺は確実に強くなっていた。

 だが、すべては所詮夢だ。

 そうやって、俺は何とかその夢に折り合いをつけていた。




 ある日の朝のことだった。


「あれ……?」


 俺の腕に見覚えのない切り傷があった。まるで刃物で切り付けられたかのような傷だった。手当はされているようであったが、その部分がじんじんと痛んだ。


「おはよう、ヴァイス」


 いつものように独房を訪れたゼーアに俺は尋ねた。


「先生、なんで俺の腕にこんな傷がついてるんだ?」

「ああ……それかい……」


 ゼーアはどこか言いにくそうに目を逸らした。

 その態度で俺は察してしまう。


「まさか、俺は暴れたのか……?」


 ゼーアは肯定も否定もしなかった。

 おそらく、俺は意識を失っている間に暴れ、自分で自分を傷つけたのだ。

 やはり、俺は化け物なのだ。




 それからも何度か、そういうことはあった。ときには、何物かで縛り付けられたような跡や、魔術で傷つけられたかのような跡が身体に残っていることもあった。きっと、暴れる俺を収めるために、誰かが俺に攻撃したのだろう。

 その相手を恨むつもりはなかった。

 ただひたすらに早く、俺の発作を抑える薬を作ってほしい。そう思った。




「君は自由になれたら、何がしたい?」


 ある日、ゼーアは俺にそう尋ねた。

 何がしたいか。

 意外かもしれないが、そんなことは考えたこともなかった。ただ、これ以上、人を殺さないで済むように。ひたすらにそんな思いだけを抱いて日々を消化していたのだ。

 改めて考える。

 俺は何がしたいのだろう。

 そうやって考えてみると、答えはあっさりと出た。


「……誰かを助けたい」

「……ほう」


 ゼーアは俺の答えに驚いたのか、目を丸くしていた。


「誰かの助けになりたい。……もう、俺がやりたいと思えることはそれくらいだ……」


 頭に浮かんでいたのはロアのことだった。ロアは俺を助け、育ててくれた。きっとそれは彼女なりの罪滅ぼしだったのだと思う。

 俺は自分が背負った罪を少しでも軽くするためにも、誰かを救いたかった。

 自分は決して許されないことをした。だから、許されたいとは思わない。救って、救って、救い続けて、その果てに死ねたなら。

 それが壊れてしまった俺に残された唯一の幸せへの道のような気がしたのだ。

 ゼーアは目をつぶり、何事かを考えているようだった。

 そして、長い長い時間の後に、彼は言った。


「その想いを決して捨てないように。それは、きっと誰かを救う力になるから」




 初めて独房に入ってからすでに五年の月日が経とうとしていた。

 俺は十七歳になっていた。


「おめでとう、ヴァイス」


 ゼーアはそう言って、俺を祝ってくれた。

 正直に言うと実感は湧かなかった。俺は一日のほとんどを眠って過ごしていたから、この五年間の記憶はほぼないに等しかった。あれから五年もの月日が流れたと言われても、俺の中ではあの殺人はほんの数か月前の出来事としか思えなかった。

 自分の身体に傷を見つける頻度は減っていた。この一年間はほぼないに等しかった。ゼーアからは徐々に症状が落ち着いてきている証拠だと言われていた。そのことは純粋に喜ばしい出来事であった。

 そんなある日、ゼーアは言った。


「そろそろ、薬をやめてみる時期が来たのかもしれない」

「え?」

「ヴァイス、君はこの五年間、本当によく頑張った」


 ゼーアは俺を我が子を見つめるような優しい笑みで見ながら言う。


「今の君なら自分の意志だけで発作を抑えられるかもしれない」

「で、でも」


 俺にとっては未だに数か月前としか思えない記憶。

 俺は人殺しだ。

 化け物だ。

 本当に薬なしで自分を抑えられるのか。自信はなかった。


「ヴァイス」


 ゼーアは言う。


「いつかは挑戦しなくてはならないことなんだ。君だって、一生、この穴倉で暮らしていくわけにはいかないだろう?」

「………………」


 確かにこの生活に飽き飽きしていたことも事実だった。もし、本当に自分を抑えられるのであれば、俺はまた陽の差す中を歩けるようになる日が来るかもしれない。


「ヴァイス、君ならできるはずだ」


 何よりも「先生」がそう言ってくれているのだ。

 俺はその言葉を信じたいと思った。

 俺はその日、薬を飲まなかった。


 そして、あの惨劇は起こった。




「退避! 退避!」

「早く騎士を呼べ! 呼べるだけ呼べ!」

「いやあああああああああっ! なんで? なんでなの!」


 悲鳴と絶叫が木霊している。血と何かが燃える匂いが辺りに満ちている。

 なんだ、何が起こっている?


「撃て!」


 そんな声と共に俺に向かって、何本も矢が一斉に射かけられた。

 次の瞬間――


「ぎゃあああああああああああああ!」


 悲鳴をあげていたのは、矢を放った弓兵の方だった。

 俺は矢の雨を超高速の速度で潜り抜け、持っていた剣に魔力を込め、弓兵たちを一太刀で薙ぎ払ったのだ。


 ――オレハナニヲヤッテイル?


 魔術師が放った炎の魔法を切り捨て、逆に魔力によって作り出した斬撃を魔術師へと浴びせかける。


「ぐぁあああああああああ!」


 魔術師たちの首がまるでお手玉のように軽々と宙を舞った。


 ——オレハナゼコンナコトヲシテイル?


 俺に斬りかかった騎士たちの剣戟を軽々と交わしながら、俺は騎士一人一人の首を瓶の栓でも抜くような調子で次々と刎ねていった。


 ——オレハナゼヒトヲコロシテイル?


「貴様!」


 俺の一撃を止めたのは、一人の騎士。

 こいつには見覚えがある。

 いつか俺を捕まえた騎士だ。

 ようやくお礼参りができる。

 他の騎士よりは腕は立つようで、幾度か俺の放った剣戟をいなし、受け止めた。だが、一太刀、また一太刀と、俺が繰り出した攻撃で彼は血を流していく。血にまみれ、汗にまみれ、伊達男っぷりも台無しというものだ。


 ——ヤメロ


「――終わりだ」


 俺は騎士の一瞬の隙を突いて、剣先から魔力を飛ばす。まるで、剣先が伸びたかのような不意の一撃。さすがの騎士も対応しきれなかったようだ。

 奴の胸元に大きな穴が空く。


「ぐ……あ……」


 ——ヤメロ!


 さしもの騎士も胸を貫かれては終わりだった。

 命を手放した男の目は言っていた。

 あのときに殺しておくべきだった、と。


 ――ヤメテクレ……




 それからも俺はひたすらに人を殺し続けた。

 俺が通った後には死体が山と築かれ、進む先には目を見開き、涙を流して命乞いをする民衆だけが残っていた。


 ――関係ない、皆殺しだ。


 男だろうが、女だろうが、年寄だろうが、幼子だろうが、関係ない。


 ――全員殺す。


 そうやって、俺は目につく人間をすべて殺しつくしていった。




「——ス……ヴァイス」


 俺を呼ぶ声が聞こえる。


「先生……?」


 聞こえてきたのはゼーアの声。その声を聴いている内に、少しずつ今の自分の状況を思い出していく。


(そうだ、俺は暴れて――)


 そっと目を開ける。まず、目に入ってきたのは抜けるような青い空だった。天はここで起こった惨状を気に留めた様子もないようにいつもと変わらない表情で地上を見下ろしていた。

 俺は力を使い果たし、地面に転がっていた。身体はまったく言うことを効かない。それでも、なんとか最後の力を振り絞って、首を曲げて周囲の様子を伺う。

 そこに広がっていたのはあまりにもおぞましい光景だった。

 死体はまるでかき集められたごみのように山と積まれていた。その一つ一つから真っ赤な血がべっとりとこびり付いている。生臭い血の匂いと焼けた肉の匂いが混ざり、辺りに立ち込めている。

 石造りの建物は粉々になっている。まるで大きな地震でもあった後のように、ほとんどの建物は崩落していた。都市の周囲を囲う森には火が付いていた。燃えた木が出す煙は、あたかも山が流している涙のように思えた。

 そして、グロリア王国が誇る王宮。一つの山ほどの大きさがあるその建物は。何か大きなもので叩き潰されたかのように崩れ去っていた。後に残っているのは、山と積まれた瓦礫だけだ。

 グロリアの王都は壊滅していた。

 そして、これをやったのは――


「先生……俺……俺……また人を……」

「見ていましたよ、ヴァイス」


 指先一つ満足に動かせなくなっている俺はゼーアがどこに居るのか解らない。

 俺はうわ言のような調子で先生に尋ねる。


「先生、俺はいったいどうしてしまったんだ……? なぜ、また、俺は人を殺している……?」

「ヴァイス、君は何も悪くありません」

「先生……?」


 俺が人を殺してしまった理由。

 それは薬を飲まかったからだ。

 つまり、俺が殺人の獣に堕ちたのは、薬を飲まなくてもいいと言った先生に責任がある。そういうことか。

 いや、それでも――


「いや、違う。自分を抑えられなかった俺が――」

「この殺戮は私が計画したものですから」

「……は?」


 俺は思わず間抜けな声を漏らす。

 今、この男はなんと言った。

 俺は思わず、声のする方をじっと見つめる。


「ですから、今回の殺戮は私が仕組んだことですから、君は悪くないんですよ、ヴァイス」


 普段と何一つ変わらない柔和な調子でゼーアは言った。


「説明しますね。君はこの五年の間に強くなりました。証拠に五年前に君を捕縛した騎士さえ、君は殺しました。彼、実は聖騎士なんですよ。この国で一番強い騎士です。そんな彼を殺せるくらい、君は成長しました。なぜだかわかりますか?」


 俺はまったく理解が追い付かず、ただゼーアの言葉を黙って聞くだけの人形になる。


「君はこの五年間、毎日、人を殺し続けていたからです」

「……は?」


 毎日、人を殺してきた……?


「『呪魔』というのは、人を殺せば殺すほど、その呪いの力と魔力が増大するということは解っていました。だから、私は君を毎日、犯罪者や敵国の捕虜と殺し合わせていたんです。そうやって、殺人の経験を積ませるために」


 そんな記憶は――。


「ああ、ちなみに毎日飲んでもらっていた薬で、自我を奪っていましたからね。戦いの記憶は残っていないと思います。もしかしたら、夢で見る程度には残っていたかもしれませんけど」


 夢の中でした殺しのことを思い出す。その中には、かつて山中の村で起こした殺戮とは別の生々しい殺人の感触があった。つまり、あれは妄想などではなく、本当にあった出来事だった……?

 幾度か自分の身体に傷があったことを思い出す。

 あれはまさか、その記憶のない戦闘の中でついたものだったのか……?


「君は十分に強くなりました。この国の最強の男を殺せる力量になってくれたと思ったので、今回、君を解き放ちました。思惑通り、勝ってくれて嬉しいです。『先生』冥利に尽きるというものですね」

「……なぜだ? なぜ、こんな真似をさせた……」


 理解できなかった。

 先生は、ゼーアは、なぜそんな真似を俺にさせた?

 あの研究施設は『呪魔』を根絶する研究をするための施設だったのではなかったのか?


「もちろん、これは私の独断で君にやらせたことですよ。まさか、こんな風に王都を壊滅させるような真似を国が許すはずないですからね」

「じゃあ、なんでだ……!」


 俺は動かない身体に鞭を打ち、必死で起き上がろうとしながら叫ぶ。


「なんでこんな真似をさせた……!」


 俺はこの後に及んでまだゼーアのことをどこか信用していたのかもしれない。彼と過ごした五年間の記憶。そのすべてが嘘だとはどうしても思えなくて、まだ彼に何かこんなことをする理由があるのではないかと、そんな薄い可能性に縋りたかったのかもしれない。

 そんな俺の想いとは裏腹にゼーアはあまりに軽い調子で言い放った。


「その方が面白そうだったからですかね」

「……は?」


 俺は絶句した。

 ――この男は何を言っている?


「いつか話しましたよね。私は自分が知らない、見たことない。そういうものを見るのが好きなんです。どうせ人殺しになるなら、徹底的な殺戮機械になった方が面白くないですか? その方が盛り上がると思うんですよ。さすがの私も一国の都が壊滅する光景は見たことないですし。研究のためとはいえ、五年もお守りをやってきたわけですから、最後に殺戮の舞台っていう面白いものを見せてもらいたいな、と思ったんですよ」

「そんな……理由で……?」


 そんなくだらない理由で俺はこれだけの人間を殺させられたのか……?

 この男のくだらない思いを満たすだけのおもちゃとして、俺は利用されたというのか……?

 俺の中で熱く燃え滾るマグマのような熱情が一振りの剣の形を持った。

 俺はその剣をしっかりと握った。


「ゼーア……」

「はい?」

「おまえだけは絶対に――」


 俺は拳を握り、構える。


「『殺す』」


 『殺す』。それは俺にとっての誓いの言葉だ。

 その言葉を口にした以上、絶対に何があってもあの男は『殺す』。

 何が起ころうとこいつだけは許さない。たとえ、何十年、何百年かかろうとも、必ず『殺す』。

 そう固く心に決めた。


「怖い怖い。ここで殺されてはたまらないですね」

「待て!」


 俺は必死に身を起こす。もう体力は一かけらも残っていない。もはや、自分の身を動かしているのは気力だけだ。震える足で地面を踏みしめ、側に転がっていた剣を杖がわりにして、立ち上がり、捨て身の勢いでゼーアに向かって飛び掛かる。

 ゼーアは普段と変わらない様子で悠然と佇んでいる。

 その鼻っ柱に拳をぶち込んでやろうとして――


「——あ?」


 その拳は何にも触れることなく、空を切る。

 確かにゼーアはここに居たはずなのに。俺の拳が触れた瞬間、まるで煙のように彼の姿は掻き消えた。


「ああ、今、喋っているのは幻術ですよ。さすがに今の君の前に本体を晒すのは、万が一ということがありますから」


 声だけがどこかから響く。

 俺は持っていた剣を出鱈目に振るう。


「うおおおおおおおあああ!」


 そうやって、剣を振りまわしていれば、どこかに隠れている奴に当たるのではないか。そんな支離滅裂な思考で、駄々を捏ねる子供のように剣を振りまわし続けた。


「——ヴァイス」


 狂乱に堕ちる俺に向かって奴は言った。


「せいぜいあがいて、いつか私を殺しに来てください」


 俺は砕けるんじゃないかという勢いで歯を食い縛る。


「——その方が面白そうです」

「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」


 俺は咆哮する。

 抑えきれない思いが、怒りが、爆発し、空へと広がっていった。




 これが、のちに『グロリアの大虐殺』と呼ばれる出来事の真相だった。

 そして、この日、俺は一人の少女と出会う。

 それこそがほかならぬミリアだった。

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