過去1「はじまりの記憶」


「生きてた……生きていた……」


 そう言って、女は涙を流しながら、そっと俺の手を握った。

 地獄のように燃え盛る炎と星一つない暗く遠い空。

 その光景が、俺のはじまりの記憶だった。




「おい、今、おまえ、なんつった?」


 しまった、と思う。思わず、口元を抑えるがもう遅い。一度言ってしまった言葉は引っ込めることなどできない。

 燃えるような色の赤い髪を振り乱し、こちらに詰め寄る女。


「なあ、いつも言ってるよな?」


 ロアは俺の鼻先まで顔を近づけて、目をひん剥いて言った。


「『殺す』って、言葉を軽々しく使うんじゃねえ!」

「いってえ!」


 目の前がピカピカと光る。まるで星でも降ってきたみたいだ。

 殴られたのだ。

 頭の上がじんじんと痛んだ。俺は涙目になりながら、ロアを睨み返した。


「おまえ、アタシの仕事を言ってみな」

「……傭兵」

「そうだ」


 ロアは傭兵だった。女だが剣技の冴えはそこらの騎士にも引けを取らず、魔術も並の魔術師ならば相手にならない腕前。各地を旅して歩いたと豪語するだけあり、対人戦はもちろん、魔獣の類いの討伐も得意としていた。

 要するに、滅茶苦茶強いのだ。

 彼女はそんな傭兵のイメージに逆らわず、粗野で乱暴だったが、不思議と俺の言葉遣いに拘った。

 まだ子供だった俺が、売り言葉に買い言葉。


『殺すぞ、ババア!』


 などと言おうものなら、鉄拳制裁は当たり前だった。


「アタシは傭兵だ」


 ロアはたまに真剣な顔をする。普段は傲岸不遜にふるまい、豪放磊落に笑う女なのだが、そういう常とのギャップが真剣な面差しをより一層強いもの感じさせた。


「時には本当に人の命を奪うこともある。それは仕事だ。だから、ためらわない。むしろ、ためらってはいけない」

「………………」


 こういうときの彼女に、俺は何も言えなくなる。それは俺が考えの足りない餓鬼なりに、彼女の言葉から何か大切なものを感じ取っていたからだと思う。

 ロアは俺の両肩にそっと手を置いて言った。


「だからこそ、軽々しく『殺す』なんて言葉を使ってはいけない」


 彼女の目は青く、風のない湖の湖面のように澄んでいた。


「『殺す』というのは、覚悟の言葉だ。相手の命を奪う。そう心で決めたとき、初めて使える言葉なんだ」

「………………」

「わかるな」


 そんな風に言われては、もう黙って頷くしかなかった。

 俺が素直に首肯すると彼女はにっと口の端を歪めて笑い、


「よっし、飯にすんぞ!」


 そう言って、俺の背中を勢いよく、それでいて、優しく、叩くのだった。




 俺は孤児だった。

 正確には、親に当たる人物はいたはずなのだが、俺の記憶の中にはない。忘れてしまったのだ。

 俺のはじまりの記憶は、泣きそうな顔のロアとその背後で煌々と燃え盛る炎だった。

 俺が住んでいた村は、どうやら野盗に襲われ、火をつけられたらしい。男も女も関係ない。すべての人間は殺されていた。その凄惨な死体の山を俺は直視することができず、ひたすらに目をつむっていたことを覚えている。


「おそらくは、心的なショックで記憶が飛んだんだろうな……」


 ロアは俺の話を聞いて、そう言った。

 どうやら、俺は自分の家族を含めた村人が皆殺しにされたことで記憶に蓋をしてしまったらしい。それは、地獄のような光景を脳髄に刻み込まれずに済んだという意味では幸運だったかもしれないが、本当になにもかもすべてを失ってしまったという意味では不幸なことだった。

 俺は自分自身すら失い、世界にただ一人きりだった。

 だから、


「来な、おまえは今日からアタシの息子だ」


 そんなロアの言葉は、俺にとっての道しるべで、


「………………」


 世界に灯りをともしてくれる唯一の光だった。




 とはいえ、彼女は四六時中、俺の側に居たというわけではない。

 彼女は流れの傭兵として定住せず、いくつかの隠れ家や宿を拠点として、各地の戦場を渡り歩いていた。「グロリア王国」は当時、隣国の「アルエスタ」や「ハルの国」とは小競り合いを続けていたから、傭兵として食いっぱぐれる心配はなかった。彼女はいつもあちこちの戦場を飛び回っていた。

 彼女が戦場に行っている間、まだ餓鬼だった俺はとある隠れ家で、一人彼女の帰りを待っていた。一度家を出ると、彼女は何週間も帰ってこなかった。

 彼女の帰りが遅いのは常のことなので、徐々に俺は彼女の不在に慣れていく。

 だけど、ある時不意に不安になる夜が来る。

 彼女がもう帰ってこないのではないか、という不安。

 彼女は戦場に居る。それはつまりいつ命を落としてもおかしくはないということだ。

 俺のはじまりの記憶がフラッシュバックする。

 屍の無惨にもえぐられた眼窩が俺の方を見ていた。


「ロア……ロア……」


 俺は泣いて震えながら、彼女の帰りを待つ。

 もう、一人になるのは嫌だった。




「握りが甘い!」

「くっ!」


 手元に鋭い衝撃。俺の持っていた木刀は高く宙を舞ってどこかに飛んで行った。

 次の瞬間、


「ぐえ!」


 頭に燃えるような痛みが走る。

 ロアが手にしていた木刀で俺の頭を打ったのだ。


「いってええええええ!」


 俺は痛みで地面にのたうち回る。視界が天地さかさまにぐるぐると回る。本当に頭が割れたんじゃないかというくらいの痛みに思わず、涙がこぼれた。

 なんとか呼吸を整え、頭上を見上げるとロアは鬼のような形相で俺を見下ろしていた。


「まず、獲物は絶対に手放すな。武器は戦場における命綱。それを失うことは文字通りの意味で命取りになる。さっきのような甘い握りでは話にならない」


 俺は何も言えず、黙ってロアに言われるがままになる。


「第二に、先ほどのように万が一武器を失ったときは、次にどうしなければならないのか、すぐに心を切り替えて考えろ。武器を飛ばされた、などと考えている時間があれば、すぐにその場から離脱すべきか、別の武器を出すべきか。そういった判断を瞬時に行え」


 ロアの教えはスパルタだった。

 だが、これは俺自身が頼んだことだったのだから、文句は言えない。

 俺はすべてを失い、ロアに助け出され、この世に生まれなおした。だから、白紙の自分は、自分自身が生きる道を自分で選ばねばならなかった。そういった中で選択肢は少なかった。もしも、自分が生きていけるとするならば、ロアのように強い傭兵になり、戦場で生きていくしかない。他ならぬ自分自身がそう考えた。

 当時は「魔術革命」の真っただ中。魔術の自動化が進み、多くの労働力がゴーレムに取って代わられ始めた時代だった。畑を作るために土を耕すのも、鉱石を採掘するのも、もはや、ゴーレムの仕事だった。単純労働では魔力さえ与えておけば、永遠に働き続けるゴーレムにかなうはずもない。多くの労働者が職を失い始めていた。

 そんな中で何も持たない庶民が身を立てる道は、もはや、武力しかなかった。魔術師としての適性があれば、話は違ったかもしれないが、あいにくと俺にはそちらの才能はからっきしだった。

 だから、俺はロアから剣を習うことにした。

 いつまでも彼女に甘えているわけにはいかない。

 俺と彼女は赤の他人だ。

 いつまでもこんな関係を続けていられるはずがない。

 だから、俺は一人で生きられるように力が欲しかったのだ。

 実力さえあれば、ロアのように傭兵として生きていける。運が良ければ、どこかの国の軍に雇ってもらえる可能性もある。だから俺はロアに頭を下げ、教えを乞おうとした。

 はじめ、ロアは俺の言葉に難色を示した。

 俺がロアに剣を教えてもらうように頼むまでおおよそ数か月。ロアは俺を実の息子同然に育ててくれた。息子である俺に自分と同じ修羅の道を歩ませたくなかったのだろう。

 だが、この時代に他の生き方ができようはずもなかった。

 結局、彼女は根負けし、俺に剣の手ほどきを始めた。

 一度決めたことは曲げないロアは、俺に剣を教え始めると一切の手加減をしなかった。俺は何度修行をつけてくれと頼んだことを後悔したか解らない。

 だが、そんな辛い修行は、日一日と俺の力になっていく。

 昨日よりも今日、今日よりも明日。俺は戦士になっていった。


「ほら、早く立て!」


 そう言って、俺に手を伸ばすロア。

 俺はその手を握り返す。

 大きくて暖かい手だった。

 いつの日か、俺はこの手のぬくもりに報いたかった。

 いつか、彼女の背中を守れるように。

 彼女と肩を並べて歩けるように、と。




 「ヴァイス」という名前は、ロアにつけてもらったものだった。

 すべての記憶を失っていた俺は、当然、自分の名前すら憶えていなかったからだ。

 だから、俺はある日、彼女に名前が欲しいと言った。

 新しい名前を付けることに、ロアは反対した。


「おまえには、本当の名前があるはずだ。今は思い出せなくても、いつかきっと思い出せる。それまで、待つ方がいいんじゃないか?」


 彼女はそんな風に言って、俺を諭そうとした。

 俺は言う。


「元の記憶を取り戻すことよりも、新しい自分が欲しいんだ」


 過去を振り返っても、そこにはきっと辛い記憶しかない。だから、未来に顔を向けるためにも、俺には新しい名前が必要だった。


「過去の自分を取り返すんじゃなくて、ここでロアと暮らしている自分が欲しいんだ」

「………………」


 結局、ロアは俺の想いを聞くと、名付け親となることを了承した。


「ちょっと時間をくれ」


 それから、一週間、彼女は俺の名前のことについて何も触れなかった。てっきり、俺は彼女が俺の頼みを忘れているものと思い込んでいた。

 だが、一週間たったある日、彼女は言った。


「よし、決めた。おまえは『ヴァイス』だ」


 ロアはどこか満足げに笑いながら、そう言った。


「図書館まで行って、調べてきた。ヴァイスっていうのは、昔の言葉で『白』って意味らしい。真っ白で、まだ何も持っていなくて……これからなんにでもなれるおまえには、ぴったりの名前だろ?」


 ヴァイス……ヴァイス。

 その名前は、長く着続けた服のようにぴったりと俺の身体に馴染んだ。まるで、そうやって名付けられることが、生まれる前から決まっていたかのように。


「うん……いい名前だ」


 俺がそう言うと、ロアの表情にすっと光が差す。


「だろ?」


 そう言って、二人で顔を合わせて、大きな声で笑った。

 その日から、俺はヴァイスになったのだ。




 ロアは強い女だった。

 単純な腕っぷしだけではなく、精神面も。

 人に厳しく、甘えを許さず、何よりも自分自身に厳しい。

 だからこそ、人に弱音を見せるということがない。

 出会う人の誰もがロアのことを強く気高い人間だと思っていた。

 もちろん、俺もその例に漏れない。

 彼女は特別で選ばれた人間なのだと、漠然とそう考えていた。

 ――あの夜までは。

 ふと、夜中に目を覚ます。寝ぼけ眼で隣のベッドに目をやる。そこには、ロアが眠っているはずだった。

 居ない。

 その事自体はありえないことではない。彼女はいい大人なのだし、自分が育てている子供が寝付いた後に一人、夜の町に繰り出すなんていうこともあるだろう。

 だが、なぜか俺はその日、彼女を探しに隠れ家を飛び出した。

 それは虫の知らせと呼ぶ以外に説明のつかない衝動だった。

 隠れ家の周囲に人家はない。一番近くの町でも大人の足で数十分かかる。俺は隠れ家の周囲を取り囲む森の中を探すことにした。

 道なき道をかき分けながら進み、俺は大きな湖のほとりまでやってきた。真っ白な月が湖面にその影を映していたことを覚えている。

 はたして、その湖のほとりに彼女は居た。

 ここまで衝動のままに走り続けてきた俺は彼女の姿を見て、ようやく息をついた。何を不安になっていたのだろう。彼女はたまたま夜の散歩に出かけただけだったのだ。彼女にどやしつけられないうちに戻ろう、そう考え、元の道へ引き返しかけたときだった。


「う……うう……」


 それは低いうめき声。苦しみ、痛みをこらえるような声だった。

 そして、その声を発していたのはロアだった。

 信じられない光景だった。

 ロアはいつだって凛としていた。おおよそ弱さというものを見せない、鋭い剣のような人だと思っていた。彼女の涙を見たのは、俺が村で助け出されたあの日以来だった。

 なぜか、俺は彼女に声をかけることができなかった。

 見てはいけないものを見てしまったような気がしたのだ。

 だから、俺は急いで隠れ家に引き返した。

 すぐにベッドにもぐりこめば、今見てしまったものが夢になる。そんな思いがどこかにあった。

 俺はベッドの上で頭まで深く布団をかぶった。

 その頭によぎるのは、先ほどの彼女の姿。

 赤。

 燃えるような赤。

 彼女の赤い髪とは別に残された赤い色。

 ――彼女の手首は、真っ赤な血で染まっていた。

 握られた短剣と手首を染める鮮血。

 その意味を考えたくなくて、俺はただ必死に目をつぶった。

 



「おまえは今日からこの孤児院で暮らせ」


 それはあまりにも唐突な宣告だった。

 ロアに出会っておおよそ一年半の時間が過ぎていた。そんなある日、彼女は俺をグロリア王国にある、とある大都市の孤児院に俺を連れて行き、そう言った。

 呆然としている俺に向かって彼女は言う。


「ここは、私の知り合いがやっている場所だ。そう悪い扱いは――」

「なんで!」


 俺は思わず叫んだ。

 ロアは俺の顔を見て、バツが悪そうな表情をして、目を逸らした。

 そして、そのままぼそりと呟く。


「もともと、おまえは孤児なんだ。本当は最初からこうしておくべきだったんだよ」


 確かに俺とロアの間に血のつながりはない。ただ、彼女は身寄りのない俺を見つけたというだけで、俺を育てる義務など、本当はありはしなかった。だから、彼女が言っているのは正論という奴なのだろう。


「だけど、なんで急に……」

「………………」


 彼女は深く息を吸い込んで、そして、明後日の方角を見ながら呟いた。


「やっぱ、子育てなんてガラじゃねえんだわ、アタシ」


 彼女は椅子から立ち上がり、窓の外を見下ろす。


「飯を作るなんてかったるいし、洗濯が増えるのだって面倒だ。つまんねことでピーピーわめくし、だるい。だいたい、おまえが居たら、夜遊びだってできやしないし……それから……それから――」


 彼女はそこで窓枠に手を突いた。

 そして、不意に何かが窓枠の上に落ちた。


「………………」


 それは彼女の涙だった。

 彼女は嗚咽に声を詰まらせていた。鼻をすすりながら、目元を拭う。

 そこには「強さ」など、欠片もなかった。

 その場所に立っていたのは、一人のか弱い女性だった。


「ごめんな……ごめんな……」


 彼女はそう言って、俺を強く、強く、抱きしめた。

 



 俺が孤児院に住むようになってから、二週間が過ぎようとした頃だった。

 俺は不意に思い出す。

 明日はロアの誕生日だ。

 去年、彼女は祝いだと言って、高い酒を開けていた。そんな記憶が残っている。

 俺は彼女に会いに行こうと思った。

 確かに、俺は捨てられたのかもしれない。だが、彼女がこの一年半、自分を育ててくれていたのは、紛れもない事実だ。ならば、彼女の誕生日に、最後に一度くらい恩返しをするべきなのではないか、そう考えたのだ。

 もちろん、それは口実であったのだろう。まだ餓鬼だった自分は、彼女を諦めきれなかったのだ。

 自分が必死になって会いに行けば、もう一度、一緒に暮らしてくれるかもしれない。

 自分を息子と呼んでくれるかもしれない。

 その計画を俺はさっそく実行に移すことにした。

 誕生日の前日の深夜、孤児院を抜け出す。

 夜通し走り続ければ、きっと夜には隠れ家まで辿り着けるはずだ。




 俺は夜をおして走った。日が昇ってからも黙々と走り続けた。金があれば、馬車に乗ったのだけれど、孤児の俺が満足な金など持っているはずもない。走るのはきつかったが、ロアに付けられた特訓に比べれば屁でもない。俺はもう一度彼女に会いたい一心でひたすらに走り続けた。

 その日、日が沈むころに俺はようやく隠れ家にたどり着いた。

 森の奥の世界から忘れ去られたような場所。深閑とした森がこの場所を世界から切り離していた。ほんの二週間、離れていただけなのに、ひどく懐かしく感じられた。

 さすがにへとへとだった。だが、彼女に会えると思えば、疲労など、どこかに吹っ飛んだ。

 俺は隠れ家の戸を叩き、彼女を呼んだ。


「ロア! ロア!」


 しかし、返事はない。

 そのときになってようやく気が付く。家の中に灯りがない。それはつまり、彼女が留守であることを示していた。

 そもそも何の約束もなしにやってきたのだ。こうなる可能性を考慮していなかった自分の落ち度だ。ただ、町に出かけているだけなら、深夜には戻ってくるだろうが、傭兵としてどこかの戦場に立っているなら、しばらく戻ってこない可能性もある。

 だが、ここまで来て、諦めて引き返すつもりはなかった。

 彼女に会えば、すぐに孤児院に連れ戻されるかもしれないが、少なくとも彼女の会わずに自分から引き返すという選択肢はありえなかった。

 何日でも、何十日でも、彼女の帰りを待とう。そう考えた。

 家の前で待とうと座り込みを始めようとした瞬間だった。

 不意に頭をよぎる考え。


「………………」


 俺は腰を下ろすのをやめ、とある場所に向かって歩き出した。



 

 目指したのは例の湖のほとりだった。

 何か根拠があったわけではない。ただなんとなく、彼女が居るのは、あの場所なのではないだろうかと思ったのだ。

 ロアが手首を血に染めていた光景を思い出す。翌日、彼女の手首には厚く包帯が巻かれていた。職業柄、傷を負っていることは少なくなかったから、それ自体はさほど不自然なものには見えなかった。だけれど、俺はその嘘のように白い包帯を直視できずに目を逸らした。

 後で考えると、それが俺が犯した過ちだったのかもしれない。

 あのとき、その包帯とその下にある傷について問い詰めていれば、すべては変わっていたのかもしれない。

 だが、すべては終わってしまったからこそ言えることだ。

 どれだけ後悔を重ねようと過去が塗り替わることなどありえない。

 それだけは確かで、残酷な真実だった。

 例の湖のほとりにロアは居た。


「……っ!」


 だが、そこに居た彼女の惨状を見て、再会を喜ぶ気持ちなど一瞬で吹き飛んだ。

 彼女は血まみれだった。それも手首だけではない。足も腹も顔さえも、むごたらしい切り傷だらけであった。あまりにも悲惨な姿。俺は思わず、息を呑んだ。

 彼女は荒い息をしていた。右手に握った短剣に血が滴っている。おそらくは、その短剣で自分で自分を斬り刻んだのだ。

 そのことに気が付いた俺は思わず、彼女に向かって飛び出していった。


「何やってんだよ! ロア!」


 俺は彼女に飛びつき、その短剣を奪った。

 あっさりとその剣を奪えたことに拍子抜けする。いつものロアならば、子供の俺なんかに、あっさりと武器を奪われることなどありえないからだ。


「ぐっ……ううう……」


 ロアは苦しそうにうめいたまま、顔をも上げようとしない。

 その姿はさながら飢えに苦しむ怪物のようであった。触れればその瞬間に牙をむく。そんな危うさが彼女の背中から漂っていた。

 俺は一瞬躊躇したが、ためらっている場合ではない。


「まずは傷の手当てを――」


 俺が彼女の肩に触れた瞬間だった。


「かはっ!」


 ――何が起こった?

 俺の肺から空気が消える。息ができない。

 次に目に移ったのは暗い空と輝く星。

 さらに次の瞬間に胸に鋭い痛みが走った。

 要するに、俺はロアから胸部に掌底をくらい弾き飛ばされたのだ。そのことを認識した瞬間、胸の痛みと地面に叩きつけられた背中の痛みが爆発する。


「っ……!」


 痛みに悲鳴を上げることすらできず、俺はのたうち回る。

 いったいなぜ……?

 もちろん、今まで修行の中でロアから容赦のない一撃をもらうことはあった。だが、それでも最低限の手加減はされていたし、こんな風に不意打ちをされたことなど一度もなかった。まして、今、突然修行が再開されたなどということはありえないだろう。


「うぅぅぅぅぅ……」


 獣のような低い唸り声をあげて、ロアはこちらを見下ろしていた。

 彼女の青く透き通るような瞳は、濁っている。

 その色は狂気。

 今の彼女には人間理性の光などなかった。

 そこにあるのは獣の闇だけだった。

 事ここに至り、俺は思考を巡らせる。一番ありえそうな解釈はロアが魔術による何らかの精神汚染を受けているということだった。俺は魔術は門外漢だから、はたして本当にそんなことが可能なのかは解らない。だが、魔術というのは俺なんかには理解できない複雑怪奇な代物だ。人を操る術があったっておかしくはない。

 後はもっと単純に彼女が何らかの錯乱状態に陥り、このような有様になってしまっている可能性。どちらにしても、まずは彼女を取り押さえなければどうしようもない。


「ふぅ……」


 俺は呼吸を整える。先程、彼女から奪った短剣を構える。先程の掌底を食らってなおこの短剣を手放さなかったのは、ロアの訓練のおかげだろう。それはあまりにも皮肉な話ではあったのだが。

 俺はもちろん、彼女を取り抑えるのが目的だったのだから、短剣などは使うべきではなかったのかもしれない。だが、彼女の恐るべき戦闘能力を俺は誰よりも理解していた。餓鬼の俺が素手で取り押さえられるような相手ではないことは明らかだった。俺は自分にある唯一の武器で何とか彼女に対抗しようとした。

 理性をなくした獣と化したロアと小さな武器一つで対峙する俺。

 二人の間に一瞬冷たい風が駆け抜ける。

 その瞬間、二人の空気は凍る。

 そして、それが一種の合図になる。

 そこから先に居るのは、一匹の獣と小さな人間だった。

 先に動いたのはロアだった。

 矢のような勢いで彼女は俺に向かって飛ぶ。俺はそれを身体をねじって紙一重でかわした。彼女の指先が俺の服を引き裂く。

 今の一撃をかわせたのは幸運と呼ぶ他ない。彼女の突撃はおおよそ人間離れした速度であった。理由は不明だが、彼女の身体能力は大きく向上している。狂乱の獣と化したことで、内なる力が解き放たれでもしたのだろうか。

 その後も彼女は常人離れした突進を繰り返す。

 俺はその突撃を一つずついなし、かわしていく。

 そうやってかわし続けられたのは、攻撃が単調であったからだ。速度は尋常ではなかったが、まっすぐこちらに向かってくるだけの攻撃であったから、それにさえ気づけば対処できないほどのものではなかったのだ。

 だが、それでも、いつまでもそうやってかわし続けられるわけではない。

 一つ攻撃をかわすごとに、俺の中に疲労が蓄積していく。汗が飛び、呼吸が乱れる。かわし切れなかった一撃の余波で俺の身体はボロボロになっていく。

 そして、その瞬間は訪れた。


「あ……」


 俺は何かに足を取られ、思わず膝をつく。すでに体力の限界だったのだ。

 そんな隙を獣が見逃すはずがない。

 狂乱の獣は俺の息の根を止めるべく、俺にまっすぐに飛び掛かってくる。

 俺は確かに死を意識した。

 その瞬間だった。

 俺の中に何かの光景が明滅する。

 それは走馬燈とも呼ぶべきものだろうか。

 失われたはずの記憶が、奔流となり、俺を呑み込んだ。




「ここに隠れていなさい!」


 絹を裂くような悲鳴が村中に木霊していた。俺は何が起こっているのか理解もできないうちに母親に家の床下に隠れているように言われたのだ。悲痛な声と嵐のような轟音が村を覆いつくしていた。俺は暗い床下の中でただひたすらに声を殺していた。

 どれくらいの時間が経ったのだろうか。

 ついに悲鳴は聞こえなくなっていた。

 それはもちろん、村人が誰も声を上げられない身体になってしまったことを意味していたのだろうが、幼い俺はそんな現実を想像することもできなかった。俺は静けさの満ちた地上の世界にそっと顔を出した。

 そこから先に広がっていたのは語るにも、おぞましい光景だった。

 手足を引きちぎられ、だるまと化した隣家の女性。

 顔の半分が吹き飛んだ男の足元には、本人のものと思われる目玉が転がっていた。

 よく一緒に遊んだ幼馴染の少女は、鮮やかな色のはらわたをぶちまけて絶命していた。

 ばらばらになり誰のものか解らない手足が山と積み上げられている。きっと、無邪気で残忍な子供が、虫の死骸から手足をむしるように、村人の手足は引きちぎられたのだ。

 俺は立っていられなくなり、その場に倒れる。

 胃の中の内容物がせぐりあげてきて、思わずすべてを吐いてしまう。すべてを吐き切っても吐き気は収まらない。吐瀉物のすえた臭いと肉の焼ける嫌な臭いが俺の鼻を塗りつぶし、それが俺を別の世界に逃避させることを妨げていた。

 そして、そんな惨状の中、俺は見た。

 死体の山の向こうに立っていた一人の人影を。

 燃え盛る炎と真っ赤な鮮血。

 その二つの赤にまみれ立っていた人物。


 ――赤い髪をした一人の女性を。




「……よくできたじゃねえか」


 俺の手は震えていた。だけど、それでも、握っていたものを放すことはしなかった。それが彼女の教えだったから。


「……そうだ……戦場で武器は命綱だ……簡単に手放すんじゃねえぞ……」


 俺は自分の手に目をやる。

 手に握られていたのは、一本の短剣。

 その切っ先は、ロアの胸に深々と突き刺さっていた。


「ああ……」


 俺は声にならない声を上げる。

 いかに人並み外れた力を持っていたとしても、彼女は人間だ。心臓を貫かれて助かるはずがない。彼女は力なく俺に寄りかかっていた。


「最期に……謝っておかねえと……」

「喋るな! 早く手当てを……!」

「おまえの村の人間、殺したのはアタシみたいだ……」

「っ!」


 ロアは途切れがちな声で語り続ける。


「戦場で人を殺し続けた……そしたら、いつの間にか人を殺さずにはいられない身体になっていた……」


 俺は彼女の告白の意味が理解できない。いや、本当は理解できるはずなのだが、頭がそれをすることを拒んでいた。俺の頭が真っ白に塗りつぶされていく。


「最初は夢かと思った……無抵抗な人間殺すほど悪趣味じゃなかったはずだから……だけど、気が付いたらアタシの背中に死体の山が出来てるんだ……」


 俺は黙って彼女の言葉に打たれているよりほかになかった。


「おまえを拾ったのも……アタシが殺人鬼なんかじゃないって証明したかったから……だけど、結局、自分を抑えきれなくて……このままじゃいつかおまえも殺しちまうって……」


 ようやく、ロアが自分を捨てた理由を理解した。自分の中にある衝動を抑えきれなくなった彼女は、俺を守るために、これを遠ざけたのだ。


「死のうと思った……何度も……だけど、どうやっても死ねなくて……」


 自分を切り付け、血で汚し、その果てに彼女は死のうとしていたのだ。それはなんと辛く悲しい選択であっただろうか。


「なあ、頼みがあるんだ……」


 俺は彼女が言いたいことを悟ってしまった。

 俺たちは短い間だったけど、一緒に暮らしてきた。

 俺たちは家族だった。

 だから、解った。


「……アタシを『殺せ』」

「っ!」


 その言葉は何よりも重くのしかかり、何よりも鋭く突き刺さる。

 その言葉の意味を誰よりも知る彼女だからこそ、言えた本当の想い。

 だったら、俺はそれを受け止めなくてはならない。どれだけ重く、辛く、目を逸らしたくなるものであったとしても、俺は逃げるわけにはいかなかった。

 俺は握った短剣に再び力を込める。

 この短剣を引き抜けば、彼女はきっと絶命するだろう。放っておいても彼女はいつか死ぬ。だが、これ以上、彼女の苦痛を長引かせてやることはない。すぐに終わらせてあげなければならない。それが、自分が最後にできる恩返しのはずだ。

 頭ではそう理解できている。

 だが、できない。

 この短剣を引き抜くということは、他ならぬ俺自身が恩人であるロアの命を奪うということだ。


 『殺す』ということだ。


 そんなことできるはずがない。


「無理だ……」


 俺はぼろぼろと大粒の涙を流しながら言う。


「生きてくれ……生きてくれよ……」


 俺は彼女の瞳に映る少しずつ消えゆく命の灯を見つめる。


「もう言わないから……『殺す』なんて言わないから……だから……」


 だから?

 だからなんだというのだろう。

 奇跡は起こらない。

 それは明白だ。

 ならば、どうする?

 俺にできることはたった一つしかないのではないか。

 『殺す』ことはつらいことだ。悲しいことだ。だが、それで救われる何かがあるのだとしたら。

 ロアの瞳は確かに語っていた。

 『殺せ』と。

 永遠とも思えるような凝縮された時間が、そこにはあった。その中に様々な思いが去来しては消えていく。後悔、感謝、怒り、絶望、悲しみ。それらすべてが混ざり合った真っ黒な感情が、寄り添うように俺の手を握る。


「……ごめんなさい」


 俺はそう言って、震える手でゆっくりと短剣を引き抜く。

 そして、彼女の胸の傷口から赤い血が勢いよく吹き出した。その赤い血は俺の全身を濡らした。むせ返るような血の臭い。俺はたまらなくなる。


「よく……やった……」


 彼女の命の灯が消えていく。生命力が立ち消え、彼女の魂が肉体から離れていく。

 俺は思わず、彼女に縋りついた。


「母さん!」


 俺の言葉は彼女の届いていたのだろうか。

 彼女は、最後に一度だけ、目を見開くと、そのまま、絶命した。

 ロアの……母さんの口元が少しだけ笑って見えたのは、俺の都合の良い妄想だったのか。その答えは、もう一生解らない。

 そして、また、俺は独りになった。


「うわああああああああああっ!」


 その慟哭は、天を割り、地を裂き、この世界の果てまで届く。

 だが、それはまだ、俺の長い長い物語のほんのはじまりに過ぎなかった。

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