発展途上の完成品

 花びらが降っている間、ドラムや他の楽器が鳴り続け、ディーバやコーラス担当の人々が手を振り続けていた。それに振り返す観客たちだったが、お辞儀を何度もして、主役のアーティストがステージの端に少しずつ寄ってゆく。


 そうして、197mのすらっとした体躯たいくが舞台から消えると、女性の声でアナウンスが入った。


「それでは、ここで休憩時間が30分入ります」


 いつの間にか、ファミリー席の家族たちも総立ちとなっていて、みんなそれぞれの椅子に座り直した。明智家でも、れんの歌を好きな人はおり、倫礼りんれいはサバサバとした様子で、マゼンダ色の長い髪の持ち主を見た。


「それにしても、るなす、歌うまいよね〜」


 明引呼あきひこのガサツな声が即行ツッコミ。


「うまいに決まってんだろ」

「どういうこと?」


 すぐ後ろに振り返ると、太いシルバーリング3つをつけた大きな手が、縦に何度が揺れ始めた。


「5千年間、月で1人、うさぎどもと歌ってりゃ、うまくならねぇ方がおかしい――」

「そちらは、少々違うんです〜」


 途中で、凛とした澄んだ丸みがありはかなげな女性的な声、噂の月命るなすのみことが待ったをかけた。焉貴これたかの異様に輝く山吹色の瞳が斜め後ろからのぞき込む。


「どう違っちゃってんの?」


 月に住んでいたから、名前を月命にした本人から、とんでもない話が出てきた。


「うさぎにけた人と歌って過ごしてたんです〜」


 兄貴のウェスタンブーツはスパーをカチャッと鳴らせながら、月命の座っている椅子に後ろから、ガツンと蹴りを入れた。


「ガキの夢壊すじゃねぇよ。月にうさぎが住んでるって、信じてるガキもいんだろ」


 現実的すぎる話だった。せっかく、うさぎと一緒に踊って過ごしていた人がいたという新事実が出てきて、いい感じで感心してたのに。負けるの大好き月命は、珍しく最後だけ声を大にした。


「そろそろ、月に関する伝説を変えた方がいいと思いまして……断然否定です!」


 そんなやりとりをしている夫婦の隣で、光命ひかりのみことの遊線が螺旋を描く優雅な声が一言断りを入れた。


「それでは、私は彼女のところへ行ってきますよ」


 妻9人はここに勢ぞろいしている。膝の上に乗っていた百叡びゃくえいの小さな瞳が、光命の神経質な顔を下から見上げた。


「地球のママのところ?」


 小学生でも知っている。ここではない場所。地球というところがあると。それは、一番厳しい修業をする場所。皇帝陛下からのお許しが出ていないと、行ってはいけない場所。


 自分たちと違って、肉体という魂を入れるうつわを持って、人々が生きる世界。欲望や悪が今でも存在し、いい影響を受けない人もいる。だからこそ、厳しい規制が引かれており、この世界に住む人は、むやみに行ってはいけない。


 光命は百叡の重さを感じながら、優雅に相づちを打ったが、今日はやむを得ない事情があることを口にしようとした。


「えぇ、ですが、今日は分身して――」


 分身。それは通常しない。規制されているわけではなく、する必要がない。自分は1人いればいいのである。だがしかし、地球へ行くには、分身しないといけない時がある。


 それはなぜか、メインの世界はあくまでもここであり、地球はサブでしかないのだ。ここで、手の離せない事情がありながら、どうしても向こうへ行かなくてはいけない時、人は分身という方法を取るのだ。


 百叡がピンクがかった銀の髪を揺らして、光命に待ったの声をかけた。


「パパ、行ってきて大丈夫。ママ、パパに会いたがってるから……」


 自分も時々しか会いに行かないママ。それでも、あのもう1人のママは、自分をいつも温か迎え入れてくれる。あのママがいなかったら、光パパは今も、ここにいないのだ。あのママと光パパが仲がいいのはわかっている。自分にも好きな女の子がいるから。


 遠くの方から、覚師かくしの粋のいい鯔背いなせな声がやってきた。


「あたしが見とくから、あの子んとこ、本体で行ってきな」


 本体とは、分身していない本来の姿のこと。覚師も知っている。あの妻は、9人、いや10人目の妻。とてもいい子で、光命が気にかけたくなるのがよくわかる女。人の心あったかくする何かを持っているのだ。自分たちとは身分が違いすぎるが、それでも、こっちの心を動かすだけの輝けるものを持っている。


 光命は素直にお礼を言った、優雅に微笑みながら。


「ありがとうございます。それでは……」


 すると、コンサート会場からすうっと姿を消した。18人で夫婦。ではなく、本当は18.1人なのだ。それは、明智家に嫁や婿養子にくる時、必ず説明を受けた。通常と違う配偶者が1人ではなく、あえて表すなら、0.1人いると。


 妻たちの中では、もう1人の倫礼に会うことが許されているのは、知礼しるれと覚師だけ。他の妻は許されていない。結婚をしていたとしても、許可が下りないほど、厳しい審査があるのだ。


「あんたたちも行きなよ。仕事、ほったらかしてんじゃないよ」


 覚師は百叡びゃくえいを抱き上げて、ぼうっと動く気配を見せない夫たちを見渡して、ぴしゃりと言った。そう、光命をはじめとする夫たちは、もう1つ別の仕事があるのだ。それをするためにも、光命ひかりのみことはいなくなったのである。


 独健どっけんが苦笑しながら、ひまわり色の髪をクシャッとかき上げた。


「まあな。2足のワラジみたいなもんだからな……。今の俺たちは」


 銅色の懐中時計を取り出して、孔明こうめいは聡明な瑠璃紺色の瞳に映す。


「ボクは2人の時間を邪魔しないように、13分16秒後に行った方がいいと思うけどなぁ〜」


 明引呼あきひこはあきれたため息をついた。秒単位まで指定する、策士のプロ中のプロを前にして。


「てめぇ、どうやって計算してんだよ?」

「それは企業秘密〜!」


 孔明は春風みたいに微笑んで、白の着物はさっと立ち上がった。


「ボクはこれでいなくなるね」


 まだコンサートの途中。だが、皇帝陛下から多くの人々に、伝授するようにと言われ、愛する人とも会えないほど忙しくなる。だから、結婚を決意した。それでも、家族のそばに、もう1人の倫礼りんれいのためにと思って、陛下にスケジュールの調整を願い出た。


 その結果が、今なのだ。多少は家族と過ごす時間ができた。それでも、長居はできない。当初の予定だったら、1年は戻ってくることはできなかったのだから。


 薄紫の着物の袖口を自分へ寄せながら、覚師かくしは孔明の凛々しい眉を見つめる。


「今日もパーティーかい?」

「そう。ボクの公演を主催してくれた人のパーティーだからね、主役が行かないわけにはいかないでしょ?」


 公演だけすればいいのではない。大先生もいろいろ大変。迎えてくれる人がいるからこそ、自分の仕事は成り立っている。それならば、それに応えなくてはいけない。付き合いというものは大切だ。


「いつ、帰ってくんだい?」


 この覚師の質問から、孔明の様子がなぜかおかしくなった。甘々の声で、語尾が疑問形に激変。


「明日だったかなぁ〜? それとも、今日かなぁ〜?」


 策士のように理論派ではなく、独健みたいな感覚派。覚師はけげんな顔に変わった。


「何だい? あんたにしちゃ珍しいね、曖昧あいまいな言い方するなんて」


 それには何も言わずに、孔明はシルバーのブレスレットをする手を横に振って、


「じゃあね、バイバ〜イ!」


 エキゾチックな残り香を残して、瞬間移動で消え去った。ボックス席から下を眺めていた、ヴァイオレットの瞳には、他の客たちが思い思いの休憩時間を過ごすために、ザワザワとしている様子が映っていた。


「おかしな感じがしますね〜、孔明こうめいは……」

「また、独健どっけんでも引っ掛けてんじゃないの?」


 焉貴これたかはそう言って、床に散らばっている花びらをパッとつかみ、自分の上へ投げ、再び色とりどりのシャワーを浴びた。


 何だか雲行きが怪しくなっていたが、彼らより少し離れたところで、子供1人が嬉しそうに大声を出した。


「夕霧パパ、たかパパ!」


 カーキ色のくせ毛で、羽布団みたいな柔らかさの低い声で、いつもの口癖が出た。


貴増参たかふみなので、省略しないで呼んでください」

「あんた、子供にまでそんなこと言ってんのかい?」


 キョトンとした子供の隣で、覚師の粋で鯔背なツッコミが入ると、他の配偶者が一斉に笑った。


「あははははっ……!」


 そんな彼らの声さえも、コンサート会場のざわめきに吸い込まれてゆく。まだまだこれから続くディーバの歌の数々。期待を胸に待ち続ける人々の熱気に溶けていった――――



 ――――一瞬のブラックアウトと無音のあと、光命ひかりのみことは上階へと続く階段の下に立っていた。


 この世界に初めて来た時、よく思ったものだ。美しいものはどこにもなく、美しいように見える物で埋め尽くされた場所。家や物、人どころではなく、空気さえも不浄。


 光命は階段を登る。合理主義の彼は、自宅では絶対に歩かない。そのため、浮遊ですうっと斜め上に向かって進んでゆく。


 思い出す。この階段を登るのは、今ので1052回目。そのほとんどは、あの女が自分の足を使って上がってゆく隣で、飛んでいた。


 少しカーブのあと、階段を上りきった。電気のついていない廊下。扉は3つ。光命は迷いもなく、真ん中の引き戸の前に立つ。次の瞬間、それを開けることなく、部屋の中に立っていた。


 もう夜だというのに、明かりはたった1つだけ。卓上電気スタンド。アンティークのもので儚げな暖色系が、本棚の隣で止まっている。


 本棚は天井までの大きさのもので、本が入りきらずに、前後に2列にしまわれている状態。プリンターの電源ケーブルはいつ足を引っ掛けてもおかしくないほど、床にだらっと横たわっていた。


 それとは反対側にある窓。外に夜色が広がっているというのに、レースのカーテンのまま。その向こうのガラス窓に、女が1人映っていた。机の上で分厚い本を開いて、こんな言葉をつぶやいている。


「ん〜〜? 声……入り乱れる? ひずむ? ここはどっち――」


 だが、不思議なことに女の口は動いていない。それなのに、光命にはその声がはっきりと聞こえる。滑舌かつぜつはよくなく、女性にしては低めの声で、色気も何もあったものではなく、さっきいた倫礼りんれいのように強さというものが少し欠けている。


 光命が真正面に顔を戻すと、長い髪を乱雑に後ろで1つにまとめている彼女の後ろ姿が目に入った。安物の椅子に腰掛け、PCの画面が彼女の前で、白い光を発している。


 その左側には、デュアルディスプレイの画面があり、音楽再生アプリのウィンドが開かれている。それは再生中。彼女の耳にあるイヤフォンからは、前はR&Bをよく流していた。


 光命にはその音は聞こえなかった。だが、意識を傾けると、聞こえてくるのだ、不思議なことに。もう1人の倫礼の最近のお気に入り。それはループするように、同じメロディーが何度も何度も繰り返すのを、売りとしているポップバンドの曲。


 辞書で調べ物をしている。かと思ったら、突然、椅子の上で右に左にノリノリで揺れながら、PCのキーボードをパチパチと打ち出す。


「よし、ここは入り乱れるで……んん〜♪ んん〜♪」


 部屋には衣擦れの音がするだけで、女の声はやはり響いていない。だが、光命にはきちんと聞こえている。


 そうして、今度は飲みかけのジュースに手を伸ばし、ゴクゴクとのどを鳴らし、かたわらに置いてある携帯電話の着信バックライトが不意についた。それを横目で見つめ、何かを確認。


「Facebook……ゲームアプリ……」


 6畳の狭い部屋。197cmの光命の歩幅では、2、3歩で十分である。女のそばに行くには。もう距離にして、10cmまで迫っていた。


 だが、もう1人の倫礼はまだ全然気づいておらず、強風に吹かれた木々が荒れ狂うように、頭を縦に振り、座っているのに足を斜めに蹴り出し、リズムに乗りに乗っている。


 光命の優雅な笑みは一層濃くなる。自分が聞かないような音楽を聴いて、そのリズムを全身で取って、座っているのに踊っている我が妻。ある意味、起用であるのを前にして、中性的な唇に手の甲を当て、くすくす笑う。


(おかしな人ですね、あなたは)


 それでも、全然気づかない。もう1人の倫礼。光命ひかりのみことはなぜ、彼女が気づかないのか知っている。わざとやっているのである。愛する妻の姿をこっそり眺めて、楽しむために。


(彼女の霊力は右側の方が強い。

 ですから、そちら以外の場所に立っても、気づかないという可能性が78.69%)


 光命の影は部屋には映っていない。彼の甘くスパイシーな香水の香りもしない。他の人からこの部屋をのぞいたら、こう見える。女が1人、PCに文字を打ち込みながら、リズムに乗って踊っている。光命は存在どころか、輪郭もない。


 右側へ一歩踏み出し、神経質な顔をのぞかせた。すると、もう1人の倫礼は踊るのをピタッとやめ、PCから手を離した。


 しかも、まるで幽霊でも見たように、自分の目を疑った、紺の長い髪を持ち、冷静な水色の瞳が部屋にさっきからいたことに。もう1人、いや、ここからは倫礼りんれいだけにしよう。


「あれ? ひかりさん、今日、コンサートじゃなかったでしたっけ?」


 さっきいた倫礼はタメ口だった。だが、この倫礼は自分に対して、丁寧語。いつもそう。それを直して欲しいとか、そんなことは願わない。彼女がそう望むなら、それでいいと光命は思っている。いや、それが逆に、自分に至福の時をもたらすのだ。


 吸い寄せられるように細く神経質な指先は、結婚指輪をともないながら、倫礼の頬に伸びてゆく。


「今は休憩時間です。子供もいますからね、何時間も1箇所にいることはできませんから、適度に休みを入れないと、可哀想ですよ」


 光命の手のひらに、彼女の感触が広がる。だが、今目の前にいる倫礼にはそんなことも感じ取れない。いや、見えてもいない。それでも、全然気にした様子もなく、自分が住んでいる世界とは違う、コンサートの休憩時間の存在に大いに感心。


「さすが、子持ちのディーバさんって言うか、れん


 もうこれ以上は入りませんと言っているようなゴミ箱。と、彼女の間に光命は片膝をついてひざまずく。黒の細身のズボンは、ゴミ箱を素通り。


「あなたへの懺悔ざんげの時間です」


 あきれた顔をした倫礼は、自分よりも下になった光命の逆三角形の両肩に手を置くが、彼のラインをすうっと通り過ぎて、腕の中央あたりで止まった。


「だから、それはもういいって言ってるじゃないですか」


 いつも穏やかだが、イライラしてくると声を荒げる倫礼。口は動いていない、だが心の声はちょっと大声になった。その響きは光命にはよく聞こえている。紺の長い髪は強情という名で横に揺れる。


「いいえ、ルールはルールです。決まりは決まりです。あなたを14年間待たせたのは、事実です」


 倫礼も知っている。光命はPC並みに融通ゆうづうがきかないと。ここで違うと否定しても、同じことの繰り返しになり、永遠続いてゆく。そんな日もあった。


 だからこそ、今日こそは、何としても、この目の前にいる男を打破しなくてはいけない。いや、罪だと勘違いしている人を助けなくてはいけない。


 倫礼はちょっと怒った顔だったが、声のトーンは落として、もう1人、14年間待っていた妻の名を口にした。


「それって、知礼しるれさんにもしてるんですか?」


 夫婦はたくさんいる。共有している話もあれば、そうでないこともある。特に、この倫礼は地球から離れられないのだから、名前に『みこと』だの『明王みょうおう』などがついている人々が暮らす世界のことなど知らないのである。


 光命は両手のひらを上にして、神経質な顔の両側へ上げ、優雅に降参のポーズを取った。


「しようとしましたが、待ったとは気づきませんでしたと言っていたので、彼女にはもうしていませんよ」


 あのどこかとぼけた感のある知礼しるれなら、気づかないだろう。14年間、自分はただただ、光命ひかりのみことを愛しており、他の友達が結婚していこうと、自分は自分で幸せだと思って生きてきたはずだ。


 倫礼りんれいは机の上に置いてあった色ペンを持って、ちょっとイライラした感じで、カチカチとペン先を出してはしまってを繰り返した。


「私はどっちかって言うと、14年間待ったんじゃなくて、必要だったんだと思うんですよね」


 さっきから、光命の姿は見えていない。だが、倫礼は誰いもないところに向かって、話しかけている。はっきり言って変な人。世界のズレが生じている。しかし、それは彼女の霊感というものでつながっている。そんな2人。


 当然、同じ物事を見ても、光命とも知礼とも全然違う解釈をしている倫礼。自分と同じように落ち着きのない彼女の言動を、しっかりと冷静な頭脳にしまった。


「どのような意味ですか?」


 なぜ、18人のバイセクシャル婚になってしまったのかの歴史が、地球で生き、肉体を持っている倫礼から語られる。その内容は、スピリチュアルが目を見開くほど、斬新なものだった。


「私は霊感をもともと持ってました。でも、それは感じる程度で、見えたり聞こえたりはしなかったんです。視線を感じるなぁ〜ぐらいでした」

「えぇ」


 よくあるだろう。墓地に行くと、自分たち以外のたくさんの視線がある。しかも、こっちに集中している感じ。


 倫礼は小さい頃、おおよそ心霊現象と言われるものは怖かったのだ。見えないのに、感じるから。対処のしようがない。正体が不明。幽霊の話など聞いたら最後、1人で眠れない、トイレにも行けない。そんな恐がりな少女だった。


 だが、転機が訪れたのである。


 倫礼はペン先が出ていないそれを、メモ書きの上でゆらゆらと揺らした。


「ですが、ある日……ひかりさんたちが生まれる前の話ですよ。神様にお祈りをするようになったんです。そうしたら、神様が見えるようになったんです。でも、はっきりとではなくて、イメージとして頭に浮かぶみたいな感じです。声を聞き取ることはできなかったです」

「えぇ」


 そう、彼女は幽霊ではなく。もう1つ上の、神レベルを突然、霊視できるようになってしまったのである。人の霊を見る。それはよく聞く話だろう。


 世界はこの順番で重なっている。一番下が地球である物質界、人間が暮らす世界。彼らが死んだら行く霊界。そうして、光命たちが暮らす神の世界、神界しんかい


 1つ抜かしてしまったのである、倫礼は。幽霊は怨念など色々と持っているし、悪意のある者もいる。脅かしてきたり、恐怖を植え付けようとする。


 だがしかし、神にはそんなことをする人はいない。しかも、見えて話ができる。正体がわかる。怖くなくなってしまったのだ。倫礼はその間にいる幽霊にも。成仏もしない幽霊など、神様お願いします! と頼んで、地獄に強制連行していただくである。


 だが、神が見える人はあまりいない。倫礼なりに悩んだ。


「幻、空想、はたまた、妄想……を見てるのかとも思ったこともあったんです。でも、他の人も同じものを同じタイミングで見てたので、やっぱり見えてるんだなと思いました。ただ……」


 小さい頃は見えていたが、大人になるとともに見えなくなる。だがしかし、霊能者として活躍する人は、逆なのだ。大人になってから見えるようになるのである。もれずに、倫礼もそれになってしまった。


 表情を曇らした倫礼りんれいの隣で、光命ひかりのみことがすうっと立ち上がった。


「どうかしたのですか?」

「この世界と価値観がずいぶん違うんです、神世かみよは」


 違うどころの話ではない。空は飛ぶは、急に現れるは。人以外の生き物が普通に生活しているは、生まれると18歳まで成長するは、名前が2つあるとか、バイセクシャルの複数婚が展開されているは、もう挙げればきりがないほどである。


 この世界で生きている人で理解できる範疇はんちゅうではなく、いたとしても一握りだろう。夫婦の中でも、ただ1人別の世界の価値観の中で、生きている倫礼の苦悩の日々は続いた。


「だから、この世界の人に話すと変な顔をされたり、嘘つきだと言われることもあって……信じようという気持ちは、引き伸ばした綿が切れるかどうかの寸前の、すごく曖昧でもろく儚かったんです」


 誰にも話さなかった。知られないように、おびえながら生きてきた日々。それでも、自分の価値観はもう変わってしまっており、神界の美しさ楽しさを知っている。それを手放すことはできなかった。


 まるで何かにすがりつくように、ぎゅっとペンを握りしめている倫礼の手を、光命は両手で優しく包み込んだ。


「具体的にはどのようにですか?」


 霊感はとても繊細なもの。失いやすい。だから、倫礼もその運命をわざと歩もうとした。


「大人の神様の姿は見えても、声は聞こえなかったんです。でも、5歳の子供の声は聞こえてました。霊感とかって、本人が聞こえない、見ないって決めたら、もうそこでなくなる、そういうものじゃないですか?」

「そうかもしれませんね」


 だがしかし、この他人優先で、自分のこと後回しの鈍臭くて失敗ばかりと、れんをイライラさせた女は、霊感を捨てることができなかったのである。ある人たちの心を守るために。


「だから、この世界で生きていくのに必要ない。……そうじゃなくて、変な目で見られたり、孤独になるのが怖くて、何度も見ないように、聞かないようにしようとしたんです。でも、5歳の子供が話しかけてきてるのに、無視することは私にはできませんでした」

「あなたは私が生まれる前から、強く優しい人だったのですね」

「それは、ひかりさんが生まれたあとの話ですよ」


 人間の子供の比ではない。純粋な瞳で無邪気に話しかけてくる。自分がたとえ、聞き流そうとしても、悪意で取らない。聞こえないのかな? 考え中かな? としか言わない。無視しているなんて想いは出てこない。そんな彼らを前にして、返事を返さない方がどうかしている。


 小さな神がいなかったら、今の倫礼も光命もいなかったのである。子供の力は偉大だとよく言うが、神世でも同じであった。


 14年前から、倫礼りんれいを待たせたと言っている光命ひかりのみこと。陛下から命令を受けたのは、3年前。その前の彼女のことを、光命は何も知らない。だが、倫礼は知っている。ここは複雑な事情と、皇帝陛下、いや女王陛下からの許可が下りていないのでスルー。


 十字のチョーカーの前で、細く神経質な指先はあごに当てられた。


「私のことはどのようにして知ったのですか?」


 確かに気になる。倫礼はどうやって光命を知ったのか。彼女は少し微笑んで、こんなことを言った。


「物語のモデルにひかりさんが出てたので、それでです」

「えぇ、そちらに関しては、私もイベントなどに参加したことはありましたよ」


 月命るなすのみことと同じように、光命も物語への出演許可をOKしていた。しかも、光命は出た作品が多数。これは、ゲームイベントや映画の試写会のようなものだ。演じた声優や俳優と一緒に、モデルになった人もステージに登場するというもよおし物。


 イベントに参加したことはなかったが、倫礼は我が夫にニヤニヤした顔を見せた。


「それで、今でもファンが時々、サインを求めてやってくるんですね? 夕霧さんに聞きました、それは」

「えぇ、ピアニストとしてではなく、るなすのように、物語のモデルとして、握手を求められたりは今でもします」


 下手をすると本業ではなく、モデルの方でファンに囲まれる現象が多発しているような日々。今日、武術大会が行われたメインアリーナの通路でも、人々の視線を注目させた光命。


 そんなことを知らない倫礼でも、世界が違うなりに見 れる。我が夫の端麗なかんばせを、結婚しているからという理由で、無遠慮に見始めた倫礼。


「やっぱり、綺麗だもんなぁ〜。これも聞きましたよ、夕霧さんに。人混みを歩くと、みんな振り返るって……」


 彼女の表情はどんどん壊れてゆく、まるでムンクの叫びのように、口を大きくゆがみ開けて、変顔へんがおになって。


「私は振り返るどころじゃなく、口をぱかっと開けて、もだえ死にに――」

りん、話がまだ途中です」


 彼女とは対照的に綺麗な光命から、冷静に注意がやって来た。


 そうだ。子供としか話せなかったと言っていたのに、今きちんと大人とも話している。その過程の説明がない。


 倫礼は手を軽く上げて、ノーマルモードに即戻った。


「おっと、そうでした。それでですね、最初に話した大人の人はれんだったんです」


 やはり運命だった。最初の夫だったとは。


「そちらは、本人に聞きました。陛下から分身したそのあとすぐに、あなたの元へ行って話したと……」


 れんは倫礼のために、陛下から生まれてきたのだ。彼女がいなかったら、彼もいないのである。愛する我が夫の話。光命は聞いていたが、倫礼は顔を前に突き出して、ウンウンと縦に大きくうなずいた。


「あぁ、そうなんですか。今初めて知った。れん、言葉足らずで、言わないこと多いからなぁ」


 いつも蓮はそうなのだ。恋愛関係のことは言わないのである、倫礼には。そんな甘い言葉聞いたことがない。暴言や俺様発言はよく浴びせてくるのに、本当に変わっている夫である。


 光命ひかりのみことは全てを記憶している理論派。だが、目の前にいる妻は感覚。


「なぜ、彼が最初だと覚えているのですか?」


 そうだ。神様はまわりに何人もいる。誰が話しかけてきたなど、感覚の倫礼が覚えている可能性は非常に低い。


 だがしかし、倫礼の脳裏にはある場所が鮮明に浮かび上がった。それは新宿駅の南口。サザンテラスのとあるレストラン。1人で行った2名席。その反対側に座っていた男の姿を、今でも昨日のようにしっかり覚えている。


「それは……翌日が、あの3月11日の大地震だったからです。あの日、何かが起きるって、前から知ってたんです……」


 光命には霊感も直感もない。曖昧な感覚というものが彼にはない。当然、知りたがった。


「どのように知ったのですか?」


 倫礼りんれいの瞳は涙でにじんでゆく。


「前の年の4月下旬に夢で見たんです。3月11日っていう日付が、目の前から迫ってくるのを……でも、その時は何を表してるか、わかりませんでした。地震が起きてから、気づいたんです。このことだったんだって……」


 霊感とは時には厄介なのだ。知らなければ悩まずに済むことを、知っているがために、罪悪感を覚える。あの震災は他の人にとっては突然の出来事。だが、自分は予告を受けていた。何か自分にできたことがあったかもしれないと、倫礼は後悔する。


 倫礼の頬を涙がポロポロと落ちてゆく。声にも出さず、静かに泣く。理論派と感覚。似ているところがないのに、こんなふうに泣く彼女と自分は、やはり似ていると思うと、愛おしさは一層濃くなり、共鳴という波紋が光命の心にも広がってくる。


 愛する我が妻を理解したいと願う。だがそれは叶わない。こんな感じかもしれないとまでは突き止められても、完全に重なって感じることはできない。光命は夕霧命ゆうぎりのみことを愛していた同性愛で悩んだ自分の記憶と重ねてみた。


「人と違う……」


 ピアニストだった光命は知らない。地上でそんなことが起きたのも。地球を守護していた神でないとわからない。さっきも言った通り、この世界はサブなのだ。だから、メインの世界の人たちは、ほぼ知らないのである。


 電車は全て止まり、歩いて帰宅する人が歩道にあふれた。車道は大渋滞、路線バスはぎゅうぎゅう詰め。コンビニには何も物がない。それでも、倫礼は運よく、40分ほどで職場から帰れたのである。大混乱の首都東京で。


 倫礼は涙を拭い、ズーズーッと鼻をティッシュでかみ、ぽいっとゴミ箱に投げ捨てた。


「はい……。でっ、まあ、れんには出会えたんですけど、この世界の経験がないので、私の守護神はできないわけです」

「えぇ、私も最初できませんでした。特例が出ない限り、こちらの世界への関わりも持てませんからね」


 生死がかかっている世界で生きている人間を守り、導く神だ。重力は15倍。怪我もする、病気にもなる。必ず最後に死が訪れる。価値観も違う。神世の常識が通じない。


 蓮はいきなり神界に生まれたのだ。もちろん、地球での一生など送ったことがない。そのため、倫礼の守護神はこの人になったのだ。


「だから、父上が最初、私の守護神だったんです」


 本能寺を燃やしてしまった人である。地上では謀反むほんだの三日天下だのと言われている。だが、神界ではなぜ、あの行動を起こしたのか、人間では到底理解できない慈愛の理由があったことは有名な話。神でも思わず尊敬でひれ伏してしまうほどなのだ。だから、みんな、明智になりたいのである。


「あなたのお父上は、陛下から分身しましたが、そちらでの経験はありますからね」


 倫礼の父親も、蓮のように陛下から分身したのだ。だがしかし、人間界での経験はきちんと受け継がれた。陛下の歴代の過去世にしては珍しく、落ち着いた人物。


 神界は大きく分けて、2種類の人がいる。この世で生きたことがある人。転生したことがない人、すなわち、神世でしか生きたことがない人。


 少し考えてみればわかると思うが、人が死に、新しく生まれてくる。すぐ転生するとは考えにくい。ということは、ストックがいるはずである。


 実は、この世に生まれているのは全体の10%にも満たないのである。しかも、それは霊界の話であって、神世ではない。神になった者は、人間界へはよほどの理由がないと生まれてこない。


 次の話は、おそらく倫礼りんれいしか感じ得ないものと思われる。彼女は少し戸惑い気味に話し出した。


「それでなんですけど……」

「えぇ」

「この世界で生きてた人の声って、大きくはっきりしてて聞き取りやすいんですよ。だから、みんなの中では孔明こうめいさんが一番聞き取りやすいんです」


 夫は9人いる。だが、この世で生きていたのは孔明だけ。違うのだ、彼の声だけ。最初会ったのは、焉貴これたかが孔明を家に連れてきた時である。しかも、あの策士、どうやったのか、この部屋に来たのである。勝手に出入りができないはずの、地球のこの場所に。


 光命の斜め後ろにあるドアのあたりで、焉貴と立ち話しているのを、倫礼ははっきりと聞いたのだ。そのため、彼女は地上で生きたことがある人だと判断し、今まで名前を聞いたことがある人を思い浮かべた。すると、彼女の得意技、直感が働き、孔明だと断定。


 コンサートが始まる前。漆黒の長い髪を持ち、瑠璃紺色の聡明な瞳の夫の言葉を神業のごとく拾い上げて、光命ひかりのみことは同意した。


「疑似体験と本当の体験の違いがあるのかもしれませんね」


 夫も子供もいるのに、倫礼はファザコン。散歩をしながら隣を歩いて、娘として過ごしてきた日々を思い返す。


「父上とは色々な話をしました。相談もたくさんしました。この世界の家族にではなく、父上に育ててもらったのだと思ってます。それからは、大人の神様とも話ができるようになったんです」

「厳しくお優しい方ですからね、義理のお父上は」


 光命は窓の外を見つめる。彼の顔はこの世の窓ガラスには映っていなかったが、神世の外には別のむねが建っていた。そこに何度か行ったことはある。婿養子として結婚の挨拶に来た時。年末年始。自身の子供が世話になったことなど。


 物思いふけっている光命の耳に、倫礼の少し憤慨した声が入ってきた。


「でも、れんがいちいち口出ししてくるんですよ。だから、言ってやったんです」


 夕方のカフェで、蓮が言い争いのケンカばかりだったと話していた。それを反対側から見たらどう映っていたのかと思って、光命は優雅に微笑んだ。


「どのようにですか?」

「私の守護神じゃないのに、指図しないでよね! したいんだったら、守護神になってみれば〜! って」


 倫礼、かなりの強気だった。あの俺様にもやはり負けていなかった。さすが、夫婦である。そうでなければやっていけない。神とか人間とかそういうのはどうでもいいのだ。1つの存在として、カチンとくるのである。


 どんぐりの背比べをまた前にして、光命はくすくす笑った。


「おかしな人ですね、あなたも」

「そうしたら、れん、翌日から守護神の研修に2週間行っちゃったんです」


 倫礼が正論だ。資格もないのに、守護しているみたいに、口出しするとはおかしい。蓮も筋が通っていないことは許せないタイプ。だから、本当に守護神になるために行ってしまったのである。


 他の配偶者の前では、口数は少ないが、きちんと対応している蓮。それなのに、この倫礼りんれいの前だけは、人が変わったみたいに暴言を吐き、きつい言い方をし、時々後頭部をパシンと叩く。


 光命の笑い声はさっきから途切れることがなかった。


「そちらの研修は私もきちんと受けました」


 陛下に行くように命令は下されても、例外はなく、光命も疑似体験で、この世を体験したのである。倫礼はまだまだ熱く語り中。


「で、帰ってきたら、態度デカデカで、父上かられんに守護神が変更です」


 父としては、娘と義理の息子の成長と愛をはぐくむようにと思って、席を譲ったのであった。だがしかし、この2人はもう、とにかくケンカになるのである。おそらく、同レベルなのだろう。微笑ましい限りだ。


「カチンと来るようなことを言ってくるんですけど、守護神なので……こう、グッとこらえて、8年やってきました。その間に子供も生まれて、隆醒りゅうせい美咲みさき百叡びゃくえい我論うぃろー……と4人です」


 事務所の廊下ですれ違う、銀の長い前髪を持つ男。蓮のプライベートを知ったのは、2年前であり、その前はない。同僚として、見かけてきただけで。他に例のない、妻が別の世界で生きている家庭を持つ男。


 光命は今や自分の子供となった息子と娘の姿形、性格を思い返しながら、彼らもまた異例の中で、小さいながらも生きていると思うと、冷静な水色の瞳は少しだけ潤んだ。


「そのような私生活の元で、私と同じ職場で過ごしてきたのかもしれませんね、れんは」


 そうして、脱線しつつも、倫礼の話は結論にたどり着いた。


「こういうことがあった今だから、ひかりさんと話ができて、姿が見えるようになったんです。だから、14年間待ったんじゃなくて、14年間が必要だったんです。だから、光さんが私に懺悔をする必要はないんです」


 14年前に会っても、倫礼は今みたいに話せなかったのだ。意味があって、14年間は存在していたのである。物事はそう言う風にできている。今は悲劇や苦痛色で染まっていても、ある日突然風が吹いて、至福や歓喜に変わる日が来るのだ。バットエンドはもうなくなったのだ、どの世界からも。


 光命ひかりのみことは机に腰をもたれ掛けさせ、倫礼を斜め前から見る形になった。


「そうですか。あなたの私に対する気持ちはどのように変化したのですか?」


 自分が知らなかった14年間。姿も見えず、話もしたことがない。それでも自身に恋い焦がれている女。何だかおかしな感じもする。だがしかし、倫礼のマニアックという名の恋の話が出てくる。


 人差し指を立てて、頭をぽりぽりとかく姿が、オレンジ色の明かりで影として床に切り取られていた。


「え〜っと、最初はその思考回路――いわゆる、事実から可能性を導き出して、小数点以下2桁まで計算する、に興味をかれたんです」


 人混みを通れば、誰もが振り向くほどの綺麗な神。だったが、彼女はそんなところではなく、中身を好きになったのだ。


 理論派と感覚。真逆。理論の人には感覚がわからない。それと同じように、感覚の人には理論がわからない。


「感覚だった自分には未知の世界でした。でも、ハマるとパズルみたいに面白くて……。自分なりに、ない頭で考えたんですけど、オーバーヒートしてしまって、深く眠れなくなったんです。眠ってても、浅い夢の中で考えてるみたいな感じで……。そうして、3ヶ月過ぎた、ある日、寝不足で気を失って倒れたんです」


 そう、倫礼りんれいはある朝、それでも起きてきたのだ。光命の思考回路を理解するのが楽しくて。布団から出て、書斎机の椅子に手をかけた。彼女の頭の中は、事実と可能性がパレードを続けていた。


 だがしかし、誰かの心配する大声が響き、目を閉じていることに気づいたのだ。そうして、まぶたを開けると、頬が床について、横向きになっていたのである。そこでやっと、彼女は椅子に手をかけたあと、気絶したのだと気づいたのだった。バカみたいにのめり込んでいた、光命に。


 守護神の研修に行っている目の前にいる神、光命は知っている。気絶することがどんなものなのか。神世ではまず起きない、そんなことは。肉体という不完全なものが存在しないからだ。


 自身も疑似体験で何度も倒れた経験がある。そうまでしても、自分を恋い焦がれたいる、目の目にいる人間の女。彼女の髪を、結婚指輪をした手で優しくなでた。


「あなたはいつでも一生懸命ですね」


 だが、想いはすれ違っていったのだ。倫礼は真っ直ぐ前を向いたまま、ぽつりとつぶやいた。


「でも、そのあと聞いたんです。ひかりさんに彼女ができたって……」

知礼しるれのことですね」


 彼女の名前を知るすべがない、人間の倫礼には。まわり、いや神が勝手に動いていってしまう。どんなことが起きても、自分に拒否権はないのだ。一方的に物事は進んでゆく。神が見える霊感とはそんなものだ。


「神世は別れたりしないじゃないですか? だから、心は痛んだけど、ひかりさんが幸せならそれでいいと思って……生きてきました。自分もれんと結婚したし、それが幸せだったし、よかったんだと、これが続いてゆくんだと思ってたんです……」


 それからの日々を思い出すと、倫礼はまた静かに泣いた。いつまでも、みんな離れたまま、2人夫婦で生きてゆく。それが普通だと、当たり前だと信じて疑わなかった。


 そこに追加された彼女の生活は過酷だった。まるでこんな日々だったのである。


 流れ弾や投下される爆弾が自分のまわりで落ち続ける戦場を、女1人で何の武器も持たず、装備もせず、ただひたすら走り抜けてゆく。


 時には怪我をし、病気になり、それでも、家族からの失踪しっそうという、孤独の中で1人で走るしかなかった日々。


 現代医学では治らない病気になり、薬を飲むが効かない毎日。立っていられないほどの悲しみに襲われ、号泣し続ける症状の中でも、働かなくてはいけない。そんな運命を駆け抜けてきた。


 誰からも見捨てられたと倫礼は思っていた。もはや、霊感など使う余裕もなくなり消え失せ、何もかもを失ったのだと、ただただ荒野の戦場に1人立ち尽くした。


 だが、神はきちんと見ていてくださった、それが光命ひかりのみことなのだ。細く神経質な指先で、倫礼の頬に伝った涙をぬぐい取るが、本物の雫はむなしく彼女の膝の上にギザギザの波紋を作った。


「あとは私が見ていたから知っています。こちらの世界では、心のつながる人は誰もおらず、あなたは本当に1人きりで、東京という大都会で生きてきた。それでも、あなたは何事からも逃げなかった。死につながる犯罪が目の前で起きようとも、何が起きようとも。私は3年前からずっと、あなたから見えない場所で見てきました。陛下に命令を下された時、なぜこのような命令を下されるのかと考えました。ですが、命令は絶対です。ですから、あなたのそばに来ていました」


 倫礼は鼻をブシューッとかみ、充血した目で話を続ける。


「そうだったんですね。私は気づかなかったです。だけど、去年、書いた小説のモデルをひかりさんにしたものを書くうちに、この人と結婚できたら私は幸せだろうなと思うようになったんです……。でも、私は不道徳で、不誠実だと思って、見ないふりをしてたんです」


 焼けボックリに火がつく。まさしくそれだった。偶然というのはない。全て必然。その小説を書こうとしたのも、神様のお告げ、お導きだったのだろう。デジタル思考回路満載の物語。どうやったって、倫礼りんれいは光命に近づかざるを得なかった。


 光命は人間ではない。情や欲望で、困っている女を助けようなどとは思わない。命令を守るだけ。たとえ、誰かを愛するにしても、そこまでのプロセスは事実と可能性から導き出した小数点を含む4桁の数字。それがある一定以上の数値にならなければ、絶対に言動は起こさない。


「えぇ、あなたは悩んでいました。神の私には人間の心は筒抜けです」


 蓮が言っていた話はこういうことだったのだ。それでも、奇跡は起きたのである。一生懸命頑張った倫礼を神は見ていてくださったのである。


 光命の中の可能性の数値は上がり続け、とうとう一定の数値に達し、それがさらに上がり、100%、確定した。光命は、このもう1人の倫礼を愛していると、愛していこうと決心したのである。


「しかしながら、その時は既に、私もれん知礼しるれも、全員、他の3人を愛していたのです。よく覚えていますよ。こちらの部屋ではなく、隣の部屋で、今のようにあなたがPCでそちらの小説を書いているところへ、私が初めてあなたの前に姿を現して、結婚すると伝えた時の、あなたの号泣した姿を……」


 自殺を図ろうとする患者を収容する精神病棟への保護入院。自分を理解できない家族が暮らす実家に、戻るしかなかった倫礼。その静養中の出来事だった。


「はい……。私はずっと、ひかりさんのことが好きでした。でも、他の人と結婚しました。それは惰性だせいとか身代わりとかそういうのじゃなくて、本当に、真実の愛で結婚したんです。だけど、光さんへの想いは消えませんでした。でも、今考えれば、こうなる未来があったから、好きという気持ちは生まれて、ずっと消えなかったのかもしれませんね。神様の上には神様が、その上にはさらに神様が、無限に宇宙は重なってるから……全てが真実の愛だったんですね。14年経って、ようやく答えが出ました」


 ここでも、嘘偽りの日々は消え去ったのだ。倫礼は昔から不思議に思っていた。なぜ、こんなに光命に自分は惹かれるのかと。答えが出なかった。だが、何てことはない。夫婦になる運命だったのである。


「えぇ」


 細く神経質な指先が、紺のおくれ毛を耳にかける。その仕草は部屋のどこにも、影としては映っていない。途切れた会話。それでも、この2人には幸せな時間。


 肉体を持っていても、倫礼にとっては、他の人がどう見ようと、何と言おうと、向こうの世界でも、夫であり、夫婦であり、家族なのだ。


 霊感のない人から見れば、彼女はひとりぼっちだと思うだろう。だがしかし、彼女はたくさんの愛の中で生きているのである。


 倫礼はふと思い出した。憧れの人と結婚をして、またさらに結婚しての日々。その中で、光命が夕霧命ゆうぎりのみことと自身の関係を、どこか遠くを見ているような瞳で、こう言ったのを。


『そちらの世界でしたら、BLというのかもしれませんね』


 他と自分をまるで、線引きするような言い方だった。倫礼は悲しくなったのだ。なぜ、自身の気持ちを否定するようなことを、この人は、いや神は言うのだと。


 性別など関係がないだろう。人を愛することは尊いものであり、素敵なことなのだから。そのために、神の導きだったのだと、光命に伝えたのである。


 倫礼の涙はすっかり乾き、ジュースをグビッと飲んで、夫婦18人を思い浮かべて、彼女らしい前向きさを大披露。


「それから、たぶん同性愛というものを広めたいのかもしれないですね? 神様の神様の神様の神様の神様の神様の神様の神様の……そのまた上の神様が……」


 壊れた機械みたいに、同じ言葉を何度も何度も言い続ける我が妻。光命ひかりのみことは手の甲を中性的な唇に当てて、くすくす笑い出した。


「おかしな人ですね、あなたは」


 こんなお笑い好きな女なのだ。14年前から見えるようになった霊感。それはいつだって、自分が見たものが、この世界で起きるまでにはタイムラグが生じてきた。だから、倫礼りんれいは今の複数婚がどうなるのか、前向きに捉えてみた。


「同性愛のえある1号となったんです。みんなは……。そして、地上に、私が生きている世界に同性愛を認めるという価値観が落ちてくんだと思います」


 まるで魔法でも使ったみたいに、光命の心の中の可能性の数値を簡単に変える女。いや、ただの女ではなく、人間の女。だが、焉貴これたか夕霧命ゆうぎりのみことに言っていたように、この世界の1日は、神世の300〜500年に相当する。14年しか生きていない光命のさらに先を、この倫礼は生きているのだ。


 それなのに、守るべき人。不思議な関係。光命はある衝動にふと駆られた。


「それでは、あなたを抱きしめる時間です」


 ある意味、蓮に負けず劣らず、素直でない光命。抱きしめたいと言えばいいのだが、こんな言い方をする。倫礼は照れたように笑った。


「ありがとうございます」


 白いカットソーの細い両腕は伸びてゆき、甘くスパイシーな香水の香りをまき散らしながら、そっと抱きしめる。最愛の妻を。


(あなたはどのように感じているのでしょう?

 神の私には、あなたの姿形をきちとつかめます。

 ですが、人間であるあなたには……。

 私を見て、話すことはできても、触れられない……。

 それでも、信じ続けて、愛し続ける。

 あなたはとても強い人だ)


 残念ながら、倫礼はおおよそ、ここであるだろうところで、おとなしく身をまかせるしかできない。感触も匂いもない。それでも、彼女の心の中に、彼は間違いなくいるのだ。


(私の14年間は何も間違ってなかった。

 迷ったり、諦めたり……死のうと思ったこともあったけど……。

 可能性がゼロじゃない限り、やっぱり諦めちゃいけないんだ)


 未来という軌跡は何本も引かれている。選択肢でいくらでも変わる。よく聞く、諦めたらそこで、試合終了だと。そうなのだ。倫礼が死んで帰っていたら、光命は今もここにはおらず、夕霧命ゆうぎりのみこととも結婚していなかっただろう。悲劇が悲劇のままで続いていったかもしれない。


 ひたすら生きてきたからこそ、今がある。素晴らしい話だったが、倫礼がムンクの叫びみたいな顔で破壊した。 


(って、シリアスシーンだけど……。

 幸せすぎるので、このまま気絶してもしいいですか〜〜〜!!!!)


 憧れの神の腕の中で、倫礼はとうとう壊れた。光命ひかりのみことは瞬発力抜群ですというようにパッと手を離し、サファイアブルーの宝石がついた指輪は、中性的な唇に口づけされ、くすくすという笑い声を間近で聞かされることになった。


「おかしな人ですね、あなたは」 

「おかしくないです! おかしいのはひかりさんです!」


 倫礼は指先を、神経質な綺麗な顔に突きつけた。何がおかしいかの話が、人間の女から出てくる。


「どうして、光さんは倫礼りんれいさんではなく、人間の私を好きなんですか?」


 光命は、あのサバサバした倫礼ではなく、こっちのメソメソしている倫礼を愛しているのだ。おかしい限りである。世の中こんなことが起きていいのだろうか!


 悪戯っぽく紺の長い髪を細い指先に巻きつけながら、光命はしれっと言ってのける。


「神が人間を愛するのはおかしいのですか?」

「それは普通、慈愛じあいっていう、違う種類の愛ですよね?」


 倫礼りんれいから疑いの眼差しが向けられた。慈愛なら納得できる。だが違うのだ。光命もおかしな神である、全く。


「1人の男性として、恋情を抱いてはいけないという決まりはどちらにもありません」


 ルールはルール。決まりは決まり。順番は順番。それが守られないのは絶対に許せないタイプ。秀美な規律の中で生きているのが光命。確かに、神が人間に恋をしてはいけないというのは聞かない。


 遊線が螺旋を描く優雅で芯のある男の声が、自分が愛しているのは倫礼だと言い切っている。だが、倫礼も割と、いやかなり強情な性格で、未だに信じていないのであった。その理由とはこうだ。


「霊界もそうですけど、神世は心の世界です」

「えぇ」

「だから、心の綺麗さがそのまま見た目になるわけですよね?」

「えぇ」


 イヤフォンをつけたまま、PCの前で1人きりの部屋で、倫礼は両手を大きく広げる。まるで晴れ渡る青空の下で、心地よい風が吹いてくる草原に立っているように。


「だから、神界は美女美男のパラダイス〜〜! もう、この世の俳優さん女優さんなんて、比じゃないほど綺麗で格好いいです。目の保養どころではなく――」


 霊感のある倫礼、結構いい思いをしていた。だが、どう見ても壊れている。光命が夫として、優雅にツッコミ。


りん、話がまた脱線しています」


 妄想世界から引きずり戻された倫礼はハッとし、無事に話の結論にたどり着いた。


「あぁ、そうでした。ひかりさんから見たら、人間の私は美しいどころか、見るも無残なみにくさだと思います。っていうか、絶対、そう見えてるはずです!」


 目の前にいるのは神である。そこらへんにいるレベルの低い人間の男ではない。見た目などどうでもいいのだ。自分が人々から振り返られるような、容姿端麗な日常を送っていたとしても。


 光命は少しだけかがんで、濃い紫色のロングブーツの端を引っ張りながら、こっちもこっちで言い返した。


「仕方がないではありませんか。倫礼りんれいの本体ではなく、人間であるあなたを愛してしまったのですから」

「でも、私は自分が死んだら、どうなるか知ってます」


 霊感はやはりいいことばかりではない。死後のことを知っている。それは、人間には耐え難い結末。


「…………」


 光命ひかりのみことの細く神経質な指先はロングブーツから離された。神である以上、人の未来など簡単に読み取れる。それがなかったとしても、守護神の資格を持っている以上、この世界がどんな場所で、死を迎えた時どうなるかはわかっている。それを踏まえての、導きなのだ。


 倫礼はデュアルディスプレイの音楽再生アプリがプレイされてゆくたび、白い小さな四角が右へ右へと動いていく様を見つめた。


れんに前言われたんです」

「どのようにですか?」


 我が夫。倫礼りんれいの夫。だがしかし、この倫礼に対しては、俺様神であり、こんな横暴な発言が言い渡されていたのである。


「お前は神のおまけだ。そのお前が、俺たちが誰と結婚しようと、否定権も賛成権も持っていない。だから、口出しするな。って」


 光命の両手のひらは上に向けられ、顔の両脇に上げられ、優雅に降参のポーズを取った。


れんにも困りましたね。あなたにやはり甘えているみたいです」


 神が人間に甘える。許されることなのだろうか。だが、倫礼は他人のこと優先で、自分のこと後回しの性格。だから、彼女はこう解釈したのである。


「でも、れんの言ってることはあってます。私には魂が宿ってません。だから、倫礼りんれいさんの魂の影響を受けて存在してるだけです。だから、死んだら、私という人間はいなかった。そういう記憶も抹消される……」


 隠された事実。自分の人生が無になる。耐えられる人間はいないだろう。何のために生きているのだと思うだろう。だからこそ、ひた隠しにされている結末。倫礼は知ってしまったのだ。神まで見える霊感を持ってしまったがために。


 そのため、彼女は身近な人が死んでも、泣かなくなった。ただ、肉体が滅びただけ。その人の存在はどの世界からも消え去った。そんな彼女が、他の人と同じ価値観で生きていけるはずがなかった。


 だからこそ、こんな出会いを彼女に、神はもたらしたのである。倫礼はすぐそばに立っている光命のベルトのバックルをちらっと見た。


「神世からすれば、私の人生は、たった数十年です。私が死んで帰っても、百叡びゃくえいは5歳の小学1年生のままなんです。ひかりさんにとっても――」


 687年で1つ歳を取ると、独健どっけんが最初に話していた。あのひまわりみたいな線を描く銀の髪を持つ子供は、自分が懸命に生きる数十年の人生を終えても、あのままなのだ。


 倫礼は神世とこの世の狭間で、自分という存在がとても虚しく小さいもののように思えて、また1つ涙が頬を落ちていった。光命の神経質な指先がそれを拭うが、また物質界では止めることはできなかった。


「あなたがどのように思おうとも、どのように言おうとも、私が愛したのはあなたなのです。彼女ではありません」

「でも、私は死んだら、倫礼りんれいさんの一部として取り込まれて、いなくなるんです!」


 今の倫礼はいなくなる。期間限定の自分。配偶者は全員永遠。孤独という鎖が四方八方から、倫礼の身を拘束しようと忍び寄ってくる。だが、光命が神の聖なる光でそれを粉々に砕いた。


「ですから、私は彼女の中に取り込まれた、あなたを見て、無限に永遠の世界で生きていきます」


 どこまでも人間の自分を愛していると言って聞かない神。しかも、長年付き合ってきた知礼しるれを差し置いて、9人いる妻も置いて、人間の倫礼を1番愛していると言う。彼女は少し皮肉交じりで言ってやった。


「そうですか……ひかりさんって、変わってますね。たった数十年で消えてしまう、幻みたいな人間を好きになるなんて――」


 だが、負けていない。策士の光命ひかりのみこと。言葉を自由自在に操れる。途中で優雅にさえぎった。いつもと違った口調になる。それは彼が本当のことを言っている時。


「いつも私はあなたの知らないところで、あなたを見ていた。あなたはいつも一生懸命。何事からも逃げ出さなかった。どんなに辛く苦しい出来事からも。あなたはとても強い人だ」


 光命は倫礼りんれいの両肩に手を置いて、自分の方へ向かせた。しかし、それさえも、肉体の倫礼を動かすことはできず、彼女の顔は正面のPCの画面を見つめたままだった。


「ですから、私はあなたに惹かれ、愛したのです。あなたを守る、守護神、神としてでもありましたが、1人の男性として、愛してしまったのですから、仕方がないではありませんか」


 堂々めぐり。光命は人間である倫礼を1番愛している。その人間の倫礼は、神の光命に愛されるとは、恐れ多くも素直に受け入れられない。何回話しても、この繰り返し。


 そのため、父上の教えにのっとり、倫礼は霊視している光命に素直に頭を下げた。


「守護してくださって、本当にありがとうございます。無事に朝を迎えられるのは9人みんながいるお陰です」


 2人きりの世界。2人きりの部屋。住む世界は違っても、同じ場所にいる。だったが、少し鼻にかかる声が、戸惑い気味に斜め後ろから響き渡った。


「いいか? そろそろ、俺たちにも、倫礼りんれいの守護神として、仕事をしたいんだが……」


 2人が振り返ると、ひまわり色の髪とはつらつとした若草色の瞳を持つ独健が入ってきた。それに続いて、カーキ色のくせ毛で、優しさの満ちあふれたブラウンの瞳の貴増参たかふみがボケをかまして登場。


「もめてるのでしたら、僕が法律違反ということで、陛下の元へ歌わせちゃいます!」


 きらめき隊の制服から着替えた夫の背中を、太いシルバーリングのついた手で、バシッと叩きながら、藤色の剛毛とアッシュグレーの鋭い眼光。明引呼あきひこが突っ込みながら部屋に入ってきた。


「ボケてくんじゃねぇよ。そこは、しょっぴくだろがよ」

「あれ? みんなも来たんですか。珍しいですね」


 そう、この3人はあまり来ないのだ、こっちには。それなのに来たので、倫礼ちょっと驚き中である。そうして、いつも自分のそばで、だだをこねる神が降臨。


 まるで女をナンパするような軽薄的なまだら模様の声。黄緑色のボブ髪。どこかいってしまっている山吹色の瞳。焉貴これたかは1人メンバーが抜けていることを伝えた。


孔明こうめいはいないよ。第60宇宙で講演会のパーティーだって」


 あの天才軍師の策略のお陰で、この倫礼にも大騒ぎで結婚をした孔明。どうして結婚したのかももちろん知っていた。


「あぁ、やっぱり忙しいですね。孔明さん」


 家族がいない。わかっていても、倫礼は寂しいと思う。乗馬を楽しむ貴族みたいな出で立ちの人が入ってきた。邪悪という含み笑いをしながら。


「僕たちが気を遣っていると知っていて、ひかりはわざと話を伸ばしたんでないんですか〜?」


 マゼンダ色の長い髪と、今はしっかり姿を現しているヴァイオレットの瞳。月命るなすのみことが他の策士の罠をあばいたのである。


 光命ひかりのみこと、策略的に人間の倫礼りんれいを1人いじめだった。1番愛している妻と2人きりの時間。


 今は教師ではない、パステルブルーのドレスという生徒を笑わせる女装も必要ない。この負けるの大好きな夫は時々、この部屋へ来ては、大人のお楽しみを複数でして、さらっと帰ってゆくのである。


「え……? いつも来ないから、みんなはこっちに興味がないんだと思ってましたけど……」


 そんな月命と、よくこの部屋であーでもないこーでもないと話している焉貴これたかが、黄緑色のボブ髪を手でかき上げた。


「お前とひかりがラブラブだから、控えてんだけど、俺たちも来たいんだよね、正直こっちに」


 次々に自分の部屋に入ってくる夫たち9人。倫礼は顔をしかめる。


「どうして、私に集まってくるんですか?」


 そうだ。神が人間に構う理由などなかろう。みんな、普通に生活もしており、奥さんもそれぞれいるのだから。倫礼にとっては、世界の七不思議の1つである。


 ある意味、謎な人物。焉貴がまだら模様の声を響かせる。影は壁にも床にも映さないまま。


「貴重だからでしょ? そっちの世界で生きてる人間はほとんどいないんだからさ」


 1割もいないのだ、霊界でさえ。神世の人口など、その比ではない。まず、いないのである、この世で生きている人間をしている神は。だいたい、肉体を持っている神など存在しないのだから。


 不思議な存在という観点からいえば、この世の肉体を持っている人間の方が幽霊なのである。


「そうですか。独健どっけんさん、結婚して以来、初めてですね、こっちで会うの」


 2、3歩、ひまわり色の短髪は歩み出て、倫礼の頭を優しさ全開でなでた。


「俺はこの世界の経験がない。だから、守護神の資格を取るまではと思って来なかっただけだ。お前を傷つけることもあるかもしれないだろう? 今までの話は聞いた。みんなから、病気のこともな」


 頭をなでられるのが好きでない倫礼。だがしかし、ここは新しい夫の優しさを素直に受け取るため、手を払いたいのを我慢して、お礼を伝えた。


「あぁ、ありがとうございます」

「お前がいるから、今の俺たちがいる」


 地鳴りのような低い声が響いた。その人はいつも、倫礼の背後に立っている。声もかけずに、ただひたすら、守護神という仕事をする夕霧命ゆうぎりのみこと


 倫礼は振り返りもせず、霊視の視点を変える。すると、不思議なことに見えてくる。深緑の極力短い髪と無感情、無動のブルーグレーの瞳が。


「たとえ、数十年であなた単独での存在がなくなっても、私たち夫婦にとって、かけがえのない人です。あなたがいなかったら、私たちは今も他人だったのかもしれませんよ」


 冷静な水色の瞳は、目の前にいる平凡な人間の女を、誇りを持って見つめていた。自分たちは神。だがしかし、自分たちを結びつけたのは、この人間の倫礼りんれいなのだ。


 そうして、コンサート中のはずなのに、私服に魔法で一瞬にして着替えたれんの、奥行きがあり低めの声が、超俺様ひねくれで言ってきやがった。


「くだらないこと言っていないで、黙って俺たちに守護されてればいいんだ。人間の分際で、拒否権はお前にはない!」

「む〜〜……!」


 倫礼はカチンときて、鋭利なスミレ色の瞳をにらみ返したが、思いっきり上から目線でにらみ返され、口を怒りで歪めながら、近くに落ちていたティッシュに、怒りの雷を代わりにズドーンと落としたのである。


 総勢、イケメンの男性神、9名。人間の倫礼を守護する、守る夫。これは、守護神による逆ハーレム。そうと言わずして、何と言うのだろうか。


 にらんだだけでも怒りが収まらなかった倫礼は、ティッシュをつかみ、ぽいっとゴミ箱に投げ捨てた。その横顔に、宝石のように異様に輝く山吹色の瞳が向けられる。


「ねぇ、お前いつになったら、俺に言うの?」

「何を、どう言うこと? 俺?」


 砕けた口調の焉貴これたか。彼に対しては、倫礼も同じでいる。ふざけた感じで、最後に、焉貴先生の1人称を真似してよくつける。瞬間移動で指先に持ってきたスマイルマスカットをつまむ手を、倫礼に一度だけ押し出した。


「お前さ、俺に愛してるって言ったことないよね?」


 倫礼は慌てて顔をそむけ、ロックのかかってしまったPCのパスワードを入力し始めた。


「そ、それは……」


 何かを焦っているようで、何度もパスワードが違うと表示されて、画面が開かないPC。それを斜め後ろから見ていた独健どっけんが、はつらつとした鼻にかかる声で追い打ちをかけた。


「俺も言われてないな」

「…………」


 倫礼の指先がどんどんもつれてゆく。そこへ羽布団みたいな柔らかさの低い声が、真面目にボケもせず、同意した。


「僕もありません」

「…………」


 何とか開いたPC画面。倫礼はトラックパッドを3本指で横へ滑らせて、フルスクリーンをスワイプするが、なぜか右往左往している。そこへ、兄貴のガサツな声が、よく聞こえるように前にかがみ込んだため、2つのペンダントヘッドがチャラチャラとひずんだ。


「オレもねぇな」

「…………」


 倫礼はPCから手を離し、近くに置いてあったサボテンの小さな鉢を右に左に落ち着きなく傾け始める。そうして、焉貴の螺旋階段を突き落とされたぐるぐる感のある声がこんなことを言ってきた。


「欠席の孔明こうめいの代わりに、僕が言っちゃうけど、あれも言われてないって言ってたよ、3日前に」

「…………」


 倫礼は手を離して、今度は目薬のふたを開けたり閉めたりをリピート。そんな彼女の顔をのぞき込むように、しゃがみこんだマゼンダの長い髪とヴァイオレットの誘迷ゆうめいな瞳が現れた。


「僕も言われてません」

「…………」


 月のように美しい月命るなすのみことから、倫礼りんれいは顔をそむけ、スリープにわざとならないようにしている携帯電話を手にとって、スクロールし始めた。


 だがここで、話の流れが急に変わった。夕霧命ゆうぎりのみことのトレーナーの上から、地鳴りのような声で。


「俺は言われた」

「……っ!」


 倫礼は携帯電話を投げ置いて、勝ち誇ったように、ジュースをぐびっと飲み、勝利を祝福した。そうして、遊線が螺旋を描く優雅な声が、妻のおかしな言動をさっきから密かに、冷静な頭脳に全て記憶しながら、くすくす笑いそうになるのを我慢していた。


「私は寝たふりをして、彼女から引き出しました」

「……ふふ〜ん♪」


 倫礼は白のカットソーと黒の細身のズボンの境目を視界の端に映して、ペン立てに入っているハサミを今度は持ち上げたり、落としたを繰り返す。罠を仕掛けないと、愛していると言ってこない妻。焉貴これたかは最初の夫に問いかけた。


れんは?」


 銀の長い前髪はしばらく動かなかった。鋭利なスミレ色の瞳もである。しかし、やがて、全ての記憶を洗い直した蓮から出てきた言葉はたった一言。


「……………………ない」


 倫礼、赤点である。蓮と古い友人の焉貴。当然、この人間の倫礼を昔から知っている。話したこともある。スマイルマスカットをシャクッと歯で噛み砕いて、黄緑色のボブ髪は、我が妻の横顔に近づいた。


「あのさ、前から思ってたんだけど、お前と蓮ってどうなってんの? 8年も結婚してて、好きとか言ってないって……」


 そう、愛しているどころでなく。好きも言っていないのだ、倫礼は。てにをは辞典をパラパラと適当にめくりながら、奇跡を巻き起こした女の恋愛観がここで、戸惑いという言葉が戸惑ってしまうほど、つっかえつっかえで出てきた。


「私は……基本的に……そういうことは……いっ、言わないんで……」

れんのこと、いつ好きになったの?」


 焉貴に追加の質問をされて、倫礼は辞書から手を離した。頭に手を当て、目の前の壁に貼られている登場人物の服装がメモされた紙を、首を傾げあちこちにやっている視線で追い続けながら懸命に考え始めた。


「…………?」


 確かに、さっき光命に話していた昔話に、そこの部分は出ていない。手元にあるメモ帳に書かれた、作品タグをじっと見つめ始めた倫礼。


「…………?」


 いつまで経っても、人間の妻から声は聞こえてこないどころか、心も読み取れない。神である夫でさえも。


 独健どっけんが若草色の瞳を大きく見開いて、銀の長い前髪を一旦見て、倫礼の小さな背中を見つめた。


「まさか、お前も知らないうちに?」


 認めはしなかったが、倫礼りんれいの回答はこうだった。


「あ……あぁ……そこの記憶が……曖昧で……気づいたら結婚してたんです」


 どんな結婚の仕方だ。それを聞いた夫全員、いや、蓮を抜かした7人が全員、盛大にため息をついた。


「明智さんちの3女も、恋愛鈍感だったんだ……」


 光命ひかりのみことが倫礼のそばによると、紺の長い髪が彼女に寄り添うように近づいた。


「私はあなたの守護神となるべくして、音楽活動を休止したのです」


 神にも、普通に生活があり仕事がある。家族もいる。倫礼は恐縮してしまうのだ。


「そこまでしなくてもと言いたいんですが……」


 だがしかし、この優雅な王子さま夫ときたら、一度言ったら聞かないのだ。テコでも意見を曲げない。それは、夕霧命ゆうぎりのみことが一番よく知っている。0.01のズレも許せない、細かい性格。またさっきの堂々巡りになってしまうので、倫礼は諦めて素直にうなずいた。


ひかりさんが決心したなら、受け入れるしかないです」


 焉貴これたかがふざけた感じで、後ろから抱きついてきた。


「俺も、常勤から非常勤になったから、できるだけ、お前のそばにいるよ、守護神なんだからさ」


 だから、焉貴先生は他の教師と昼食の時間が違い、授業の途中で帰れるのだ。


 しかし、この夫ときたら、倫礼と一緒に寝ると言って聞かないのである、毎日。自分が夜9時になると眠くなってしまう、お子さまなのに、がんばって起きているのだ。倫礼が眠るまで。


 それでも、起きていられない時は、この狭い6畳の床の上で布団も敷かず何も被らず眠って、あとで布団に運んでと甘えてくるのである。向こうの世界は、重力が15分の1。女性でも男性を運べる。筋力の差はない。


 人間の倫礼はいつも叱っているのだ。神の焉貴を。子供ではないのだから、自分で布団に入れと。それなのに、一緒に寝る、離れるのが嫌だと言って聞かず、甘えてばかり。


 マゼンダ色の長い髪が横でさらっと揺れ、凛とした澄んだ丸みがあり儚げな女性的だが男性の声が、同じ教師として響いた。


「僕もそうしました。その方がいいと思いまして……」


 この男も、いや神もそうなのだ。なぜ、人間の倫礼を好きになり、自分に構ってくるのかと何度も問いかけたのに、のらりくらりとかわされてしまった。それでも、倫礼は諦めずに聞いていたら、ある日、この話は今後一斉話さないと言い切られてしまったのである。


 そんなことがあり、倫礼は素直に頭を下げた。


「子供のこと一番なるなすさんまで、ありがとうございます」


 独健、貴増参たかふみ明引呼あきひこは職業上、時間を割くことはできない。武道家である夕霧命ゆうぎりのみことは、倫礼のそばにはくるが、最近はよく修業に没頭して、夕食になっても戻らず、光命が今では、時刻前に迎えに行くということがしばしば起きている。


 孔明こうめいは家に戻れる時があるのなら、人間の倫礼りんれいのところに絶対に戻ってくる。れんは光命に遠慮して、あまり顔は出さないが、呼べば来る。


 倫礼はとても大切に守られているのである、この男性神、9人の夫に。彼女は振り返って、みんなの顔を見渡した。


「それじゃ、改めて、私が死ぬまで、守護神をよろしくお願いしま――」


 無事に話は終わりそうだったが、元気いっぱいな好青年の声が不意に響き渡った。


「こんばっす!」


 夫婦水入らずのところに、知らない男の登場。


「あぁ?」

「え……?」

「ん?」


 全員が振り返ったドアのところには、薄い黄色のトゲトゲした短髪の男が、人懐っこそうに立っていた。ずいぶん背が高く、孔明よりも背丈があるようだった。


「どんなところか様子を見にきたんす」


 何だか間違っている感が出ている男に、倫礼がお断りを入れ始めた。


「あの……ここはコミュニティーではなく、普通の18人で夫婦の家です。見学はやってない――」


 だが、お笑い好きの彼女は、1人ボケツッコミを見事に成功させたのだ。


「っていうか! 他の人が家に入れるって、どういうセキュリティーなんですか!」


 そうだ、そうだ。明智家、不用心である。いくら、悪い人がいないとしても、プライベートはしっかり守らないといけない。すると、男が小さなものを差し出した。


「鍵を渡してもらったっす!」


 誰がと問いつめたいところだ。しかし、倫礼はその男の声がはっきり聞き取れた。と言うことは、彼女の理論の中では、地球で生きていた人になる。それならば、聞いてしまった方が早いと思ったのである、彼女は。


「っていうか、誰ですか?」

張飛ちょうひっす!」


 倫礼は頭を抱えて、机の上、いやPCの上に突っ伏した。


「はぁ〜……」


 だがしかし、神界は広い。歴史も長い。夫たちは誰も知らないようで、顔を見合わせた。


「誰だ?」

「どのつながりだよ?」

「誰、プロポーズしたの?」


 倫礼は沈んだリングからガバッと起き上がり、夫たちが知らないと言う事実にびっくりして、叫び声を上げた。


「えぇぇぇっっっっっ!?!?!?!?」


 何が起きても全然平気な焉貴これたか先生が、まだら模様の声で聞いてきた。


「何? お前、そんな大声出して……」


 倫礼はそんなことはお構いなしで、まだまだ興奮中。


「いやいや! 1人しかいないじゃないですか〜っ!!!! 張飛ちょうひさんって言ったら……」


 だったが、光命ひかりのみことの遊線が螺旋を描く優雅で芯のある声が、冷静に響き渡った。


りん、あなたに電話です」


 倫礼が見ると、そこには、数年前、5歳の弟、帝河ひゅーがが自身も携帯電話を買ったからと言って、プレゼントしてくれた霊界での電話があった。


 それは今、こんな状態になっている。電子音を発しながら、机を垂直に立ち、右に左にノリノリでステップを踏み、くるっとターンを回り、また踊り出す携帯電話。倫礼は驚くこともなく、ボソッとつぶやいた。


「ダンシングモードまだ解除してなかったんだ……」


 マナーモードならぬ、ダンシングモード。そんなお笑いが潜んでいる楽しい限りの神界生活。踊っている携帯電話をパシュッとつかみ、倫礼りんれいは耳に当てた。


「もしもし……」


 向こうから返ってきたのは、好青年でありながら、陽だまりみたいな穏やかさのある男の声だった。


「は〜い! ボク〜、張飛ちょうひ来た〜? 呼んだんだけど……」


 鍵を他人に渡した上に、罠をサクッと仕掛けておいて、しかも抜群のタイミングで電話をかけてくる。天才軍師に、倫礼の怒りはとうとう大爆発した。


孔明こうめい、来たじゃないわっっっっ!!!!」

「だって、誰も知らないみたいだったから、どうしようか悩んでたの〜。まずは会ってみないとと思って、ボクがいない時に、家に来てもらったんだよね〜」


 孔明に好きな男がいると言うのは、みんな聞いていた。しかも、何だか本人が悩んでいる様子なのも知っていた。だが、こんな形で会うとは思っていなかった全員。この天才軍師に、してやられたのである。


 保守派の3人がため息をついた。針のような銀の長い前髪を、れんはあきれたように横にサラサラと動かす。


「俺はもうついていけない」


 その隣にいた夕霧命ゆうぎりのみことの切れ長なブルーグレーの瞳は、あきれたように閉じられた。


「俺もだ」


 女装する小学校教諭という斬新な仕事をしているが、月命るなすのみことはいたって保守的な男であり、人差し指をこめかみに当てて、困った顔をした。


「僕もです〜。1ヶ月も経たないうちに、増えていくんですから〜」


 するかどうかは別である。知らない男と結婚する人がどこにいるだろうか。だがしかし、倫礼は念のため聞いてみた。


張飛ちょうひさん、ちなみにご結婚は?」

「妻と子供が3人っす!」


 する気満々の回答に、明引呼あきひこの太いシルバーリングが、説明するために右に左に上下にと、薄闇の中で鋭い線を引く。


「またかよ。から、誰かが結婚すっとよ、そいつが他の誰かに惚れてんだよ。でよ、また結婚するからよ、2人ずつ増えってってんだよな」

「無限増殖。いわゆる、無敵です」


 ゲームみたいなことを言った貴増参たかふみのカーキ色のくせ毛の隣で、独健どっけんは頭を抱えた。


「俺、まだ慣れないんだよな……。18人でも手が一杯なのに……。俺の安泰は、明智家に婿に来た時点で、なくなったのかもしれないな」


 だがしかし、9人もいれば、やはり意見の違う人もいる。光命ひかりのみことは紺の長い髪を横へ揺らして、こんなことを言う。


「私は構いませんよ」

「そう? ひかりも? 俺もさ、300億年生きてるから、結構平気なんだよね。こういうこともあるんじゃない? って感じでさ〜」


 焉貴これたかもまだら模様の声で賛成。ということで、この2人はすでに、恋に落ちているということだろう。孔明こうめいの策通り。


「とにかく、家族会議だ」


 幼い頃から明智家で育ってきた蓮が仕切った。その前で倫礼の右手が意見求めます的に上がった。


「っていうか、気になることがあるんだけど……」


 焉貴の超ハイテンションの声とともに、人差し指が出された。


「はい! そこのもう1人の倫礼りんれい。質問しちゃってください!」

張飛ひょうひさん、昔、もっとごっつくて、熱苦しい感じでしたよね〜? 何で、夕霧さんみたいに少し体格が良くて、好青年になっちゃったんですか?」


 そう、あのドーンとした体格で、いかにも自分が武者で戦ってやる〜! 力技でなぎ倒してやる、敵の1000人なんぞ〜! みたいな感じだったのが、ちょっと体格がよく、綺麗な顔をして、やんちゃな笑みを浮かべている好青年になっているのである。どこからどう見ても、目の前にいる張飛は。


 頭の後ろに手をやって、張飛は照れたように上下にかいた。


「結婚したら、こうなったんす!」


 倫礼りんれいは無表情、無感情で返事をして、机の方へすっと向き直った。


「あぁ〜、そうですか〜……」


 夫たちを放り出して、自分の世界へ入ってゆく。息も吸わずに、呪文を唱えるようにボソボソと独り言を言い出した。


「魂を入れ替えるのが神界での結婚式ですからねだから奥さんの影響で好青年になったんですね〜張飛さん父上の結婚は控えなさいの本当の意味は当の2人の気持ちを優先するのではなくそれぞれ全員が自身の気持ちを大切にしなさいの意味だったから張飛さん明智家に婿にくるかも〜そうしてまた姿形が変わって年齢も変わって――」


 焉貴これたかが倫礼の肩を大きく揺さぶって、死に向かってカウントダウンしている人間の彼女に声をかけた。


「何、お前、1人でマシンガントークしてんの? たかと違って、息吸わないとご臨終だよ〜」


 倫礼は何事もなかったかのように、パチパチとキーボードで文字を打ち始めた。焉貴のどこかいってしまっている山吹色の瞳がのぞき込む。


「今、何書いてんの? あの18禁、どうしちゃったの?」


 少し文章を読んだが、つい最近までノリにノッて書いていた物語と中身が全然違っていた。倫礼としても、それは不本意なのだ。だが、人間の自分ではどうすることもできなく、文字を打ち込み続けながら、夫の質問に真面目に答えた。


「あれは、休止中です。だって、書いているうちに、みんなどんどん結婚しちゃって、登場人物が増えすぎちゃって、独健どっけんさんが入らなくなってるんです、今……。最初3人だけだったのに……9人になっちゃって……」


 それは無理がある。3倍に膨れ上がってしまったのだから。霊感とは大変だ。3人のままでよいのではと思うかもしれないが、やはり、倫礼も愛しているのだ、夫たち全員を。だから、9人とも登場させたいのである。


 こうして、倫礼は書けなかった悔しさを、語り口調というものに変えて、18禁ということもあり、彼女の性癖が大暴走し始めた。


「当初の目的は、みんなの神がかりなペ××を、人間界にぜひご披露したかったわけです〜。れんのそれはいや〜ん! とか、ひかりさんのどこまでいくんですか〜! みたいなのとか、夕霧さんのマジですか! とか、焉貴これたかさんのうほぉ〜っ! ってやつとか、るなすさんの、そんなのあるんですか〜! みたいなのとか、孔明こうめいさんの何人相手できるんですか〜! とか、明引呼あきひこさんのそれは反則っす! みたいなやつとか、貴増参たかふみさんのあぁ〜、それ気持ちよさそうですよね〜とか、独健どっけんさんのわおっ! みたいなのを伝えたかっ――」


 完全に倫礼は壊れていた。文書ソフトのページヘッダの文字を焉貴は見つけて、健全な世界へ倫礼を呼び戻した。


「パズルピーズが帰るまでに……? パズルピースって俺たちのこと?」

「そうです。みんなが合わさって、1つのパズルになる! でもって、まだまだ増えるので発展途上の完成品!」


 倫礼は指を縦に立てて、珍しく嬉しそうに微笑んだ。その指先を、焉貴は両手で包み取って、教師らしく仕切った。


「はい! じゃあ、今回の授業はここまで!」


 倫礼りんれいがカメラ目線になり、


「それでは、チャオ!」


 バイバイと手を振ると、夫8人が彼女の近くに顔を寄せ、夫婦9人の集合写真のようになった。だが、1人欠けている。


 倫礼が慌てて携帯電話の画面に映っている孔明こうめいを前に押し出すと、白の薄手の着物はゆらゆらと揺れ、天才軍師は紫の扇子せんすを口元に当てて微笑んだ。


 そうして、夫婦10人一緒で画面がいっぱいになると、すぐにそれは真っ暗になり、エンディングテーマのR&Bのバラード曲が流れ出した――――

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