同僚と恋人
空中庭園にある多目的大ホール。地球と同じ広さのある場所。座席数は約1億。だが、まだそこは、空席ばかり。人が何人か座っているのは、ステージから少し離れた真正面だけ。
照明の手直しがされている中、R&Bというリズムに乗り、奥行きがあり少し低めの男の歌声が、バックバンドが演奏する曲に乗っていた。
「♪〜〜♪〜〜」
リハーサル中。中央に立っていた男は、最低限の筋肉しかついていないすらっとした
結婚指輪をする左手を大きく上げて、左右に何度も揺らす、音楽を止めろと言って。本番と違う、動きやすさと清潔さを表す白のスニーカー。その前にある大きな四角い箱。モニタースピーカーの1つを指差し、そばに控えていたスタッフに調整を伝えた。
「右のスネア(*ドラムの楽器の1つ)の音が小さすぎる」
スタッフの視線と一緒に、鋭利なスミレ色の瞳は、会場の中央にある制御室に向けられた。とにかく、地球1個分の会場。瞬間移動という手もあるが、やはり連絡手段は意識化でつながる携帯電話。
「OKで〜す!」
すぐにミキサーをいじった向こうのスタッフから報告が来たようで、そばに控えていたスタッフの声が気さくな感じで響いた。左耳にいつもつけている、
「Bメロから」
ドラムのスティックがカンカンカンと鳴らされ、カウントが入るとすぐに、望んだ通り曲の途中からスタート。今日の主役。ディーバ ラスティン サンディルガーは振り付けされたバックステップを右に左に踏む。その度に、針のような輝きを放つ銀の長い前髪が揺れ動く。
また、左手がさっと上がった。横に大きく揺らし、演奏が止まる。白のシャツは首元が幾重の楕円を描く洗練されたデザイン。右斜め上から左下へファスナーの入ったファッションセンス抜群のもの。足元はグリーンの細身のズボン。
「サビだけ、エフェクト強めで……」
納得がいくまで、時間が許す限り、調整し続ける。今日を楽しみにしている人たちの心に
――――そんなことが行われているステージへと続く廊下で、大革命が起きていた。歩いていたスタッフのラフな格好の横を、貴族服が堂々と通り過ぎてゆく。慌てて振り返った2本足の猫は大声で呼び止めようとした。
「ちょっと、関係者以外――!」
だが、それが誰だかわかると、弓なりの瞳を大きく見開き、思わず息を飲んだ。腰を低くして、右手をその人の行く先に差し伸べる。
「ど、どうぞ……」
ちょうど十字路になっていた廊下の左側から、すうっと浮遊してやって来た龍の女性。彼女は貴族服の人の後ろ姿を見て、首を傾げた。
「え? どういうことですかね?」
「何か法律違反でもしたとかですか?」
かぎつめのついた指先で、猫は頭の上をポリポリとかいた。事件の匂いが思いっきり漂っていた、コンサート会場のリハーサル時間に――――
――――目がくらむほどのライトがついているステージ上。今は曲は流れてはおらず、中央にスタッフの何人かとディーバが演出上の打ち合わせをしていた。
「そうだ。4拍目で、俺がする」
アーティス自身が何かをする。犬のスタッフががっつり天井が広がる多目的大ホールを見上げて、こんな疑問を投げかける。
「それって、上から降ってくるってことですか?」
「そうだ」
愛想など不要と言わんばかりの超不機嫌顔なディーバ。太陽が東から西へ登るように当然だと言い切った。何かが上から降ってくる。天井しかないのに。今度は、人の男が不思議そうな顔をして聞く。
「どこから持ってくるんですか?」
ディーバの鋭利なスミレ色の瞳は微動だにせず、表情も何1つ変わらず、どこまでもどこまでも沈黙が続いていた。こんな風に。
「…………………………………………………………………………」
まわりに控えていたスタッフたちも、楽器を持ったバックバンドの人たちも、全員、頭の中がこうなった。
「????????????????????????」
だが、個性の強いアーティスト。他の人の反応など、どこ吹く風で、繊細な指先を綺麗な唇に当てて、まだまだ考え中。
「…………………………………………………………………………」
さすがにしびれを切らした恐竜のスタッフが、鋭利なスミレ色の瞳が見つめているだろう視線の先で、意識を呼び戻すように手を横に振る。
「あ、あの……ディーバさん?」
別世界へ行っていたわけでもなく、普通にタイムアップを言い渡された。ディーバにとっては。そうして、彼はまわりのスタッフを見渡してこんなことを言う。
「わからない」
散々待ってみた、
「……あぁ〜、そうですか。花屋から勝手に持ってくるとかじゃないですよね?」
ディーバは両腕を腰の低い場所で組んで、白いスニーカーは床の上で気まずそうに右へ左へ動いた。
「それは違う……はずだ」
不確定要素を、どうやっても、ゴーイングマイウェイで無理やり確定したみたいな言い方。スタッフは頭痛いみたいな顔をして、強行突破しそうなアーティストに、世の中の物流を説明した。
「花屋から持ってきてもらうと、今からでは準備は間に合わないので……」
天使のような綺麗な顔なのに、超不機嫌なおかげで台なし。だが、秀麗なそれは、今度は怒りで歪んだ。
「いつもしているから、大丈夫だ」
提案者のアーティストに言い切られてしまった。花を降らせるような話をしている感じのステージ中央。だが、方法がどうやら普通のことではないらしく、犬のスタッフが確認を取ろうとした。
「じゃあ、それ、今もしてもらえますか?」
「必要ならす――」
お安い御用だとばかりに、ディーバはうなずこうとした。だが、ステージの袖にいた他のスタッフたちの様子が、おかしくなったのに気づき、言葉を途中で止めた。腕を組んだまま、鋭利なスミレ色の瞳は天幕の向こうの、ステージ上とは対照的に、いかにも裏側といった感じの粗雑なところへやった。
(あっちが騒がしい。
何だ?)
暗幕がスルッと寄せられると、さっき廊下を歩いていた、貴族服の男がやって来た。そんな服装の人は、このコンサート会場どころか、街角にもいない。疑問という動きで、ディーバはぎこちなく首を傾げると、銀の長い前髪に隠された右目があらわになった。
真っ直ぐ自分のところへ、その男は近づいてくる。胸元にバッチが見えるようになると、組んでいた腕をといた。
「……その紋章……」
それは獅子を中心とした、神がかりなデザイン。この世界に住んでいる者なら、誰でも知っているもの。それがどれだけ恐れ多く、高貴に光り輝くものか、スタッフたちももちろんわかっていて、全員思わず息を飲んだ。
そうして、白と緑のすらっとした銀髪の男を、貴族服の人はこう呼んだ。
「明智
芸名ではなく、本名だった。すぐに本題が言い渡されたが、内容が驚きのものだった。
「皇帝陛下が
「陛下が……?」
この世界を治めている人から、直々の呼び出し。瞬間移動が使えるからこそ、何の前触れもなく、こんなことも起きる。だが、理由などどこにも見当たらず、蓮はただただ、鋭利なスミレ色の瞳をさまよわせた。
他のスタッフたちも顔を見合わせ、1億人も収容できる多目的大ホールに緊張が走った。嵐の前にように静まり返ったステージの上に、貴族服を着た男のこんな言葉が続けざまに出てきた。
「至急、
どこか壊れている感。いや完全に壊れている、この陛下の部下は。客席に座っていたスタッフの1人が吹き出した。
「ぷっ!」
それを合図に、緊張感が一気に大爆笑の
「あははははっ!」
お笑いだと気づかない、孤島に取り残されているような本人。蓮が不思議そうに今度は逆に首を傾げると、スミレ色の瞳の前を銀の長い髪がサラサラと大量の針が落ちてゆくように動いた。
「ん?」
まわりにいる人々をゴーイングマイウェイで気にした様子もなく眺めていたが、貴族服の男が十分間を置いたところで、わざとらしく咳払いをした。
「んんっ! 陛下が作られた決まりでございまして、城では何か行動を起こす時には、必ず笑いを取るようにとのことです。ですから、今しがた、してみたのですが……。ちなみに、『り』で
射殺しそうなほど、スミレ色の瞳は鋭利になってしまった。だが、それは本人が意図してやっているのではなく、普通に考えているだけなのだ。
「…………………………………………」
しかし、相手からしてみたら、ガン見された状態で、右に左に首を傾げながら、スースーと顔が近づいてくる。パーソナルティースペースを完全無視して、キスができそうな位置まで迫ってきた、になる。
「あ、あの……」
貴族服の男の戸惑い気味な言葉さえも、独特の雰囲気でスルーした。
「お疲れ様です」
自分にはどこが面白いかわからなかった。だが、それが仕事なら、
「ありがとうございます」
貴族服の男もシャキッとして、丁寧に、こっちも90度で頭を下げてきた。コンサート会場になるステージ上で、お辞儀し合っている大人2人。おかしな光景。多目的大ホールはまた爆笑の渦に巻き込まれた。
「あははははっ!」
十分笑いを取ったところで、貴族服を着た男が本来の業務を遂行した。
「それでは、ご同行願えますか?」
「構わない」
人々を魅了してやまない、奥行きがある少し低めの声が、最低限の返事を返すと、2人はステージ上からパッと消え去った――――
――――威厳、荘厳、神聖、高貴。そんな言葉が立ち並ぶ、謁見の間の中央に敷かれた
鋭利なスミレ色の瞳の視界は、赤い絨毯とガラスのように透き通った特殊な素材でできた大理石よりも貴重な床だけになった。
「陛下、ご機嫌
「ふむ」
堂々たる声が短く返ってきた。あの日以来、このお方とは会っていない。自分と同じ銀の髪を持つ由来。蓮は自身の過去を振り返る。
(俺はこの方から分身して、別の個体となり、生きている……。
だが、親子でも家族でもない)
男女の間に生まれた子供ではなく。分身。化身とはまた違う。自分と同じように、このお方から分身したのは、自身を含めて3人。他の2人は、陛下の過去世の1つ。だが、自分だけは違う。
陛下からのお言葉を拝聴しながら、この広い世界でも、自分だけという特殊な存在を、生まれを考える、蓮は。生まれてすぐ、18歳になって、生みの親ともいうべき、この人の元から去った。自分を必要としている女のために、自身は生まれてきたのだと知って。
そうこうしているうちに、陛下のお言葉は結ばれた。
「……以上である」
今の内容は、すぐにうなずけるようなものではなかった。真紅の絨毯を見つめたまま、蓮の脳裏には、あの紺の髪と冷静な水色の瞳を持つ男の面影が浮かんでいた。あの男の神経質な頬に、また苦悩の涙が落ちるのかと思うと、恐れ多くも、陛下に申し上げないわけにはいかなかった。
「
だがしかし、言葉は途中でさえぎられた。多忙な皇帝陛下の貴重な時間を、これ以上
「
相手は皇帝陛下。自分は一般市民。たとえ、過去にどんなつながりがあろうとも、もう関係ないのだ。お互いの立場を言い表す、言葉が存在しない。あえて言うならば、
平伏したまま、
「……承知いたしました」
長居することは許されていない。蓮は早々に瞬間移動で、謁見の間から姿を消した――――
――――無事に戻ってきたステージの上で、残りのリハーサルは全て終了した。あとは本番を待つだけの、1人きりの楽屋。裸電球に囲まれた鏡に映る自分の、鋭利なスミレ色の瞳をさっきからずっと捉えて離さなかった。
(俺が広告塔……)
メイク道具の群れ。その隣に、黄緑色のカラのお弁当箱が置いてあった。まるで運命共同体というように。潔癖症をパフォーマンスさせられている結び目。それは、中身が入っていた時は、女が長い髪をキュッと結い上げたような色気を放っていた。
(断る……。
だが、陛下
それを断るのは……)
手紙や誰かを通してなら、ことの重大さも多少は減る。だが、城へ呼び出されて、直々に申し渡されたとなると、迷うことなどほとんどない蓮でも、さすがに
左薬指の結婚指輪を右指ではさみなぞる。銀盤のように光り輝いている長い前髪を凝視しながら。
(受け入れる……)
イラついたため息をついて、
「あぁ〜」
だらっと手を落とし、今度は華麗に足を組んだ。鏡をぶち壊しそうなほど、鋭利な瞳で、顔を近づけてゆく。寄りすぎて、焦点が合わない視界の中で、蓮はふと気づいた。
(……これは俺1人では決められない)
ずいぶんと遠回りしていた。選択肢を決定するのに。
まるで魔法を使うように、右人差し指を立てて持ち上げる。すると、不思議なことに着ている服が一瞬にして変わった。瞬間移動と浮遊はできる、大人なら誰でも。だが、こんなことはできない。
薄茶の春物のトレンチコート。その襟から出ているヒョウ柄のストール。少しだけ見せてアクセントにするように端を中へ入れる。
髪の乱れを指先で、1本のずれも許さないと言ったように直す。その指先が鏡の中で重なった、まるで2枚のセロファンに描かれた絵のように。細く神経質なそれで、紺の長い髪を耳にかける仕草をする男と。
(ひとまず、
1人で決められないこと。いや、関係する人は、どうやら
――――モデル歩きで歩いてゆく、人影の少ない廊下を。唇に人差し指を当て、考えながら進んでゆく。今自分がコンサートの本番待ちで、どこにいるのかも忘れそうな勢いで。陛下からお言葉を
衣装でもなく、リハーサル時の服でもなく、私服。それで、廊下を歩いている主役。当然、近くを通った龍のスタッフが声をかけてきた。
「あれ? ディーバさん、どこ行くんですか?」
行き先を聞かれた。決まっていなかった。
「……………………………………………………………………………………」
(あれは、どこにいる?
そこ……いない。
どこに……?)
自分に鋭利なスミレ色の瞳を向けたまま、全く動かなくなり、終始無言のアーティストの肩を叩いた。こんなことはよくあることなので、まわりのスタッフもよくわかっていた。
「ディーバさん? 話途中です。返事返して――」
「……事務所だ」
光命の瞬間移動の到着地点がそこ。ピアニストとして、同じところに所属している相手。別にそこにいることは珍しくもなかった。
スタッフは曲でも思いつき、事務所内にあるスタジオにでも行くのかと思い、一言だけ忠告して、去ってゆく。龍の口から火をボウッと吹きながら。
「あぁ、そうですか。じゃあ、17時50分には遅くても戻ってきてくださいね。18時から本番なんで……」
「ん」
最低限の意思表示をして、銀の髪を持つ、すらっとした男の姿は、多目的大ホールの廊下らからすうっと消え去った――――
――――白いレースのカーテンに、ゆるいハの字を描く青紫の厚手のカーテンが、どこかの城と勘違いするようにタッセルに身を斜めに預けていた。
鏡のように映り込むほどよく磨かれた黒のグランドピアノ。そこから少し離れた位置で、紫の膝上までの細身のロングブーツは、春先に
「先生、ありがとうございました」
白くフサフサの毛に全身を
「それでは、失礼いたします」
「えぇ、それでは、また来週です」
今日の全ての仕事は消化した。
(他の種族の方は、人とは全く違った感性を持っている。
先ほどのような発想があるとは知りませんでした)
女性的な曲線美を持つ屋根の下。豊かな長い髪のような弦の美しさ。それをそっと眠りに
(ユガーリュの新曲……)
お気に入り登録していたチャンネルからのメール。ピアノはそのままで椅子に近づき、優雅に腰掛ける。
意識化でつながる携帯電話。画面など触れなくても、行きたいサイトへ勝手に飛ぶ。そうして、ピアニストは同業者、いや自身の創造意欲を
叩きつける雨のような連打。微分音符という通常の音階ではない旋律。あまりの心地よさに、冷静な水色の瞳はまぶたの裏にすぐに隠された。
細く神経質なピアニストの指先は、衝動を抑えられないというように、膝上の濃い紫のロングブーツの端を、引っ掛けるように何度も何度も、触れては離すをリフレイン。
ダンパーペダルに乗せた足先は、踏み込むことはなくても、上下に動いてリズムを取る。時には、白のカットソーが、まるで嵐の中を進む船のように、激しく揺れに揺れて、首元の十字のチョーカーが、窓から入り込む夕日をかき乱す。
音が音符が記号が体に脳に染み込んでゆく。雷鳴のように不規則的に入り込む、主旋律。そうして、滑り落ちるように、高い音から低い音へ曲全体は向かってゆき、スカーンと天へ抜けるように、フィナーレを迎えた。
すっと開けられたまぶたと同時に、携帯電話はズボンのポケットという揺りかごに戻された。内手首につけられた、甘くスパイシーな香水は夕刻を迎え、朝とは違った香りを放っていた。
結婚指輪とサファイアブルーの宝石がついた指輪は、規則正しく並ぶ黒と白の上に乗せられる。自分の心の内を奏でてくれる楽器。細く神経質な指先は鍵盤の冷たさを雪の結晶の美しさを見るように味わう。
右足はダンパーペダルに乗せられ、大きく息を吐き、息を吸い込む。そうして、吐き出すと同時に、鍵盤が力強く押し込まれた。叩きつける雨のような連打。微分音符をきちんと再現できる楽器。32分音符の12連符。猛スピードで高音から低音へ向かうパッセージが続く。
ダンパーペダルは1拍ごとに踏まれ、メロディーに滑らかさを与えるのに、次拍の頭音を際立たせるために、すっと離される。右手は雷鳴のような不規則さを強烈に残す、前小節から入り込む32分音符のフォルティッシモ。
さっき携帯電話で聞いた曲と全く同じだった、光命の今弾いている曲は。新曲。1回しか聞いていない。それなのに再現できる。
全てを記憶する頭脳。自分の得意分野。1度聞けば、自身の脳裏という五線譜に音符は
滑り落ちるように、高音の鍵盤から光命の細く神経質な指先は、低音の左へと32分音符の12連符で流れてゆく。そうして、フィナーレを迎えた。スカーンと天へ抜けるようなフォルティッシモで鍵盤を叩きつけると、両手が飛び跳ねたようにすうっと上がった。
くるくると部屋を回っていたピアノの余韻が姿を消し、紫のロングブーツはダンパーペダルから降ろされた。ピアノの上に飾ってある写真立てに、水色の瞳は冷たさではなく、暖かさを持って向けられる。
優雅に微笑む自分。その紺の長い髪に寄り添うように、頭を近づけている銀の長い前髪を持つ男。いつも鋭利なスミレ色の瞳は、時々見せる無邪気な天使のような笑みを浮かべている。初めて一緒に行った遊園地での写真。
「私を
遊線が螺旋を描く芯のある声が、ピアノの弦に響き渡ると、トントンとドアがノックされた。それは、ずいぶん下の方から聞こえてきた。冷静な頭脳の持ち
(彼であるという可能性が97.98%)
ピンクがかった銀の髪。ベビーピンクの純粋な瞳。未来が見える光命は、このあとどうなるかわかって、優雅な笑みを一層濃くした。
「どなたですか?」
問いかけると、ぴょんぴょん廊下で跳ねているのが容易に想像できる、元気な声が返ってきた。
「僕〜!」
「どうぞ」
ジャンプしてドアノブを回したため、グルンッとオーバー気味に動き、ドアがパッと開けられた。すっと小さな人が入り込んできて、開けたままの扉を行儀よくきちんと閉める。王子さまみたいな白いフリフリのブラウスと紺の半ズボンが、ピアノの前に座る自分の元へピューッと走り寄ってきた。
「僕も
写真立てに映る銀の長い前髪を持つ男にちらっと視線をやって、自分の足元で目をキラキラ輝かせている、ピンクがかった銀のひまわりみたいな円を描く、髪の子供に穏やかな水色の瞳を落とした。
(おや? 小さな彼に先を越されてしまいましたね)
あの男を迎えに行こうとしていた。だが、あの男と似た髪の色を持つ男の子に、阻止されてしまった、光命は。小さな王子さまに、優雅な王子さまが席を譲ろうとすると、
「それでは――」
抱えていた楽譜を両手で上に元気よく持ち上げて、可愛いおねだり。
「お膝の上で弾きたい!」
「えぇ、構いませんよ」
ピンクがかった銀の髪が揺れ出した。鍵盤をたたき込むというよりは、なぞるような弱い力だったが、はっきりとしたメロディーライン。ポップスではなくクラシック。自分と同じジャンルを弾きこなす子供。
程よいテンポの明るく穏やかな曲調。膝の上で足をゆらゆらとさせては、自分のスネに小さな靴のかかとが当たる。やり直しという人生の中で、今目の前にいる子供と同じ年、5歳の時の自分と比べる。すでに閉じてしまったまぶたの裏で。
(8分音符の3連符……。
装飾音符……自身のアレンジ。
そちらを、5歳で弾きこなす。
私より才能があるかもしれませんね)
小さな天才。ピアノのレッスンという場で、彼に出会って、自分の内に芽生えた感情をふと思い返す。膝の上の小さな温もりが、銀のひまわりみたいな線を描く髪が、神経質な頬に触れるのを感じながら。
(あなたとは以前から、親子になりたいと望んでいました。
ですが、そちらは遠い夢でした)
懸命に弾いている小さな人に悟られないように、写真立てに一緒に映る銀の長い前髪とスミレ色の瞳を持つ男をそっと見つめた。
(しかしながら……)
そこで、ふとピアノのメロディーがやんだ。つたないものでもなく、下手をすると大人顔負けのピアノの曲。他の5歳の子だったら、ちょうちょやチューリップを弾きこなせるかどうかの瀬戸際。だが、自分の膝の上にいるピンクがかった銀の髪を待つ子供は違っていた。
(彼の魂の影響を深く受けているのかもしれませんね)
今と違う家で、今と違う部屋で行なっていたピアノレッスンを懐かしむ。その一方で、先生と生徒という距離感を超えていた、光命の次の行動は。膝の上にいる小さな頭を、結婚指輪をした手で優しくなでる。
「上手に弾けましたね」
「うん、できるようになった〜!」
自分の方へ振り返り、子供らしさの象徴といってもいい、大きなくりっとしたベビーピンクの瞳が見上げてくる、大人の冷静な水色のそれを。両腕でしっかりと抱きしめ、光命の神経質な頬は、ピンクがかった銀の髪に寄せられ、スリスリする。
「
「先生がパパになって、僕も嬉しい」
「そうですか」
小さな足が自分の膝にパタパタされる振動を感じながら、あの悲恋の嵐のあとに、やってきた至福の時に浸る。いつまでも暖かく優しく自分を包み込む陽だまりみたいな人生。その中で自身に返ってきたものは、予測もしなかった幸せの数々と失ったはずのものだった。
それを叶えてくれた、いや手を一緒につないで、越えてくれた男。写真立てのスミレ色の瞳が、光命の心を熱くする。
(あちらの場所で、彼に会いたい……)
瞬間移動で手元に、鈴色の円を取り出した。
(16時26分11秒……)
大好きなパパの前で幾度となく見てきた、その癖。百叡は不思議そうな顔に変わった。
「どこかに行くの?」
「えぇ、あなたのパパに会ってきますよ」
自分がパパのはずだが、もう1人パパがいる……。おかしい感じもするが、百叡が大きく元気に右手を上げたことでスルー。
「僕も行きた〜い!」
学校が終わって家に帰ってきた百叡。大好きなパパが出かける。当然の言葉だった。しかし、男に会いに行くのであって、パパに会いに行くのではない。光命の紺の肩より長い髪はゆっくり横へ揺れた。
「残念ですが、お仕事の話もしますから、あなたのことは連れていけません」
百叡は自分が映り込むほど綺麗に磨かれたピアノのボディーの黒の前で、小さな首を傾げた。ピアノレッスンを自宅でしているパパが、外で活動するとは、いくら子供でもおかしいと思った。
「お仕事?」
子供がわざと不思議がる順番で言葉を
「えぇ。ですが、代わりに、今夜あなたを膝の上に乗せて、音楽を楽しみましょうか?」
百叡はピアノの楽譜をパッと自分へ引き寄せた。
「うん! またお膝の上〜! 僕、家で待ってる〜」
「あなたは素直で明るくていい子ですね。それでは、行ってきますよ」
銀の癖のある髪の柔らかさを、細く神経質な指先で
「パパに会ってきてね、パパ!」
やはりパパが2人いるようだ。どうなっているのかわからないまま、優雅に立ち上がった
――――オフィスビルの吹き抜けエントランス。大理石の乳白色の上に、濃い紫のロングブーツはクロスする寸前のポーズを取っていた。待合の応接セットの群れの奥には、天井高くから透明なカーテンのように滝が、流れ落ちるガラス張りの窓が立っている。
高級ホテル並みの豪華さが目立つ空間。白のカットソーのそばで、手に持ったままのマリンブルーの懐中時計に視線を落とす。
(16時27分17秒。
予測を立てていた時刻よりも、54秒遅れ……。
到着地点をズラして、瞬間移動しましょう、遅れを取り戻さなければいけない。
彼はまだ彼に伝えていないみたいですからね。
ですから、私が罠を仕掛けて、言いに行くように仕向けましょう)
全体的に白とガラスの透明色で統一されたビル。各部屋には色の三原色、赤、青、黄色のドアがアクセントを置いていた。それらを水色の瞳はぐるっと見渡す。
(彼の未来の到着点……?)
自分と同じ背丈でありながら、すらっとした印象を与える容姿。光命自身も細身だが、肩幅はあの男よりもある。芸術家同士の感性という、形として目に見えず捉えること、計ることができないもので、影響し合う相手。冷静でデジタルな頭脳では、それでも全てが数値化されている。その中から男についての必要な情報を取り出す。
(あちらです)
斜め上を見上げると、吹き抜けに横顔を見せる2階の回路が映った。右手の奥に上へ登るための木や鉄骨をわざとむき出しにして、美的センスを促す造りの階段。
冷酷に合理主義者の光命。歩くなどということをするはずがない。高いところから飛び降りた映像を逆再生するようにすっと浮遊し、転落防止の柵を山なりに背中側から立ったまま飛び越え、カツンと廊下の大理石に優美な足音を響かせた。
紺の長い髪は捜索というようにあちこちに揺れ動いたが、銀の長めの前髪に隠された鋭利なスミレ色の瞳はどこにもいなかった。
まるでどこかの国の王子さまが、バルコニーから遠くの景色を眺めるように、細い両腕を柵の上に左右に寝そべらせた。少しかがみ込むと、十字のチョーカーが優雅にシルバーの光を放つ。
(少し早く来てしまったみたいです。
ですから、こちらで待ちましょうか?
自身の身の振り方を考えながら……)
様々な姿形の人種が通り過ぎてゆく中で、それらをデータとして脳に記憶しながら、思考を同時進行してゆく。龍のアーティストが吹き抜けをすうっと空へ向かうように登ってゆく。
(私はピアニストとして、CDを2枚ほど出していました。
ですが、不安定な体調から、ツアーなどは行えませんでした。
仕事も結婚も全て中途半端……)
通常の生活が送れない。才能という泉があるのに、それは息吹を与えらることなく、沼のようになる日々。それでも、デジタルに感情を切り捨て、前に進める方法を、成功する、勝てる可能性の高いものを導き出しては、行動して、試して……。必死に生きてきた日々。今は23歳。だが、たった14年しか生きていない。しかし、大人として、精一杯こなしてきた。
永遠の愛に出会える。別れることはない。だが、人生はそれだけではない。魔法のような夢みたいな世界でも、苦悩はそこにあるのだ。
しかし、転機が訪れた。あの皇帝陛下が在わす謁見の間に呼び出された、3年前のあの日。命令と言われている以上、拒否することは許されない。この帝国で生きている自分には。だが、そこにあったのだ、幸せへと続く道が。
自分が姿を現しても、気配を読み取れない人。何かつぶやいても、遊線が螺旋を描く独特な声も聞き取れない人。それなのに、自分に恋い焦がれている人。最初はただただ、命令に従ってそばに行っただけだった。
何とも想っていなかった。いつも背中からうかがっていた日々。その人の生き方は、まるで足を怪我して走れなくなったマラソンランナーが、地べたをはってでもゴールを目指そうとする。そういう生き方を、毎日、何からも逃げ出さず、全力でぶつかってゆく人、だった。
他人優先で、自分のことは後回し。いわゆる、損をするタイプ。それなのに、他の人の幸せを心の底から喜べる人。心のとても澄んだ
(彼女を愛したほうがいいという可能性は最初はありませんでした。
ですが、0.01%出てきたのです。
その後、彼女が言動を起こすたびに、可能性の数値は上がり続け……。
2年前の1月15日、金曜日、14時55分19秒。99.99%になった。
いいえ……私は新たに恋に落ちたのです。
彼女を守るために、音楽活動を休止した。
ピアノの講師の仕事だけを続けて――)
その時だった、左手の遠くに、春物の薄茶のトレンチコートが姿を現したのは。銀の長い前髪の奥からのぞく鋭利なスミレ色の瞳は、はるか遠くの地平線にでもビーム光線を出すように向けられていた。黒のショートブーツはモデル歩きでこっちへ進んでくる。
「…………」
どこかの誰かさんと同じことをしている銀の髪の人。光命は両手のひらを上へ向け、顔の両脇に持ってきて、優雅に降参のポーズを取った。
(困りましたね。
あなたも夕霧と変わりませんね。
集中するとまわりが見えなくなるという傾向がある。
仕方がありませんね)
遊線が螺旋を描く優雅で芯のある声がエレガントにつかまえた。
「
銀の前髪は一旦自分とは反対方向へ向いたが、こっちへやって来た。冷静な水色の瞳と鋭利なスミレ色のそれは、音楽事務所という仕事場で一直線に交わった。
あごに当てられていた繊細な手はとかれて、最低限の言葉、いや単語が奥行きがあり少し低めの声で吹き抜けのエントランスに、素晴らしい歌声のように響き渡った。
「
さっき自分の膝の上に乗っていた小さな銀の髪を持つ子供と、目の前にいる男の面影がぴったりと重なって、焼けボックリに火がつくがごとく、光命の笑みは穏やかな陽だまりみたいに微笑んだ。
「いいえ、違いますよ。あなたと話をしたくて、事務所まで来ました」
自分に会うためにわざわざ来たと言った相手。それなのに、蓮はそっけない態度だった。
「ん」
短すぎて、よくわからない返事だが、ここはおそらく相づちだろう。いつも通り、ゴーイングマイウェイ。そんな蓮を前にして、光命は結婚指輪を指先でつかみ、
「以前よく行っていたカフェでお茶をしませんか?」
「ん」
さっきと言葉が変わっていないが、光命にはきちんとわかっていた。
「それでは、私が瞬間移動をかけます」
ここは了承の意味だったらしい。
「…………」
そうして、とうとう何の反応もしなくなった蓮とともに、光命の逆三角形の細い体はすうっと消え去った。近くを通っていた鶏の社員は気にした様子もなく、打ち合わせのスタジオのドアをグッと開けた――――
――――サーッという音とともに潮の香りが突如広がった。ザバーンと潮騒が心地よく、シャッフルのリズムを刻む。海辺に面したおしゃれなカフェの窓際の席に座っていた、光命と蓮は。
入り口から入ってこない客。だが、そんなことはよくあること。店員のイルカは慣れたもので、海の中を泳ぐように浮遊して、すうっとテーブルへ近づいてきた。
「いらっしゃいませ。何にいたしますか?」
全員、未来がわかる人々が暮らすこの世界。どうなっているのか、胸ビレで器用に水の入ったコップ2つをそれぞれに差し出した、すでに準備しておいたものを。
紫の細身のロングブーツは優雅に椅子の上で組まれ、細く神経質な指先は紺の長い髪を耳にかき上げながら、遊線が螺旋を描く声の王子さまは、午後のひとときにこれを注文した。
「私はアリティスカティーをお願いします」
アフタヌーンティーだった。
ヨットハーバーを背にして座っている蓮は、辛いの苦いの大の苦手のお子さま舌のため、このカフェで一番甘いものを頼んだ。
「ショコラッテ」
「かしこまりました」
イルカがカウンターへたどり着くと同時に、注文品はそれぞれの前にすうっと瞬間移動で現れた。ストレスレスなこの世界。
ウッドデッキへと続く店内の窓ガラスは開け放たれ、海風が潮の香りを連れてくる。それとにじみ合うベルガモットの柑橘系と、シナモンの甘くスパイシーな琥珀色。その
「こうやって、あなたとこちらのお店で、お茶をするのは9ヶ月と16日、13時間14分32秒ぶりです」
ずいぶん細かい記憶力だったが、蓮は気にした様子もなく、店の照明がまるで海の中に
「ん」
ストローを使って、激甘の飲み物を飲んだが、潔癖症で口元に何かがつくのを許せない
カップがソーサーにぶつかるカチャッという音が、話すタイミングをもたらした。テーブルの上に置かれた小さなサボテンの緑が、2人の話をじっと聞く。白のカットソーの両肘はテーブルの上に乗せられ、
「あなたは私のことをどのように想って、同じ職場で過ごしてきたのですか?」
疑問形がやってきた。遊園地に一緒に行った写真を飾る。しかもさっき、百叡がパパが2人いるようなことを言っていた。その経緯は是非とも聞きたいところだ。
「…………………………………………」
しばらく、鋭利なスミレ色の瞳は店内にいる他の客たちや、宝石のような輝きを降り注ぐ照明を眺めていた。だがしかし、さっきまでほとんど動かなかった綺麗な唇が、普通に話し出した。
「……今は同じ23歳だが、俺はお前より、6年あとに生まれている。だから、そこに来たら、お前がいた」
「えぇ」
光命は生まれて14年目。蓮は生まれて8年目。だと、
「姿を見るたびに何か気になった」
言葉が完結どころではなく、感覚というか感性で話しているばかりに、追加の質問が光命からやってきた。
「どのように気になったのですか?」
確かにそうだ。気になる……。それだけでは答えとは言えない。同業者として、人として、それとも――男として気になっていたのかで、全く意味が変わってしまう。そうして、またやってきてしまった、この時間が。
「…………………………………………」
光命は心優しくも紅茶を一口飲み、ベルガモットとシナモンの香りというダンスを楽しみながら待っていたが、いつまでたっても返してこない。それどころか動きもしないので、こう言った。
「私があなたに話しかけて、あなたが返事を返してこないのは、こちらで1092回目です」
デジタル頭脳ではきっちりカウント済み。蓮の天使のように綺麗な顔は怒りで歪み、気まずそうに咳払いをして、こっちもこっちで言い返した。
「んんっ! わからないから答えられない」
何だかおかしな感じがする、自分の感情がわからないとは。色々と問題を起こしそうな蓮だった。本人がわからない以上追求するわけにもいかず、光命は相づちを打ち、別の質問を投げかけた。
「そうですか。他には何か思うところはありましたか?」
夕闇が広がり始めた店外に、ランプのオレンジ色の炎が一斉に灯った。2人の頬をユラユラと影を低く高くしながら照らす。不思議と結露のできないロンググラスを持ち上げ、ショコラッテを一口飲んだ蓮から、こんな話が出てきた。
「お前が他のやつに、悪戯しているのを見たことがあった」
職場で悪戯。この優雅な王子さまも、あの天才軍師に負けず
「どのような内容ですか?」
そうして、
「言葉をすり替えていた。相手が混乱するような言葉をわざと次々に言って、相手が戸惑っている内に、自分が決めると言って、取り消しはできないと約束させて、いつも相手を自分の思った通りに罠にはめていた」
策という鎖でぐるぐる巻きにした上に、突き落とすような冷血無情な罠。それなのに、くすくすと笑いもせずに、優雅に微笑んでいる
「おや? そちらを見られていたとは知りませんでしたよ」
何だか、どこかの女装していた人と手口が似ている気がする。だが、一点集中で真面目に答えている
「いつも見ていた。そして、最後に
人が幸せになることをするためにしていることであって、決して自分1人が楽しむためにしていることではなかった。神経質な指先は、夜色と交わるオレンジの光を、ティーカップの
「他には何かありますか?」
「話したいと思った」
「えぇ」
「だから、お前に話そうとしたら、お前が先に話しかけてきた」
ここまで、同僚同士の普通の話だった。行きつけのカフェに来て、お互いの好きな飲み物を注文して、潮騒という癒しの中で、語る昔話。だが、次の光命の言葉で今までの会話が何だったのかが、明らかになった。
「えぇ、あなたの視線がいつも私に向かってきていましたからね、私に気があるのだと以前から知っていましたよ」
カフェに来てからの光命の言葉はほとんどが疑問形。それは、情報収集の基本。時折、混ぜられていた『えぇ』といううなずき。それは、先を促して、情報収集する基本その2。だが、たった1言だけ、おどけた感じで話してきた。あれは嘘、すなわち、罠だったのだ。
さっきからおかしかった会話のオチに、テーブルの端で黙って聞いていたサボテンが笑い声をもらした気がした。再びやってきてしまった、蓮の沈黙と超不機嫌顔が。
「……………………………………………………」
動きもしない銀の長い前髪の前で、光命はくすりと笑った。悪戯が成功したために。
「返事がないということは、今頃気づいたと思っている……という可能性が99.99%」
蓮は組んでいた両腕をといて、手でテーブルの上を力任せにバンと叩いた。
「なぜ、お前らは嘘をつく? さっき、見られていたと知らないと言っていた」
テーブルごと全てを切り刻みそうな鋭利なスミレ色の瞳は、怒りでプルプルと揺れていた。
中性的な唇につけられたティーカップが、ソーサーという玉座にカチャッと戻ってきた。光命は頬杖をついて、自分の思惑通り怒って、きちんと反応している相手を、楽しげに見つめた。
「策士は罠を成功させるためならば、どのような嘘でもつきます。ですから、
全てを洗い流すように、コップに入った水を一気に飲み込んだ。蓮は怒りを収め、ナプキンで綺麗に口元を拭いて、態度デカデカでこんなことを言う。
「いい。許してやる」
サファイアブルーの宝石がついた指輪は、中性的な唇に口づけさせられ、くすくすという笑い声を間近で聞かされた。
「おかしな人ですね、あなたは。許しは誰も
「んんっ! お前もあれと同じことを言うとはどういうつもりだ!」
気まずそうに咳払いをした蓮の人差し指は勢いよく、テーブルの向こうで笑っている男に突きつけられた。
あれ。それが誰かわかる2人。急に切り取られてしまったような世界で見つめ合う。冷静な水色の瞳と鋭利なスミレ色のそれは。あれの面影をそれぞれの脳裏に浮かべながら奏でられる、共有という五線譜の和音のような絶妙な
やがて、光命の唇が結婚指輪に軽く触れて、目の前にいる男に言葉を返した。
「私と彼女は似ているのですから、仕方がないではありませんか」
「……………………………………………………」
あれとこの男は似ている。何とも言い返せない理由。
ピンクとオレンジと紫が混じった夕闇の幻想的な空。こんな綺麗な色にも気づかないほど、必死で生きてきた、あの女の長い髪が、どこかずれている瞳が、まるですぐ後ろで背中合わせで立っているように近く感じた。
しばらく黙り込んだ光命と蓮。彼らのまわりには様々な音が、あれのいない空間で響いていた。食器のぶつかる音。他の客の話し声。打ち寄せる波音。店内に流れるBGM。
ショコラッテのグラスの氷が溶けて、カランと鳴ると、蓮は再び視線を戻し、話を違うことに変えた。
「夕霧は?」
「午前中に会ってきましたよ」
無限に永遠な世界。それは、温かいものは温かいまま。冷たいものは冷たいまま。それも意味していた。さっきから冷めないアリティスカティーは
蓮の携帯電話がトレンチコートから、テーブルの上に少し投げやりに出された。
「俺はさっきメールを見た」
「そうですか。私は実際観てきました。ですが、あなたはリハーサルなどがありましたからね。警備をしている
どの全員だかが気になるところだが、蓮は携帯電話を取り上げ、メールアプリを立ち上げる。それはグループに送られる仕組みのもの。メンバーは限られている。
蓮の銀の長い髪は疑問で斜めに傾き、隠されていた右目が少しだけ姿を現した。
「ん? 既読が16だから、全員じゃない」
そばにあったサボテンのトゲを神経質な指先でいじりながら、光命はきちんと訂正する。
「いいえ、全員です。メールを発信した
「18引く2……16?」
数字に強い自分。
簡単な引き算に首を傾げる相手。
職場は一緒なのに、音楽というものに触れているのに、それぞれの尺度で過ごしていた同僚。今度は光命から見ると、銀の長い前髪を持ち、潔癖症の男がどう映っていたかの話になった。
「同じ音楽家ですが、あなたは私と違う。あなたは夕霧と同じで、地道な努力の末に、ディーバ ラスティン サンディルガーと芸名を改名して、今の不動の人気を手にしたのです」
「…………」
蓮は何も言わず、ただショコラッテを一口飲み、無表情でロンググラスをテーブルの上に置いた。この男の心の内はわかっている、光命には。今のは、何の
スタートは自分と同じだった、光命の前にいる男は。
「初めは、バイオリンでクラシックを弾いていましたが、途中からR&Bに転身した」
ナプキンにショコラの茶色をつけて、珍しく長々と話し出した、少し低めで奥行きのある声が。
「あれがよく聞いていたから、俺も聞くようになった。そうしたら、そういう曲が思い浮かぶようになった。だから、ジャンルを変えた」
砂糖もミルクも入っていない紅茶を、スプーンでかき混ぜると、自分の顔が何か別の運命にでも巻き込まれたようにクルクルと円を描いた。
「私もクラシックばかりでしたが、最近は様々なジャンルの音楽を聞くようになりましたよ」
光命の刺すような冷たさが、陽だまりのような暖かさに変わった原因の1つがテーブルの上に降り積もった。だが、蓮の天使のように綺麗な顔は急に怒りで歪み、持っていたナプキンを乱雑に、サボテンの近くに投げ置いた。
「あれが、お前に余計な音楽を聞かせるから、動きがおかしくなった」
意味不明な言葉がいきなり出てきた。金のスプーンを指先で立てたまま、ふと動きを止めた。
「どちらの動きですか?」
「んんっ! ……
瞬発力抜群ですと言わんばかりに、即行、光命の右手はスプーンから離され、カランカランとカップが鳴った。それと同時に、またサファイアブルーの宝石がついた指輪は、くすくすという笑いをそばで聞かされることになった。
(なぜ、急にセ×××の話になったのでしょう?
おかしな人ですね、あなたは)
キスリレーではなく、大人のリレーにすり替わりそうになっている。ゴーイングマイウェイのお陰で。
ツボにはまった光命は何も返せなくなり、いわゆる彼なりの大爆笑を始めた。
「…………」
白いカットソーの肩を小刻みに揺らし、紺の長い髪は前へかがんだことによって、両肩から胸元にほとんど落ちてきていた。首回りにつけていた十字のチョーカーは、笑いの渦の中で、キラキラと店のマリンブルーのライトの中で光り続ける。
全然、笑いの沖から戻ってこれない男を前にして、蓮は不思議そうな顔をした。
「なぜ、笑っている? あれから同じ音楽を聞かされたという話だった……どこがおかしい?」
光命は冷静な頭脳という名の盾を使って、大爆笑という激情をデジタルに抑えた。姿勢を正して、紺の長い髪をゆっくりと横に振る。
「何でもありませんよ。えぇ、そうです」
ここまでは楽しい会話だった。同僚で、お互いに好きで、懐かしさと愛おしさの旅路をたどるために話していた。だが、光命の次の言葉は衝撃的だった。
「私とあなたは同じ女性を愛したのです」
修羅場になるだろう。文句の1つも出てくるだろう。しかし、蓮の綺麗な唇から出てきたのは、たった一言。
「ん」
驚きもしない。問い詰めることもしない。否定もしない。ただの肯定。同じ女を2人の男が愛している。そんなことが、穏やかな雰囲気で平然と受け入られる。そんな世界、ここは。
人を愛すること。それは相手を想いやること。
嫉妬をすること。それは自己中心的になること。
よく考えてみればわかる。自分側からしか見れなくなった時に人は嫉妬をする。自身を犠牲にしてでも、愛する人を守りたい。大切にしたい。それとは真逆の感情。
嫉妬しているから、愛しているは間違っている。この世界では、この考えが常識。それが理解できない人は、ここに存在することは、やはり神から赦されていない。
同じ女を愛する。そこには、一種の絆が存在していた。冷静な水色の瞳にはまず最初に、自分の結婚指輪が映り、次は蓮の指にある同じものを見つめた。そうして、遊線が螺旋を描く優雅な声が問いかけた。
「なぜ、あなたは私と結婚しようと決心したのですか?」
そう、
「俺が生まれる前から、あれはお前を好きでいた。心の中で考えていることは、俺たちには筒抜けだ。いくらあれが人に気持ちを隠そうと、お前を想っていたのは知っていた。それを叶えてやっただけだ」
愛している女が他の男を好きでいる。だが、自分を愛しているのも確か。ここにも存在していた、愛の重複が。何本も引かれた恋情という軌跡。それは、1つは回収され、他は悲恋の傷跡を引き続けた。
消え失せることもなく、色
口にしなくても、心の声が聞き取れる。この世界にいる大人たちなら、全員。陛下からの命令がなかったら、光命はその女には出会わなかっただろう。その女が自分を愛していることなども気づかず、月日は過ぎていっただろう。今の結婚もなかっただろう。
だが、まだ話は終わっておらず、光命は言葉を続けた。
「ですが、あなたが結婚するたび、マスコミ関係はお騒ぎです」
「ん」
「式場の前にテレビカメラやリポーターが陣取ってしまい、招待客が身動きが取れなくなるのです。式が終了後に取材がすぐに始まってしまうために」
普通に芸能人が結婚しても、そうなるだろう。それが、アブノーマルな結婚だったらなおさらである。蓮は苛立たしげに首を横に振って、コップの水を心のイライラを洗い流すように飲んだ。
「それは事務所に止めるように言ったが、陛下から圧力がかかった」
国の一番偉い人からの阻止。光命の優雅な笑みがすうっと消え、珍しく真顔になった。
「なぜですか?」
「俺たちのことを世の中に広めたいというお考えだそうだ。だから、マスコミを通して、他のやつらに伝えるために、俺が結婚するたび取材は来るようになっている。俺が広告塔だ。さっき、謁見の間に呼び出された」
リハーサル会場に来た陛下の部下の呼び出し事件はこの話だったのだ。自分たちのプライベートが、性癖が他人に知られる。夕霧命とキスする時でさえ、あんなに思い悩み、涙まで流した光命は、組んでいた紫のロングブーツをすうっとといた。
「そうですか」
夫が悩んでいることなど、夫として当然知っている。だから、蓮は迷い悩んで、本番前でも事務所へ瞬間移動してきたのだ。愛する男の神経質な頬に涙が伝うのは、何としても止めたかった、蓮は。だから、言葉を言おうとしたが、
「お前が断るなら――」
光命は途中でさえぎった。判断材料がまだ少なすぎるために。
「そちらはご命令ですか? それとも、おうかがいですか?」
「おうかがいだったが、ほぼご命令だ」
陛下はご期待されていた様子だった。ここは帝国。皇帝陛下からの命令。感情はデジタルに切り捨て、光命は冷静な水色の瞳に、蓮をただただ映していた。
「そちらでは、私たちに拒否権はありません。ですから、従うしかありません。ですが、陛下は強くお優しい方です。従って、世の中の方々が今以上に幸せになる可能性が高いと判断され、命令を下されたのかもしれませんよ」
陛下はいつだって、そうだった。自分のことではなく、平民のことを一番に考える人物。それは、この世界に住んでいる人なら誰でも知っている。そうでなくては、ついてくる人などいなくなる。誰もが尊敬できる。そんな人だからこそ、おうかがいだったとしても、従いたいと願うのだ、下にいる人たちは。
自分と同じ銀の髪。その意味を抜かしても、蓮も同意見だった。
「ん」
話は一旦途切れた。店の穏やかで明るいBGM。人々の話し声。食器のぶつかる音。それを優しく包み込むベールのような潮騒。寄せては返す波というリズムを刻み、音楽家2人の耳に創造力のギフトを贈ってくる。
濃い紫のロングブーツは優雅に組まれ、紺の長い髪は神経質な指先で耳にかけられた。結婚指輪をした手は、ティーカップの取っ手にそっと絡みつき、ベルガモットとシナモンの香りに酔いしれ、紅茶のストレートが輪郭をはっきりとさせ、苦味というSMチックな刺激に身を任す。
黒のショートブーツは闇色が濃くなり始めたガラス窓に、足を組むという動きを映し出す。繊細な手がたった数本乱れた髪を、潔癖症という名の厳格さで、窓を鏡の代わりにして、スースーと直した。満足がいくほどの完璧がやってくると、未だに結露のできないショコラッテのストローに口をつけて、激甘のオアシスでひとときの休憩。
天井からの様々な青。冷静な水色の瞳にそれを宿し、まるで光のスコールでも浴びるようにまぶたを閉じた。そうして、目の前にいる男の匂いで、優しく起こされたようにまぶたをそっと開けた。
ティーカップをソーサーの上で両手で包み込み、静かに言葉を紡いだ、遊線が螺旋を描く優雅で芯のある声で。
「あなたとこちらの店へ、仕事が終わったあとよく来ました。とても素敵な時間でした。このまま、帰りたくないと思ったことが何度もありました」
様々な壁にぶつかる仕事。それが終わったあとの開放感。愛している男。お互いのお気に入りのカフェ。食事をしながらの楽しい会話。お酒も飲んだだろう。
そうして、夜はあっという間に更けてゆく。相手も自分を愛していると知っている。このまま夜の街に2人きりで消えたい。そう望んで当たり前だった。
だが、そこには大きな壁があった。ショコラの茶色をしみ込まされたナプキンは、きちんと端をそろえて折りたたまれる。
「俺が引き止めてやってもよかったが、結婚している。だから、不倫になる。だが、あれがいつもの直感で言ってきた」
直感、天啓。それは
光命は組んでいた足はそのままに、身を乗り出した。すると、十字のチョーカーがすうっと宙を横に泳ぎ、甘くスパイシーな香水がそよ風を起こした。
「どのように言ったのですか?」
「この世界の法律はただ1つ、みんな仲良くだと。結婚に関する規定はないと。だから、お前とお前の彼女に、気持ちを伝えてやってもいいと思った」
ここで、結婚しているのは、光命の元彼女も入って、夫婦4人――
「そうですか。そちらもそうだったのかもしれない……」
いつもと違った言葉遣いになった光命の冷静な水色の瞳は、涙で視界がゆらゆらと揺れ始めた。ウッドデッキのテーブルの上に乗っているオレンジのランプの炎がにじむ。
自分が悩んできた可能性の数値を、あの女は直感でひっくり返す。抱え込んでいた悲しみを、一瞬にして幸福に変えてしまう女。ビックバーンのように
全てを記憶する頭脳。あの女が言ってきた言葉の一字一句、日付も何もかもが狂わず、光命の脳裏の浅い部分に、走馬灯のように浮かんでは消えてゆく。
物思いにふけっている光命の神経質な横顔に問いかけた、蓮は。
「何の話だ?」
「私と夕霧のことは、彼女がこちらのように言っていました」
従兄弟同士。小さい頃からをやり直して、恋は芽生えて、それでも素直に受け入れられなくて、自分の中の罪悪感は光命からは消えなかった。それなのに、あの女は消し去ったのだ。
ここにいない他の男と愛する男の関係。それが自分の妻が何か物申すをしたという話。当然、知らない蓮は不思議そうに首を横に傾けた。
「ん?」
光命は真正面に顔を向けて、自身を後悔の泉から救ってくれた女の言葉を、一字一句間違えずに口にした。
「神様のお導きだったんですね。何度もお互いを意識することが起きたんだから、運命だったんですよ。神様にも神様はいるんですから。結婚するようにって言ってたんじゃないんですか? だから、これでよかったんです、と」
神の導き――
背徳感でも罪悪感でもなく、そこには神聖と慈悲があった。そう気づかされた時、光命は立っていられないほどの悦楽と、過ぎてきた哀傷の渦の相反する乱気流に見舞われた。
彼女の前で思わずしゃがみ込んで、涙をいくつも流したのだ。ありのままの自分で生きていいと、ずっと赦されていたのだと知って。
ちなみに、ここで、妻子持ちの夕霧命と結婚したので、夫婦6人――
重複婚どころの話ではない私生活を、繰り広げているミュージシャンは自分が愛するように、最初の妻が他2名の男を愛していると知っても、平気な顔で話し始めた。
「あれは神を信じている。他のやつばかり優先して、自分のことは後回し」
だが、あの女の自分への態度を思い出したら、イライラが
「鈍臭くて、失敗ばかりで、見ててイライラする。だから、つい物を言いたくなる。だが、あれも引かなくて、毎回毎回、言い争いのケンカだった」
自宅で、2人が言い争っているのを何度も見ている
どんぐりの背くらべみたいな微笑ましい限りのケンカ。配偶者の1人として、自分の目の前にいる夫が、あの女に対してどんな気持ちで接しているのか、光命は可能性からすでに導き出していた。
「あなたは彼女に甘えているのではないのですか?」
「なぜ、そんなふうに思う?」
蓮にとっては意外な言葉で、ただただ自分の言いたいことを言ってるが、必ずカチンとくるようなことを言い返してくる、我が妻。
「私たち夫の前では、あなたはそのようなことはしません。ですが、彼女の頭を叩いたりするではありませんか?」
頭を叩く。バイオレンスな感じもするが、この世界は地球の重力の15分の1。そのため、強く叩いても、痛みも怪我もすることなく……いや、死もなく、病気も怪我もなく生きていける世界。どんなに高いところから落ちようが、多少の痛みはあっても、怪我は絶対にしない。そういう仕組み。
蓮の両腕は腰のあたりで組まれ、人差し指をイライラとトントンと叩き始めた。
「あれがおかしなことを言うからだろう。2人でデートしに行くんだねとか、蓮も結構ボケてるよねとか、恋愛に鈍感だねとか、いちいち指図するなとか、あと……」
まだまだ、話は続きそうだったが、銀の前髪はうんざりと言うように横に揺れた。
「あぁ〜、思い出すと、またぶり返す。この話はもう終わりだ」
「あなたたちは、おかしな人たちですね。立場が対等なのですから」
夫婦なら立場が対等、それが当然。だが、あの女は違うのだ。この世界への自由な出入りを禁止されている。ある場所から動くことができない。それなのに、関わってくる、自分たちの生活に言動に。
「あれが、俺たちを見て、聞こえるから、おかしくなっている」
「そうかもしれませんね」
そう、見ることも聞くことも、本来なら赦されない女。
「人間の分際で、タメ口とはどういうつもりだ! あいつ」
今までの話では、全員自分たちのことは、『人』そう言ってた。だが、『人間』が出てきた。彼らにとっては、彼女は人間なのだ。自分と同じ人ではなく。
潮風が入り込む店内。残り少ない相手の飲み物を名残惜しそうにうかがう。そんな日々だった。だが、それは目の前にいる男が過去に変えてくれたのだ。
光命は向かいの席から、
冷静な水色の瞳は鋭利なスミレ色の瞳を横から見る形で、命、いや魂の恩人といっても過言ではない、我が夫に静かに言葉を紡ぐ。
「
全ては夢のまた夢だった。それが、目の前にいる男がプロポーズしてきたことによって、現実になったのだ。向かいの席では遠い距離。斜め横の席に来た。それは何を意味しているか、蓮にはよくわかっていた。真実の愛という名で、お楽しみに時間がやって来た。
「かけてやる」
奥行きがあり低めの声は今は鋭さは消え、安定感のある美しい響きに変わっていた。だが、言葉が足らなすぎて、何を言っているのかわからない。しかし、光命はそれはこの男の自分への愛で、この男の特殊能力を使うの意味だと知っていた。
紺の長い髪はゆっくり横へ揺れるが、冷静な水色の瞳は外されることはなく、2人の視線はカフェという空間で、絡みに絡んだ。
「もう、あなたの魔法を使って、時を止めなくてもいいのです」
「ん?」
いつもと違うことを言われて、蓮の顔は不思議そうになった。光命は午前中に感じたもう1人の夫とした唇の温もりを思い返した。
「夕霧と外で、たくさんの人がいる中でキスをしました。ですから、人目をはばからなくてよいのです」
14年しか生きていなくて、数字という規律の世界の中で生きている男。経験不足の男が繊細という壁を1つ1つ自身の手で方法で、払いのけて、成長し続け、出会った頃と変わってゆくが、真実の愛はそれさえも受け入れられ、愛おしく思えるもの。
さらには、8年しか生きていない自分も、ともに変わり続けてゆく。青空という背景はそのままで、そこを流れる雲は同じものは2度と現れない。例えて言うなら、そんな関係。
蓮の綺麗な指先は、十字のチョーカーに伸ばされ、そのシルバーの冷たさをまるであごを自分に引き寄せるように味わう。
「ん」
新婚さん。夫婦ならぬ、
「
晴れ渡る青空の下、草原を吹き抜けてくる風を浴びるように、天使のように可愛らしい顔は無邪気な子供のように微笑む。さっきまで超不機嫌だったのが、口の端が両方とも上に上げられ、スミレ色の瞳からは鋭利さが消え、純粋だけになった。だが、綺麗な唇は動くことなく、
「…………」
そのまますうっと、
髪だけでなく肌も何もかもの感触が、自分を魅了してやまない毎日。その中でも、1番、いや2番目に敏感な唇に触れる。1番は大人のお楽しみということで。
いつもの光命ならば、体中を雷に打たれたように、ビリビリと指先、つま先まで鼓動が
そうして、2人の瞳はすっと閉じられ、本物の潮騒を聞きながら、海面から差してくる様々な青、アクアブルーの光のシャワー。カフェのライトの中で、唇はふと触れ合った。
式の時に初めて感じた感触。祝福という拍手に包まれた中で自分の内側に入り込んできた、相手の性的な匂い。何もかもが数字化された光命は、真っ暗になった視界の中でこんなことを考える。
(私を解放してくれた人。
ですが、あなたが私に愛していると言ったのは、1回だけです。
そうなると、あちらの可能性があるという可能性が96.98%。
従って、キスを終わったあとには、当初の予定通り罠へと
蓮に光命の策が迫っていた。というか、罠だった。斜め向かいの席に移動してきたのも、さっきの愛しているの言葉も。
そうとは知らず、唇の温もりと感触を、R&Bというリズムと独特の音階の感性へと、蓮は変換し続ける。夫夫の愛が新しい曲、仕事を作り出してゆく。
(
五線譜にメロディーが描かれてゆく)
店の中にいた他の客たちは最初、不思議そうに顔を見合わせていたが、ここでもすぐに受け入れられ、微笑ましく思われて、2人きりの世界を邪魔しないように、普通に会話をしたり、飲食をし始めた――――
――――光命は手を伸ばせば届く位置にあるティーカップを、瞬間移動で自分の前へと呼び寄せた。ティースプーンで琥珀色をかき混ぜ、ベルガモットとシナモンの香りを際立たせる。中性的な唇にカップの縁は口づけをされ、永遠に温かい紅茶を体の中へ落とした。
そうして、罠が始まる。ポーカフェイスで
「
「なぜ、そんなことを聞く?」
疑問形に疑問形を返してきた、蓮は。罠を回避するための1つの方法。だが、策士にそんな手は通じない。
水色の瞳はついっと細められて、細く神経質な人差し指は軽く曲げられ、あごに当てられた。それは思考時のポーズ。そうして、遊線が螺旋を描く声が自分の頭の中にある物事を、そのまま現実という空気になじませた。
「答えないということは、全員に伝えていないという可能性が99.99%」
おやまあ、結婚しているのに、愛していると言っていないとは。本当だったら、それは大問題である。蓮の鋭利なスミレ色の瞳から、紺の長い髪を持つ夫は消え失せ、店員のイルカが後片づけをしている背中に移動した。
「…………」
愛している男の言動など、全て冷静な頭脳の中にデータ化済み。
「返事を返してこないということは、100%、事実として確定です。どなたに伝えていないのですか?」
やはり言っていない人がいるようだ。しかも、光命の質問は冷酷無情に続いてゆく。じわりじわりと、
言葉を自由に操り
彼とは逆に、最低限の言葉、しかも相手に通じてなかろうが、何だろうが、ゴーイングマイウェイで返す、蓮。
観念して、蓮は話し始めたが、
「あれに……」
途中でイライラという火山が噴火して、天にスカーンと抜けるような怒鳴り声を上げた。
「伝えることはお前には関係ないだろう!」
激情の
「あるではありませんか? あなたと私はもう同僚でも恋人でもありません」
正論だ。蓮は気まずそうに視線を外し、ナプキンを一度持ち上げ、ポイッとテーブルの上に投げ置いた。暴言に近い言葉を言ってしまった唇に手を当て、鋭利なスミレ色は少しだけ陰りを見せた。
「…………」
誰に言っていないのかは知らないが、新しい奥さんか、夕霧命だろう。だが、光命の中性的な唇から出てきた人の名前が驚きのものだった。
「反省しているのでしたら、
ループで、あのひまわり色の短髪と、はつらつとした若草色の瞳を持つ男に話が戻っていった。独健と光命、
「なぜ、あいつだとわかった?」
光命は紅茶を一口飲んで、デジタル頭脳で長々と的確に説明を始めた。
「あなたの今から4つ前の言葉で、『あれに』と言いました。単数形です。従って、1人に伝えていないという可能性が99.99%。そうなると、最後に加わった、独健であるという可能性が78.98%。ですが、これらの可能性は、今あなたが疑問形で認めたので、100%、確定です」
待った、待った! 最後に加わる?
ここで、再び整理してみよう。
知らないはずの人同士が知っている。
全員、結婚指輪をしていた。
お弁当箱の結び目が全て、女が長い髪を結い上げた色気を漂わせていた。
このキスリレーのアンカーへとバタンが渡されるカウントダウンが、ようやく始まりそうだ。
蓮は光命とは反対側の店のカウンターキッチンを眺めた。
「…………」
それが何を意味しているか、光命は知っている。夫なのだから。
「図星でしたら、今すぐ行って、彼に愛していると伝えてきてください」
本番前の貴重な時。今は目の前にいる光命との時間を楽しんでいる。そこに別の男の話。蓮の綺麗な顔は怒りで歪んだ。
「なぜ、今、俺をあいつのところへ行かせようとする?」
この鋭利なスミレ色の瞳で、人混みをモーセが海を割いたがごとく、他の人々を両脇に寄せさせて、平気で歩いてゆく蓮。だったが、光命も負けず劣らず、猛吹雪を感じさせるほど冷たい瞳で見つめ返した。
「あなたは私に先ほど愛していると言われて、どのように想いましたか?」
そうだ。愛している人に、愛していると言われる。それがどんな気持ちか、わかるだろう。それが罠だったとしても、心を込めて言ったのだから、光命は。とうとう言いくるめられた蓮は唇を噛みしめながら、小さく吐息だけもらした。
「…………」
激情という名の感情を持つ人らしく、
「あなたの中に生まれた幸せと愛を、彼にもすぐに差し上げてください」
「ん」
(16時59分11秒)
目の間にいるアーティストのコンサートは18時スタート。
「開演1時間前を切ります。ですから、必要でしたら魔法で時を止めてでも、彼のところへ行ってきてください」
「使う」
口元を潔癖症らしく拭いて、蓮は立ち上がろうとした。その横顔に、光命の遊線が螺旋を描く声が続きという引き止めをする。
「それから……」
「まだあるのか?」
「一旦、家へ戻ってきてください」
独健のところに行けと言っていたのに、戻ってこいと言う。蓮が首を傾げると、銀の長い前髪がさらっと落ちて、両目があらわになった。
「ん?」
あごに当てていた手をといて、光命は優雅に微笑んだ。
「いつものことがあるかもしれませんからね」
事件の匂いが思いっきりしていた。だが、愛している男の指示語の隠した表現。それは、そこに何らかの意図があってしている時。蓮は短く大人しくうなずいた。何を言っても、今の光命から真相は聞き出せないとわかっていて。
「ん」
「それでは、またあとで会いましょう」
光命が言うと、2人は席から立ち上がった。慣れた感じで、瞬間移動で店からいなくなる。代金を支払わず、白のカットソーと薄茶のトレンチコートは消え去った。ディーバ ラスティン サンディルガーのサイン入りCDを代価として、テーブルの上に残して。
後片づけにきたイルカの店員は、CDを見つけて目を輝かせた。ピューッと慌ててテーブルから離れていく。店長にそれを手渡すと、すぐに店のBGMはR&Bのグルーブ感に包まれた。
奥行きがあり少し低めの独特の音階を、アナログチックな声帯という楽器で奏でる曲に、店にいる客たちは思わず歓喜のため息をもらした。
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