従兄弟と男

 その人のまわりだけ、メインアリーナの大歓声が、舞踏会のワルツのように優美に響いていた。左斜め下に観戦客という宮廷楽団を引き連れて、通路を歩いてゆく。


 その歩みはまるで華麗なステップでソーシャルダンスを踊るような優雅さ。カツンカツンと美の結晶のような足音を作り出すのは、おしゃれが際立きわだつ、膝上までの濃い紫の細身のロングブーツ。


「わぁぁぁぁ〜〜!」


 忙しそうに動いているきらめき隊のマントとレイピアのつかが、深緑とシルバーの細い線を描きながら、通り過ぎては追い越してを繰り返す。そのたびに、通路の床の陽だまりが、騒々しく影という動きを映し出している。


 紺の肩より長い髪は縛られることもなく、そのままで。ハイソな遊びという美学を漂わせる。楕円形に切り取られた青空からの春風に、それは絶妙に寄り添うようにフワリサラリと吹かれている。しなやかでありながらコシがある質感。


「わぁぁぁぁ〜〜!」


 楽しげに追い越してゆくパンダの親子。初デートなのか、微妙に距離が空いているキリンのカップル。様々な人種、体の大きさや作りで、動いている通路。そこを、黒の細身のズボンと白のカットソーは、ぶつからないようにスマートに避けてゆく。瞬発力という身軽さを持って。


 試合会場との角度を測るために、空中庭園の青空にぽっかり浮かぶ、碁盤のように見える、灰色に視線を落とした。その瞳は瞬間凍結させるほどの猛吹雪という形容詞が似合う、冷たさが広がる水色。冷静。その一言に尽きる。


 しかし、親しい人、家族は知っている。氷のやいばという水色の瞳の奥にひそむ、激情という名のけもの。それが、冷静という名の盾に常に抑えられていると。冷と熱。ギャップ。人を魅了するもの。そんなものをいくつも持っている人。


 水色の瞳がついっと細められる。そんな時は、その奥に隠されたデジタルな頭脳が光の速さのごとく記憶というデータを拾い上げる。そこから冷酷無情に言動を導き出す時。今で言えば、武術の試合観戦をするために、最適な場所を見つけたといったところだ。


「わぁぁぁぁ〜〜!」


 シュッと瞬間移動をして、通路から不意に消え去った。人々の往来おうらいからそれて、観客席の最後列さいこうれつより背後にある柱のそばに現れた。首元にかけられた十字のチョーカーが衝動でエレガントに襟元で舞う。


「わぁぁぁぁ〜〜!」


 元々来る予定ではなかった。チケットなど持っていない。それでも、選手の関係者という理由で特別に入れてもらった。座れる席はどこにもない。そのため、最後列の背後にある柱のそばが特別席。そこで甘くスパイシーな香水を春風になじませる。


 綺麗。誰が見ても最初に、思わず吐息をもらす、この人には。ガラス細工で作られた花。はかなく壊れやすいからこそ、価値のある美しさ。中性的な雰囲気が人目を引く。すれ違いざまに、振り返る人がちらほらと出ているが、その人にとってはいつものこと。


 だが、性別は男。客席とは直角、横向きでもたれかかる柱に。足元は片膝だけ曲げて、その濃い紫色のつま先は立てられ、壮大なクラシック音楽を聴くように、柱の下でトントンと優雅に叩きつけられる。


 何でもないメリンアリーナの柱が、どこかの国の立派な庭園をのぞめる場所のように変化ムーブメント。その男の姿は、まるで貴族的で高貴にたたずむ王子さま。


「わぁぁぁぁ〜〜!」


 乱れてしまった髪を耳にかける、その指先は細く神経質。サファイアブルーの宝石がついた指輪が優艶ゆうえんに芽吹く。その手は今度、人差し指を軽く曲げてあごに当てられる。彼の癖の1つ。思考時のポーズ。


「わぁぁぁぁ〜〜!」


 歓声が聞こえようと、誰かがそばを通ろうと、冷静な頭脳でデジタルに切り捨てる。瞬間移動で目の前に急に出てきたものを見つめる。鈴色の丸。その中はまるで海面から降り注ぐ光のようなマリンブルー。3本の針が時刻を刻む懐中時計。


 そうして、この人の癖がまた出る。それは、インデックスとして日時を記録するだ。なぜ、こんなことをするのか。膨大な量のデータを記憶力という本棚に、きちんと整理するため。氷の刃と言っても過言ではない水色の瞳。そのレンズから取り込む、的確に素早く情報を。


(3月26日、日曜日。

 10時27分59秒)


 10時30分から始まる試合に間に合うから、ここへ来た。まだ、アナウンスも始まっていない、メインアリーナの会場。瞬間移動で時計は、ズボンのポケットでバカンスというハンモックに身を任せた。


 脳裏に浮かび上がる。それは過去ではなく、現在でもなく、その先の記憶。半透明な荒野で突風が自分へ向かって吹いてくるがごとく、ある映像が色つきで早回しで迫ってきては通り過ぎてゆく。それなのに、音だけは通常のスピードで再生され、遅れに遅れて聞こてくる。そんなずれのある異空間感覚。


 熊の茶色と深緑の髪を持つはかま姿の2人。彼らが、会場の1番下にある碁盤のような試合会場で、繰り広げるであろう戦いの動き。それが、なぜか今わかる、この男には。彼らしい思考回路をまじえながら、頭脳に記録してゆく。


(夕霧の動き……。

 1番目は、正中線強化で相手の動きを抑えるであるという可能性が99.99%。

 2番目は、相手の背後に瞬間移動するであるという可能性が99.99%。

 3番目は、相手の背後に縮地するであるという可能性が99.99%。

 4番目は、相手の攻撃をかわすであるという可能性が99.99%。

 5番目は、相手のバランスを崩すであるという可能性が99.99%。

 6番目は、彼が合気をかけるという可能性が99.99%。

 7番目は、攻撃を相手に交わされるという可能性が99.99%。

 8番目は、背後にいる相手に合気をかけるという可能性が99.99%。

 9番目は、空中にいる相手に合気をかけるという可能性が99.99%)


 柱に寄りかかったまま右に45度向き直って、観戦客という海を真正面で見下ろす。春風という手でベールを上げれらるように紺の長い髪をなびかせる、優雅な物腰の男。その男の脳裏にはまだまだ、早い乗り物に乗っているように、映像が右へ左へ流れ続ける。


(こちらの時点で、試合開始から3分経過する。

 木刀を使っての試合になるという可能性が99.99%。

 10番目は、木刀で相手を下から上へ攻撃するという可能性が99.99%。

 11番目は、相手に動きを読まれる……という可能性が99.99%。

 12番目は、相手に捕まえられるという可能性が99.99%。

 13番目は、相手が彼ごと瞬間移動するという可能性が99.99%。

 14番目は、彼は城外に出されるという可能性が99.99%。

 従って、夕霧が負けるという可能性が99.99%)


 始まってもいないのに、もう試合の流れ、結果が予測されていた、水色の瞳の持ち主の中では。しかも、この男の考え方は他の人にしてみれば、混乱以外の何物でもない。だが、これがこの人の通常であり、小さい頃からの思考回路。


 孔明こうめい月命るなすのみこと焉貴これたかも同じ。全て数字化されている。曖昧あいまいというものは、彼らには存在しない。感情などそこにはない。


 何のためにこんなことをするか。それは何が起きても対処できるように、失敗しないように、勝てるようにだ。


 現実で起きない限り、可能性の数値はどんなに大きくなっても、99.99%までにしか上がらない。100%、断定。すなわち、未来を決めつけてしまう。それはらくかもしれないが、失敗する可能性は断然上がる。


 決めつけてしまった予測と、現実が違った時、対応が遅れ、取り返しがつかなくなるかもしれない。それを起こさないために、必ず、残り0.01%は別の何かが起きると予測を常に持ち続けたまま、言動を選び取ってゆく。


 さらには、可能性が低いからといって、情報などを勝手に切り捨てることもしない。なぜなら、その可能性が急激に上がり、100%、すなわち、現実になってしまうことなど、人生にはよくある。


 そのため、この4人は全ての事実と、可能性をパーセンテージつきでいつでも頭の中に持ち続けて、可能性の数値に変化が起きたら、対処法を即座に変えながら生きている。そんなことができる人がいるのだ、広い世の中には。


 男の神経質な顔は優雅な笑みをふりまく。まるでどこか国の王子さまが余暇を楽しんでいるようにエレガントな微笑み。


(私が導き出した通りになるのでしょうか?

 それとも、夕霧は私の予測を裏切る動きをするのでしょうか?)


 紫の細身のロングブーツがすらっとしたラインを強調させるように、前後でクロスする寸前のポーズを取った。すると、アナウンサーの声が会場中に響き渡る、興奮という色を思いっきりつけたままで。


「さあ、いよいよ始まりました! 1回戦、Eグループ。熊族と人族の試合です」

「わぁぁぁぁぁぁ〜〜!!!!」


 大歓声が上がると、合気あいき無住真剣流むじゅうしんけんりゅうを使った人と熊の大戦が始まった。戦況が揺れ動くたびに、楕円形の観戦客という湖から驚きやどよめきなどが上がる。


 紺の長い髪の持ち主の激情という水面みなもに深い波紋を落としてゆく。だが、それは原因もタイミングもずれていた。なぜなら、深緑の短髪と無感情、無動のブルーグレーの真っ直ぐな瞳が大画面に映るたびだったからだ。


 しばらく、ガラスのようなモニター画面を冷静な水色の瞳で追っていたが、やがて、夕霧命ゆうぎりのみことが緑のくまさんに場外に落とされて、試合終了。


 あごに当てていた手をといて、瞬間移動でマリンブルーの懐中時計を取り出し、またインデックスをつける。


(10時33分59秒、試合が終わりました。

 先ほど、導き出した全ての可能性の数値は以下のように変わった。

 100%。すなわち、事実として確定です)


 予測した通りの未来。何1つ変わることはなかった。あのあでやかな袴姿の男。彼の節々のはっきりした手と、対照的な細く神経質なそれ。胸元にチェーンでつかまれた銀の細い線のメガネが、伊達だてという名前でペンダントの代わりとしてアクセサリーの役目をしている。それをもてあそぶ指には、結婚指輪が永遠の幸福という名で止まっていた。


(彼は正直であるという傾向が強い。

 ですから、彼らしい戦い方だったのかもしれませんね)


 線の細い男が不意に消え去ると、甘くスパイシーな香水の香りだけがそこに居残り、あとから試合を見にきた、龍の親子の大きく長い体が通ると空気はかき乱され、完全に姿を消した――――



 ――――短い静音とブラックアウトのあと、今度は人通りの少ない、1階部分の通路に、紫のロングブーツは床から1cm浮いている状態で立っていた。左側一面はガラス張り。陽光がしげもなく招き入れられる明るさが十分取られた、控え室へと続く廊下。


 外には、あちこちせわしなく動いている、煌き隊の深緑のマント。それらを背景にして、BGMは遠くから聞こえてくるアナウンスのくぐもった声。


 出場者が時折通り過ぎてゆくが、練習場が別にあるため、会場内でのその行為は禁止されている。人はいるがとても静かで、緊迫した通路。外から中は見えない仕組み。特殊ガラスのお陰で。そんな限られた空間。


 上からふわっと天使が降りてきたように、紺の長い髪がベールのように持ち上がっていた。だが、それがストンと落ちると、少し離れた通路に、さっきまで見ていた草履と紺と白の袴姿の男が艶やかな姿勢で左へ曲がり、自分へ向かって歩いてくるところだった。


 極力短く切られた深緑の髪。無感情、無動のブルーグレーの瞳。それは、落ち込んでいるでもなく。ただただ、敗北という現実を受け止め、次に向かって努力するだけという淡々とした落ち着きの中で、縮地しゅくちを使って足音1つ立てずに、歩いているのに走っているような速さで近づいてくる。


 小さい頃から変わらない真っ直ぐな瞳。

 小さい頃から変わらない重厚感。


 それを全身全霊で受け止めるように待っている、線の細い体の男。だったが、白と紺の袴はそのまま通り過ぎようとした、一点集中でまわりが全て背景になっていたために。


 中性的な唇からくすりという笑い声がもれる。


(あなたという人は、困りましたね)


 そうして、こんな男の響きが引き止めた。男性にしては少し高めの声。繊細、神経質。目に見えないほど細い針金。と思いきや、違う。こんな言葉は存在しないが、これしか当てはまらない。遊線ゆうせん。遊ぶ線。それがさらに、螺旋らせんを描く。それなのに、優雅で芯のあるもの。


「夕霧?」


 自分の名前という気つけ薬で、合気ワールドから現実へ引き戻された、夕霧命ゆうぎりのみことは艶やかさを持って、すうっと振り返った。そこには、小さい頃と変わらない冷静な水色の瞳。紺の長い髪があった。


「……ひかり?」


 いないはずの人がここにいる。不思議そうに袴と草履は立ち止まった。


「なぜここにいる?」


 地鳴りのような低さの声が真っ直ぐ聞き返すと、光命ひかりのみことの遊線が螺旋を描く優雅で芯のある声が真逆の性質を持って答えた。だが、どちらもティーンネイジャーふうだった。


「武道大会を家族で観戦するために、生徒がお休みしたのです。ですから、あなたの試合を観に来たのです」

「そうか」


 2人の隣をボクサーのグローブをしたおおかみが2足歩行ですうっと通り過ぎてゆく。


「初出場、いかがでしたか?」

「まだまだ修業が足らん」

「そうですか」


 優雅な笑みつきで、短くうなずいた。ここまでは普通の会話に見えた。だが、夕霧命の前にいる光命は策士。彼のさっきからの言葉は情報収集のため。疑問形だった、3つ前の言葉が。月命るなすのみことが言っていた、基本中の基本だと。


 紺の長い髪と冷静な水色の瞳の奥に隠された、デジタルな頭脳が即座に判断を下す。


(2つ前のあなたの言葉)


『まだまだ修業が足らん』


(こちらから判断すると、あちらのことに気づいていないという可能性が99.99%。

 仕方がありませんね。

 私があなたに伝えましょう)


 ここまでの思考時間、0.01秒。神業かみわざのごとく、理論で計算し、自分のうなずきのあとに、言葉をつけ足した。


「ですが……」


 夕霧命の敗北の理由がもう1つ告げられる。袴姿とは似ても似つかない、エレガントな服装に身を包む男から。


「ピアニストの私でも、あなたの動きは手に取るようにわかりましたよ」


 武術とは全く関係ない人に動きを読まれている武道家。同じ背丈の音楽家に、夕霧命の不思議そうな問いかけが放たれた。


「なぜだ?」


 細く神経質な手のひらを上に向け、顔の両側へ上げて、光命は優雅に降参のポーズを取った。


「困りましたね、あなたは。忘れてしまったみたいです」

「何をだ?」


 そうして、この世界の大原則の1つが、遊線が螺旋を描く声で、試合中継のアナウンスに混じりながら、控え室へと続く通路に響き渡った。


「私たちは、子供をはじめとする全員が未来を読むことができます。ですから、あなたが左へ動くという未来を決めたのなら、相手にも左へ動くという未来が読まれてしまいます」


 占い師も真っ青な人々が暮らす世界。観戦席の後ろの柱で、試合が始まる前に見えていたものは、Eグループ1回戦という試合の未来だったのだ。珍しく、無感情、無動のブルーグレーの切れ長な瞳は見開かれた、驚いたために。


「っ……思いつかんかった」


 手のこうを中性的な唇につけ、光命はくすくす笑うと、逆三角形の肩が上下にさざ波を起こした。


「おかしな人ですね、あなたは」


 2人が話している外で、煌き隊の隊員が迷っている親子を案内してゆく。左から右へ夕霧命ゆうぎりのみことと光命を追い越すが、向こうからは2人の姿は見えない。光命は笑いの余韻よいんを残しながら、言葉を続ける。


「ですから、未来をおとりにして、別の方向、もしくは違う技を使わないと、1回戦を勝ち進むのは難しいかもしれませんよ」


 通常では思いつきもしない、未来という名の心理戦。次の動きがどうとかではなく、試合最後までわかってしまう、相手にも観ている人にも。


 夕霧命は一点集中。光命は全ての可能性を常に抱いたまま。袴の袖口に筋肉質な両腕は互い違いに入れられ、腰の低い位置で組まれる。無感情、無動のブルーグレーの瞳は珍しく細められた。


「お前は俺と違って、頭がいい。助言、感謝する」

「どういたしまして」


 光命ひかりのみことが優雅に微笑むと、甘くスパイシーな香水の香りが2人だけをそっと包んだ。ピアニストではなく、ピアノの先生としての仕事。それが光命の、今現在の職業。武道家よりもある意味、自由な身の上。


 目の前にいる優雅な王子さまみたいな男。かなうのなら、もう少し話していたい。夕霧命の心の中はそんな願いが浮かび上がった。


「時間は?」


 今日は日曜日。だが、学校が普通にある日。土日だから休みではなく、週休3日制。そのため、この周辺、いや、皇帝陛下がいらっしゃる首都の学校は、月、火、金曜日が休み。どんなに連続しても、2日間しか学校での生活は送らない。


 しかも、姫ノかん以外の学校は休みのところもある。当然、ピアノを習いに来る生徒は毎日いる。


 だが、武術を学ぶ小さな子たちもたくさんいる。あらかじめ登録していた翻訳ほんやく機が使えないくらい遠くの宇宙から観戦に来るほど、大会が人気なのだから。それに、家族全員で行くため、芸術肌の子供たちも武道好きの兄弟とともにつれて来られているのだ、このメインアリーナに。


 目の前にいる男の貴重な時間を、自分のためにくと言ってきている。どんな宝石よりも名誉よりも、誇り高いこと。光命は本当に余暇を楽しむ王子のように、優雅に微笑んだ。


「午前中は休みになりましたよ」

「そうか」


 夕霧命が言うと、まるで以心伝心。2人は何の言葉も交わしていないのに、慣れた感じでメインアリーナからすうっと瞬間移動すると同時に、会場から歓声が上がった。その廊下を急ぎ足で過ぎてゆく、深緑色のマントが白の襟口と、金の刺繍ししゅうを揺らし去っていった――――



 ――――子供たちのはしゃぐ声があちこちで花を咲かせる遊園地前。期待に胸を膨らませて入場ゲートを中へと進んでゆく親子やカップルたち。それらを眺められる近くのベンチに袴の白と紺。濃い紫のロングブーツと黒の細身のズボンが急に現れた。


 夕霧命ゆうぎりのみことと光命の深緑と紺の髪の前を、春風に乗せられた桜がフワフワと浮かび上がってゆく。すぐ近くにある観覧車の大きな輪を目指して。


 風で乱れてしまったおくれ毛を、細く神経質な指先で耳にかけながら、まだ枝に寄り添って咲いている花びらを、光命は懐かしそうに冷静な水色の瞳に映す。


「桜……思い出しますね、幼い頃を」


 いい昔話になりそうな雰囲気だったが、夕霧命の地鳴りのような低い声が、目の前にいる王子さまみたいな優雅な男の弄び、という言葉以外に見当たらない罠の数々を思い返して、刀でわら人形をるようにばっさり切り捨てた。


「お前の悪戯いたずら好きは結婚しても変わらん」


 エレガントに見える光命は、紫のロングブーツの足を優雅に組んだ。


「どちらの話をしているのですか?」


 夕霧命からすれば、今隣にいる男と桜の花は、イコールこういう意味を表していた。


「花見の時、母親にも、彼女にも、同じ悪戯をしていた」


 悪戯坊主がここにもいた。しかも、女性にしている。意味が違う、イタズラだったら、大変である。そんな光命ひかりのみことの中性的な唇から出てきた理由は、究極をさらに極めたものだった。


「彼女たちが驚くのを見て、くすくす笑うのが、私の趣味なのですから、仕方がないではありませんか?」


 お子さまこの上ない。この優雅な王子さまは。しかも、自分で仕掛けて、自分で笑う。マニアックすぎである。絶対不動の夕霧命も、声に出して噛みしめるように笑った。


「くくく……おかしなやつだ」


 小さい子が負けずに言い返すような言葉の応酬おうしゅうが始まる。


「あなたも昔から変わらないではありませんか?」

「お前も昔から変わらん」

「あなたがそちらの言葉を私に言うのは、こちらで1978回目です」

「お前はあの時もそうだった」

「あなたもそうではありませんか」


 もめにもめている夕霧命と光命。微笑ましい限りだった。だが、すぐにそれは終焉しゅうえんを迎えた。どこかうれいを秘めた、遊線が螺旋を描く声が響いたことによって。


「ですが、変わったところもありますよ」

「何が変わった?」


 夕霧命の無感情、無動のブルーグレーの瞳の先に映ったのは、冷静な水色のそれ。だが、氷の下に隠された業火ごうかがメラメラと燃え上がる炎が揺れるような目。自分と視線が合わされることはなく、遊園地のゲートを物憂ものうげに見つめていた。


 家族づれ。男女のカップル。生産的な関係。それに比べて、男同士の自分たち。非生産的。まわりの雑踏ざっとうが急に別世界のように遠くなった。優雅で芯のある声が、薄氷の上を落ちるという恐怖心を常に持ちながら、ソロソロと歩いてゆくように戸惑い気味に言う。


「私と……あなたの距離感です」

「確かにそれは変わった」


 夕霧命ゆうぎりのみことはうなずくと同時に、自分の手元へ視線を落とした。色とりどりの石畳と自分の紺の袴。そうして、光命の黒の細身のズボンだけになった、視界に入ってくるものは。


 隣に座る男との距離。10数cm。穏やかな春の日差しの中で、同じベンチに座るには、最適な距離。それはいつも守れらてきた。


 最初はそうだった。何もかもが、相手が幸せでよかったと。距離をたもったまま、手放しで素直に、そう思える関係だった。だが、変わってしまったのだ。事故としか言いようのない出来事に巻き込まれて。


 この世界だからこそ、起きてしまったこと。光命は耐え続ける。冷静な頭脳という盾で飼いならす、自分の内に秘めたる激情という名の獣を。それが心というおりを破って出てこないように。


 焉貴これたかが言っていた。この2人は14年前に生まれ、今は23歳なのだと。なぜ、生きていないはずの年齢になるような、矛盾したことが起きているのかが、光命の中性的な唇から、遊線が螺旋を描く声で語られる。


「14年前、あの時分じぶん。人は生まれると、18歳まですぐに成長し、1人の大人として、生きていく。そちらが、こちらの世界の法則でした」

「俺たちが生まれた頃は、まだ新旧入りまじっていた」


 いきなり18歳になってしまう、世の中。おかしな話のようだが、この世界では、昔は常識だった。小さな子供でも永遠の愛に出会える、この世は。当然、夕霧命と光命にも春は訪れた。


「夕霧はすぐに、彼女と結婚しました。私は他の女性を愛しました」

「それが当たり前だった」


 だが、何の前触れもなく、やってきたのだ。その日は。光命ひかりのみことの中で、激情の獣が雄叫おたけびを上げる。それさえも、冷静な頭脳で抑え、話は続いてゆく。


「ですが、その後、心の不具合が見つかり、幼い頃の経験がない者は疑似体験でやり直しをすることに、法改正されました」


 経験も記憶もないのに、いきなり18歳から人生がスタート。しかも、大人として、まわりから対応される。いくら何でも、それは無理がある。瞬間移動ができて、未来を見ることができる。そんな魔法みたいな世界でも。片方の翼がもぎれた天使のような心で生きてゆく。人生を1人で乗り越えていけない大人が出始めたのだ。


 生まれてから、18歳までをやり直す。それが終われば、元の生活に戻る。そういう決まり。


「私とあなたは従兄弟いとこ同士」


 小さい頃から一緒。今そばにある瞳も髪も肌も、何もかもが根本的なところでは変わっておらず、それが大きく成長していくのをお互いに見てきた日々。


「物心がついた時には、私はあなたを愛していた」


 今隣に座る男は、自分にないものを全て持っている。相手をおぎなえる関係。夕霧命ゆうぎりのみことと光命は心の奥底で、本能で気づいていた、お互いが1つになったら、完璧な人になれると。


 絶対不動と瞬発力。

 落ち着きと冷静さ。

 無感情と激情。

 真っ直ぐと遊線が螺旋。

 真逆の性質を持つ2人。


 近くにいてかれない方がどうかしている。ごくごく自然なことだった。


「俺もそうだった。だが……」


 夕霧命は言葉を途中で止めた。激情の獣が鋭いきばで、光命の心を食いちぎろうとする。冷静な水色の瞳は平静さを失い、視界が涙でにじみ始めた。


「えぇ、あなたは既に結婚していて、私は他の女性を愛していました」


 18歳まで進めば、元の生活が待っている。パートナーの女性を愛していないわけではなく、そこにプラスされたのだ、目の前にいる男への愛が。重複する愛。同性愛。


 不誠実。背徳感。劣等感。不道徳……挙げればきりがないほどの、罪の意識。


 だからこそ、絶対に間違いだと思うことした。だが、できなかった。それならばと、こう思うことにした。自分の胸の内にとどめておこうと。しかし、それもできなかった。


 大人になってゆく体は勝手に反応して、相手にも嫌でも伝わってしまう。刻印を打たれるように自身に思い知らされる。性的に愛しているのだと。それでも、お互いに見て見ぬ振り、嘘偽うそいつわりばかりの日々。


 そうして、悲恋の嵐は、時が通常の15倍の速さで進む中で、事務的に終了した。2人の恋心を置いてけぼりにして。


「子供の頃から、やり直したのがいかんかったのかもしれん」

「全ては悲劇という名で狂ってしまった……」


 春だというのに、夕霧命と光命のまわりだけ、哀愁あいしゅう漂う冷たい風に変わった気がした。


 生きる時間が順番が、逆になってしまったばかりに、触れたくても触れられない。そばにいたくてもいられない。見つめたくてもできない。全てが……ない。否定形。


 無限に永遠が続く世界。その中で生きてゆくしかない運命。死のない場所。それは、何かがあっても、そこから逃げる、自殺して、強制終了することができない、を意味していた。


 冷静な頭脳という名の盾はとうとう、激情の獣に粉々に砕かれてしまった。光命の神経質な頬を1筋の涙がつうっと落ちてゆく。


「泣くな」


 結婚指輪をした細く神経質な手に、節々のはっきりしたそれが乗せられた。光命ひかりのみことの顔は紺の長い髪に両脇をおおわれ、誰からも見ることはできなかった。


 だが、サファイアブルーの宝石のついた手を、そこへさらに乗せて、誰にも聞こえないように、しかし、目の前にいる男にだけは嘘をつかないように、いや聞いて欲しくて、しゃくり上げそうな呼吸を抑え抑え、言葉をゆっくりつむいだ。


「私は夕霧を……愛している。ですが、私は他の人も……愛している……」


 3つの手が重なっている光命の膝の上。夕霧命ゆうぎりのみことの結婚指輪をした手が乗せられて、4層になった。


 下から順番に……。

 激情の渦。

 絶対不動の安心感。

 激情の渦。

 絶対不動の安心感。


 深緑の短髪を持つ男は決して泣かない。それどころか、過去は過去。今は今。未来は未来。と、無感情に切り捨てられる。だがしかし、夕霧命が光命を愛しているのには変わらなかった。そうして、安心させるように、地鳴りのような低い声で出てきた言葉はこれだった。


「もう終わったことだ」

「えぇ……」


 何とかうなずくことはできたが、光命の頬を次々と新しい涙が伝い、石畳の上にギザギザの波紋をいくつも作っていった。急にできた湿りに、陽気に転がってきた花びらが立ち止まる。何も言わなくなった2人のそばで。


(肉体という欲望と不完全なものが存在しません、こちらの世界では。

 こちらで同性愛というものは今までありませんでした。

 ですが、男性であるあなたをしている。

 同性を愛する。

 重複する愛。

 神にゆるされない……)


 他の人と違う。その生き方を選ぶには勇気がいる。たとえ選んだとしても、立ちはだかる障害は大きく厚い。激情という名の獣が住み着く心を持っている光命には、悲痛の叫びの日々になる。真逆の2人。夕霧命はただ、自分と向き合い。愛する男の心の内を静かに感じてきた。


(お前が悩んでいると知っていた)


 重ねられた手は強く握りしめられる、自分たちの前を楽しそうに歩いてゆく誰にも気づかれないように。


(私は罪をおかしているのだと自身を否定し続けてきた。

 そのように思って、言動を偽り……。

 あなたにも彼女にも打ちあけず……。

 心の片隅に愛を置き去りにして生きてきました)


 愛する男が異例という名の狭間はざまでもがき苦しんでいる。それでも、救いの手は差し伸べられない。本人が隠したいと願っているのだから。ただただ前を見つめているブルーグレーの瞳には、スキップして通り過ぎてゆく子供が映っていた。


(お前が自分に嘘をついていると気づいていた)


 チョーカーの十字が寂しげに、春風に揺れて、鈍いシルバーの光を放つ。


(解消できない気持ち。

 決断できない愛。

 ですから、私は14年間、彼女とは結婚しませんでした)


 従兄弟同士。仲はいい。夕霧命ゆうぎりのみことの家に、光命ひかりのみことが彼女を連れて訪れたことなど、何度もあっただろう。だが、みんなが大切なのだ、自分にとって。だから、誰も傷つけなくない。他人を守るために、自身を犠牲にして生きてきた、今まで。


(お前が結婚しなかった理由はわかっていた)


 この世界には、他人を蹴落としても、自分を優先する人は、子供でもいない。大人ならなさら、他人優先で自分のことは後回し。


 1人きりの夜にどれだけ枕を濡らそうと、愛する人たちの前では素知らぬふりを続けてきた、光命は。それが、夕霧命が愛した男なのだ。


 泣いていても、優雅さは消え失せることはなく、濃い紫のロングブーツはエレガントに組まれたままだった。


(しかしながら、未練という泉から出ることはできませんでした。

 ルールはルールです。

 決まりは決まりです。

 そちらは守らなければいけません。

 ですが、何度、あなたへの想いを追い出そうしても、追い出すどころか……。

 私の中の激情のけものを暴れさせ、悲恋という傷跡をつけていった。

 それでも、私は冷静さで自身の欲情を抑えてきました)


 泣き止む気配のない光命。夕霧命はとうとう力強く抱き寄せた。小さい時からしていた男の匂い。それが今は、性的なフレグランスを色濃くして、すぐ近くで捕まえて、捕まえられた。


 夕霧命は自分の胸の中で、寒さに凍えるように肩を震わせて泣いている男の、苦悩の日々を振り返る。


 自分と違って感情を持つ男。


 だからこそ、自分の居場所もわからなくなるほど、激情の濁流に飲み込まれる日がどれだけあったのか。それでも、新しい朝はやってきて、仕事も生活もしなくてはいけない。平気なふりをして、ポーカフェイスで必死に生きてきただろう、光命は。


(俺はただ見守っていた。

 お前が望まんことは絶対にせん。

 だから、お互いの気持ちに気づいても、言わんかった)


 絶対不動、沈着。それを持つ夕霧命。彼の匂いと腕の温もり。それが、涙で熱くなっていた頬の熱を冷ましてゆく。光命はまぶたをそっと閉じ、袴の白に無防備に身を任せた。


(あなたの鼓動を耳元で聞きながら、昼寝シエスタで見る淡く甘美な夢。

 私を恍惚こうこつとさせる、あなたの男性的な香気こうき

 めまいという断崖絶壁に立ち、ちてゆく無我の境地。

 全ては、遠い昔から望んでいた無窮むきゅう蜃気楼しんきろう

 ですが、今は私のそばにある、真実の愛)


 夕霧命ゆうぎりのみことが別の世界へ行くことを拒んだ理由が、光命ひかりのみことの甘くスパイシーな香水と心の中で混じり合う。


(俺はお前のために生きている。

 俺はお前を守るためにいる。

 俺はお前を愛するためにいる)


 他の人たちが立ち止まって、不思議そうな顔をする。首を傾げながら去ってゆく。そんなことが繰り返されていることなど、今の夕霧命と光命にとってはどうでもいいことだった。


 だがしかし、奇跡はやってきたのだ、意外な形で、思いも寄らない場所から。ビュービューと2人を引き離そうと吹き荒れていた、悲恋の嵐はもう去ったのだ。夕霧命と光命の心は今、2人の頭上に広がっている青空のようにどこまでも晴れ渡っていた。


 神経質な頬を伝っていた涙は、もう完全に乾いていた。愛している男の腕の中で、ある男女2人の面影を、冷静な頭脳の浅い部分に引き上げた。そうして、優雅な笑みは復活リバイバル


(……私はもう赦されたのです。

 彼らによって……。

 ですから、私はあなたに素直に伝えましょう)


 白い袴の胸にうずもれていた、紺の長い髪は、乱れを細い指先で直しながら起き上がった。夕霧命の芸術的な技を生み出す手はそっと添えられていたが、今ここが外で、人の目があることに気づいて、ゆっくりと自分の元へ引き戻した。


 光命の瞳からは愁いという影は消え去り、冷静さと陽だまりのような穏やかさがにじみ出ていた。この男が、こんな表情をするようになったのは最近だ。


 それまでは、突き放すような冷たさ。激情という灼熱。両極の間で揺れ動き続けていた。それが、今はバランスを絶妙にたもち、新しい人生を歩み始めている。


 夕霧命の切れ長なブルーグレーの瞳は自然と細められて、笑みがもれた。光命はまるで一輪の赤いバラを手に持ち、愛する人へそれを純粋な気持ちを持って送るように、冷静な水色の瞳で見つめ返した。


「夕霧、約束してください」

「何だ?」


 昔から変わらず、地鳴りのような低さがある声が返ってくると、2人のまわりにあった音と視線が全て消え去った気がした。2人きりの世界になった夕霧命と光命。


 光命はまるでプロポーズした女性の手に指輪をつけるように、夕霧命の手を握った。


「今から、私がいいと言うまで、私の話を黙って聞くと。よろしいですか?」


 自分の身を捧げてもいいと。自分の人生をかけてもいいと。そう思う男からの願い。夕霧命ゆうぎりのみことの返事はもう決まっていた。


「構わん、聞く」


 合気の達人のもう1つの手は、足をそろえて座っている紺の袴の上に行儀よく乗せられた。


 底のない海のような青が突き抜ける空。そこを時々、春風という独特のリズム、マズルカに乗って踊る桜の花びら。


 それらに包み込まれた、男2人のベンチの上で、手というボディータッチが繰り広げられる、ノンフィクションという名の言葉をともないながら。


 結婚指輪をした細く神経質な左手は、夕霧命の深緑の頭を優しくなでた。


「そよ風に吹かれたように、私の頬に寄り添うあなたの髪を愛している」


 冷静な水色の瞳と無感情、無動のブルーグレーの瞳は一直線に交わった。


「私の身をがすほど熱くする、あなたの瞳を愛している」


 夕霧命の凛々りりしい頬を、ピアニストの左手がすうっとなぞる。


「エクスタシーという海へいざなう、あなたの素肌を愛している」


 袴の白が交わる少し上を、愛おしそうにさする。


「私に媚薬びやくという響きを与える、あなたの声を愛している」


 そのまま、なまめかしく、光命ひかりのみことの左手は白の袴。夕霧命の肩に落ちた。


「止まり木のような安定感のある、あなたの肩を愛している」


 激情のうずに飲み込まれた自分を、いつも受け止めてくれた場所へ移ってゆく。


「あなたの胸に抱かれた時、耳元でささやく、あなたの鼓動を愛している」


 芸術的な技を生み出す袖を、愛撫するように滑ってゆく。


「舞踏会でワルツのターンのように私を抱き寄せる、あなたの腕を愛している」


 光命は少しだけ体を寄せて、わざと、反対側にある夕霧命の左手をつかんだ、お互いの結婚指輪が重なるように。


「私とは違う芸術的な技を生み出す、あなたの手を愛している」


 そうして、紺の袴の腰の真ん前を触れた。膨らみを少しだけ感じる手のひらと指先で。


「私を性的に魅了する、あなたの灼熱の銃身を愛している」


 関係がずいぶん先に進んでしまったみたいな話がいきなり出てきた。だが、ここは光命が真面目に話しているということでスルー。


 結婚指輪は火柱になる時もあるものの前で立ち止まったまま、サファイアブルーの宝石がついた指輪をする反対の手で、紺の袴の膝上をアイロンを当てるように味わった。


「私とともに歩むと誓ってくれた、あなたの足を愛している」


 前戯を連想させる、動き。孔明こうめいより、エロ過ぎな光命。彼は細く神経質な手を夕霧命から一旦離した。お互いの姿形が今よりも小さかった頃から知っている、いつもそばにいた、その人を今は真新しい気持ちで、冷静な水色の瞳に映す。


「私をいつも守り、愛してくれた、あなたを愛している」


 全てを記憶する。それは、どんなに悲しいことも、辛いことも、さっき起きたことのように鮮明におぼえている。忘れることができない。


 今日までの月日が、光命の脳裏で逆再生する映像のように、猛スピードで過ぎてゆく。偽るしかなかった日々の、始まりの時まで一気に戻った。そうして、彼の遊線が螺旋を描く優雅で芯のある声は、その当時の言葉遣いを蘇生rebirth/リバースさせた。


「そう、僕は君を幼い頃から愛している」


 風で乱れてしまった紺の髪を、細く神経質な指先で耳にかけ直す。自分とは違って、極端に短い深緑の髪が揺れ動くのさえも、何1つ見逃さずに、その冷静でデジタルな頭脳に記録する。真実の愛という名を持って。


 光命の最後の言葉が、陽だまりのような笑みで告げられた。


「そうして、大人になった今も、私はあなたを愛している」


 いとしい男の声で、愛を語られる。その一字一句を、どこまでも続くなぎのような心の中に沈ませて、2度とどこへも行かないようにする、夕霧命ゆうぎりのみことは。彼はただただ、約束を守って、終始無言だったが、彼の内ではそうだった。


 しばらく待っても、返事を返してこない寡黙かもくで真面目な男を前にして、呪縛の魔法でもくように、光命の遊線が螺旋を描く優雅で芯のある声がかけられた。


「以上です、もう構いませんよ」


 遊園地のゲートへ向かう人々の足音。たくさんの人々話し声。頬をなでてゆく風。他の宇宙からやってくる飛行機のエンジン音。


 舞い散る桜の花びらのほのかな桃色。どこまでも突き抜けてゆく透明感のある空の青。近くにある観覧車のゴンドラのカラフルな虹色。


 全ての音と色が夕霧命と光命ひかりのみことに、正常に戻ってきた。程よい厚みのある唇から、地鳴りのような低さのある声が響いた。


「俺とは違って、お前の言葉は長くて流暢りゅうちょうだ」

「えぇ、あなたは私と違って、短くて簡潔です」


 その真逆が2人を空想の世界へと導く。


 ――――景色は急転。色欲漂う夜。満点の星空。大きな屋敷の屋根の上。野外。お互いを包むものはシーツ1枚。その下は素肌だけ。相手に手を伸ばしたら、何かを始めるために、後ろへすうっと倒れて、画面から消えそうな予感インスピレーション。もうここから先は何があるかはわかりますよね? 的な暗黙の了解な情景ムード


「俺にないものをお前が持っている」

「えぇ、私にないものをあなたが持っている」


 瞳の色。水色とブルーグレーが混じり合い、濃い青になりそうな勢いで見つめ合う。夕霧命と光命は。


「だから、お前に俺は惹かれ続けるのかもしれん」

「ない物ねだり、という言葉が一番似合うかもしれませんね。私たちの関係には」

「そうかもしれん」


 結婚指輪をする左手でお互いを心を、深く強く抱きしめるように、いつの間にか相手をつかんでいた。温もりが脈が肌が、津波のように自分へ押し寄せてきては、新しい海岸線を描き、恋のやまいというルネサンスを残してゆく。


 そのままキスをしそうなほど見つめていたが、近くを歩いていた人たちのささやき声で、2人は現実に返った。


「ねぇ、ねぇ、あれ?」

「どういうこと?」

「男と男で?」


 光命は握っていた手を、戸惑い気味に自分へ引き戻した。その勢いで、チェーンで胸もとにおしゃれとして落とされていた、銀の細い線のメガネが哀傷あいしょうという動きで揺れる。あんなに流暢に話していたのに、中性的な唇からは何1つ言葉は出てこなかった。


「…………」


 合気の修業よりも大切な男。この男のために生まれてきたと言っても過言ではない、夕霧命ゆうぎりのみこと。地鳴りのような低さがあり、若さあふれた声をかけた。


「お前が困るなら、場所を移動する」


 今までは素知らぬふりをしてきた。相手が自分を愛していることはわかっていた。だが、こんな自分たちの関係をどう思っていたのかは知らない。ずっと聞きたかったことを聞く、光命は。


 どんな答えが返ってくるのかと思うと、自分の心臓の鼓動が、嵐で荒れた波が港に打ちつけ、砕けるような爆音に聞こえた。それでも、冷静な頭脳という盾で、デジタルに抑える。


「あなたはどのように思っているのですか?」


 白と紺の袴を着て、艶やかに姿勢を崩さず座っている男。この男が持つ絶対不動の落ち着き。恐れもせずに、人々からの視線を受け続けている夕霧命。


「人は人、俺は俺だ。だから、気にせん」


 どんな雨風にも負けない大きな岩、いや大地のようだった。いつだって違っていた、目の前にいる男の心は、自分と。だが、価値観は合っている。まるで錠前のような関係。形が違うのに、ぴったりと合う。しかも、どちらか1つでは意味をなさないもの。


 光命ひかりのみことの声色は優雅さだけになり、言葉遣いが小さい頃にまた戻った。


「そうか。君は幼い頃から、僕と違って強い人……」

「移動するか?」


 この男とともに生きると決めたのだ。それは、人と違った決め方だった。感情ではなく、可能性の数値で計った。何度もやり直した。それでも、可能性の数値は変わらなかった。相手が気にしないと言っている。それならば、自分がすることはただ1つ。


 今にも自分を別の場所へ瞬間移動で連れて行こうとしている、節々のはっきりした手を、氷の刃という水色の瞳で黙ったまま見つめた。


「…………」


 やがて、光命は手を握らずに、穏やかに微笑みながら、紺の長い髪は横へゆっくり揺れた。


「……いいえ、もう私は恐れない。偽らない」


 様々な靴音。話し声。人の視線。飛行機が離陸する轟音ごうおん。それらに包まれながらも、2人はとうとう足を1歩踏み出した。


 夕霧命が光命をさっと抱き寄せると、同じ身長のはずなのに、武術の達人の腕の中で、まるで恋に落ちてしまったお姫さまみたいなピアニスト。見上げる光命の唇に、夕霧命のそれが斜め上から近づき、真っ直ぐ愛を告げた。


「愛している」

「えぇ、私も愛しています」


 夕霧命のしっかりとした首に、滑らかな絹のストールが巻きつくように、光命の左腕が回された。すると、なぜか慣れた感じで4つの瞳はすっと閉じられ、愛の祈りを捧げるため唇という聖地で触れ合った。


 男性としては少し柔らかい、光命の唇の熱が溶接するようにくっついて1つになってしまうように広がってゆく。夕霧命の結婚指輪をした手は背中に回され、白のカットソーを愛撫するように幾たびもなで、シワを濃くしてゆく。


(お前とは何度キスしてもあきん)


 何度も? さっき、心の内をお互いに言ったばかりのはず。夕霧命ゆうぎりのみことの心理描写がおかしいようだが、キスで盛り上がっているのでスルー。


 ピアニストの紺の長い髪の中にある脳裏で、穏やかな日差しと風の中で、ゆったりとスイングする曲が奏でられる、目の前にいる男のしっかりとした腕の中に完全に身を任せ、心の中でリズムに乗りながら右に左にステップを踏み揺れ続ける。


(私の中で奏でられる。

 ユガーリュ 第1番 ピアノ曲 追憶のワルツ。

 あなたの匂いが……。

 あなたの感触が……。

 あなたの温もりが……。

 私を連れ去る。

 永遠という名の春情しゅんじょうの乱気流へと……)


 まるで景色が変わったみたいに、真っ赤なバラの花びらを敷きつめた上で、横向きに寝転がる。お互いの髪をみだらに乱して、高貴で芳醇ほうじゅんな香りにまみれながら、唇は感触をはっきりと持つ雲のよう。空前絶後の感覚がドラッグのような永遠に求めてやまない常習性という拘束の鎖で、夕霧命と光命ひかりのみことをつなぐ。


 平和な遊園地前のベンチで、唇を重ね合わせる、男2人。それを、不思議そうに見ていた他の人たちだったが、少しののあと、みんな首を大きく縦に振っては、過ぎ去ってゆく。


「あぁ、そういう人もいるんだね」

「同性同士で好きな人もいるんだ」

「うんうん、仲良しでいいね」


 この世界には、差別。そんなレベルの低いことをする人は誰もいなかった。自分と違う価値観のものに出会っても、前向きに解釈をして、すぐに受け入れられるだけの澄んだ魂を持っていた。そうでなければ、この世界に住むことはできない。いや存在することすら赦されていないのだ――――



 ――――手のひらに乗ってきた桜の花びらを、光命は魔法をかけるようにフーッと息を吹きかけ飛ばす。昼間なのに夜想曲ノクターンをくるくると踊るように、激しくひとしきり燃えた炎の残り火のような唇は罪の意識を強く持った。


 遊線が螺旋を描く優雅で芯のある声が、首元の十字架のチョーカーの上で、敬虔けいけんな神父のようなことを言う。


「今日も妻に懺悔ざんげしなくていけませんね」


 妻帯者が奧さんに内緒で、他の男とキスをした。それはそうだ。確かに懺悔だ。だが、夕霧命が首を横に振ると、意味不明な話が出てきた。


「せんでいい。あれは優しいから、お前のことなど責めん」

「ですが、14年も待たせてしまいましたからね」


 懺悔の内容は、キスではなく、14年間待たせてしまったことだった。


 14年前から恋人がいたと、光命はさっき話していた。どうやら、めでたく結婚したようだ。しかし、焉貴これたかが言っていた、光命が急に4人の子持ちになり、式の時に友人から、ずっと独身だったお前が父親ね、と冷やかされていたと。矛盾だらけの話になっているが、夕霧命は別に気にした様子もなく、また首を横に振る。


「待ったとも思っとらん」

「そうかもしれませんね。彼女たちも強いひと……」


 妻が複数形。14年も待たせた。夕霧命の奥さんではない、にもなる。なぜなら、彼は焉貴からの質問に、子供は5人だと答えている。そうなると、全く違う人と光命は結婚した、ということになる。


 しかも、夕霧命の言い方、『あれ』。身内になってもいない女性に対して言う言葉ではない。焉貴先生の比どころではなく、話がおかしくなってしまった。だが、本人たちは何も言い間違っていないので、このままスルー。


 光命ひかりのみことの紺の長い髪は、白の袴の腕に寄り添い、夕霧命ゆうぎりのみことは頬を寄せ、時間が許す限り、恋人のように空を一緒に眺める。幼い頃の話を自分たちにしかわからない、暗号みたいなやり取りをしたり、手をつないだり、髪をなでたりしながら、時はゆったりと流れてゆく。


 どこまでも突き抜けるような高い空。清流よりも澄んだ青。時折横切る、美しいばかりの雲。太陽はなくても降り注ぐ、神が与えし陽光。暖かで穏やかな春風に乗せられ、妖精が遊び回るような桜の花びら。


 そんな風景の中で、真実の愛という絆で結ばれた、従兄弟同士はただの男と男になった。

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