武術と300億年

 ――――時は午前中へと戻る。


 手を伸ばせば届きそうな青空。空中庭園の上を風に乗せられ気持ちよさそうに飛んでゆく雲。飛行機が銀の線を描いて離陸するが、その轟音ごうおんはさっきからかき消されている。武術大会が行われているメインアリーナの人々の歓声やどよめきによって。


「わぁぁぁぁ〜〜!」


 米粒大のたくさんの人たちがそれぞれ動き、声を掛ける楕円形の観客席。応援のために投げた色とりどりのリボンが、海中を泳ぐ魚の群れのように横へ横へ流れてゆく。時折、金銀の細長い線が龍が空を登ってゆくように、春風に巻き上げられる。警備を担当しているきらめき隊の紫のマントもあちこちに混じっていた。


「わぁぁぁぁ〜〜!」


 次から次へと人が訪れても、空席はまだまだある。そう言っていた、会場の外にいた煌き隊の隊員が。当然、学校の敷地の比ではなく、地球30.7個分の広さがある。人々の服の色が万華鏡まんげきょうのように、不変的に好き勝手に動く。


「わぁぁぁぁ〜〜!」


 開場以来、静寂がまったくやってこない、客席の宙に浮かぶ、大画面。それは媒体があるのではなく。空中に直接映し出されるため、夜色を向こう側にした窓ガラスが鏡になるように映像が透明感を出しつつ、はっきりとした輪郭を作り出していた。


 その中に、青空の上にぽっかりと浮かぶ試合会場。それが碁盤のように横たわっている。両脇から対戦者がそれぞれやってきた。そのちょうど真ん中に立っている審判が大きく右手を上げると、一層、歓声のうずが強まった。


「わぁぁぁぁぁぁ〜〜!!」


 津波のように斜め下に滑り落ちる、人々の声援を背で受ける形で、控え室からの通路を歩いてくる男がいた。日陰でまだよくわからないが、フィギアスケートのスピンをした時ような縦に1本の線がすうっと入り、歩いているのに、左右前後に1mmも揺れることなく、その男はやってくる。


 会場へと続く、地面の青空の上に1歩足を踏み出す。それは、靴ではなく、草履ぞうり。骨格のいい裸足が連れてくる。紺のスカートのようなものを。光が当たり始めると、それははかまだった。


 両脇で旗のように袖が揺れている、白いそれが。身を清めた神主かんぬしのような、ピンと張りつめる和装の色気が漂う。その人の瞳は、無感情、無動、重厚感のあるブルーグレーの切れ長な目。


 歩く姿はあでやか。隠しても隠しきれない、男の匂い立つ色香いろか。体の奥深くから、鍛錬たんれんという修業の日々で手に入れた、しんの美しさを放ちながらやってくる、その男は。


 大きな岩のような揺るぎない沈着を持っている人が、カーキ色のくせ毛と優しさの満ちあふれたブラウンと瞳を持つ、警備をしている貴増参たかふみの横を悠然ゆうぜんを通り抜けてゆく。


「わぁぁぁぁぁぁ〜〜!!」


 大音量で鳴り響く、たくさんの人の声と興奮。地球30.7倍のメインアリーナのあちこちから自分へ向けられる、倍の数の視線。人混みに酔うように、普通なら戸惑い、緊張してしまうところだが、この男が持つ絶対不動の性質がそうはさせなかった。


 観客席から見ると碁盤のように小さい試合場は、1段高くなっていた。それを挟んだ向こう側に対戦相手も同じように立っている。細い針をさらにねじったようなピンと緊迫した空気が張りつめる、選手2人の間に。


 青空と観客に囲まれたメインアリーナ。中央にいた審判が手を大きく上げて、声を張り上げた。


「10時30分になりました。それでは両者とも、試合場へ上がってください」


 階段を上るのではなく、すうっと体が浮き上がって選手2人が登った。人の山どころではなく、山脈に四方を囲まれた試合会場。そこから少し離れたところに、解説者席があった。血湧き肉踊る興奮を抑えられないという感じで、スタンドマイクの前でアナウンサーの男の声が、会場中に響き渡った。


「さぁ、1回戦、Eグループ。緑のくまさん対 夕霧命ゆうぎりのみこと。そろそろ、試合開始です。いかがですか? 解説者の、歳を重ねたら90cm背が縮んでしまった達人さん」


 話を振られた人は、テーブルの下からかろうじて、光る頭が出ているだけの、小さなじいさん。仙人みたいな真っ白なフサフサした眉とヒゲ。年老いた声が、自分の名前に物言いをつける。


「縮んでしまったんじゃなくての、わざと縮ませたんじゃ、わしがみずからの」


 背を低くする。いや、姿を変えることができるようだ、この世界では。アナウンサーは見向きもせず、試合に注目しながら、まくし立てるように話し続ける。


「そちらの言葉は今ので、13回目ですので、時間の都合上、拾いません。お笑いはまた別の機会にということで、解説をお願いします」


 試合開始、間際という巻きが入って、じいさんの笑いはスルー。頭しか見えていない達人は、アナウンサーの方へ顔を向けた、いかにもか弱そうな雰囲気を出しながら。


「年寄りに冷たいの、おぬし。わしも老い先短いんじゃがの、ゴホッ、ゴホッ! もう少し優しくせん――」


 それさえも、アナウンサーは早口で阻止する。


「はるか昔、世界の法則として、『老い』というものが取り入れられましたが、ほとんどの方が必要ないということで廃止になりました。ですが、一部のお笑い好きの男性のみが今も使っており、おじいさんになっているだけで、歳を重ねたら90cm背が縮んでしまった達人さんは、本来の姿は18歳で、背も伸びて70cmから160cmになると、打ち合わせにうかがいました。時間が迫っています。ですから、ここは飛ばして、解説の方をお願いします」


 老いる、おとろえるということが起きないらしい。虹が降り注ぐように次々に落ちてくる色とりどりのリボンたち。


「緑のくまさんじゃがの、今回で3回目の出場じゃ。熊族くまぞくの中でも、力の強いアラスカグリズリーでの、力任せの技も使うが、心理戦にもけておる。3022年生きておるからの。人生の経験値はまずまずじゃ」


 夕霧命ゆうぎりのみことは人だが、相手は熊だった。野生の匂いが思いっきりする、鋭い眼光で見つめられる、無感情、無動のブルーグレーの瞳。そのレンズには、茶色の毛皮でおおわれた、自分よりひと回り大きい、対戦相手が映っていた。


 人と人の戦いでなくても気にすることなく、アナウンサーは素朴な疑問を投げかける。


「くまさんは体の色が緑ではありませんが、名前の由来はどこからきてるんですか?」

「あのくまの奥さんの名前じゃそうじゃ」


 妻帯者の熊。アナウンサーは試合会場を見つめたまま、切り替えが早く、的確な言葉を選び取る。


「そうですか。ラブラブということでしょうか。対戦者の人族の方はいかがですか?」


 確かに。自分の妻の名前を選手名につけるとは、絶対にそうだろう。アナウンサーと達人の話からすると、人以外の種族が普通に存在しているようだ。小学校にも生徒がいた、ということは人と何ら変わりない生活を送っている。それがこの世界の常識だった。


 達人はお腹の上で両手を組んだリラックスした姿勢で、真っ白で豊かな眉の奥に隠された目を鋭く光らせる。


夕霧命ゆうぎりのみことは今回初めての出場じゃ。だがの、やつの素晴らしさは、あの若さで合気あいき無住心剣流むじゅうしんけんりゅうの両方を使えるところじゃ」


 武術の大会だけあって、一般化していない固有名詞がさらっと出てきた。アナウンサーが1つずつ問いかけてゆく。


「合気とはなんですか?」

「相手の動きと思考を封じる武術じゃ」

「無住心剣流とは?」

「昔、したあみみ出された剣術だったんじゃが、途切れてしまったんじゃ。じゃがの、その時の3代目がの、こっちで道場を開いたんじゃ。しかしの、極めるのはなかなか難しいんじゃ。たった2つの動きから、全てを学び取るという教えじゃからの」


 解説席の下を、大きな雲が横切ってゆく。青の絵の具に白のそれを混じり合わせたように。


「たった、2つの動きとは?」

「重力に逆らわず武器を上げる。武器の重さだけで下ろす。これだけじゃ」


 気合を入れて持ち上げなくても、物は持ち上がる。その物の重さだけで下ろせば、普通にものは落ちる、最低限の力で最大限の力を発揮するがこの流派の教え。アナウンサーは仕事を終えたというように、軽くうなずく。


「そうですか。夕霧命ゆうぎりのみことの活躍が期待されますね」


 じいさんが少しため息をついて、こんなことを言う。


「しかしの、夕霧命はかなり若すぎるからの、苦戦するかもしれん。追求心があって、修業バカなんじゃがの」

「修業バカの男性は世の中に、5万といますからね」

「そうなんじゃ、世の中、男はだいたい、修業バカかぼうっとしてるかのどっちかじゃ。それ以外は珍しいからの」


 今まで出てきた男たちは、この世界では珍しいタイプだったらしい。様々なペンキをちりばめた波のような観戦客が、ザワザワと強風にあおられた木々のようにざわめき続ける。


 その中でアナウンサーと解説者のじいさんの話はまだまだ繰り広げられそうだった。だが、試合会場で、緑のくまさんと夕霧命が試合前の礼儀としてお辞儀が行われた。


夕霧命ゆうぎりうのみことはその中からひいでるものを見つけ――おっと、試合が始まるようです」


 優しい春風が吹き抜けてゆく、夕霧命の極力短く切られた深緑の髪と、緑のくまさんの茶色の毛並みを。審判の声が2人に注意を呼びかける。


「それでは、ルールの確認です。まいったと言うか、試合会場の外に体のどの部分でも触れたら負けです。相手だけに瞬間移動をかけて、場外などに動かす行為は反則です。3分経過しても勝負が決まらない時には、大会の運営上の都合で、武器の所持が許可されます。そちらを手にする方法ですが、瞬間移動制御装置を使って、受付時に預かった武器が手元へそれぞれ同時に移動してきます。よろしいですか?」

「はい」


 通常とは違うルールがいくつかあったが、2人の選手はしっかりとうなずいた。勝利の女神が微笑むような桜の花びらが、試合会場に舞い踊ると同時に、審判の声が響き渡った。


「それでは、試合開始!」

「さあ、いよいよ始まりました! 1回戦、Eグループ。熊族と人族の試合です」


 場内にアナウンサーの声が流れると、待ちに待っていた人々の歓声が一層濃くなった。


「わぁぁぁぁぁぁ〜〜!!!!」


 様々な形の瞳が集中する中、緑のくまさんと夕霧命は対峙する。草履の足はそろえて立ったまま、ブルーグレーの瞳はどこか別のところを見ているように変わった。合気の達人。彼の心の内に専門用語が並ぶ。


正中線せいちゅうせん強化)


 その時だった、試合会場の雰囲気がガラッと変わったのは。穏かな春風が鋭い刃物が飛ぶようになり、歓声が急に静かになった時に起きる耳鳴りのようにキーンとつんざくように幻聴がする、恐怖感が不意に広がった。


 両者は隙なく相手の視線をうかがったままだったが、緑のくまさんに動きがあった。アナウンサは席から立ち上がり、異変に驚いた声を上げた。


「おっと、どうした? 何もしていないのに、緑のくまさん、後ろにジリジリと後ずさりだ!」


 まるで熊の茶色の毛皮に覆われた額から冷や汗がしたたり落ちているように、試合会場を1歩また1歩、後ろ向きで所在なさげに、落ちたら敗北になる端へ追いつめられてゆく。


 武術を知らないと、今何が起きているのかわからない。そこで、達人のありがたい解説が入った。


「あれは夕霧命ゆうぎりのみことが正中線の意識を強くして、遠くの宇宙にまで伸ばしたんじゃ」


 メインアリーナの観戦客のみんなが息を飲む中、アナウンサーとじいさんの声が、人々という絹の布地に染み込むように、会場の隅々に行き渡ってゆく。


「正中線とはなんですか?」

「体の中心を上下を貫く気の流れじゃ。持っとるやつはなかなかおらん」


 試合会場の一番後ろの通路は、煌き隊の隊員がスコープと無線でやり取りをしながら、右へ左へ忙しそうに動いている。その前の柱のすぐ横で、紺の肩より長い髪を揺らす風はその人のまわりだけでは、夢想的なおもむきのあるインストゥルメンタル、夢想曲トロイメライを奏でてゆく。


 アナウンサーの目は夕霧命と緑のくまさんの距離がどんどん離れていっているの見て取った。


「それがあると、戦いにはどんな威力を発揮するんですか?」

「相手の動きを抑えられるんじゃ」

「触れてもいないのに、それができるいうことですか?」

「そうじゃ。おのれより大きなものに上から見られると、人は恐怖心が生まれるじゃろ?」

「えぇ、手が震えたりしますね。まるで蛇ににらまれたカエルみたいに」


 大画面を見つめる水色の瞳はついっと細められる、最後列さいこうれつよりも後ろの通路の柱に、優雅にもたれかかりながら。


 音速というズレは起きずに、達人のじいさんの声は全会場に同時に伝わってゆく。


「今、緑のくまさんは、教会や神社で感じる、人知を超えた存在の畏敬いけいを強く感じてるのと同じ状態じゃ」

「かかっていくのを躊躇ちゅうちょしますね、それは。このまま、戦いもせずに恐怖心だけで試合終了か!」


 見えないもの、だが感じられるもの。それは、そこに何らかの存在がある。それは現実。気の流れも同じ。夕霧命はいわゆる、雰囲気というものを意図的に変える技を習得していた。


「じゃがの、相手の方が人生経験は豊富じゃ。恐怖心もいっときじゃ。一気に間合いは崩れてくるじゃろう」


 年老いた声が言い終えると、試合場で動きがあった。人々のどよめきがそれに反応して、アリーナという大きなうつわの中で揺れ動く。


「おう!」

「歳を重ねたら90cm背が縮んでしまった達人さんの言った通り、やはり戦況は動いてきた! 緑のくまさん、力技を仕掛けるため、夕霧命ゆうぎりのみことに突進してきた!」


 2本足でどっしりとした太い足が地響きを鳴らしながら、ドスドスと試合会場の上を足早に進んでくる、熊の鋭い爪で切り裂くような殺気丸出しで。


 無感情、無動のブルーグレーの切れ長の瞳はそれをじっととらえたまま、紺と白の袴は風にはためく以外、動く気配を見せない。


(まずは相手の呼吸。

 ……人族より、深く大きい)


 ガバーッと熊の大きな両腕は振り上げれて、地の底から振動させるようなうなり声が上がった。


「うぉっ!」


 ビュッという音が鳴るほど、勢いよく太く力強い熊の両腕は振り下ろされる。それでも、深緑の短い髪は動こうともせず、あと1mmで自分を切り裂くというところで、


(瞬間移動)


 すっと消え去った。相手にかけるのは禁止されているが、自分にかけることは許されている動き。空振りに終わりそうだった両腕を落としていた途中で止めると、茶色の毛並みがさざ波のようになびいた。


 熊の鋭い瞳には映っていなかったが、アナウンサーの目にはきちんととらえられていた。白と紺の袴の行方が。


「おっと、緑のくまさんの真後ろに、夕霧命が瞬間移動した。背後を取られた!」


 夕霧命の艶やかな背の高い体躯はさっきと同じように立っていた。じっとしているように見えるが、実は違う。細いポールの上で絶妙なバランスを取りながら、常に微動している、合気の達人は、さらに専門用語で、対戦相手の熊を見据える。


(相手の操れる支点。

 ……腹より3cm上の前面から17cm奥)


 緑のくまさんはくるっと振り返って、ドスドスと足音を立てながら、夕霧命にその鋭い爪を向けてゆく。


「がぁーっ!」


(正中線。

 腸腰筋ちょうようきん

 腸骨筋ちょうこつきん

 足裏あしうらの意識を高める……。

 縮地しゅくち


 だが、残像を少し残したまま、まるで猛スピードで物が動いたように、袴はすうっと横に揺れて消え去った。


「また背後に瞬間移動だ、夕霧命ゆうぎりのみこと


 アナウンサーの間違いを、達人は即座にのんびりと注意。


「今のは瞬間移動ではあらん。縮地という技を使ったんじゃ」

「縮地とは何でしょう?」


 会場の人々が試合会場に疑問という視線を送っている一番後ろで、細く神経質な手は優雅にあごに当てられる。


「気の流れと内側にある筋肉を使って、長距離を短時間で移動する、武術の基本の技じゃ」

「そのために、通常の瞬間移動と違って見えたんですね? 移動の仕方が……その時のスローモーション映像、すぐに出せますか?」


 大画面の下の方に小さな割り込みが入り、観客も投げられるリボンも何もかもが止まったように動いている中、夕霧命の白と紺の袴が体を少しかがませて、重い弾丸が鋭い線を描くように飛んでゆく。敵の背後に艶やかに走り込み、衝動で動く深緑の短髪が乱れつく頬は凛々りりしいばかり。そうこうしているうちに、試合会場に動きがあった。


「振り返って、緑のくまさん、夕霧命に攻撃を仕掛ける。数々の鮭を刈ってきた、その力強く鋭い爪で、一気に降参に持ち込むか!」


 春風も何もかも引き裂かんばかりに向かってくる、鋭い爪をけるでもなく、夕霧命はただただ絶対不動の落ち着きを払って、視線を外すことなく待ち続ける。


柔術じゅうじゅつの内のテコの原理。

 ……相手のバランスを崩す)


 自分の胸に真っ直ぐ向かってきていた熊の力強く太い腕に、右の袴の袖がふわっと持ち上がるように動いた。真正面からの攻撃。それをわすために、一旦緑のくまさんの腕をつかんで止めた――ように見せかけて、力が迫合せりあいを起こす寸前で、夕霧命は足音1つ立てずに、左横へ全体的に移動した。それはほんの一瞬の出来事。


「夕霧命、攻撃を左に避けて、交わした! だが、夕霧命、逃げているだけでは、勝利はやってこない」


 アナウンサーの興奮した声が、会場中に響き渡ったが、じいさんが年老いたのんびりとした雰囲気で否定する。


「あれは逃げてるのではあらん」

「歳を重ねたら90cm背が縮んでしまった達人さん、それはどういうことでしょう?」


 アナウンサーの顔が一瞬、試合会場から振り返った。そこには、枯れ木のような細い腕を組んでいる、達人のじいさんが余裕でいた。


「合気は気の流れを使って、技をかける武術じゃ。そのためには、相手の呼吸と相手の体の支点をまずつかまなければいかん。それを、夕霧命は今しとるところじゃ」

「なかなか繊細な武術ですね」


 遠くの空へ、他の宇宙へ行く飛行機が銀の煌きを連れてゆく。


「1mmでもズレたら、相手に技をかけるどころか、こっちがやられてしまう。なにせ、基本的には間合いがゼロならんと、技をかけられんからの」


 夕霧命が習得している武術は、非常に危険なものだった。相手のふところ近くに入り込まないとかけられない技。


「ぐわぁーっ!」


 2本足の熊が相手をほふるように、鋭いきばのように拳が放たれた。数本の銀の線が春風の中に描かれる。


 袴の裾と袖口から出ている、夕霧命の手足はそれでも動かず、歓声の渦がすうっと小さく消えてゆく。無の境地で、水面みなもの波紋が広がるように敵の動きを的確に読み切った。


(来る。

 左。

 相手の操れる支点を奪う)


 会場中にある画面には、真正面から熊の攻撃を受ける、人の男が映っていた。誰もが思っているであろうことを、アナウンサーは口走る。


「おっと、素早いパンチが緑のくまさんから夕霧命に向かってゆく! ここで、試合終了か! ちょっと早すぎるぞ」


 ビューッと自分の胸に迫り来るパンチ。それがあと数mmでぶつかる、それでも、夕霧命は待ち続ける。間合いがゼロになるまで。恐れもあせりも、先制攻撃さえもバッサリと、絶対不動で切り捨て。


(心理戦。

 相手の技を受けるふりをして、払う)


 袴の袖が艶やかにすっと自分の内側へ動き、すぐさま熊の腕の外を、スルスルと絶妙に節々のがはっきりしているのにしなやかな腕が手がすり抜けてゆく。 


夕霧命ゆうぎりのみこと、避けた!」


 勢い余った熊の大きな体は前のめりになり、夕霧命の左側をすれ違い始めた。腕は触れ合ったまま、全ての動きがスローモーションになる。合気の達人は着実に技を発動する手順を踏んでゆく。


(相手がバランスを崩した。

 左の肩甲骨けんこうこつの意識を高める。

 奪った支点を肩甲骨まわりで回す。

 合気)


 夕霧命がつかんだわけでも、足を引っ掛けたわけでもない。それなのに、熊の大きな茶色の体はまるで芸術というようにすうっと宙に持ち上がり、前転するようにくるっと回り、背中から試合会場に落ちた。それはほんの一瞬のことで、遅れて驚きの声が会場中からとどろいた。


「うぉぉぉぉっっ!?!?!?」


 アナウンサーは座っていた椅子から思わず立ち上がり、興奮を隠しきれないというように、スタンドマイクを手でガバッとつかんだ。


「おっと、どうした! 緑のくまさん、夕霧命とすれ違いざまに、勝手に空中で前転して、背中から試合会場に落ちた。しかも、背中を強打だ!」


 歳を重ねて90cm背をわざと縮ませて、笑いを取っているじいさんが、口を動かしたため、白いひげがモサモサと揺れる。青空に包まれたメインアリーナの人々の注目を集めている、すぐ隣で。


「あれが合気あいきじゃ。緑のくまさんは攻撃するために、前に力が向かっておったが、それを夕霧命が不意打ちで右にけたことで、目標がなくなった緑のくまさんがバランスを崩したんじゃ。合気は触れていればかかる。だがの、相手がしっかりと立っている状態でかけるのはなかなか難しいんじゃ。じゃから、バランスを崩した隙に、相手の操れる支点を己に奪うんじゃ」


 専門用語という仕事に呼び戻されて、アナウンサーは持っていたスタンドマイクを置き直し、席に再び座った。


「支点を奪うとはどういうことですか?」

「支点とは重心とも言うんじゃが、建物で例えるとの、柱が全部抜けた状態になるんじゃ、奪われた相手はの」


 それは触れられただけで、立っていることが困難になる、を意味していた。しかも、じいさんがさっき言っていたが、動きと思考を封じる技。かけられたら最後、何が起きているのか相手はわからないまま、投げ飛ばされているという寸法だ。気づいたら、倒されていた。それが合気。


 アナウンサーは違和感を抱いて、青空の上にある椅子の上で体を45度回し、質問を重ねる。


「それだけではバランスを崩すだけですが、夕霧命ゆうぎりのみことは他にも何かしたんでしょうか?」

「そうじゃ。奪った支点を気の流れを使って、肩甲骨まわりで回すんじゃ。そうすると、今みたいに、相手を床に叩きつけたり、投げ飛ばしたりできるんじゃ」

「すごい技ですね〜。自身はほとんど動いていないのに、敵にダメージを与えてしまうとは!」


 合気という技を繰り出した男の袴姿は艶やかに風になびく。1歩も動くことなく、逆にもなり得る居つくことなく。細いポールの上で絶妙にバランスを取っているように立っている。無感情、無動のブルーグレーの瞳は、過去も現在も未来も関係なく。体の内側という他の人から見えない場所で革命を起こし、芸術的な技を生み出す。


 じいさんの組んでいた指先がトントンと軽く叩きつけ、素晴らしい武術でも弱点があることを、年老いた声で告げた。


「じゃがの、合気は護身術じゃからの、何か他の打撃系の攻撃を与えんと、相手は本当には倒せん」


 解説が流れている間に、試合会場の上に仰向けで伸びている熊に向かって、夕霧命の勝利を呼び込む手が打たれようとする。青の中に浮かぶ灰色の試合会場。そこへ向かって、様々な色のリボンがクルクルと、雲の合間を抜けて降臨する龍のように落ちてくる。


(正中線。

 腸腰筋。

 腸骨筋。

 それらを意識する)


 草履が足音1つさせず、それどころか、春風を何1つかき乱すこともなく、聖地へと続く階段を登るように、艶美えんびに持ち上げられた。アナウンサーはその動きを見逃さず、中継を続ける。


「おっと、夕霧命、倒れている緑のくまさんに上から真っ直ぐ蹴りという打撃でトドメだ!」


 そのまま、勝敗が決まりそうだったが、


「っ」


 茶色のかたまりは、試合会場に床の上からシュッと姿を消すと、白と紺の袴のすぐ後ろ、完全な死角に2本足で立っていた。


「おうっっっ!?!?」


 カメラがついていけず、慌てて画面が切り変わる、観客席にある大きなモニターの前で、人々は驚きの声を上げる。その後ろで、膝上までの濃い紫色のロングブーツは、細身をさらに強調させるように、両足を前後させる寸前のポーズを取っていた。


「緑のくまさんも負けていない! 瞬間移動した。しかも、夕霧命の背後だ! どうする? 夕霧命!」


 絶体絶命のピンチ! 熊の太い腕が、切り裂くためにあると言わんばかりに、鋭い爪をむき出しで、おそいかかられる刹那せつな。サーッと桜の花びら混じりの風が吹き抜けていった。無感情、無動のグルーグレーの瞳の持ち主は、春のまいという神楽かぐらを踊るように、崇高すうこうな技を繰り出す。袴も顔も振り返らず、艶やかな後ろ姿を見せたまま。


(正中線上で、奪った支点を回す。

 合気)


 まるで魔法でも使ったみたいに、熊の両腕も体もぶつかることなく、すうっと宙へ持ち上がり、クルッと回転して、背中を試合会場に叩きつけられた。突然の出来事に、会場中の人々の口から驚きが雷鳴のごとく広がった。


「えぇっっっ!?!?」

「何が起きた? どうした? 緑のくまさん、夕霧命ゆうぎりのみことに全く触れることなく、試合会場の上で1人前転して、背中から床に落ちた。どうなっているんだぁ!」


 片足を解説席のテーブルの上に乗せて、大盛り上がりのアナウンサーの隣で、じいさんは縁側で日向ひなたぼっこというように、用意されていた緑茶を一口飲んだ。


「さっきの触れていればかかるの応用じゃ。足元は床で触れておる。じゃから、夕霧命はそこを使って、さっきと同じ要領じゃが、支点を回す場所を肩甲骨から正中線に変えて、合気をかけたんじゃ」

「そんな掛け方があるんですね。奥が深いですね、合気は」

「色々あるんじゃが――」


 年老いた声がそこまで言うと、戦況に大きな動きがあり、足はおろしたものの、椅子から立ち上がったままのアナウンサーが解説を強引に始めた。


「おっとここで、緑のくまさん、浮遊です。触れていないとかけられない合気。夕霧命、どうする!」


 ワイアーアクション並みに飛び上がっている熊。それと対峙する、袴姿の男1人。まるで果てしない荒野で1人、孤独と生死という己の精神力と生命の限界。死線に常に立ちながら、吹きすさぶ砂混じりの風にさらされているようだった。


 それでも、夕霧命は慌てることなく、確実に敵を引きずり下ろす、碁盤のような試合会場の床へ向かって。


(相手との距離、7m。

 その中間点、3.5m上で、体全体を使って、奪った支点を回す。

 合気)


 応援の金銀のリボンがくるくると降りゆく中で、熊の茶色の大きな体がぐらっと傾いた。すると、クルッと前転し、電光石火でんこうせっかのごとく、まるで見えない拳が上から振り落とされたように、雷が落ちたようにズドーンと試合会場の床の上に叩きつけられた。


 再び仰向けで倒れ、くるくると小鳥が頭のまわりに回る、いわゆるスタン状態におちいった熊。地球30.7倍のメインアリーナにいた観客たちは一斉に自分の目を疑った。


「えぇぇっっっ!?!?」


 アナウンサーもあまりの出来事に、一瞬言葉を失い、実況が出遅れた。


「おっと! ……長年、武道会の解説をやらせていただいていますが、この私も驚きです! 空中に浮いていた緑のくまさん、宙で前転しながら、試合場の床に背中から落ちました!」


 だが、隣に座る小さなじいさんは、青空から射し込む陽光に、頭をピカンと光らせながら、落ち着き払っていた。


「あれも合気じゃ」


 さっきからずっと立ったままのアナウンサーは、じいさんの白いひげを見下ろす。


「触れていないとかからないのが、合気でしたよね? 歳を重ねたら90cm背が縮んでしまった達人さん。どうやってかけたんですか?」

「触れていればかかるの応用じゃ、これも。空気が触れておるであろう、2人の間にはの。じゃから、その時は奪った操れる支点を、相手と自分のちょうど中間点で、体全体を使って回すんじゃ。そうすると、今みたいに、浮いている相手にも、合気はかかるんじゃ」


 だが、合気は護身術。勝敗がつかないまま、緑のくまさんが立ち上がると、選手2人の手にふと重みが広がった。


「おっと、2人の手に武器が瞬間移動! 3分経過してしまいました〜! 1回戦で、武器所持まで持ち込まれるのは大変珍しい!」


 観客席の人々が大画面の前で、戦況が大きく変わったのをよく見ようと、首を右に左に動かす。その後ろで、乱れてしまった紺の後れ毛を、細い指先で耳にかける男は優雅に微笑んだ。


 歳を重ねたら90cm背が縮んでしまった達人のじいさんは、口元の白いひげをモソモソと動かす、単なる疑問というように。


「2人とも何を持ってきたのかの?」


 まさしくさむらいと思えるような、こげ茶の細長いものが、上が白で下が紺の袴のすぐ近くへ現れていた。背中を安心して預けられる戦友は、青空の乱反射を浴びて、頼もしい姿を見せていた。節々のはっきりとしているのにしなやかな手の中に、なじむという感触を放って。


夕霧命ゆうぎりのみことは……木刀のようですね?」

「あれは普通より長さも重さもあるやつじゃ」


 対する茶色の熊の手には、かろうじて白いものが見えた。アナウンサーは目をらしていたが、他のスタッフに話しかけ、手元の小さなモニターに視線を移した。


「緑のくまさんの方がちょっと小さくてわかりません。カメラさん、寄っていただけますか? ……ん〜? あれは、シャモジですね〜。戦いにちょっと、いやかなり場違いなものを選んできた!」


 大画面に映し出された物を観客たちが見ると、一斉にゲラゲラと笑い声が会場を包み込んだ。


「あははははっ!!!!」


 さっきからスマートなイメージで立っていた男も、手の甲を唇につけ、肩を上下に小刻みに揺らしながらクスクス笑い出した。


 夕霧命の滅多に笑わない切れ長な瞳も、彼なりの笑み、少しだけ目が細められた。爆笑の渦に飲み込まれている会場で1人、達人のじいさんからおめの言葉がかかる。


「なかなかやるの、あのくまも。十分笑いを取っておる。何事にも笑いは必要じゃ」


 しゃもじを振り上げ、熊の大きな体が決死の覚悟で、夕霧命に向かって走り込んでゆく。


「とりゃぁぁぁっっ!!」

「緑のくまさん、しゃもじで木刀を持つ夕霧命ゆうぎりのみこと果敢かかんにもいどんでいった〜!」


 アナウンサーの声が少し割れ気味に響くと同時に、無住心剣流が再現される。夕霧命の節々がはっきりしていながらもしなやかな手で腕で。


(重力に逆らわず、武器を上げる)


 脇に下ろしてあった木刀は、刀をさやから抜いて構える動き。下から上に持ち上げる間に、向かってくる熊の体を真っ2つに叩きるようにスパーンと攻撃を与えた。木刀の先は雲が横切ってゆく青空に向かって真っ直ぐに伸びていた。衝撃で熊の体が縦半分にへこむ。


「ウェ〜ン〜〜」


 やられましたみたいな声を出しながら、試合場の上を千鳥足ちどりあしでヨロヨロと足元がおぼつかない。その言動を前にして、会場から一斉に大爆笑の渦が巻き起こった。


「あははははっ!!!!」

「またもや、緑のくまさん、笑いを取りにいった。アニメ並みに、体に縦の線が入って、深くへこんでいます!」


 全然、真面目に進まない武術の試合。だが、じいさんはきちんと見抜いていた。今の技のすごさを。


夕霧命ゆうぎりのみこともやるの。今の武器の動かし方はなかなか思いつかん」

「歳を重ねたら90cm背が縮んでしまった達人さん、そうなんですか?」

「普通、構えを取るじゃろ?」

「そうですね。木刀を一旦頭の上に上げて、敵を迎えつために待ちますね」


 夕霧命はさっきから、合気をかける時も、木刀を使う時も、ただただ立ったままの姿勢で、攻撃する最低限の動きしかしていない。


「実はの、その構えがすきになるんじゃ。両脇が空くじゃろ? そこを突かれるんじゃ。じゃからの、今、夕霧命がしたように、武器は上げざまに、相手に向かわせた方が隙もなく、断然早く攻撃できるんじゃ」


 いわゆる見せ場。かっこよく見せるためのもの。あれが実戦では使えないどころか、命取りになる。


 夕霧命はいかに早く合理的に技を繰り出せるかを、日々の修業で習得。その反射神経といっても過言ではない動きを使って戦っていた。派手さはないが、素晴らしい戦いを見せていた。


 アナウンサはウンウンと大きくうなずき、深く感心する。


「さすがですね。まだまだ若手ですが、先日、躾隊しつけたいから武道家への転身を師匠から許されただけのことはあります」


 この世界では勝手に、武道家になることは許されていないようだ。師匠からのお墨付きを得てなれるらしい。国家機関の環境整備。そこへ勤めていた、いわゆるサラリーマン。それが武術の道をあゆむ。大きな環境の変化だった。


 初めての大会。たくさんの人の視線にさらされている中でも、夕霧命はいつもと同じように呼吸は静かで安定していた。空高くへ先を向けていたままになっていた木刀。それを無住心剣流という動きで、地道に決着をつけにゆく。


(隙を作らず、次の攻撃だ。

 上げている武器を下ろす。

 武器の重さだけで……!)


 元の姿に戻った熊は体勢を整え、再びしゃもじを振り上げた。 


「…………」


 そこで、夕霧命は気づいた。相手の変化、大きな違和感に。


(さっきまであった掛け声がない。

 作戦だ。

 やられた……)


 本の一瞬の迷いが、勝敗を大きく分けた。熊にも人と同じように表情があったが、それはけわしさや殺気立ったものではなく、どちらかというと微笑みに近かった。殺気、攻撃されると予感できるものは全て消されてしまった。


(相手は俺に感謝している……。

 それが殺気を消す方法)


 感謝をしている相手が、まさか自分を殺してくるなどと思う人はいないだろう。下心を持って、嘘で感謝している振りは、夕霧命レベルならば見抜ける。それができない。熊は本気でこっちへ感謝をして、戦いを挑んできているのだ。


 熊の太く大きな両腕は、夕霧命の両脇へ向かっていった。アナウンサーは目の前で繰り広げられている出来事を、意気込んで観客に伝える。


「おっと、夕霧命、緑のくまさんに両脇からつかまれ、持ち上げられてしまった!」

「あぁっっっ!?!?」


 まるで布の人形を抱き上げるように、熊に軽々と持ち上げれた、体格のいい袴姿の上にある、深緑の短髪が衝撃で毛先が揺れ動く。それでも、無感情、無動のブルーグレーの瞳は落ち着き払って、触れていればかかる武術の技を再現しようとする。


(合気をかける……。

 技が効かない。

 相手の方が俺よりレベルが上だ)


 だが、もう遅かった。がっちりとつかんでいる両腕の拘束を解くことは、さっきまで艶やかなほど素晴らしい技を見せてきた武道家でも交わせなかった。


 相手がいる限り、力の差はどうやっても生まれる。同じ合気を習得していた場合、逆に技をかけ返される、もしくは無効化されるということが起きる。


 アナウンサーは大詰めというように、スタンドマイクを持ち上げた。


「捕まったら最後です! 選手たちは誰でも瞬間移動できます! 今まで見てきました、捕まった選手がどうなるのかを……夕霧命ゆうぎりのみことも数々の戦いと同じでしょう!」

「あぁぁぁ〜〜!?!?」


 残念そうな声が会場中に響き渡っている真っ只中で、選手2人が画面からスッと消え去った。次に現れると、碁盤のすみに熊に捕まえられた夕霧命はいた。アナウンサーは声を張り上げる。


「やはりそうでした! 緑のくまさん、試合会場の端に瞬間移動して……」


 熊は自分だけ試合会場の床にしっかり立ったまま、袴姿の背の高い男を、青空が広がる空中庭園の地面にスッと置いた。さっきまで一言も話さなかった熊の口元が動き、優しげでさわやかな声が余裕だったと思える言葉を言った。


「はい、私の勝ちです」

「場外に、夕霧命を下ろしました! ここで、緑のくまさんの勝利決定です!」


 アナウンサーが勝敗を会場中のスピーカーから響き渡らせると、火山が噴火を起こしたように、人々の轟音とも言える歓声が一斉に上がった。


「うぉおおおおおおおっっっっ!?!?」


 次々に投げられる、色とりどりのリボンの雨が降り注ぐ中で、夕霧命の深緑の短髪は礼儀正しく、今戦った相手に頭を下げる。地鳴りのような低い声だが、ティーンネイジャーのような若さありふれるそれで、いさぎく負けを認めた。


「参りました」


 戦いの場を与えてくれた試合場に、深々と頭を上げ、縦に1本の線が入ったように、草履はスッと綺麗に振り返り、控え室に向かって歩いてゆく。


「ん〜! 初出場、夕霧命、1回戦で惜しくも敗退です!」


 日の当たる場所から、上が白と下が紺の袴の大きな背中は消え去り、さらに奥へ進んでゆく。その両脇に立っている片方の男と視線が一瞬だけぶつかった。


 それは優しさの満ちあふれたブラウンの瞳。無感情、無動のブルーグレーの切れ長な瞳は再び前を向いて、当人たちにしかわからない目だけの会話をして離れていった。


 カーキ色のくせ毛を春風に揺らしながら、貴増参たかふみの白い手袋の中に瞬間移動してきた携帯電話。そのメール画面に、意識化がでつながっているそれは自動で文字が打ち込まれてゆく。


夕霧命ゆうぎりのみことは1回戦で敗退しました。業務中のため、ひとまず報告は以上です♪ またあとでお話ししましょう』


 職務中の貴増参の手から携帯電話は姿を消す寸前、送信完了画面が表示された。


 指笛やメガフォンで騒いでいる人々の中で、解説者の達人が、なぜ夕霧命が敗退してしまったのかの理由を、年輪を感じさせる声で混じり込ませる。


「掛け声はの、嘘でやっとったんじゃ、緑のくまさんは。武術の基本中の基本じゃ。掛け声をかけると、りきんで隙だらけになるという教えは。夕霧命がそれを忘れおったのじゃ。若いからの、心理戦で負けおったの。しかも、次回の作戦を立てる情報まで引き出されたんじゃ、緑のくまさんを始めとする参加者全員にの。修業をもっと積んで、また3年後じゃ」


 通路の向こうからもれる光の中を、まるで陽炎かげろうのように、夕霧命の後ろ姿は歩いていたが、スッと左へ曲がると、3年後に向けての修業の日々に旅立った――――



 ――――血のように真っ赤に染まる空。押しつぶされそうな黒い雲が広がる。その合間を、縦横無尽じゅうおうむじんに青白い閃光せんこうが走る。不気味な空を縦に割るように、遠くの地面に落雷し、少し遅れて、雷鳴が地響きのように迫ってきた。


 そこに、白と紺の袴が静かにたたずむ。草履の下はひどくひび割れた乾いた大地。しかも、それは地の底から立っている破壊、崩壊という名の塔。デコボコの円を描く限られた、高い場所にある地面。少しでも足を踏み外せば、グツグツと煮えたぎるマグマの海という奈落の底へ落ちてゆくしかない運命の地。


(正中線。

 腸骨筋。

 腸腰筋。

 足裏の意識を高める……。

 縮地)


 腰に差したままの日本刀のつかに手をかけながら、土煙1つ上げずに、草履に連れられ、鉄の塊が猛スピード動く破壊力を持って、夕霧命の袴は駆け抜けてゆく。砂色の布に包まれたお弁当箱を地面に残したまま。腕をほとんど動かさず、足だけで目に止まらぬ速さで。


 あと1歩踏み出せば、マグマの海に真っ逆さまに落ちるという時、すぐ近くの地面に落雷がギザギザの縦線を描きながら、


 ズバーンッッ!!!!


 体をビリビリに破いてしまうような強烈な音が響き渡ったが、動じることもなく、夕霧命は強く地面を蹴りつけ、すうっと斜め上に向かって飛び上がる。暗雲をはい回る雷光の龍がどんどん近づいてくる。


 だが、ブラックアウトがすうっと起こった。足音1つ立てず、別の塔の地面の上に立っていた。さっき自分がいた地面は、はるか後方にある。現れた途端、日本刀を鞘から抜きざまに、左下から右上へ切りつける動きをする。ビュッという空気が咆哮ほうこうするような切る音が響く。まるで空に浮かぶ暗雲を断ち割るような勢いで。


(どうすれば、変えられる……。

 どうすれば捕まらない?)


 無感情、無動のブルーグレーの瞳は身じろぎひとつせず、急に現れた敵を次々に切ってゆく。無住心剣流という、たった2つの動きを使って。本物の刃物、武器。刃元が相手にぶつかると、悲鳴も上げずに消えてゆく。


 殺傷能力のある武器を手にして、自分へ息つく暇なく刃先を向けてくる敵を迎え撃つ。


(武器の重みだけで下ろす)


 上げたままの日本刀を下へ押し切りする要領で、敵を切りつけてゆく。右手で剣を扱い、左手では合気をこなす。


(来る。

 左、殺気)


 猛スピードで入り込んでくる、剣を頭上高くに構えたままの敵が。間合いがゼロになるまで、他の敵を倒しながら、ただただ待ち続ける。


(相手の呼吸に合わせる。

 相手の操れる支点を奪う)


 敵がジャンプして、真上から脳天めがけて剣を振り下ろし始めた。無感情、無動のブルーグレーの瞳に武器がどんどん大きくなってゆく。それでも、まぶたを閉じることもなく、他の敵の対処もしながら、着実に技をかける。


(敵の武器を奪う。

 相手の呼吸に合わせる。

 相手の手の支点を奪う)


 敵の刃物が深緑色の髪に触れる刹那、背をそらして、武器の到着地点を遅らせ、白の袴の袖は刃先の軌跡きせきを避けて、艶やかに揺れ動き、節々のはっきりとした手が相手のそれに触れると同時に、技の仕上げにかかる。


(テコの原理でバランスを崩す。

 奪った支点を肩甲骨まわりで回す。

 合気)


 全てがスローモーションになった。


(相手の手の動きが封じられる)


 振り下ろされていた武器が当初の動きから大きく外れ出した。その背後の遠い場所に、すっと人が現れた。それは黄緑色のボブ髪と宝石のように異様に輝く山吹色の瞳の持ち主。


(相手の手の力が抜ける。

 武器が落ちてくる)


 自分へ向かって、敵の剣の柄が、まるで芸術というように落下してきた。夕霧命の体が勝手に反応する、次の動きの準備のために。


(武器と自分の正中線を合わせる。

 左の肩甲骨の意識を高める。

 武器を奪う)


 艶やかに武器が自分の手に移ってきた。それでも、敵はまだまだ自分のまわりを囲んでいる。孤独な侍のように見える夕霧命の正中線という気の流れが、きっちり縦に1本通った端麗な後ろ姿。


 ピンクの細身のズボンとラフな白のシャツは、ふわふわと上空に浮いたまま。それに気づかないのか、夕霧命は二刀流になって少しったところで、ふと動きを止めた。すると、不思議なことに、自分を取り囲んでいた敵が風で散らされた煙のように消え去った。


(縮地……。

 瞬間移動……?)


 奪った武器は上空へバッと投げられると同時に、瞬間移動で消え去った。そうして、さっきと同じように、土煙1つ上げずに、夕霧命は腰を低くして走り込んでゆく。しばらく、そんな修業の時間が淡々と黙々と続いていた。


 結婚指輪をしている手で、黄緑色の髪はため息交じりにかき上げられる。山吹色の瞳が向いたあとに、夕霧命の姿がそこに現れる。通常と逆の順番を繰り返しているのを、まだら模様の声で何1つ言わず、あちこちに視線を送っていた。


(右……左……左……。

 わかるんだよね、この世界って。

 相手の動きがさ、ある程度。

 そこをなんとかしないと、勝てない)


 一瞬の無音があったあと、目の前に、深緑の短髪と白と紺の袴が立っていた。皇帝も真っ青な威圧感のある、螺旋らせん階段を突き落とされたぐるぐる感の声が急にかけられた。


「どう? 独健どっけんと同じ仕事やめて、武道家になって」

「まだまだだ」


 夕霧命は振り向きもしなかったが、平然と答えた。左耳のチェーンピアスを指でなぞりながら、ナルシスト的な笑みが、武道家の背後で花咲いた。


「お前、さすがだよね。驚かない。それって、俺がさっきからいたこと知ってたってことでしょ?」


 目に焼きつくほど艶やかな見返り姿で、無感情、無動のブルーグレーの瞳は、全ての人々をひれ伏させるような山吹色の瞳を、恐れもせず真っ直ぐ見つめ返した。


「当たり前だ。お前のその頭の気の流れと金の正中線、あたり一帯に漂う金の気の流れを持っているやつはそうそうおらん。気配でわかる、焉貴これたかだと」


 ここは何を言っているのかハテナだ。少々補足。気の流れを使ってかける合気。相手の気の流れを見れることが大原則。


 さらに、気配もさぐれないようでは、師匠から武道家としての道を歩むことのお許しは決して下りない。夕霧命ゆうぎりのみことは焉貴が現れた時から、ずっと知っていたのだ、そこで自分のことをうかがっていたと。


 ここまでになるのに必要だったこと。それが、まだら模様の声で出てくるが、武術と神聖という名の純真無垢が足し算されて、R18も真っ青な話に変わってしまった。


「さすが、修業バカの異名いみょうを持つだけあるよね? 修業っていう字をつけたら、何でもやるんだからさ。キスの修業とか、セ×××の修業とか、あと他にもいやらしい修業いっぱいしちゃうんでしょ?」


 抜き身の日本刀を鞘にしまいながら、夕霧命はツッコミもせず、訂正もせず、地鳴りのような低いさを持つが、若さの目立つ声で真っ直ぐ肯定した。


「家に帰ればするが、今は武術だけだ」


 若手の武道家、ある意味、愛妻家だった。和装の男の色気が匂い立つ彼の日常が垣間見えた気がした。


 夕霧命と焉貴が立つ大地のはるか遠くで、黒い雲の間をグーグーと青白い雷龍らいりゅうがはい回る。2人の大きく開いた袖口が、急に吹いてきた風でハタハタと揺れる。紺のデッキシューズのそばに転がっていた石が消えると、焉貴の個性的なバングルをした手の中に収まっていた。それをポンポンと投げては受け取るをリピート。


「難しいよね? 経験を持った人物を年齢では追い越せない。みんな一緒に年を取っちゃうんだから、いつまでたってもその差はまらない。死ぬんだったら、埋まるのかもしれないけど、永遠だからね、この世界ってさ」

「そうだ」


 宝石のように異様に輝く山吹色と無感情、無動のブルーグレーの瞳4つは、限られた広さの荒野で、マグマの海が火の粉を風で巻き上げる場所で、一直線に交わる。


 人が死ぬことのない世界。無限の永遠が続いてゆく。その中で生きていくために、乗り越えられない壁。終わりのない階段。目の前に立つ男が向こう側へと、上へ行くのを渇望かつぼうしている。


 だが、それを叶えるのにこうむる、宿命を知っているからこそ、焉貴のナンパで軽薄的な雰囲気は消え失せ、皇帝のような威圧感に豹変ひょうへんした。持っていた石を手からころっと地面へ落とす。


「だけど、追い越せる手があるって聞いたよ」

「どうやってする?」


 紺のデッキシューズが石を蹴ると、コロコロと転がり、ギザギザの大地の端から、もろく崩れやすい地面の破片いくつかと一緒に、マグマの海に頭から身を投げていった。これから、焉貴これたかが夕霧命に話す内容を表しているように。


下界げかいに生まれて、人生の修業をすると、あの世は厳しいところだから、1日で300から500年分の経験ができるらしいよ」

「それはせん」


 深緑の短髪はゆっくり横へ揺れた。修業バカ。それでも、この武道家が、この世界からほんのいっ時だとしても、離れられない、いや離れたくない理由がそこにはあった。


 同じ人物が2人の脳裏に浮かんだ。遠くの地面という塔がガラガラと崩れてゆく。砂時計の砂が落ちてゆくように、はかなくもろく姿形を幻のように消した。黄緑色のボブ髪は横に向き、その様子を眺める。


 その向こうには、真っ赤に燃えたような空が広がっていた。それがある人の心の内を物語っているようで、アンニュイな感じで、焉貴は髪をかきあげる。


「あれが心配するから?」

「そうだ」


 うなずいた夕霧命の瞳にも、血のように赤い空が映っていた。焉貴の人差し指は、街でナンパするように、軽薄的この上なく斜め右に持ち上げられた。


「あれも若いよね。情報不足だから、可能性の導き出し方がわからなくて、不安になってる部分もあるのかも?」

「そうかもしれん」

「仕事辞めたもう1つの理由って、あいつと一緒に過ごす時間増やすためだったでしょ?」

「そうだ」


 国の機関。躾隊しつけたい。勤務時間は決まっている。週に何日、仕事に入るのかも自分の思う通りにはならない。だが、武道家ならば、自由が効く。夕霧命には大切な人がいた。自身の人生を大きく変えてでも、そばにいたい人がいた。


 武道家と高校の数学教師。2人は下から吹いてきたマグマの熱風で髪が巻き上げられていた、しばらく。火の粉が蛍火ほたるびのようにふわふわと舞う。


 だが、焉貴先生の砕けに砕けた軽薄でナンパな声が、シリアスシーンを破壊した。


「お前とあれが女子高生に囲まれて、キャーキャー言われちゃったほうがいいじゃないの?」


 自分が毎日、職場でさらされている、プレゼントと冷やかし攻撃を、武道家に放った。夕霧命から敵を合気で倒したように、真っ直ぐ艶やかにツッコミ。


「意味がわからん。なぜ、子供の話が急に出てきた?」


 質問内容は、純真無垢ハイテンションでスルー。焉貴は今度は、バングルをした左手を大きく上げる、先生が注目〜というように。そうして、こんなことを聞いてきた。


「はい! 夕霧パパ、昔の家族構成を言って〜?」


 昔? おかしな感じがするが、一点集中、一直線、修業バカはそこはスルーして、真面目に答え始めた。


「俺は……あれと子供が5人だ」


 奥さんと自分。子供が5人の7人家族。ちょっと、子供の数が多い気もするが、明るい家族計画で、微笑ましい限り。だが、焉貴の次の言葉からおかしくなってゆく。


「じゃあ、優雅なあれは?」


 試合会場の最後列の後ろにいた、優雅な物腰の人は。深緑の髪は風に吹かれながらも、横へゆっくりと揺れる。


「あれは恋人だけだ。結婚もしとらんかった」


 独身の人の話。もちろん、子供はいない。今は子供の話題だったが、焉貴先生の生きている時間が長すぎるために、パラレルワールド並みに話がずれていた。だが、次の言葉で戻ってきた、子持ちの親の話に。


「でもさ、一気に子供4人の親になっちゃって……結婚式の時に言われてたんだよね?」


 子持ちの人と結婚した、らしい。優雅な物腰の人は。だが、おかしい。恋人がいた。別れるという現象はこの世界では起きない。矛盾が出ていたが、ここは焉貴これたか先生が質問をして、夕霧命ゆうぎりのみことがそれに聞き返したためスルー。


「何をだ?」


 不思議そうなブルーグレーの瞳を間近で見て、焉貴も珍しく驚いた顔をした。


「あれ? 聞いてないんだ、珍しいね、夕霧とあれの間に隠し事なんて」

「言わんでいいことは、あれは言わん」


 袴の袖口から出た筋肉質なのにしなやかな両腕は、腰の低い位置で組まれ、深緑の短髪はまた否定の動きを取って、横に揺れた。


 おかしい話がどんどん出てくる、ここから、まだら模様の声と、地鳴りのような低さのそれが交互に飛び交いながら。


「式のあと、あれの友人に言われてたよ。『大人の世界満喫してたお前が、子持ちだなんて驚きだよ』って」

焉貴これたかはどこにいた?」

「俺は招待された側が、夕霧と逆でしょ? だから、教会の入り口の左側にいたんだけど。お前、どこ?」

「俺は従兄弟いとこだから、教会の中から出られんかった。前がつまっていて」


 優雅な物腰の人の結婚式に、2人とも招待されたらしい。しかも、招待された人が別々。今さらだが、焉貴と夕霧命は面識がない。それなのに、こんなに仲良く、誰かさんの話をしている。しかも、そのあとでも顔見知りではなかったようだ、今頃その時の話を初めてしているのだから。


 教会から親類が出られないほどの混雑。どれだけの人を招待したのかと首を傾げるところ。だが、その原因が螺旋階段を突き落としグルグルと回るような声が、原因を告げる。しかし、さらにおかしな方向に話がいってしまう。


「それは、テレビカメラとかがたくさん来ちゃったからでしょ?」


 滅多にため息をつかない、夕霧命と焉貴は順番に、苦悩の吐息をもらした。


「はぁ〜、毎回そうだ」

「そう、俺も毎回、巻き込まれちゃってんの」


 有名人の結婚式のようだ。取材が殺到して、起きる事件。だがまた、おかしい。何回も起きている。いよいよ、真相に近づきそうな予感が漂っていた。


 しかし、焉貴先生のハイテンションで、はぐらかされてしまった。暗い雲など知りません的な感じで、右手をさっと上げて、ピョンとジャンプするような明るさで、いきなりこんなことを言ってきた。


「スパッと、武術の話に戻しちゃいます!」


 筋が通っていない話す順番を前にして、夕霧命は握った拳を唇に近づけて、珍しく声に出して、噛みしめるように笑った。


「くくく……また無意識の直感だ」


 ナンパするみたいに、ナルシスト的に微笑んで、数学の教師で、可能性の数値をきっちり計ってくる、理論派の黄緑色のボブ髪を持つ男は、直感だと認めた上で、首を傾げる。


「そう。俺、いつ変えたんだろう? 考え。まぁ、これも神様のお導きってことで」


 自分の言動が疑問形。月命るなすのみことが言っていた通り、破天荒すぎた、焉貴は。遠くの雲から降る雨が、真っ赤な空に染められ、キラキラとルビーのような輝きを放って大地にマグマに降り注ぐ。


 そうして、とうとう収拾がつかないほど話がおかしくなり始めた。


 白と紺の袴を着て、艶やかにひび割れた大地に立ち、絶対不動でさっきから1歩も動いていない武術の達人に、ハイテンション数学教師が提案する。


「その合気あいき無住心剣流むじゅうしんけんりゅうのこと説明して、孔明こうめいに聞いたら、作戦をさ」


 漆黒の結い上げた腰までの長い髪。瑠璃紺色の聡明な瞳。


「あれは頭がよ過ぎて、俺がついていけん」


 孔明と夕霧命は知り合いではない。なぜ、あの天才軍師の名が今出てきたのだろう。焉貴の精巧な脳裏に浮かぶ。


 カーキ色のくせ毛。優しさの満ちあふれたブラウンの瞳。

 藤色の剛毛の長めの短髪。アッシュグレーの鋭い眼光。


「じゃあ、たかとアッキーは?」


 この2人はパパ友だ、夕霧命は。多少話はするだろう。子供が遊びに行って、お互いの家を訪れることもあるだろう。だが、武術の向上についての話。それは、武道家にとっては仕事と同じ。それを、パパ友に話す……おかしい感じがするが、夕霧命は違うところで否定した。


「あの2人は武術はせん。なぜ、出てきた?」


 焉貴これたかの理由は知っている人でないと、知らない単語が混じっていた。


護法童子ごほうどうじ、生まれさせて、悪と本当に戦ってたんでしょ? あの2人って」

「それは、直接、人間に手を貸すことができんから、子供の化身けしんを作って、守護していた話だ。本人は戦い方を知らん」


 貴増参たかふみ明引呼あきひこは、一体何者なのだろう。子供ではなく、化身。召喚魔法みたいな話ができた。


 マゼンダ色のリボンで結わかれた腰までの長い髪。まぶたの裏に隠されているが、姿を現すと人々を震え上がらせるほど邪悪なヴァイオレットの瞳。


「じゃあ、るなすは?」

「あれは頭がいいが、失敗するもの、負けるものを好んで選ぶ」


 自分でも言っていたが、自虐的、ドMだった、月命るなすのみことは。だが、ここもおかしい。保護者と子供の担任教師のはずだ。それなのに、そこはスルーして話が進んでゆく。


独健どっけんは?」


 2人の頭の中に浮かぶ。元気さの象徴のようなひまわり色の短髪。はつらつとした若草色の瞳。


「あれは子供が武術をするが、本人はせん」


 地鳴りのような低さを持つが、若い声が真っ直ぐ断ってきた。だが、またおかしかった。独健と夕霧命ゆうぎりのみことは以前、同じ躾隊しつけたいに所属していた。だが、姿は見かけても、話をしたことは一度もなかった。それなのになぜ、子供の習い事を知っているのだろう。


 そうして、焉貴名探偵は、犯人はこの人です的に、最後に持ってきた。紺の長い髪。水色の瞳の持ち主。さっきから、指示語で出ている人物を。


「じゃあ、あれに聞けば?」

「さっき聞いた」


 夕霧命は珍しく目を細めて、彼なりの笑みを作った。今まであんなに否定ばかりだったのに、即行肯定。


「あいつ、本当に瞬発力あるよね〜。で、どうやって聞いたの?」

「いや、感じた」


 意味ありげな発言が地鳴りのような低い声で告げらると、焉貴はやっていられない的に黄緑色の髪を大きくかき上げた。


「また〜? もう、俺、それ1日に何度も見るんだけど……。どんだけ仲いいの?」


 相手の反応など、日本刀で敵を斬るみたいにバッサリ切り捨て、夕霧命は真面目な顔で短く言った。


「普通だ」


 どこかいってしまっている山吹色の瞳は、首を傾げたため斜めになった。そうして、焉貴の年齢が明らかになる。


「そう? やっぱり若いよね。俺、300億年生きてるけど、そんな話聞いたことないよ?」


 300年ではなく、300千年でもなく、300万年でもなく、億年。明引呼が言っていた通り、桁が大きく違っていた。どんな歴史もひれ伏すほどの長さだった。


「そうとは知らんかった」


 袴の裾が艶やかに揺れ動く、その人はどこからどう見ても、焉貴と歳の頃は同じに見えたが、まだら模様の声が意味不明なことを言ってくる。


「2人は14年ぐらいでしょ? 生まれてから。ノーリアクションのあれは、8年。それで、大人になっちゃったから、若いんだよね、この3人はさ。で、お前、いくつ?」


 14歳で結婚。さらには、8歳の人がいる。妻子持ちの男たちの話だったはず。だが、不思議そうな顔をしただけの夕霧命で、おかしくないと判明する。


「なぜ、それを聞く?」


 甘さダラダラの声で、焉貴はおねだりする。


「え〜? 聞かせて〜?」

「23だ」

「計算おかしいけど、あっちゃってんの、この世界ではさ。ちなみに、俺も23歳だから」


 今までは、実年齢が何千年だった。だが、今度、逆転する人が出てきた。14年が23年。300億年が23年。焉貴と夕霧命は同じ歳。そういう世界らしい。だから、夕霧命の声色はティーンネイジャーふうなのだ。


 焉貴先生のハイテンション。螺旋階段を突き落とすようなぐるぐる感がミラクル旋風せんぷうのようにやってくる。


「さらに言っちゃうよ〜。結婚する前、俺、背201cmあったんだけど、197cmになっちゃったんだよね。縮むってあるんだね。お前って、背の高さ変わった?」

「1cm低くなった」


 どんな結婚をすれば、背丈が変わるのだろうか。


「そう。まあね、孔明こうめいなんて、20cm縮んで、210cmになっちゃったからね、結婚したら」


 あの天才軍師、体のサイズも規格外だった。蛇みたいに斜めに巻きつくバングルをした手をパッと上げると、白のシャツから、最低限の筋肉しかついていないスラッとした素肌がチラ見えした。


「最後におまけ。孔明、元々230cm背があったけど、この世界にしたら、たいした身長の高さじゃないんだよね〜。だって、龍とかいるからさ。あの種族、だいたい数百mの世界だから。まぁ、身長っていうより体長って意味合いが強いけどさ」


 やっと、螺旋階段の1番下へついた。だが、目がぐるぐる回っているような混乱状態。


「わかっていることをさっきから話している。何をしに来た?」


 日本刀を腰に差した武道家は不思議そうな顔で、修業の休憩時間をオーバーしてまでもハイテンションで話している男に問いかけた。


 お姫様を舞踏会にご招待みたいに、袖口がフリーダムに空いている白のシャツをともなって、焉貴は夕霧命ゆうぎりのみことに手を伸ばし、ナルシスト的に微笑んで、高い声をわざと低くしたそれで、女を落とすように言う。


「決まってるでしょ? お前と俺ですることって言ったら……」


 色気もなくやってきてしまった、お楽しみの時間が。武道家は絶対不動の落ち着きで普通に返してきた。


「今日はどうする?」


 いつもしているみたいな話運び。焉貴これたかの指先は暗雲立ち込め、雷光がはう上空に指先と一緒に、山吹色の異様にキラキラと輝く瞳が上げられた。


「瞬間移動で空に上がって、浮遊を使って飛んでる状態で、どう?」


 普通では味わえない。空中でのキス。人も飛べる世界。


「構わん」


 低い声が離れた場所でしたかと思うと、武術の技、縮地を使って、あっという間に距離をつめてきた。男の香りがワンテンポ遅れて、風圧という空気の流れで連れてこられる。


 それを吸い込むか込まないかの短い間で、合気をかけるように、袴の白い袖は節々がはっきりしているがしなやかな手が触れてくる、2つの結婚指輪が真実の愛という音をかすかに響かせながら。


「ちょっ!」


 まだら模様の声が少しだけ聞こえると、2人の姿はすうっと消え去った。


 一瞬のブラックアウトと無音のあと、手を伸ばせば雲の微粒子に触れられるほどの高い場所にいた。その中ではい回る青白い閃光に、お互いの髪の色がストロボをいたようににわかに染まる。


 焉貴はつかまれた手をそのままに、なぜか携帯電話を見ている夕霧命の横顔に文句を放った。


「今日は俺が瞬間移動かけたかったんだけど……」

「…………」


 そんなことなどバッサリ切り捨て、意識化でつながっている、あたりに広がっている景気の制御を変える。


(春モードだ)


 光る粒子が弾け飛ぶように、景色は一瞬にして変わってしまった。血のような空は、ガラス玉よりもさらに透き通った青。マグマの海に立つ断崖絶壁に囲まれた大地は、どこまでも続く黄色の菜の花畑になった。2人のそばを、2羽の小鳥が愛の歌をさえずりながら舞い上がってゆく。


 袴の袖の奥に慣れた感じで、不釣り合いな携帯電話をしまって、一点集中を如実に表す、色気も何もあったものではない、真っ直ぐな言葉が青空の下で響いた。


「するか?」


 焉貴はすうっと横滑りしてきて、ピンクの細身のパンツは、紺の袴に寄り添うように近づいた。またナルシスト的に微笑んで、螺旋階段を突き落としたみたいなぐるぐる感のある声で、意味ありげに聞く。


「女には秘密だよ?」


 禁断の香りが思いっきり漂っていたが、夕霧命の真っ直ぐツッコミが、敵から武器を奪ったように艶やかにやってきた。


「女ではない、妻にだ。お前と俺は結婚している」


 焉貴は気にせず、芸術的な武術を生み出す、節々のはっきりしているがしなやかな手を、指1本1本をまるで体の奥深くをなめるように絡ませる。


「俺に、キスっていう武術の技かけちゃって?」

「構わん」


 夕霧命の低く若さのある声が短くうなずくと、紺のデッキシューズはぴょんと空中を両足で蹴り上げ、ピンクの細身のズボンは、袴の白と紺の境目に羽交い締めにするように巻きついた。


 焉貴が抱っこの形で、袴の白い袖は両腕とも背中に回され、しっかりと抱きしめた。顔をお互い同じ方向、右へ少しだけ傾け、半開きになった唇というジューシーでなまめかしい実をむように近づくと、ズレあった山吹色とブルーグレーの瞳はすっと閉じられた。


 女とする時とは違う、少し硬めの感触が唇に広がる。竜巻のように吹いてきた春風に、菜の花の黄色と桜の淡い桃色がくるくると回る。2色の綺麗な螺旋スパイラルを描いて、2人のまわりを下から上へと登ってゆく。大きく取られたお互いの裾がフワフワと風を大きく吸って膨れ上げる。


(合気の達人。

 その若さで、達人にはなれない。

 誰もなってない。

 そのお前とする、唯一無二の極上のキス)


 2人の靴底が不安定に浮いたまま、青空と菜の花畑の間に、両足と両腕のがんじがらめで止まっている、焉貴と夕霧命。羽交い締めという密着度満載の体勢で、キスは強めに綿菓子のように甘くふわふわと続いてゆく。


(お前の正中線と俺の正中線が重なり合う。

 たまらんキスだ)


 深緑と黄緑色の髪がお互いの頬に乱れ絡みつこうと、そんなことなど蚊帳かやの外の出来事というように、真っ暗な視界の中で、いとしくて仕方がない男の香りを、間合いゼロで吸い込み、全身を快感という毒が甘美にしびれさせていた――――



 ――――宝石のように異様に輝く山吹色の瞳、と、無感情、無動のブルーグレーの瞳には、青空が真正面に広がり、菜の花の黄色が体を包むシーツの海のようだった。


 お互いの体温で温め合った唇は、今も存在感を色濃く残し、体中に甘いハチミツをこぼすように広がってゆく。だが、その余韻も日本刀でバッサリ切り捨てるように、夕霧命はすうっと立ち上がった。手のひらを軽くついただけで、艶やかに1本の縦の線を崩さずに。


「俺はもう出る」


 その手には砂色の四角いカラのお弁当箱。その結び目は手渡された時には、女が長い髪を結い上げたキュッという色気が匂い出ていた。だが、今は袴を着て、精神統一したようなピンとした1本の線が縦に入る、結び目が夫によって、交換日記のように新しいあとをつけられた。


 映画に出てくる侍のような綺麗な後ろ姿を見せている、深緑の短髪へ振り返って、焉貴これたかはさっと起き上がる。瞬間移動を使って、紺のデッキシューズで不思議と菜の花を踏み潰すこともなく、ピンクの細身のズボンは一瞬で立った。


「そう、じゃあ、俺も出ようかな? 今日はあれのコンサートがあるしね」


 縮地を使って、歩いているように見えるのに走ってる速度で動いている夕霧命ゆうぎりのみことの前に、なぜかドアノブがあった。それを回しながら、低く短くうなずく。


「そうだ」


 焉貴はもう一度瞬間移動で、武術の技のスピードに追いつき、袴の背中のすぐ近くに、フリーダムな白のシャツは突如現れる。すっと扉が開かれると、2人の197cmという長身の姿はその向こう側へ消えた。


 誰もいなくなった春の景色。それは急にユラユラと揺れ、モノクロになったかと思うと、全て消え去った。気がつくと、そこはただの真っ白な壁で、何1つ物のないただの部屋。窓が1つあるだけで、その向こうには、桜の大木から花びらがこぼれ落ちる本物の外が広がっていた。

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