罠とR指定

 太陽がなくても、晴れ渡る青空。そこに銀の線を描きながら、他の宇宙行きの飛行機が飛んでゆく。離陸という動きで、下から斜め上へ向かって。


 ベンチの背もたれに、まるで羽ばたくように乗せられた白いシャツの両腕は、袖口のボタンが開放的に全てはずされている。春風が吹くたびに、姫ノかんの中庭の緑を背景にして揺れ動く。


 休み時間開始のチャイムが鳴ったが、その人のチェーンピアスが半円を描いている耳には聞こえなかった。その代わりに、R&Bというグルーブ感が全身に絡みつく蛇のような、エロティックな鎖のように流れていた。


「♪〜〜♪〜〜」


 音もれという鼻歌。その声質は、言い表すのがかなり難しい。あえていうなら、螺旋らせん階段を突き落とされたぐるぐると目が回る感じ、様々な真逆のものがまだら模様を作る、が合っている。


「♪〜〜♪〜〜」


 一斉に動き出した生徒たち。話し声、物音が渦潮うずしおのように押し寄せてくるが、黄緑色のボブ髪を持つ、その男にはまったく聞こえてこなかった。イヤフォンやヘッドフォンをつけているわけでもないのに。


 手元には音楽再生メディア。その画面に表示されている、


『ディーバ ラスティン サンディルガー』


 と、ジャケット写真の中にいる、針のような輝きを持つ銀の長めの前髪と、その奥から射止めるように鋭利なスミレ色の瞳を見せる、天使みたいな可愛らしい顔をした男。


 その男と、まるで生き写しみたいな姿の人の足元は、ピンクの細身のズボン。それはフリーダムに組まれ、リズムをさっきから刻んでいる。


「♪〜〜♪〜〜」


 シャツの前は服など不要と言わんばかりに、胸の低い位置で1つだけボタンが止めてあるだけで、最低限の筋肉しかついていないスラッとした素肌。それがすそ襟元えりもとから見え隠れする、桜の花びらを乗せた風が吹き抜けるたびに。


 学校の中庭のベンチで、R&Bを楽しんでいる男は、ふと後ろから、女の子たちのキャピキャピボイスがかけられた。


焉貴これたか先生!」

「何?」


 無機質、無感情なまだら模様の男の声がきしむと、黄緑のボブ髪はサラッと振り返った。その先生の瞳は、一度見たら一生忘れられないほど強烈な印象だった。


 いくつもの二面性という多面性を持つ瞳。色は鮮やかな赤みを帯びた黄。山吹色。宝石のように異様に輝く純真無垢。かと思えば、全ての世界にいる人々をひれ伏させるような皇帝のような威圧感。大人で子供で純粋で猥褻わいせつで皇帝で天使で……上げたら切りがないほどの矛盾。


 そんな焉貴先生のまわりを囲む、女子生徒。彼女たちの目に入ったのは、先生の瞳でもなく、音楽再生メディアの有名アーティストでもなく、脇に置かれたオレンジ色の箱だった。


 それは、女が長い髪を結い上げたように、キュッと色っぽく結ばれた布が包み込む四角いもの。校舎を破壊しそうな勢いで、大きな黄色い声が中庭のベンチを取り囲んだ状態で、一斉にどよめき渡った。


「きゃあっっ! それ、愛妻弁当〜!?」

「先生、熱々〜〜!」

「何入ってんの〜? 開けて見せて〜」


 女子生徒たちの長い髪にうずもれる、焉貴の黄緑色のボブ髪。


「いいよ」


 だが、人気の先生は別に気にした様子もなく、蛇のように斜めに絡みつく個性的なバングルをした手で、お弁当箱を膝の上に乗せた。女の服を流れるような仕草で脱がすように、オレンジの結び目をいて、銀のふたをさっと開ける。


「はい」


 学校中を震撼しんかんさせるがごとく、黄色い声が再び大音量で響き渡った。


「きゃあっっっ!」


 緑や赤、黄色などを抜群のセンスでいろどりよくつめた、おかずの真ん中に出てきたものに目を見張り、女子生徒たちは夢見がちに両手を胸の前で組んで、空を突き抜けてゆくようなキンキンのかん高い悲鳴をほとばしらせた。


「ハート型〜〜!」

「私もやりた〜い! 好きな人にお弁当作るの」


 お弁当のお披露目は、いちじるしく事務的に終了。個性的なバングルをした手とは、今度は反対の手で、そのふたを閉めた。


 興味津々という女子生徒の嵐に巻き込まれていても、自惚うぬぼれるどころか、無機質に対処している先生は、生徒の1人の話にきちんと返事を返した。砕けに砕けた感じで。


「やればいいじゃん」


 それを聞いた、女子生徒のテンションが若干さがった。恋に悩む乙女心全開で、悩ましげにため息をつく。


「でも〜、あっちが好きかどうかわからないんだよね〜」


 右手でお弁当箱を自分の脇のベンチに置きながら、結婚指輪をした左手で、ボブ髪を額から頭へかき上げる。


 だが、堂々たる態度で座っている中庭のベンチが、どこかの国の謁見えっけんにでもいるように、立派な玉座に座る皇帝のような先生。彼は組んだ足もそのままで、風格があるのに、純真無垢で春風のような柔らかさで、人生を語った。


「すれ違うなんて、ほんのいっときなんだよ。自分が好きなやつもこっちを好きなの。世の中、そういうもん」


 そんな話はなかなかお目にかかれないが、女子生徒たちは大きく首を縦に振り、納得の声があちこちから出始めた。


「確かにそうだね?」

「片想いで終わったって話聞かないね」

「別れたって話も聞かない」


 遠くの渡り廊下を、男の子と女の子の生徒が堂々と手をつないで、仲良く歩いてゆく。焉貴これたかが人差し指を斜め上にさっと上げると、その先の青空で、飛行機が銀の線を上から斜め下に向かって描いていた。


「でしょ? 心が澄んでるやつしかいない世界では、すれ違いは起きないの。自分に合う相手にしか本当にかれないんだからさ」


 この世界には、片思い、悲恋というものは存在していなかった。女子生徒に囲まれている男性教師の両側の渡り廊下。それどころか、中庭の他のベンチに座っている生徒たちもカップルだらけ。子供ながらも、永遠の愛に出会える、世界のようだった。


 セクシーに開いたシャツの襟から、鎖骨が見える先生の肩を女子生徒はトンと、元気よく叩く。


「さすが先生! 長く生きてるだけあって、いいこと言う」

「数学の先生じゃなくて、歴史でもよかったかもね?」


 他の女子生徒に同意を求めると、それを受けた子が話し出し、永遠にペチャクチャとおしゃべりが続いていきそうだった。


「あとは、倫理とかさ。数々の名言出しちゃってる――」


 そこで、先生から教育的指導が入った。愛妻弁当で浮かれまくっている女子生徒に話しかける、焉貴の声色は全ての人をひれ伏せさせるような威圧感のあるものに変わっていた。


「俺のことはこれくらいにして、お前たちは早く行きなよ。次、教室移動でしょ?」


 女子生徒の1人がやっちゃったみたいな表情で、ぺろっと舌を出して、肩をすくめながら、ふざけたように返事を返す。


「は〜い!」


 私服のヒョウの女の子が色っぽく微笑んで、カギ爪のついた手を悪戯っぽく顔の横で振る。


「じゃあね〜、先生」

「明日も見せつけてくださ〜い!」


 冷やかし。という言葉が女子生徒の1人から浴びせられると、箸が転んでもおかしい年頃。まさしくそれが似合うといったように、キャピキャピの笑い声が一斉に上がった。


「きゃははははっ!」


 黄緑色のボブ髪を持つ先生は、怒るでもなく、照れるでもなく、まるでアンドロイドのような無機質な心で受け止めた。そんな先生の山吹色の瞳から、後ろ向きで数歩離れていっては、すうっとその場から消え去ってゆく。大人たちと同じように、瞬間移動で女子生徒たちは。


「高校生って、テンション高いよね〜」


 ベンチに置かれたお弁当。それは、まるで夕日が映り込む湖の水面みなもに落ちて波紋を広げたような、オレンジ色の布の上で、愛という新緑の風に吹かれているようだった。その横で、少しだけたけが短めのピンクの細身のズボンが組み替えられると、紺のデッキシューズが軽薄的に動いた。


 ため息もつかず、袖口のボタンを全て解放した両腕を、ベンチの背もたれに羽を広げたように乗せると、素肌という裸の胸や背中に、さわやかさの象徴のようのな春風が、舌先でツーッとなめるように色欲漂う夜を連れてくるという、二面性がここでも起きていた。


「毎日、毎日、『先生、また結婚したの? ラブラブ〜?』とか騒いじゃって。好きだよね、あいつら、恋愛とか結婚とかさ、そういう話」


 女子高生の代名詞といってもいい話題。


 焉貴これたかは再生を止めていた音楽メディアを顔の前に持ってきて、山吹色のどこかいってしまっている感が思いっきりする瞳に、銀の長い前髪とスミレ色の鋭利な瞳を映しながら、アプリを終了させた。


「まぁ、配偶者が有名人だから、仕方がないのかも……」


 テレビに出ている人と学校の先生が結婚する。それでは、生徒が興味津々でちょっかいを出してくるのも無理はなかった。さっき渡り廊下で、孔明こうめい月命るなすのみことが見ている前で、女子高生からプレゼント攻撃にあっていた先生。まさしくこの人だった。


 チェーンではなく、細い黒革のペンダントのヘッドを、慣れた感じで手のひらですくい上げる。黄緑色のボブ髪と山吹色の瞳の前に現れた、それは銀の小さな円で、12個の数字が丸い顔を見せる時計。


(14時52分57秒。

 あと3秒で、チャイムが鳴る)


 秒針の右回りの小刻みなステップを、自分の頭という死角で、教室で授業の準備をして、大人しく座っている生徒たちの誰にもわからない位置で、カウントダウンを始める。


(3、2、1……)


 抜群のタイミングで、地球の11.5倍の広さがある学校の敷地内に、


 キーンコーンカーンコーン……。


 チャイムが鳴り始めた。瞬間移動で教室にやってくる先生が、各部屋の教壇の前にすうっと現れ、授業があちこちで始まった。


 人の気配がするのに静寂。不思議な空気が漂う中庭。緑の芝生の上に、花壇の花々に、桜の花びらと手をつないで吹いてくる風が、頬や髪、白のフリーダムなシャツをなでてゆく。焉貴はそれを味わいながら、まだ手に持っていた時計をじっと見つめていた。


(14時53分18秒から14時54分21秒の間には来てた。

 今日で105回目。

 今の時刻は、14時53分26秒。

 そろそろ来る)


 何かを待っていた焉貴の座っているベンチよりも少し離れた、左側の椅子の前にすっと人影が立った。それは、パステルブルーのドレスを着て、ガラスのハイヒール。まるで、城の立派な庭園で、午後のひと時をお過ごしですか? 的な服装をしたマゼンダ色の長い髪を持つ人だった。


 焉貴これたかの山吹色の瞳は思わず目を奪われ、組んでいた膝に肘を当てて、感心した吐息をもらす。


「そう……綺麗な女」


 あたりが学校の中庭ではなく、駅前の待ち合わせ場所にでもなった気がした。


「こうしちゃう!」


 軽いノリのまだら模様の声が響くと同時に、指がパチンと鳴らされた。すると、焉貴のすらっとした体はベンチからすっと姿を消した――――



 ――――マゼンダ色の髪は首の後ろで、もたつかせた感じでリボンに縛られていた。その人の膝の上には、女が長い髪を結い上げたように、キュッと色っぽく結び目ができた、水色の四角いものが置かれていた。


 大きな木の陰になるベンチと女らしいマゼンダ色の髪の後ろに、すっと人が立った。サーッと風が吹き抜けると、腰掛けている人が全生徒から見えないように、白の胸のボタン1つしか止めていないシャツがさらうように目隠しした。


 そこで、こんな言葉が、螺旋階段を落とされたぐるぐる感のある男の声で、軽薄的この上なく響いた。


「ねぇ? そこの彼女、俺と一緒にランチしない?」


 学校の中庭で、ナンパが行われていた。マゼンダ色の髪の持ちぬしは振り向きもせず、りんとして澄んだ丸みがありはかなげな女性的だが、男の声でこう返してきた。


「僕は女性ではありません。女装をしている小学校教諭です」


 女装する教師。

 ナンパする教師。


 そんな先生たちでも、学校にも保護者にもおとがめなく、仕事ができる世界。どうやら価値観がかなりずれているようだ。


 焉貴の白のシャツは前かがみになり、ベンチの背もたれに腕を乗せて、紺のデッキシューズは芝生の上で、軽く組まれた。男だと言っているのに、りずにこんなことをおねだりする。


「え〜? 俺といいことしよう?」

「どのようなことですか?」


 顔だけで振り返ったマゼンダ色の髪の持ち主は、月のような綺麗な顔と、邪悪、誘迷ゆうめいという名が似合うヴァイオレットの瞳を持っていた。焉貴の指先は、振り返った男のあごにそっと添えられ、ナルシスト的に微笑む。


「一緒に、お昼ご飯食べちゃうの」


 ムーンストーンのついた指輪をした手が、さりげなくセクハラをしている焉貴の手をつかみ取り、ポイッと投げ捨てた。


「4つ前と言葉は違えど、会話の内容は同じです」


 全然、めげない焉貴先生。高い声をわざと低くして、またナルシスト的に微笑んで、首をねんを押すように傾げた。


「そう? じゃあ、こうしちゃう!」


 パチンと指先が鳴ると、ベンチの後ろから一気に瞬間移動して、パステルブルーのドレスとガラスのハイヒールを身にまとった男の前。中庭の石畳の上に焉貴これたかはいた。


 王女さま、いや一応、王子さまに最敬礼というように、片膝をすっと地面へつけてひざまずき、右手を斜め上に上げ、華麗に左下へ降ろす動きをともなって、自分を指す言葉がいつの間にかすり替わって、キザさ全開で言ってきた。


るなすさま、私と結婚していただけませんか?」


 2人の左薬指にしているリングが、春の風に優しくなでられてゆく。月命るなすのみことから真面目にきっちりツッコミ。


「僕と君とでは、これ以上は結婚はできませんよ」


 お互い既婚者なのに、プロポーズする。分別の知らない子供並みに、はちゃめちゃな価値観。


 黄緑色のボブ髪がまるで子供が駄々をこねるように左右に揺れ、月命の結婚指輪をしている手をつかんで、仲良くお散歩みたいにブンブン横にブランコをこぐように揺らした。


「え〜? しちゃってよ〜」


 まだまだ、食い下がっている焉貴。しかも、孔明よりも、甘さダラダラの言い回しと声。女子高生にも負けずおとらず、ハイテンションな高校教師だった。手を握られている月命は振動で声が揺れた、凛として澄んだ丸みがあり女性的なそれが。


「なぜ、僕に毎日、こちらでプロポーズするんですか?」


 習慣だった。遅めの昼食をとる、男性教師2人の日常。しかも、お姫様にダンスの申し込みをするみたいなプロポーズ。


 この2人が生きている桁が違う、男2人なのだ。そのために、価値観がパラレルワールド並みに違っている。誰にもついていけなくなってしまうので、ここからは解説が少々多くなる。


 プロポーズの理由を問われた焉貴は、月命の顔に近づき、自信満々の笑みで、歯が浮くようなセリフを平気で言う。


「お前が綺麗だから……」


 学校の中庭で、男性教諭同士で、堂々の同性愛が展開されていた。だが、月命は握られていた手の上に自分のそれを乗せて、顔を近づけて、意味ありげに微笑む。


「僕をほめても何も出ませんよ」


 焉貴のどこかいってしまっているような山吹色の瞳は下に落とされ、膝の上に置いてある水色の包みのさらに奥を見るようにした。ヴァイオレットの瞳に再び戻ってきて、男の香りが思いっきりする声で、確実に女を落とすように微笑む。


「嘘。男だから出しちゃうでしょ? 射××して」


 学校の中庭で、教師が口にすると問題になる、R指定の言葉が急に入ったので、修正入っています。紺のデッキシューズが石畳の上でくるっと反転すると、パステルブルーのドレスのそばへ、ピンクの細身のズボンは腰掛けた。


焉貴これたかはいつでも破天荒はてんこうですね。そちらの話は生徒には聞かせられません」


 置き去りにしてきたお弁当箱は、服というオレンジの布を脱がされた状態で、焉貴の手の中にすっと飛んできた。不思議現象が起きているの中で、おかしな話がまた出てくる。まだら模様の軽薄でナンパな声で。


「お前もそうでしょ? 14年前はカエルのかぶり物して、学校来てたけどさ。何で、ここのところ、女装なの?」


 教師が被り物をする。それも、問題にならない学校。寛容な世界だった。だが、当の教師の口から出てきた言葉は、これだった。


「14年前はカエルでした。今は女装なんです〜」


 異種族と女装男子の設定、いやタグはついていなかったはず。だがしかし、月命るなすのみことのニコニコの笑顔という仮面の下に隠された、邪悪という策略で勝手に物語のジャンルが変更されかかっていた。焉貴先生がきっちり教育的指導。


「お前、言葉抜けすぎてて、変身したみたいになってんだけど……。はい、ほら、ちゃんと補足して」

「僕をモデルにした物語の中で、カエルと女装した男性になったんです〜」


 出演依頼にOKを出したために、カエルと女装という配役になったようだ。理由は明らかになったが、それを本当にやって、学校に来る小学校教諭。ナンパしてきた高校教諭からズバリ質問。


「それで、まわりの反応はどうなの?」

「こちらで子供たちに会うと、彼らが笑うんです〜。『先生、何で男の人なのに女の人の服着てるの? 面白い〜』っと言って。生徒たちが笑顔でいることが、僕の何よりの幸せなんです〜」


 だから、孔明の公演中に、大爆笑しようとしていた生徒がいたのだ。大人には手厳しい月命だったが、教師の鏡のように子供にはとても優しかった。マゼンダ色の頭に乗っている銀のティアラを、焉貴の指先がトントンと軽く叩く。


「だからって、趣味でも何でもない女装するって、どうなの?」

「僕は自虐的な性格なのでいいんです〜」


 女装の小道具が落ちてこないように、月命はしながら、さりげなく性癖が春風に舞った。会話が途切れ、遅めの昼食がお弁当のふたを取るという行為を合図にして始まる。


 黄緑色のボブ髪が頬をくすぐるそばで、どこかいってしまっているような山吹色の瞳には、カラフルなお弁当の中で、こんがりと焼けた茶色のものを見つけた。


「あぁ、今日も孔雀くじゃく印の肉入り……」

「そちらは、デパートにしか仕出しをしてないブランド品です。僕のにも入ってます」


 なぜか、同じメニューが入っている、月命るなすのみこと焉貴これたかのお弁当。校舎に四角く切り取られた青空を見上げると、銀の飛行機が離陸したところだった。ゴーッという音がする、さらに遠くを気をかける。そうして、皇帝で天使で大人で子供で純真で猥褻で矛盾だらけの声で、こんな名前が出てくる。


「アッキー、どうしてるかな? 今頃」


 またおかしい。焉貴と明引呼あきひこは元、担任教師と保護者。それなのに、呼び捨てどころか、ニックネームの仲になっていた。月命が普通に話し出したので、ここはスルー。


「先ほど、孔明こうめいがちょっかいを出しに行ったみたいです〜」


 なぜか、バレている、明引呼と孔明の密会。焉貴はお弁当から、自分の好みではないものは、どんどん地面へはしで落としてゆく。


「どうしてわかんの?」


 個性的な斜めに巻きつくバングルをした左手で、プチトマトを綺麗な唇から中へ入れる。女装のため、ピンクのリップスティックを塗っている、月命の口の前にも、赤い小さな丸があった。


「さっき、控え室に瞬間移動しようとしたら、到着点の孔明こうめい明引呼あきひこのいる惑星にいたんです。わざと、僕にわかるように、時間に遅れたみたいです」


 瞬間移動は魔法ではないようだ。人もしくは物の場所がわからないと、そこへ行ったり持ってきたりできないらしい。だから、親切な誰かが瞬間移動で持っていった、独健のお弁当箱は自分に引き戻せなかったのだ。中継点が入ると、自分の管轄かんかつではなくなってしまう。


 さらに、孔明の罠、ここで全て回収。2人の話題作りのためだったが、焉貴先生の綺麗な唇から出てきたこんな言葉で、一気にナイトモードへ変わった。


「キスでもしてたんでしょ? それとも、ぼ××もしちゃった〜?」


 また、R指定の言葉が急に入ったので、修正入っています。そこは描写がなかったので、何とも言えないが、当人たちの申請次第では、あったかもしれない。可能性はゼロではないだろう。


 小学生が背後で、真面目に授業を受けている、すぐ近くの中庭で交わされる大人の会話。不道徳に思えるが、ここはきちんとした理由があと出てくるので、スルー。


 だが、月命先生のお怒りは頂点に達していた。自分が口説いたはずの男と、抜け駆けして会いにいっていた孔明。閉じられていたまぶたが、地獄への扉が開くように開き、邪悪というヴァイオレットの瞳が姿を現した。


 飛んでいたちょうちょが色をなくし、パタッと即死させ地面に落としたような、冷ややかで重厚感があるのに、ニコニコの笑顔で、よい子のみんなのために大人の時間の出来事を阻止した。


「そちらより先に進んだ時には、僕のお仕置きが待ってます〜」


 今履いているガラスのピンヒールで踏みつけ、ムチを次々に振るうのに、ニコニコとしている月命るなすのみことが容易に想像できる。だが、焉貴これたか先生は全然気にした様子もなく、今度は右手でチェリーをつかみ、綺麗な唇で女の体にかじりつくように実を砕いた。


「お前、何でも最後にそれつけて、話持ってくよね?」

「うふふふっ」


 返事がなく、微笑みだけだからこそ、怖さが増す、月命のお仕置き。器用にチェリーのへたを舌で結び目を作った焉貴は、コールスローを今度は左手ですくい上げた。


「それで?」

「えぇ、今日も独健どっけんの行方について、孔明こうめいと約束してきましたよ」


 独健への鎮魂歌レイクイエムだったらしい。あのさわやかで元気な彼の身に危険が迫っているようだ。だが、焉貴のどこかいってしまっているような山吹色の瞳は、マゼンダ色の髪と月のように美しい頬を見つめていたが、


「お前と孔明、本当に好きだよね、それ。まぁ、私も便乗させていただきます!」


 パッと右手をチョップをするような角度で上げた。言葉の後半が血も涙もないどころか、無邪気な子供が遊びの仲間に入ると言ったように、罪の意識など微塵みじんもなかった。


「ぜひ、してくださいね〜」


 小学校教諭、月命のニコニコの笑みが、独健を地獄へといざなう。ひまわり色の短髪と、はつらつとした若草色の瞳の持ち主の運命に暗雲が立ち込めていた。光というものを抹消し、黒一色にするように。


 小鳥たちの止まり木にされている大きな木の下で、生徒が発言する声が時々聞こえる中、マゼンダと黄緑の髪は、仲良くベンチに座って、ランチを楽しんでいた。


 愛妻弁当がそれぞれの膝の上に、1つずつ。焉貴のどこかいってしまっているような山吹色の瞳に、青みがかった銀色を身にまとったおかずが映っていた。持っていた箸をパッと、月命のパステルブルーのドレスの前へやった。


「これ、ちょうだい!」

「僕の妻が作ったサバの照り焼き……返してください」


 月命の箸が鋭く向かってゆく、焉貴の頬のラインギリギリを狙って。だが、到達する前に、紫の宝石のような楕円形だえんけいのものが行く手をはばんだ。


「じゃあ、代わりにこれあげちゃう!」


 桜舞う風の中で、伸ばしていた箸を持つ手を止めた。ヴァイオレットの瞳はすっと姿を現し、珍しく真顔になる。


「スマイルマスカット……そちらは君の好物ではありませんか?」


 焉貴はナルシスト的、いやホストみたいに微笑んで、まるで真っ赤なバラの花束を女性にプレゼントするように言った。


「そう、これが俺の愛。受け取って〜?」


 2人の膝の上にあるのは愛妻弁当。月命から焉貴に即行ツッコミ。


「事実と違ってます。君の奥さんの愛を君を間にして、僕に渡したんです」

「そう。で、あ〜んする?」


 短く肯定した上で、月命るなすのみことの唇に塗られているピンクのリップスティックを、ぬぐい取るようにマスカットで触れたと思ったら、自分の唇に間接キスさせて、男の色気漂う、高い声をわざと低くした声で意味ありげに聞く。


「それとも……口移し?」

「こちらのままいただきますよ」


 宝石のように異様に輝く山吹色の瞳の下で、口寄せさせられているマスカット。ムーンストーンの指輪をした手で、無慈悲にすっと引き抜かれた。空振りにされたラブモーションを前にして、焉貴これたかのピンクの細身のズボンが、石畳と芝生の上でジタバタする。


「え〜? 普通に手で持っていって……俺、泣いちゃう〜」

「…………」


 月命は軽く無視して、好物のサバの照り焼きを堪能していた。なぜなら、自分の隣に座る、ナンパで厳格で皇帝で天使で大人で子供で純真で猥褻で、矛盾だらけの男が涙を流すなど、世界が崩壊してもありえないからだ。


 座っていたのにピョンと飛び上がって、黄緑色のボブ髪がふわっとベールのように円を描く。様々な相反するものが混じるようなまだら模様の声がはじけた、授業中で静かな中庭に。


「うっそ〜! 俺、感情持ってないから、泣かないっていうか、泣くっていう言動がわかんないの」


 焉貴の表情はそれを如実に表すように、アンドロイドみたいな無機質なものに変わった。お弁当は一瞬消えたが、再び座り直した焉貴の膝の上に無事に戻ってきていた。


 月命は珍しくクスッと笑う。


「君は子供と変わりませんね」


 学校の中庭。生徒や他の教師の視線がある場所。教師同士。男同士。妻子持ち同士。それでもこの距離を崩すものがある。まるで相手に手を伸ばすように、マゼンダ色の長い髪は春風でそよそよと揺れて、隣にいる男の白のシャツをくすぐる。


「そう、俺、少年の心を持ったまま、大人してんの。だから、高校教師やれるんでしょ?」

「小学校教諭でもよかったかもしれませんよ。5歳児と言動が同じです」


 やはり手厳しかった、月命は。だが、対する、焉貴は螺旋階段を突き落としたようなぐるぐる感のある声で、甘さダラダラで聞き返す。だが、体の部分の名称を、そのまま言ってしまうので、修正が入ります。


「え~? 俺さ、こういう性格じゃない? ガキのことも大人のこともフラットだから、女にも俺のペ××、君のち×に入れようか? とか平気で言っちゃうから~。大きいガキの方が合うと思って、初等部から高等部に行ったんだよね」


 焉貴先生の転入理由は卑猥ひわいすぎた。だが、どうやっても、彼から猥褻わいせつな言葉を外すことはできない。それは、焉貴の性格、性質だから、抜かしてしまったら、彼ではなくなってしまうのだ。


 しかも、今こうやって、一緒に話しているのと大人の情事が、同じ『仲良し』というカテゴリーに焉貴これたかの中では入っている。思春期の男の子がニヤニヤしたいがために、わざと言っているのとは全く意味が違う。


 色欲という言葉など知らないとばかりに、焉貴は普通に口にする。彼の心は言うならば、こうだ。神聖という名の純真無垢。これが、一番正しい。


 もらったスマイルマスカットを食べた月命るなすのみことが、漆黒の長い髪と瑠璃紺色の瞳を持つ男と焉貴にまつわる話を持ち出した。


孔明こうめいの結婚話の時はいじけた子供みたいになって、まわりが大変でしたが?」


 さっきまでハイテンションだった数学教師。彼のチャーンピアスは珍しく元気をなくして、ため息混じりに言った。


「だって、あれはそうなるでしょ?」

「どうなるんですか?」


 月命に聞き返された焉貴の話で、世界の常識という壁がガラガラと崩れ去ってゆく。


孔明こうめい、10年以上、結婚しなかったんだよ? それなのに、急に結婚するって言って、俺、ショックでショックで、毎日へこんでたんだから~。俺に膝枕してくれてたのに、結婚したら、それ、できなくなっちゃうでしょ?」


 ここは色々突っ込みがいがある。孔明が結婚しようとしていたのは普通。よくある話だ。仕事が忙しくなるからしたとも言っていた、本人が。


 あの好青年で陽だまりみたいな軽めの声の持ち主が言っていた、『彼』の1人は焉貴のことのようだ。キスされた人ではなく。


 しかし、焉貴と孔明は親友であって、膝枕をするような、深い仲ではなかったはず。話がおかしいようだが、ここは焉貴の螺旋階段を突き落としたぐるぐる感の惑わせるという雰囲気でスルー。


 そうして、凛とした澄んだ丸みがあり儚げな女性的な声を持つ、月命からもおかしな話が出てきた、チェリーのへたを外しながら。


焉貴これたかは、何度も結婚してるではないですか?」

「僕~? そう、あの時は3回してたね~」


 焉貴はナンパするような軽薄な様子で、他の人が首を傾げてしまうようなことを平然と言った。する人も世の中にはいる。だがさっき、女子生徒が言っていた、別れたって話は聞かないと。ここは、2人の生きている時間が長すぎて、価値観が違うということでスルー。


「君は膝枕できて、孔明こうめいができない差はどちらにあるんですか?」


 コールスローにフォークを刺した月命の質問もおかしかった。確かに、結婚している焉貴が孔明に膝枕をしてもらって、孔明が結婚したら、できなくなるという。全く筋の通っていない話。


 だが、当の本人は真剣そのもので、こんな子供みたいな理由を口にする。黄緑色のボブ髪をくしゃくしゃにしながら、焉貴は。


「結婚してない孔明こうめいが好きだったの」


 独身でなくなることにご傷心しょうしん、ハイテンション数学教師は。当然の意見が、小学校の先生からやってきた。


「自身は結婚しておいて、相手を理解しないとは、君らしくありませんね」

「それだけ、本気だったの」


 個性的なバングルをしている手で、丸チーズをポンと口の中へ投げ入れた。何に本気だったのか。かなり気になることを言った焉貴これたか。だが、対する月命るなすのみことから出てきた言葉は、これだった、丸チーズを口元へ運びながら。


「そうですか」


 ただの相づち。いや、ここは追求してほしい。愛妻弁当を作ってもらえるほど家庭円満な既婚者が独身の男性に本気? 今までの話をつなぎ合わせると、孔明が落ち込んでいる焉貴を助けるために、誰かというか『彼』にキスをした、ということになる。あの天才軍師、一体何をしてくれたのだろうか。


 春風に連れられた桜の花びらが、お弁当の上にフワッと舞い降りる。2人のその中身は、サバの照り焼きとスマイルマスカットが違うだけで、まるっきり一緒だった。まるで仕出しのお弁当のように。


 オレンジのさわやかな香りが、影で濃くなった芝生の緑の上に、さわやかに弾け散った。


「結婚って言えばさ、お前のあの話って伝説だよね~?」

「どちらの話ですか?」


 お弁当を包んでいた布に、柑橘系の香水をつけるように、焉貴は指についてしまった汁をく。あきれ気味なまだら模様の声が、おかしな話を再び持ち出してきた。


「またとぼけて……。ルナスマジックとか言われちゃってたんでしょ? お前って」


 月命は食べていた手を止めて、ムーンストーンの指輪は人差し指を立てて、こめかみの近くまで連れて行かれた。ニコニコ笑顔のまま、首を傾げる。


「そちらは、僕も少々困ってたんです~」

「どう困っちゃったの~?」


 レタスのシャキッとした食感を楽しんだ焉貴の質問に、月命の衝撃の過去が語られる。平和で穏やかな学校の中庭で。


「会う女性、会う女性、全員に結婚を申し込まれてしまい、大変だったんです~」


 モテモテどころの話ではなかった、女装している小学校教諭は。お腹がいっぱいになった焉貴は、お弁当箱に残っている食べ物を、すうっと頭上に投げて、瞬間移動をさせ、自分たちのまわり、芝生や石畳の上にまき散らし始めた。


「お前、何かの罠しかけたんでしょ?」

「こちらに関してだけはしてませんよ~」


 マゼンダ色の長い髪がリボンと一緒に横へゆっくり揺れた。だが、その言葉の裏は、標準装備で罠を仕掛けている、になる。


 しかし、ルナスマジックの話はこれだけにとどまらず、飽きてしまったお弁当箱を、個性的なバングルをする手で、ベンチの脇へ置いた。


「女が気絶しちゃったって話は?」

「そちらは根も葉もない噂です。尾ひれがついたんです~」


 火のないところに煙は立たない。そんな言葉がある。今も隠れているヴァイオレットの瞳の持ち主は、孔明に負けず劣らず策略家。


 黄緑色のボブ髪を持つ人の雰囲気が一瞬にして変わった。さっきまで無邪気な天使だったのに、全ての人々をひれ伏させるような皇帝の威圧感になってしまった。山吹色の瞳は、月のような綺麗な横顔に、たった一言告げる。


「嘘」

「おや? バレてしいましたか~」


 おどけた感じで言った、月命るなすのみことは。さすが、策士。勝つためなら、嘘でも何でもする、だった。


 だが、人が倒れている、危険な事態。しかし、この世界のルールが当たり前のように出てくる、黒板に先生が書くチョークの音に、螺旋階段を突き落とされたぐるぐる感のある声が混じり合いながら。


「お前、この世界は怪我しないからいいけどさ、何人、気絶させたの?」

「77名の女性が倒れましたよ。ですが、僕は何もしてませんし、特別な感情も抱いてません。しかしなぜか、彼女たちが勝手に倒れたり、プロポーズしてくるんです~」


 別の意味でも、要注意人物だった、月命は。その男の肩を抱くみたいに、ベンチの背もたれに、ラフにボタンを全て外している袖を持つ白のシャツの腕が横たわった。


「今でもそうなの?」

「女性に関しては、結婚したと同時に、パタリとやみましたよ」


 だがしかし、ルナスマジックはこれだけにとどまらなかった。自分の腕の中で、パステルブルーのドレスと銀のティアラ、ガラスのハイヒールで女装。妻の作ったおにぎりを食べている男のまわりで起きている摩訶不思議ミラクルは。


「お前の特異体質って、それだけじゃないでしょ? 朝、正門のところで、女と話してた。あれは何してたの?」


 まだ終わっていなかったのか、プロポーズ大作戦は。だが、月命のヴァイオレットの瞳はニコニコというまぶたの裏に隠されたまま、マゼンダ色の長い髪をゆっくり横に振る。


「あちらは違いますよ」

「どう違うの?」


 おにぎりの中に入っていた鮭を発掘したところで、食べるのをやめて、ゆるゆる〜っと語尾を伸ばしながら、どこかで聞いたことがある話を始めた。しかも、また3人称で。


「彼に頼まれたんです~。お花畑でランララ~ン♪あんで、限定5個のどら焼きを買ってきてほしいと。ですが、僕は仕事ですから、どうしようかと考えてたんです~」

「で、どうしたの?」


 焉貴これたかは手のひらで、時計のペンダントヘッドをポンポンと投げては落とすを繰り返す。ピンクのリップスティックが塗ってある月命るなすのみことの口から出てきた言葉は、やらせですかと聞き返してくなるような内容だった。


「代わりに買ってきてくださるという女性が偶然いらっしゃったので、お願いしました」


 風で頬乱れついた黄緑色のボブ髪は、頭でプルプルと横へ振られ、軽く指先で直された。


「お前また、知らない女に物頼んで」


 赤の他人に頼み事をする。何だかおかしいみたいだったが、ここはルナスマジックということでスルー。月命はニコニコで微笑んだ、策略ではなく、ただただ普通の、いや本人の知らないところで、不思議な現象がいつも抜群のタイミングで起きることによって。


「うふふふっ。そうなんです~。会ったこともない方だったんですが、なぜか僕の願いをぜひ叶えてくださるとおっしゃったので、お願いしたんです~」


 何もしていないのに、全く知らない人が願いを叶えてくれる。見返りも要求されない。そんな恵まれた素晴らしい世界の中で、月命は生きていた。


 ピンクの細身のズボンは片膝をベンチの上に乗せて、焉貴は寄り添うように月命に半分身を乗り出した。


「それで、どら焼きはどうなったの?」

「ある女性から聞いた情報によると、5人ほど間を経由して、貴増参たかふみにはきちんと届いたそうです~」


 独健が不思議がっていたどら焼きの行方のカラクリはこうなっていた。貴増参が言っていたが、人のものを勝手に持っていく人はいない、この世界。だからこそ、ありえる物流。


 蛇のように斜めに巻きつくバングルが木陰の鈍い光の中で優しげに縦に動く、マゼンダ色の髪をスースーとなでたために。


「別の意味で、お前、人脈広いよね〜」

「世の中、親切な方がたくさんいらっしゃいますね~」


 呑気のんきというか、特異体質というか、平和に穏やかに、月命は言うと、お弁当箱を元へ戻し始めた。ふたを閉めて、水色の包みを縛り直す。それは開ける前、女が長い髪を結い上げたような色気が漂っていたが、今は生徒のために女装をしている男の手で、いつもと違って、女らしくわかれた。


 焉貴は両足のかかとをベンチの上に乗せる、子供が膝を抱えて座るように。


(今から、9個前の会話の彼……は、あれのこと)


 そうして、数学の教師も精巧な頭脳を持っていることが明らかになる。


孔明こうめいも孔明だよね。こいつの特異体質知ってて、わざとこいつに頼んだんだからさ」


 普通は忘れてしまう、月命が彼に頼まれたと言ったことなど。貴増参とルナスマジックの話がぶっ飛んでいる間で、惑わされ混乱させられて。だが、数式並みに、規律を持ちデジタルだった、焉貴の頭の中も。


 思考回路という心の内に近い部分で、隣に座る男とつながっていることを感じ、ガラスのハイヒールは石畳の上を少しだけこすった、足を前後に揺らして。


「うふふふっ。さすがですね〜。君も彼に負けず劣らず、頭がいい。孔明が犯人だと断定するんですから……」


 紺のデッキシューズは組み換えされると、衣擦れと石畳をる音が響き渡った、人の気配はたくさんあるのに静寂。まるで深い森の中で様々な生き物の視線にさらされているような中で。


「少し考えればわかるでしょ? こんな策略してくるやつが誰かってことぐらい。罠を張る人間は4人しかいない。そのうちの2人はここにいる。残り2人。優雅なあれは、今、活動休止中。だから、本人が行く可能性が98.77%。だから、孔明になる!」


 語尾だけ、真上にピョンとジャンプしたように飛び跳ねた。明引呼あきひこが言っていた、時間を計ってくる人は4人。その人たちが罠を張ってくるようだ。だがしかし、マゼンダ色の髪の中に隠された、全てを記憶する脳裏に、あのカーキ色のくせ毛と優しさの満ちあふれたブラウンの瞳がボケという名前でよみがえった。


貴増参たかふみも時々、策略してきますよ〜」

「まあね、だから、一番頭のいい孔明に頼んだんだろうけど……」


 限定5のどら焼き。自分は仕事。どうやって手に入れるか。それを成功させてくれる可能性が一番高い人物は孔明ということになる。しかも、孔明は明引呼へのラブレターと交換条件にして、願い事を聞いている。策の応戦だった。


 それぞれの愛妻弁当に囲まれながら、青空を見上げる、月命るなすのみことも焉貴も。しばらく2人の間に会話はなく、かすかに聞こえてくる生徒や教師の声、椅子を引く音などに包まれていた。


 2人の静寂はどこまでも続いていくように思えたが、焉貴が黄緑色のボブ髪をぐしゃぐしゃにしたことで破られた。


「それにしても、お前って、人生、自分の思う通りに動いてくよね?」

「ですが、1つだけ、僕の思う通りにならないことがありました」


 焉貴が右を向くと、ニコニコというまぶたにいつも隠されているヴァイオレットの瞳が姿を現していたが、自分が履くガラスのハイヒールに視線は落ちていた。


「そう、どんなこと?」

「僕は同じ職場のある人が好きでした。ですが、そちらの方は高校教諭がいいと言って、移動してしまったんです。ですから、僕の気持ちは伝えられませんでした」


 凛とした澄んだ丸みのある儚げな女性的な声が言ってきた内容は、今ここにいない誰かの話をしているように聞こえていた。だが、隣にいる男は、小学校の算数の先生から高校の数学の教師になった人物。


 焉貴の個性的なバングルをした肘は膝の上につけられ、綺麗な頬を乗せて、男の色気がする声で、ナルシスト的に微笑んだ。


「それ、俺のことでしょ? お前、誘ってんの?」

「そちら以外、何があるんですか?」


 月命がガラス玉みたいな透き通った声で聞き返すと、強い春風にサアッと桜の花びらが一斉に舞い上がった。さっきまで一度も出会うことのなかった、ヴァイオレットと山吹色の瞳はとうとう、学校の中庭で一直線にまじわってしまった。お楽しみの時間が到来。


 月命と焉貴これたかは黙ったまま見つめ合う。まるで、2人だけ空間を切り取られ、別の場所へ連れ来られてしまったように。美しい湖畔で、ふと途切れた会話と歩み。


 お互いのマゼンダと黄緑の髪を服を、吹いてくる風の口笛のようなヒュルヒュルという音が2人を一緒に包み込み、透明なリボンをかける。


 ラブロマンスも顔負けないい雰囲気。だったが、ハイテンション数学教師の神聖で純真無垢な言葉で、がっつり崩壊した。月のように美しい頬のラインを、男の指先でなめるようになぞる。


「そう。キスがいいの? それとも、フ××? それとも……セ×××?」


 行為の名前がそのまま出てしまったので、修正入っています。月命は再び真正面の教室たちを眺めて、焉貴の手をつかんで下にポイッと落とした。


「こちらは学校です。どちらもしませんよ」


 焉貴も前に向き直り、ピンクの細身のズボンで足を組む。


「自分で仕掛けておいて、お預け……。お前、本当にドSだよね? こういうところではさ。プライベートはドMなのに……」

「僕たちは教師です。生徒にキスなどをしてるところは見せられませんからね」


 確かな正論。誘っていたのに、何だか矛盾しているようだったが、後ろ髪引かれることもなく、焉貴は気持ちをズバッと切り替えて、右手をサッと上げて、こんなことを言った。


「そう? なら、いいけど……今の話、没収させていただきます!」


 お楽しみのバトンリレーが、ここで途切れそうになっている。ヴァイオレットの瞳は焉貴に向くことはなかったが、おどけた感じで言って、罠の匂いが思いっきりするようなことを口にした。


「おや? そうきましたか。それでは、こうしましょうか〜」

「どうするの〜?」


 焉貴は両利きの手でマゼンダ色の長い髪をもてあそぶ、まるで恋人にするように。誘っていたわりには、さらに遠ざかる内容が、凛とした澄んだ丸みのある儚げで女性的な声で中庭に舞った。


「僕は君とは永遠にキスをしない、です」


 石畳の上で紺のデッキシューズは軽く組み直され、背もたれにぐっともたれかかり、視界は完全に校舎に切り取られた青空と、影という憩いの場所を作る木々の葉だけになった。


「お前、本当にドSだよね? 無限に永遠なんだけど、この世界って」


 ただの永遠ではなく、無限に永遠。終わりが来ないらしい、この場所は。そんな世界の学校の中庭で、月命るなすのみことの含み笑いがこんなことを言ってくる。


「うふふふっ。君とはプライベートです」

「ドM……」


 山吹色のどこかいってしまっているような瞳から空は消え失せ、マゼンダ色の長い髪がすっと大きく入り込んできた。耳元に唇を近づけて、教師同士のいけない昼休みがささやかれる。


「お前、俺にどうされちゃいたいの?」

「君の望むまま、どうにでもしてください」


 パステルブルーのドレスは自ら拘束を選び取った、かろうじて着ているような白のシャツの前で無防備に。一方的なキスが始まりそうだったが、焉貴これたかはナルシスト的に微笑んで、指をパチンと鳴らした。


「そう。じゃあ、こうしちゃう!」


 2人の顔の間に、ライムグリーンの四角いものがいきなり出てきた。不透明のもので、月命と焉貴の視線はそれにさえぎられ、今お互いに見えなくなっている。その正体を戸惑い気味に、凛とした澄んだ丸みのある儚げな女性的だが男の声が口にする、向こう側で。


「……下敷き。そちらはどうしたんですか?」


 2人の間を区切っていた四角いものはすうっと持ち上げられ、青空とライムグリーンを重ねるようにしながら、どうして今これを持ってきたのかを、焉貴はチェーンピアスをサラサラとさせながら言う。


「これね、生徒が僕にくれたの。結婚祝いにって。これ使って、目隠しにして、俺とお前の2きりの世界で、いらやしくて甘いキスしちゃう。どう?」


 再び、下敷きは2人の視線をさえぎる障害物となった。だが、その向こうから、邪悪という名がよく似合う含み笑いが聞こえてきた。


「うふふふっ。焉貴これたか、僕の罠にはまりましたね? 先ほど、下敷きをもらってるのを、渡り廊下で見てましたよ」


 孔明と話している時、四角いものが見えていたが、それは下敷きだったのだ。だがしかし、すっと下に下されたそれの向こうでは、もうすでにキスができるほど近くに寄っていた、焉貴の綺麗な顔があった。高い声をわざと低くしたようなそれで、吐息がかかる位置で意味ありげに、ホストのように微笑む。


「嘘。るなす、俺の罠にお前がはまったんでしょ? 負けることが好きなくせに……」

(俺がお前にキスしたいようにしかけてたんだけど……)


 ピンクのリップスティックを塗った唇がおどけた感じで動く。


「おや? バレてしまいましたか~」

(君に待てなくさせられたんです~)


 焉貴のデッキシューズは石畳を離れ、右膝はベンチの上に立てて乗せられた。左足はパステルブルーのドレスの上をまたいで、水色のお弁当箱の近くに落とされる。まるで月命るなすのみことを上からおそうような体勢になって、下敷きで教室も生徒たちもシャットアウト。


 パラシュートがまわり落ちてゆくように、焉貴これたかの唇が月命のそれに近づいてゆく。


「じゃあ、目閉じて、いくよ」


 自分へ向かって、重力に逆らえず落ちてきている黄緑のボブ髪を、結婚指輪をした左手で引き寄せる、十六夜いざよいというみやびな響きの月へきぬごろもで連れてゆくように。


「えぇ」


 ヴァイオレットと山吹色のそれぞれの瞳が焦点が合わないほど大きくなると、慣れた感じですうっと閉じられた。急に吹いてきた桜の花びら混じりの春風が通り過ぎてゆく中、下敷き1枚という目隠しの中で、2人の唇は甘くいやらしく出会った。遠くの空で、他の宇宙へ行く飛行機が離陸する、ゴーッという音を雨のように降らせながら。


 焉貴の体重がかかるキス。それを受け止めるような格好になっている月命の心は、まるで壊れてしまったみたいに、同じ言葉がリピート。


(僕を、僕を、僕を、僕を……これからも君の唇に誘ってください)


 完全に優勢の体勢の焉貴は、押し倒しそうな境界線の上で絶妙なバランスをたもつ。しかも、ベンチの上に両足とも乗せて、地に足がついていない不安定感が、風で上空高くへ巻き上げられる風船のようだった。


(お前のキス、キャンディみたいに甘い。

 頭、クラクラして意識飛んじゃいそう……)


 お互いの唇からはさっき口にした、フルーツの甘酸っぱい香りがれていた。禁断の果実をあと少しでかじってしまうような、魅惑的なキスの感触に酔いしれる、下敷きという目隠しが作った2人きりの世界で。


 だが、月命と焉貴の真正面にも教室はある。もちろん生徒と教師がそこにもいる。いわゆる、丸見えだった。驚きの声が上がるかと思いきや、ピューピューと指笛や拍手が巻き起こっていた、なぜか――――



 ――――アクロバティックなキスは校内の半分の人間は見ているという、下敷き1枚では隠しきれない、大幅なはみ出しの中で時を刻んだ。


 宝石のように異様に輝く山吹色の瞳は、中庭を取り囲むようにしている教室で、授業を受けている子供たちを見渡す。


「それにしても、今日、欠席の生徒多いね」


 少しずれてしまった銀のティアラを手で直しながら、月命は当然というように答える。


「武道会が開催されてますからね。そちらの時は、観戦で休む生徒は多いです。もう14年前からの現象です」


 他の宇宙から観戦客が来るような大きな大会。見たいと思う生徒も大勢いる。焉貴はピンクのズボンのポケットから携帯電話を取り出した。


「お前、たかからのメール読んだ?」

「えぇ、読みましたよ。1回戦敗退だったと」


 ムーンストーンの指輪をしている手に、電話が瞬間移動で現れ、焉貴が見ているものと同じ画面が映し出されていた。


 誰かが負けた。独健や明引呼たちは、物憂ものうげな顔をしていたが、さっきからパラレルワールド並みに、価値観が違うこの2人はまったく気にしていなかった。焉貴これかたは携帯電話を手の中てポンポンと投げ遊ぶ。


「まあね、世の中長いからさ、全体的な歴史が。だから、心理戦が要求される武術って、難しいよね?」


 ニコニコというまぶたにもう隠されてしまったヴァイオレットの瞳。人差し指をこめかみに当て、小首を傾げると、マゼンダ色の長い髪がサラッと動いた。


「そうですね〜。僕たちの年齢ぐらいでしたら、多少は歯が立つかもしれませんが……」


 何年生きているのだろう、この2人は本当に。4桁ではないのは確かだ。明引呼の言っていた話と今交わされている会話からすると。


 焉貴のピンクのズボンはさっとベンチから立ち上がり、脱がされたままのオレンジ色の布のお弁当箱は取り上げられた。


「俺、あれのとこに行くから、先に帰るよ。お前は?」


 振り返った山吹色の瞳に、ヴァイオレットの瞳が少しだけまぶたから解放された。


「僕もこのあとは授業がないので、少ししたら帰宅です〜」


 あんなにキスで盛り上がってったわりには、ドライすぎるほど、あっけない去り際で。焉貴のまだら模様の声は素っ気なく言って、


「そう、じゃあ」


 チェーンピアスの銀の線を残像にして、瞬間移動でいなくなった。


「えぇ」


 しばらく、1人きりの中庭で、風に吹かれていたマゼンダ色の長い髪。やがて、パステルブルーのドレスを着たお姫様という女装をした小学校教諭は、春の香りに包まれた中庭からすうっと消え去った。

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