先生と逢い引き

 恋の微熱のように吹いていた夏風が、流れ落ちるようにすうっと消え去ると、目の前に現れたのは、小学校の校庭だった。さっきまでサッカーをしていた子供たちの姿はどこにもなく、使っていたボールもゴールまでも、なぜかきれいになくなっていた。


 レースのカーテンが開けられる、孔明こうめいの白い着物の袖をともなった、大きな手のひらで。どこかの美術館かと勘違いするほどの、曲線美を持つ校内への上り階段が広がる手前で、さっきからずっと隠し持っている銅色の懐中時計を、瑠璃るり紺色の聡明な瞳に映し出す。


(13時28分06秒……。

 あ〜あぁ、約束の時間に遅れちゃった。

 13時33分から、講演会がスタート。

 それに間に合うように、28分に迎えにくるって言われてたのに……。

 06秒遅刻……)


 失敗したみたいな心の内だったが、孔明は春風がスキップするように楽しそうに笑った。


「ふふっ。な〜んちゃって。嘘かも!」


 控え室として案内された、応接セットのローテーブルへ振り返った。漆黒の長い髪をサラッと揺らしながら。そこに、どんな強い雨風にも負けない大きな岩のようにじっと動かないお弁当箱がいた。


 その結び目は、最初は女の長い髪を結い上げたような色気を漂わせていたが、今は美しい筆文字を書くほど器用な手を持つ、孔明の男の色香いろかに取って代わっていた。


「ボクのこと迎えに来ようと1回したかも? あの男の先生」


 約束の時刻を過ぎているのだから、その可能性は大。しかも、瞬間移動をして別の惑星に行って、席をいきなり外してもいるため、さらにその可能性は上がる。


 窓に再び振り向くと、眉目秀麗びもくしゅうれいな自分のキリッとした眉尻と、どこまでも広がる氷の湖のように冷たい雰囲気がガラスに映り広がった。


「恋愛で相手を振り向かせる。それを成功させるためには、余計な感情は捨てる。今の罠の最終目的はこれ。明引呼あきひこからキスしたいと思うようにさせて、すること」


 ここで明らかになる、孔明がさっき話した、あの甘々で砕けた感じの言葉が全て罠で、何1つ無駄がなかったことに。ここからは、理論武装になるので、少し話が難しくなる。


「それをするために、ボクは具体的にこうした」


 銀のチェーンブレスレットを、指先でくるくると回しもてあそび始める。


貴増参たかふみはボケてるところがある。罠を張る時がある。そうすると、明引呼あきひこにラブレターのぬしが誰か告げないで、仕事に戻る可能性が高い」


 すうっと手に戻ってきた、閉じたままの紫の扇子せんすを縦にして、先を唇に当て、紙の少し痛いくらいの感触を感じながら、口を動かす。


「明引呼は挑発的なところがある。ラブレターの主がわからない。そうなると、探そうとする可能性が高い。そこへボクが電話をして、ボクだと告げる。明引呼の興味はボクに自然と向く」


 両脇に追いやられたレースのカーテンを、扇子の先端でなぞり、繊維に引っかかりもたつく、わざと崩したリズムを刻む楽器の音色ねいろのように、それを楽しむ。


「でも、それだけじゃ、明引呼あきひこの心をボクに向けることは少し難しい。だから、わからないことを放置したくない明引呼が、未だに知らないことを聞いてくるように話を仕向けた。その答えをおとりにして、興味をさらにきつけるために」


 今でもジリジリと線香花火のような熱を発している唇を、指先ですうっと何度もなでる。


「だけど、気をつけないとけないのは、キスをすることから遠くならないように話すこと。だから、ボクの話す内容にはずっと色がついてたんだ」


 感情など切り捨てている、孔明は。色欲も感情に属するもの。それを言ってくるのはおかしいのだ、本来なら。唇を軽くトントンと叩くと、薄手の白い布を大きくとった袖口は、濡れた髪をかき上げる女のような色気を振りまいた。


 今は春で、いくぶん色 せている青空を見上げたが、さっき男とキスをしてきた、あの惑星の姿をあおぎ見ることはできなかった。夜になれば、一番近くの輝く星として、人々を魅了するのに。


「そうして、明引呼あきひこのキスをしたいっていう気持ちを2回確認した。でも、隣の惑星で離れてて、会いにいけない。お互い仕事中でもあるしね」


 あとでと、2回言っていた、明引呼は。あれは相手が断っているが、孔明にしてみれば、上記の意味になる。全て計算の上で次はこうした。小学校でこれから講演会を行う、大先生は。


「そこで、ボクが瞬間移動をいきなりして、キスをした。だから、目標は達成、ボクの勝ち!」


 持っていた扇子をバッと開いて、漆黒の髪をパタパタと仰ぎ揺らした、まるで国家規模の戦場で、つかみ取った勝利を祝福するように。


 このやり方をされると、ターゲットにされた相手は気づかない。罠にはめられたのだと。なぜなら、自分から望んで言動を起こしたように見せかけられているからだ。


 しかも、孔明の罠はまだ続いており、それを表すように扇子からスウスウと人工的に作られた風が頬に触れては遠ざかり近くなるを繰り返す。


「それから、次のことにつながるようにもする。明引呼あきひこの気持ちは盛り上がって、ボクにしばらく向き続ける」


 クルッと振り返ると、白の裾が広がった布地と、漆黒の長い髪、髪飾りの細く赤い縄がサーッという衣擦れなどの音を、岩清水のような心地よく澄んだ響きで作って、1人きりの控え室に泳ぎ舞う。


「時間を計ってたもう1つの理由は、長居しないことが理由。長く一緒にいたら、新鮮さがなくなる可能性が高い。だから、仕事に間に合わないようによそおって、帰ってきた。ここは実際、間に合ってないけど、間に合わなくていいんだ。もう1つの罠を発動させるための足がかりなんだから」


 窓枠に腰でもたれかかると、外からの陽光が後光ごこうのように差し込み、白の薄手の生地は男の体の影をぼんやり浮かび上がらせ、チラ見えの効果のような人の注意を惹きつけるさま変化メタモルフォーゼ。持っていた扇子をたたんで、手のひらにトントンと軽く当て始める。


「さっき、ボクはあきって呼んでたけど、今は明引呼あきひこ。呼び方も変える。これくらい簡単にできないと、成功はやってこない〜かも?」


 結局、最後で真意を隠してくる言い方。1人きりの部屋だから聞くことができる話で、自分の手の内などバラすはずがない。人前で言うはずがない。


 子供が嬉しくて仕方がなく、微笑むようにふふっと言おうとすると、斜め向こうにあった部屋のドアが、ハイヒールで階段を急いで降りるようにトントンとノックされた。


 さっきまでの甘々の声色こわいろは息をひそめ、よそ行きの陽だまりみたいな柔らかで好青年の雰囲気で聞き返す。


「はい?」


 すると、ドアの向こうから、応えてきたのはこんな声だった。りんとして澄んだ、はかなげで丸みがある女性的なものだが、誰がどう聞いても男のもの。あの先生のようだ。


「お時間ですので、お願いいたします」

「はい、今から参ります」


 孔明は謙譲けんじょう語をしっかり使って、ドアノブを回すのではなく、その場からすうっと消え去った。お弁当箱のピンクの布地をローテーブルに残したまま――――



 ――――壇上だんじょうで1人、スポットライトを浴びる、小学校の講堂。日本ほどの広さがある場所。当然、人1人など、生徒全員から見えるはずもなく、宙のあちこちに浮かぶ大きなモニター画面に、孔明先生は映っていた。姫ノかんの校章、神がかりな若葉のデザインが印刷された大きな旗の前で。


「どんなことでも、大切なのは、相手の立場に立って考えることです」


 答弁台にあるはずのマイクはどこにも見当たらなかったが、講堂の最後列さいこうれつにいる、生徒の様子を見守っている先生たちにまで、陽だまりのようであり軽めの声はきちんと聞こえていた。


 スピーカーもどこにもない。携帯電話の応用で、気にかけている人には声が届くようになっている、この世界の法則は。


 聡明で好青年の瑠璃紺色の瞳に映る、生徒の列はところどころゆるく蛇行だこうをしていたが、どこまでも続くあまの川のように奥へ奥へつらなっていた。


 白の薄手の着物が立っている舞台の斜め前で、生徒の1人がそわそわし始めた。それは、とぐろを巻いて、さっきまできちんと座って? いた白蛇の小学生だった。キョロキョロしようとすると、すうっと先生が近くへ瞬間移動してきた。


 かがみ込んで、ニコニコの笑顔で、凛とした澄んだ柔らかみのある女性的な、ささやき声で聞く。


「どうかしたんですか〜?」


 ゆるゆる〜と語尾が伸びた優しそうな、人の男の先生。彼の髪は、はっきりとしたピンク、マゼンダ色の腰までの長い髪。それを、まるで乗馬でも楽しむ貴族のように、首の後ろで少しもたつかせた感じで、リボンで縛っている。


 白蛇の男の子は先が2つに割れた舌をペロペロと出しながら、切羽詰まった様子で、なぜ自分がキョロキョロしていたのかの理由を告げる。


「トイレに行きたくなっちゃった」


 先生はずっとニコニコしたまま、的確に指導した。


「それでは、静かに行ってきてください」

「わかった」


 白蛇の男の子がうなずくと、地をはってゆくのではく、10cmほど浮き上がって、すうっと空中を横滑りして、近くにあった講堂の扉から外へ出ていった。


 舞台上にある大きなスクリーンには、文字や矢印、図などが映し出されていて、それを見るために、孔明が振り返ると、漆黒の長い髪と赤い縄のような髪飾りが、生徒の前で説明という動きで右に左に動く。


「……この問題点は、1つの方向からしか見ていないということです」


 白蛇を見送った、月のように綺麗な頬が振り返ろうとすると、すぐそばにいた生徒が声をかけてきた。その子の背中には、透き通った羽が2つついていて、まるで妖精、いや本当に精霊の子供だった。


「先生、結婚したの?」


 プライベートな話題。だが、先生のニコニコの笑顔は崩れることなく、生徒の質問を無視することなく、返事をきちんと返した上で、教育的指導。


「えぇ、しましたよ。ですが、そちらの話はあとにしましょうね、孔明こうめい先生のお話を聞いてください」

「うん」


 スクリーンの方に向いていた、凛々りりしい眉は、再び小学生の列に戻ってきた。その脇には春の花がふんだんにけられた大きな花瓶がいろどりを添えている。


「ですから、別の方向から見るということをいつも忘れないようにします」


 様々な性格の生徒がいる。しかも、小学生。急に落ち着きなく、ウロウロし始めた、男の子が出てきた。


「ん? ん?」


 すっと慣れた感じで先生のマゼンダ色の髪は消え去り、その子の近くへ現れた。なぜ、注意されているのかをきちんと説明する。ただ叱るだけでは意味がないことを、この世界にいる先生たちは全員知っていた。


「こちらは学校です。他のお友達がお話を聞けなくなってしまいますよ。大人しく座ってましょうね〜」


 教育という名の愛で、男の子は納得し、素直にまた座り直した。


「うん」


 答弁台の上には、銅の懐中時計が時間厳守というような顔を見せて、差してきているスポットライトにきらめいていた。


「目標にいかに早く上手じょうずにたどり着けるかを考えることが大切です」


 孔明が言い終えると、講堂の入り口に人が突然立った。優雅で貴族的、まるで王子さまが、講習会という舞踏会に現れたようだった。孔明とニコニコ笑顔の先生の視線が一瞬そっちへ集まった。


 滅多に姿を現さないヴァイオレットの瞳がすうっとまぶたから解放され、孔明の瑠璃紺色の瞳もその人をしっかりとらえた。


 中性的な紺の長い髪。冷静な水色の瞳。神経質なあごに添えられた手も、細く神経質。洗練されたエレガントな服装。


 先生が立てた人差し指をこめかみに当て、困ったように首を傾げると、マゼンダ色の長い髪がサラッと重力に逆らえず、斜めに落ちた。


(またですか。

 外部の方は今日は入れないんですが……)


 小学校の敷地に、大人が入ってきたみたいな展開だったが、この世界に不審者は存在しないのでスルー。


 好青年でありながら陽だまりみたいな暖かさを持つ声を講堂に響かせ続けながら、頭の中では不意に現れた男の正体を思い浮かべる。


(ボクの塾の生徒が来てる……。

 また今日も同じことしてるのかなぁ〜?)


 孔明と先生の視線に気づいていないのか、その人は蛇行する列に混じり込む、1人の男の子をそっと見つめる。ここにも小さな王子さまのような、白のフリフリのブラウスに半ズボンの子供がいた。


 しばらく様子をうかがっていたが、孔明と先生は視線をそらして、それぞれの自分の仕事をこなしてゆく。黄色いモフモフした体を持つ生徒の肩を、結婚指輪をした手でトントンと叩きながら、丸みのある女性的な声をかける。


「は〜い、起きてくださ〜い」


 顔を上げてこっちを見ると、ひよこだった。だが、体の大きさが50cmほどある小学生。ここは、同じ生徒であるという、平等さでスルー。


「……んぁ? あぁ、先生?」


 オレンジ色のくちばしが寝ぼけた感じで動くと、先生の大きな手が黄色の毛並みを優しくなでた。


「今、眠ってましたよ〜。孔明こうめい先生のお話は聞きましょうね〜」

「ふわぁ〜い」


 両腕ではなく、両の羽でグーッと伸びをすると、ひよこは大きなあくびをした。生徒たちの様々な言動がありつつも、孔明の小学校での講演は終わりをむかえ始める。


「そして、最後に一番大切なことです。それは、たくさんの人を幸せにするために、こちらの考え方は使うということです」


 真剣に話を聞いている1人1人の生徒の顔を見渡す。そこにいるのは、シマウマ、ペンギン、蛇とは違う胴体の長い生き物、猫、サメ……姿形の違う子供たちが肩を並べていた。


 そのすぐ近くで、一緒に話を聞いていた、マゼンダ色の長い髪を持つ男に、人の男の子が不思議そうに質問した。


「先生、どうして、その服着てるの?」

「好きだからですよ」


 静かだった講堂に、大きな笑い声がなぜか響き渡りそうだったが、


「あはははっ――」


 男性なのに、パステルブルーの女性らしさを振りまく服装をしている先生が即座に、


「今は、孔明こうめい先生がお話中ですよ。笑うのはあとにしてください」


 儚げな丸みのある声で注意すると、首元の月のモチーフがついたシルバーのペンダントが乙女チックに揺れ動いた。生徒は右手を大きく上げた。


「わかった〜」


 そうこうしているうちに、孔明の好青年でありながら軽めの陽だまりみたいな声が締めくくりをしていた。


「これで話は終わりです。参考になりましたか?」


 さっきの控え室で1人話していた内容と同じもの。それを小学生に伝える。島国ほどの大きさがある講堂に集まっていた生徒たちは、小さな頭を傾げ、正直な反応を見せた。


「ん〜〜?」


 だが、何人かは元気よく手を上げる。その子供は孔明と同じように、聡明で頭がよさそうな雰囲気を持った子たちだった。


「は〜い!」

「それでは、聞いてくれて、どうもありがとうございました」


 孔明が頭を下げると、白の着物の前に漆黒の髪がサラッと落ちてくる。それが合図というように、3億人近くいた小学生たちから一斉に拍手が巻き起こった。瑠璃紺色とヴァイオレットの瞳が、講堂の入り口の1つに視線をやると、紺の長い髪と冷静な水色の瞳を持つ男の姿はもうどこにもなかった――――



 ――――無事に終了した講演を行なった講堂ははるかかなたにある、万里の長城どころの長さではない、学校の渡り廊下を歩いている、孔明と噂の先生は。同じ男性でも、身長差が13cmある。カップルみたいに見える後ろ姿。


孔明こうめい先生、本日は我が校に来ていただき、誠にありがとうございました」

「いいえ、こちらこそ、お声がけいただき、痛み入ります」


 2人の髪は女性を連想させるほどの長さ。しかも、種類は違えど、髪飾りというリボンをつけている、男2人。漆黒とマゼンダ色の髪が、春風が吹くたびに背中で同じ方向へ揺れ動く、まるで心でも重ね合わせるように。


 凛とした澄んだ丸みのある儚げな女性的な声で、パステルブルーの服を着ている、噂の先生から問いかけられる。


「いかがでしたか? 小学校での講演は」


 天女のような白い着物を着た孔明は、月のように美しい頬を持つ人の、ニコニコという笑顔を見下ろした。


「そうですね? 私の話は少し難しかったかもしれませんね、小学生には」


 マゼンダ色の長い髪は左右へゆっくりと揺れる、校舎に規則正しく並ぶ窓たちを眺めながら。


「そんなことはありませんよ。子供は日々、成長していきます。その過程で、本日の先生のお話を思い返して、彼らなりに人生のかてにしていくんです。私は教師として、生徒たちに接していると、小さいながらも個人として、人として、私が予測したよりも大きく突然、成長することもたくさんあります」


 カツンカツンと大理石の上を細く硬いものが動くような音が、なぜかさっきからしている。それにまぎれながら、立場の違う先生たちの会話は進んでゆく、孔明はよそ行きの言葉遣いをしつつ。


「そうですか。私は子供と深く接したことが今までありませんでしたから、月命るなすのみこと先生のお言葉に大変感銘を受けました」

「子供と接したことがない……」


 月命の声のトーンが少し低くなった気がした。そうして、カツンカツンという音はふと止まり、妙な間が2人の先生の間に広がってゆく。すると、すぐ近くの校庭から、別の先生の話し声が聞こえてきた。


「はい、今日は短距離走のタイムを計ります。浮遊している人と地面に足をつけて走る人にまずわかれてください。それから次は、2本足と4本足で走る人にわかれてください」


 かなり細かい種別がある短距離走だった。だが、さっき講堂にいた生徒たちの顔ぶれを思い浮かべると、納得がゆく話。2本足の人がいくら頑張っても、飛行するものと4本足で走るものにはかなわない。ここはある意味、平等ということで、これ以上の追求はなし。


 いつの間にか、渡り廊下の途中で止まっていた、孔明と月命るなすのみこと。ニッコニコの笑顔で、凛々しい眉をした男を見上げる。お互いの間に漂う空気がおかしいのに、笑み。即効性のあるものではなく、じわりじわりとあとになって効いてくる毒のように、恐怖がおそいかかる予感が思いっきりしていた。


 ヴァイオレットの瞳は常に微笑んでいるがために、まぶらから解放されることが少なく。今ももれずにお隠れ遊ばせ中。


「ご結婚されたと、うかがいましたが……?」


 語尾がわざと濁らされている疑問形。雲行きが夕立並みに急速によくなくなってゆく。好青年、陽だまりみたいな柔らかさはそれでも乱れず、孔明の両腕は後ろで組まれまま、丁寧な言葉で会話をしながらまた歩き出す。すると、カツンカツンという音も鳴り出した。


「えぇ、仕事の方が忙しくなりそうでしたので、以前から親しくさせていただいていた方と、先日いたしましたよ」


 社交辞令。そんな言葉が世の中にはある。今まさしく、この2人はそうだった。理由は通常とは違っていたが。


「そちらは、おめでとうございます」

「ありがとうございます」


 妙な空気がまた流れ、カツンという音が止まると、孔明の裾が広がった白い着物もそこに居残った。聡明な瑠璃紺色と今も隠れているヴァイオレットの瞳はまじわることもなく、言葉も途切れ、サーッと桜の花びらを乗せた春風が吹き抜けてゆく。


 それでも動かない2人。だが、視界の端で猛スピードで動くものを見つけた。校庭へ目をやると、さっきの体育の短距離走でタイムを計っているところだったが、チーターの子供が4つ足の俊足しゅんそくで、ピューッとぶっちぎりの1位を取っているのが見えた。


 子供たちの驚きと歓喜が遠くから、耳元に穏やかに優しく流れ込んでくるが、さっきから様子がおかしい先生2人は、何事もなかったように、平然とした顔でまた歩き出す。すると、カツンカツンという音も再開された。


 お互いの死角、背中側で、孔明のシルバーの細いチェーンが悪戯っぽくスースーと肌のまわりでゾクゾク感を描く。


「失礼ですが、先生は、ご結婚されているんですか?」


 負けずと言わんばかりに、月命るなすのみことは頭の上に乗っている銀色のものを落ちないように、マゼンダ色の髪に差し込んだ。


「えぇ、妻と子供がいます」


 春という夢の世界へ誘うように、風がサーッと吹いてきて、遠くの木から順番に葉音を鳴らし、協奏曲を奏で始めた。白とパステルブルーの服。漆黒とマゼンダの長い髪は軽やかなダンスを踊る。


 歩みをふと止めて、孔明は青空を見上げ、瑠璃紺色の瞳に雲が流れてゆくのを映しながら、目を細め、珍しく素直に感想を述べた。


「風が空が綺麗で気持ちがいい……」

「えぇ、いい日和ひよりですね」


 背中から見ると、仲のいい恋人同士が仲良く散歩をしているように見える、孔明と月命。だが、2人の心の中はさっきからドロッドロの血なまぐさい戦いがなぜか起きていた。それを相手にさとられないように、微笑み続ける、それぞれの笑みで。


「…………」

「…………」


 今回は間が長く。3分経過。授業中の静かな教室。体育の授業の生徒たちの話し声。それと、聞こえるのは風が揺れ動かすものだけだったが、奥の渡り廊下で、


「きゃあああっっっ!!!!」


 女子生徒のかん高い黄色い声がにわかに爆発したようにはじけ飛んだ。2人の注意が引き寄せられると、少し離れたところで、ちょっとした人だかりができていた。その真ん中には、黄緑色のボブ髪が見える。


 小学生は今授業中。だが、生徒が向こうにいる。しかも、黄緑の髪の人は男性のようで、孔明は視線を戻し、隣にたたずむ人に問いかけた。


「あちらにいらっしゃる先生は、小学校の先生ですか?」


 ニコニコの笑顔のまま、月命るなすのみことは首を横に振って、マゼンダ色の髪をまとめているリボンを揺らす。


「いいえ、違いますよ。高等部の教師です」


 女子高生に囲まれた、男性教師。プレゼント攻撃にあっているようで、バンバン物が先生の方に差し出されているのが、離れていてもよくわかる。だが、孔明は冷静に瞳から情報という名で見極め、質問を重ねた。


「そうですか。ずいぶん生徒に人気があるみたいですが、何か特別な理由でもあるんですか?」


 閉じられていたヴァイオレットの瞳は少しだけ開かれた。そのレンズに映し出されたのは、黄緑色のボブ髪の教師が、四角い薄いものをもらっているところだった。


「えぇ、思春期まっただ中の高校生の興味を惹くようなことを私生活でしたんです。そちらが原因かもしれません」


 何かをやらかしたような高校教師。渡り廊下で女子高校生に囲まれ、プレゼントの山にうずもれるほどのこと。当然気になる、何が起きたのか。


「どのようなことですか?」


 凛とした澄んだ女性的な男の声は意外そうに、いやおどけた感じで聞き返した。


「おや? ご存知でないんですか? 有名な話ですよ」

「様々な方とお会いする機会に恵まれている私ですが、残念ながらぞんじ上げません」


 さっきからずっと、ブレスレットのチェーンを引っ張っていた手を前に持ってきて、結婚指輪を胸の前で止め、襟元を指でつまむように整えた。まるで天下分け目の戦いに向けて、身を清めるように。


 お互い、怖いくらいニコニコ微笑みながら、穏やかな小学校の渡り廊下に似つかわしくない、殺気立った言葉の押し問答もんどうの決戦の火ぶたが落とされた。


「そうですか。孔明こうめい先生はご冗談が過ぎますね?」

「どのような意味でおっしゃっていらっしゃいますか? 月命るなすのみこと先生」

「こちらの場所で説明してしまってよろしいんですか?」

「どなたかに聞かれては困るような内容なんですか?」

「私は申し上げても構いませんが、孔明こうめい先生がお困りになるのではと思って、確認をさせていただいてる次第なんですが……?」


 微妙に2人とも言葉遣い、尊敬語が崩壊したまま、どこまでも続いてゆく地平線のように繰り返されそうだった。


 だが、白の薄手の着物はくるっと45度左に向いて、月のような美しい横顔を見せている人に、甘々の砕けた言葉を突きつけた。


「いつまで、この話し方するつもり?」

「おや? 君が先に根をあげましたか~」


 未だに怖いほどの笑顔をしている月命るなすのみことは、孔明の真正面に向き直って、おどけた感じで言った。自分を指す言葉が、よそ行きではなくなって。


 しかし、またおかしかった。孔明と月命は知り合いではない。それなのに、孔明は甘くダラダラの声でこんな言い方をする。


「な~んで、こんなことボクにしてるの? るなす~」


 いかにも何かたくらんでいます的な笑い声をもらす、噂の小学校の先生は。


「うふふふっ、孔明こうめい、朝のお返しです~」


 2人とも、相手を尊重する先生という単語が、どこかへ遠い宇宙へほうむり去ったようになくなっていた。しかも、朝に何かあったようだ。2人とも仕事。会う時間などないはずなのに。


 疑問符ばかりが頭の中に浮かび続けているところへ、さらに混乱する話が、孔明の好青年でありながら軽めの声で告げられる。


「あれはボクじゃなくて、貴増参たかふみのお願い事だったんだけど……」


 普通にさっき、兄貴と話していたが、孔明は貴増参とも知り合いではない。月命は貴増参とは教師と保護者という関係。それなのに、プライベートモード全開で何かに巻き込まれていそうだった。


 ニコニコとしていながら、真綿で絞め殺すような疑いの眼差しを、月命は13cmも背の高い孔明よりも、さらに上から差し込むように向けた。だが、語尾がゆるゆる〜だからこそ、脅威が増す言い方をする。


「そうですか~? 僕をわざと選んだ、という策略……さ・く・りゃ・く、です」


 差し込んだナイフで、身を縦に何度もえぐるように切りつけるように、1字ずつ離して言葉を放ってきたからこそ、心の奥深くで怒りというマグマがくすぶっているのがよくわかる、月命るなすのみことだった。


「そうかなぁ~?」


 孔明が悪戯した子供がするみたいに、首を反対に傾げると、肩に乗っていた桜の花びらが1つ、渡り廊下にふわっと落ちた。兄貴には通じた手。


 しかし、目の前にいる、小学生には優しいが、大人に対しては、人を人として思わず、残虐ざんぎゃくな遊びに酔いしれる中世の貴族……。という表現が一番似合う男。敵に回しては絶対にいけない人物。


 月命は月のように綺麗な顔で、恐怖という言葉が逃げ出すほどの含み笑いをした。


「うふふふっ。僕には嘘は通じませんよ~。君より何年長く生きてると思ってるんですか?」

「何年だったかなぁ~? ボク、数字に弱いんだよね~」


 あんなに素早く時間の計算をしていたのに、孔明もまるで対等の立場というように、月命に嘘をつき続ける。


 春風舞う平和で穏やかな小学校の渡り廊下が、血の池地獄になった気がした。月命がわざとらしく笑い声を上げたために。


「うふふふっ。また嘘ですか~。神の申し子、天才軍師とうたわれ、こちらの世界へ来てからも、他の方たちに反則だと言わせるほど頭の切れる人。塾を開いて、こちらが好評だった先生。陛下から直々じきじきに多くの方々に伝えるように、他の宇宙にまで行くよう、先日、命令を下された。そちらが君です~」


 本物だった。正真正銘しょうしんしょうめい、歴史上の人物、諸葛しょかつ りょう 孔明。今、学校の渡り廊下にいる、白い薄手の裾が広がった着物を赤く細い帯で腰元を縛り、頭近くまで漆黒の髪を結い上げている、この男は。


「そんなこと、言われたかなぁ~?」


 陽だまりみたいな柔らかで好青年な声で、甘々で語尾を上げ続けている孔明。なぜ頭がいいのかが、月命るなすのみことの凜として澄んだ女性的な響きで、学びの場所であばかれる。


「いつ、どこで、誰が、何をして、どうなったか。話した会話の順番、言葉の一字一句、日時、読んだ書物のページ数から行数、文字数まで……それらを全て記憶して、忘れることのない頭脳」


 頭のつくりが最初から違うのだ。だからこそ、死んでもなお、語り継がれ、一目置かれる人物。模写することはできても、細部まで再現することは不可能だろう。


 月命の説明はまだ続く。なぜなら、覚えることだけなら、PCのメモリーと一緒。それにもう一手間加えないと、神の申し子、天才軍師とは言われない。


「事実から小数点以下2桁まで計算して、可能性を導き出す思考回路。決して物事を決めつけない。ですから、どのようなことが起きても、即座に対応できる。すなわち、勝てる方法を選び取れる」


 瑠璃紺色の聡明な瞳の奥では、数えられないほどの可能性の数字が常に流れ続けている。そのため、幾つも同時に罠を張りめぐらせることができ、すべての勝利を自分の手につかめるのだ。


 マゼンダの髪を結わくリボンが、まるでちょうちょのように風に揺れる。


「策を成功させるためならば、人を思惑通り動かすためならば、嘘を平気でつく人……。今より5つ前の会話から、君は僕に情報 漏洩ろうえいしていません、何1つ」


 だが、対する月命も手強てごわかった。5つ前の会話を覚えているのだから。孔明の綺麗な唇から子供が楽しくて仕方がない笑い声がもれる。自分の横に立つ男がどれだけ切れるのかを、改めて突きつけられて。


「ふふっ。キミは本当に面白い男だよね? そうだよね? そうやって、長く話して、自分の情報をわざと漏洩させてるんだから……。だけど、それって、ボクとキミの思考回路が一緒ってこと、だよね? そうじゃないと、ボクの頭の中は理解できない」


 孔明本人が言う。話せば少なからずとも、自分の情報は相手に渡るのだと。だからこそ、言葉は最小限に、語尾や雰囲気で誤魔化すことが必要になると。そのために、孔明の話し方は人前、仲のいい人の前、自分1人の時と、デジタルにわけて言動を起こしているのだ。


 マゼンダ色の髪の中でも同じことが起きていた。全てを覚えていて、何1つ忘れない、いや思い出せないことがない。そんな月命だったが、ニッコニコの笑顔でこんなことを言う。


「そうかもしれませんね~」


 策士同士の戦いが、全身を温かく優しく包み込むように吹いている春風の中で始まる。お互い微笑んでいるのに、氷河期のようなクールな頭の稼働率は200%という感じで。


「不確定じゃなくて、確定でしょ? 月命るなすのみこと!」


 孔明の最後の言葉が、兄貴を孔雀大明王くじゃくだいみょうおうと呼んだ時と一緒の手口。気をつけないと、足元をすくわれる。だが、月命は慣れたもんだった。


「おや? みことをつけて呼ぶとは、何を企んでるんですか~?」

「あれ~? そこは、こう言うんでしょ? 『命をつけて呼ぶとは、お仕置きされたいんですか~?』って」

「そちらを望んでるんですか~?」

「どうかなぁ~?」


 好青年で陽だまりみたいなもの、と、凜とした澄んだ丸みがあり儚げなもの。2つの声色はずっと同じ文章形態を続けていた。遠くの渡り廊下で、女性生徒に囲まれた男性教諭がいなくなってからも。


 頭の上にさっきからずっと乗っている銀色のものを触りながら、月命は孔明の思惑を突きつける。ニコニコという仮面の下に隠された、地獄の針山のような逃げ場のない鋭利な怒りで。


「僕の本名を全て言ったふりをして、『お仕置き』という言葉を僕から引き出させる、という策略ではないんですか~?」

「どうして、そう思うのかなぁ~?」


 語尾がゆるりと伸びている2人。きつねかし合いのように、次々に手を打って、白と黒をひっくり返すオセロがぴったりくる、2人の会話は。月命先生から、罠を組み立てるのに、絶対に必要になるものの、手に入れ方の1つがもたらされる。


「あなたの4つ前からの言葉は全て疑問形。すなわち、情報収集の基本中の基本です」


 聞くのが一番。相手の言葉を覚えていられるのならば。だが、この方法には弱点がある。それは、相手に自分が求めていることが、情報として渡ってしまうこと。だから、基本なのだ。


 月命に通じるわけがない。基礎など。わざとやっていた孔明は、宝物でももらったかのように無邪気に笑った。


「ふふっ。ばれちゃった!」


 だが、ここは戦場ではない。相手は敵の軍師でもない。ここで、やっと姿を現した月命のヴァイオレットの瞳。しかし、見なかった方がよかったもしれないと後悔するような目だった。それは、邪悪。そうして、こんな言葉は存在しないが、誘迷ゆうめい。これらが一番しっくりくる瞳。誘った上に迷わせる。怖すぎた。


「どのようなお仕置きがいいんですか?」


 激甘でいけないおねだりがくる、孔明から。


「ボクとキミの妻が見てないところ、職場で、学校で、あきとしたキスをるなすがボクから奪う、間接キスっていうのはどうかなぁ〜?」


 3人でキスするみたいな話が振られた、健全な小学校の渡り廊下で、青空の下で、桜の花びらが混じる春風が吹く下で。


 最初の独健どっけんは違うとして、あとの全員は、少なくとも2人とキスをしているという、重複どころの騒ぎではない。トレースシートのようなキスのリレーが起きているようだが、ここも真実の愛という名でスルー。


 月命のヴァイオレットの瞳は邪悪一色になってしまった、とある単語を聞かされてしまったばかりに。


「おや? 横入りとは聞き捨てなりませんね」

「そうかなぁ〜?」


 兄貴をめぐって、バトルが勃発ぼっぱつ! だったが、月命が怒っているのは、さっきのことではなかった。教室の窓が遠近法をいう線を描き、立ち並ぶ渡り廊下で、一教師がこんなことを口にする。


「僕の担当生徒の父親、明引呼あきひこは僕が口説いたんです〜。ですが、君が先に来たんです〜」


 教師と保護者のいけない関係が堂々と語られていた。しかも、明引呼が言っていた、孔明が先に、が、ここでも繰り広げられている。白い着物の後ろで、手が悪戯っぽく組まれ、さっき女子高生に囲まれていた男性教師がいたあたりへ視線を飛ばす。


「ふふっ。彼が落ち込んでるから、早く救ってあげようと思って、別の彼に罠を仕掛けたから、先になったかも〜?」


 また来てしまった3人称。しかも、人数は2人。だが、遠くを眺めている瑠璃紺色の瞳を一気に殺すのではなく、下から火あぶりにするような、極悪非道極まりないヴァイオレットの瞳が鋭くつかまえた。


「かもではなく。確定、確信犯です〜」

「ふふっ。ボクの作戦勝ちだったかなぁ〜?」


 白い着物の裾が月命るなすのみことにくるっと向きを変えたことによって、天女が舞い降りたようにふわっと広がった。対する月命が着ているパステルブルーの裾も同じように桜の花びらを巻き上げながら、ふわっと持ち上がり、永遠を連想させる渡り廊下で、2人は真正面で向き合った。


「僕はそちらの現場を実際に見てますからね、言い逃れはできませんよ」

「あれ〜? ボク何かしちゃったかなぁ〜?」


 兄貴の耳元でささやかれた内容が大まかに明らかになる。凛とした澄んだ女性的な儚げさがあるのに、誰が聞いても男性の声で。


「君は彼にいきなりキスをしたんです。そうして、彼のお父上に約束をとりつけた。自分自身からではなく、彼を通して、いいえ、思惑通り動かしてです」


 セクハラどころではなく、孔明、派手にやらかしていた。体の触った部分は、唇だった。それは、誰でも驚くだろう。あのジョークだらけの野郎どもに囲まれて働いている、兄貴が笑っていたのも納得である。


 策を成功させるために、キスをする。しかも、同性に。どうなってるんだか、天才軍師と謳われた人は。明引呼が言っていたボスの突破はこうして、したようだ。


 だが、過去は変えられない。神にさえもそれはできない。起きてしまったことにこだわっても仕方がない。分析が終わったら、次に再発しない対策を立てたり、自身の糧にするだけ。


 PCのメモリー並みに記憶している頭脳を持つ2人。それはこうにも言い換えられる。ブラウザのタブを切り替えるように、感情も何もかもたったワンクリックで切り捨てることができる、必要ならば。


 こうして、長い髪が女性みたいな雰囲気をかもし出しているのに、声色はどう聞いても男性という、妖精に魔法でもかけられたような男2人。彼らに、デジタルにやってきてしまった、お楽しみの時間が。


 体育の授業をしている小学生。教室の窓から注がれているかもしれない、教師と生徒のたくさんの視線。いつ他の教師が通るかわからない渡り廊下。妻子持ちの男。


 孔明は結婚指輪をする指先で、自分の唇を誘惑という名で、すうっとゆっくり横になぞる。


「それはもう終わったことでしょ? だから今は、奧さんたちには内緒で……あきの温もりが残るボクの唇とキスしない?」


 大先生が小学校の先生に問いかけた内容は、ひどく狂気でありながら、プラトニックだった。孔明の後ろ手にはいつの間にか、ピンクの布に包まれたお弁当箱が瞬間移動してきていた。


「逢い引きですか~? 君もいけない人ですね」


 聞き返した月命の背中にあった手にも、女が長い髪を結い上げたような色気が漂う結び目のついた水色の包みが飛んできた。こっちは中身がまだ入っている。妻の愛が見ている中で、孔明はかがみ込んで、月命の顔に引き寄せられるように近づく。


「ふふっ。そういうキミは~?」


 もう職場というパーソナルティースペースは完全に崩壊カタストロフィーを迎えていて、あと数mmで唇が触れてしまう位置で、なぜかピンクのリップスティックを塗っている、月命の口が密かに動き、


「僕もいけない人……」


 頭のよさ全開の語尾が、ささやき声でつけ足されると、


「……かもしれない」


 2人の結婚指輪をした左手は頬に寄せられ、瞳はすっと閉じらた。唇が重なり合ったと同時に、春風が下から桜の花びらを舞い上げるように吹き抜け、2人の長い髪は強くあおられ、相手の腕や体を愛撫あいぶするように絡まってゆく。


(風と空とキミが1つになって、森羅万象しんらばんしょうをボクに連れてくる。

 透き通るシャボン玉みたいな儚く綺麗なキス)


 2つの契約という名の指輪の間で、真っ暗な視界の中で、春の香りと相手の男の匂いが混じり合い、まるで皆既月食かいきげっしょくが起きるようになじんでゆく、何もかもが。


(僕の、僕の、僕の唇に君と彼の温もりが広がる……。

 誰にも内緒の秘密のキス)


 キスをしている間、近くにいた生徒たちからは、小さな手で力強く拍手が巻き起こり、通り過ぎてゆく他の教師は微笑ましげにするだけで、変な顔をするわけでもなく、止めるわけでもなく、完全スルーどころか、結婚式のライスシャワー並みに降り注いでいた、祝福が――――



 ――――パステルブルーの服から、白い薄手の着物がすっと離れると、孔明が悪戯少年のようにこんな言葉を口にした。


「な~んちゃって、こんなプレイもたまにはいいでしょ?」

「君の趣味が垣間見えたかもしれませんね、今ので」


 2人とも後ろで手に持っていたお弁当を前に出して、それを両手で大切そうに抱えた。長く立ち止まっていた、渡り廊下を再び歩き出す。すると、カツンカツンという大理石の上を細いものが動くような音も響き始めた。


「ふふっ、ドキドキした?」


 まるで恋人みたいに進んでゆく2人の背中では、漆黒とマゼンダ色の髪が寄り添うように、同じ春風に吹かれている。だが、せっかくのいいムードが、月命の即行却下みたいなトーンの低い声で強制終了した。


「僕はしませんよ、そういう感情は持ってません」


 嘘でも強がりでもなく、ここは本当のことを言っているようで、孔明は気にした様子もなく、乙女ならず、夫の貞節を守ろうとしている先生に、魅惑のハニートラップを仕掛けた。


「ボクはドキドキしてるんだけど……もう1回しない?」


 そこで、


 キーンコーンカーンコーン。


 学校のチャイムが2人の甘い時間を引き裂いた。月命はニコニコの笑顔で、おどけた感じで言う。


「おや? 時間切れです~」

「ざ~んね~ん!」


 孔明は首を傾げ、肩をすくめて、漆黒の髪が揺れ動いた。だが、姿を現したバイオレットの邪悪で誘迷な瞳は、自分と同じ思考回路の人間が今まで何をしていたのか、なぜ今チャイムが鳴ったのかを、きちんと見抜いていた。


「おや? また嘘ですか~。君の手のひらにあるものは何ですか~?」


 お弁当箱や自分の体で死角になっていた右手を持ち上げると、孔明の手のひらには、アラビア数字12個が円を描く銅色の丸いものが。それでも、白々しくこんなことを言う。


「あれ~? いつの間にか、ボクの手の中に時計がある。おかしいなぁ~?」


 対する、月命のヴァイオレットの瞳には、さっきから常に、教室の時計が映っていた。歩くたび角度的に見えなくなって、校則という規律の中で同じ姿形を、それぞれの教室で見せている時計。だが、次々に対象を変えて、時刻を途切れなく追い続けていたのだった。


「君はそちらで時間を最初から計って、チャイムが鳴る時刻に合わせて、今までの行動を全て行っていた。たった1回でキスを終わらせる。そうして、僕の気を惹こうとする作戦ではないんですか~?」


 恋の罠が仕掛けられていた。さすが天才策士。甘々な雰囲気は一気に消え失せ、普通の人では思いつかない発想がどう生まれているのかが、孔明の好青年でありながら軽めの陽だまりみたいな声で出てくる。


「恋愛だから感情。そういう既成概念は必要ない。感情を切り捨てて、戦場と同じように命がけの1つの戦いとして考える。恋愛を成功させるため……勝つ可能性を上げるために何をしたらいいか選び取ってゆく。恋愛対象はたくさんいる。その中で、自分に振り向く可能性が高い人をまず見抜く。次は相手が自分に気があるかどうかの情報を、相手にわからないように得る。そうして、相手や状況に合わせた、自分の手中に落ちる可能性の高い罠を、手に入れた情報から可能性を導き出して、自然を装って仕掛ける。そういう策略が必要。ボクは物事を成功させるためには、キミと違って、利用できるものは何でも利用するよ」


 冷たい人。という印象を与えがちだが、ふたを開ければ、こうなっている。感情。そんな曖昧あいまいなものに流されていては、勝利はやってこない。人の命を救うことも、望みもかなわない。軍師として生きてきたから、言えることで、できることだった。


 さっきも言っていたが、月命は孔明より長く生きている。明引呼が言っていた、桁が違う人が2人いると。どうやら、その1人らしい。小学校教諭はニコニコ微笑みながら、末恐ろしことを平然と言ってのける。


「僕も利用しますよ~。無慈悲に残酷に冷酷に無情に無感情に非道に無残に……」


 凛と澄んだ儚げで丸みのある女性的な声なのに、数分の間、邪悪という名がつく単語が、学校の渡り廊下に大行進していた。もう何度吹いたかわからない春風が、桜の花びらを乗せて、孔明と月命をまた通り抜けると、誘迷という名のヴァイオレットの瞳を持つ人の話が終焉しゅうえんをやっと迎え始めた。


「……おいたをする子にはどのようなことをしても、罰を与えます~。うふふふっ」


 最後の微笑む声が、冗談でも何でもなく、悪魔も顔負けな感じで本気でする雰囲気が命をかけた真剣勝負並みに漂っていた。


 だが、孔明先生は驚くどころか、きちんとインプットされていた、情報を使って、余裕の笑みを見せる。


「そうだろうね~。今から10個前のボクの質問、『ふふっ、ドキドキした?』に、キミはこう言ってたもんね。『僕はしませんよ、そういう感情は持ってません』。それって、こういう意味もあるでしょ? 全てに対して、感情を持ってない。つまり、無慈悲に残酷に冷酷に無情に無感情に非道に無残に……以下省略。ボクよりも他の人や物事を平気で利用する。違う?」


 顔をのぞき込まれた月命は、孔明の聡明な瑠璃紺色の瞳を、ニコニコの笑顔という真意を隠すもので完全フィルターをかけたまま、邪悪で誘迷なヴァイオレットの瞳で見つめ返した。


「うふふふっ。おいたをする大人も対象になります~」


 孔明より、月命の方が無限大並みに、冷たい人だった。マゼンダ色の長い髪の持ち主の本性を暴いてしまった、漆黒の髪を指先でスルスルと弄んでいる男は、甘々の声で問いかける。


「じゃあ、ボクはあとで、お仕置きってことかなぁ~?」


 その問いかけに、月命は怖いくらいに微笑んだ。


「それでは、いつも通りにしましょうか~?」

「ふふっ。彼は驚いちゃうかもね、今日も」


 誰かさんへの鎮魂歌レクイエムだったようだ、今までの会話は。策士同士、さすが恐ろしすぎる。いつから、罠が離れていたのか、把握できないほどである。


 仕事、講演を終えた大先生は、瞬間移動という能力で、学校の渡り廊下から去ろうとしたが、


「じゃあ――あぁ、そう忘れ物しちゃった、ボク」



 何かを思い出したみたいに、孔明は月命の真正面にすっと立った。


「何をですか?」


 マゼンダの髪とヴァイオレットの瞳を持つ男の上から下まで、瑠璃紺色の瞳が愛おしそうに眺めて、好青年で軽めの声がこんなことを言う。


「そのドレス、と、着てるキミ、片方だけ素敵かも〜?」


 ここは言い間違いでも、見間違えでもなく、本当なので、このままスルー。さっきのキスの感触が唇に強くフラッシュバックする、暗闇で静電気が起きたように。


「僕と服のどちらをほめてるんですか?」

「どっちかなぁ〜? 答えはあとで、バイバ~イ!」


 結婚指輪をしている手を横に振ると、シルバーのチェーンブレスレットがサラサラと揺れ動き、白い着物と漆黒の長い髪はすうっと消え去った。きつけたエキゾチックなこうの残り余韻よいんにして。


 月命が何事もなかったように歩き出すと、カツンカツンというヒールが鳴る音がし始めた。平和でやけに寛大な学校の渡り廊下に。


「手強いですね〜、孔明こうめいは。わざわざおかしな言い方をして、真意を隠すんですから」


 サーッと吹き抜ける風に上空へ連れていかれる桜の花びらから、学校の渡り廊下を見下ろすと、これからどこかの舞踏会へお出かけでいらっしゃいますか〜? みたいなパステルブルーのドレスと、マゼンダ色の髪にせられた銀のティアラ。ガラスのハイヒールが、月命るなすのみことという男の体にまとわされていた。

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