ROUND 6

 試合は静かに始まった。開始数秒間はリングの中央で、互いににらみ合っているだけだったが、それが過ぎると、チャンピオンがいきなりいきなり吾郎の顔を張りに出た。


 観客席からどよめきが起こる。


 だが、彼はチャンピオンの挑発には少しも応えようとしない。


 今までと全く変わらず、いや、それ以上に冷静な面をしていた。


(こいつ、本気だな・・・・)


 俺は思った。


 やっぱり彼は『ブック』に乗るつもりはないようだ。


 にやり、吾郎が笑ってみせる。


 その表情にチャンピオンは馬鹿にされたとでも思ったのだろう。


 いきなり前に出て、キックを雨あられと降らせ始めた 吾郎は完全に押され気味・・・・見ているだけにはそう思えるだろう。


 だが、吾郎は避けながらも、相変わらず口元には不適な笑みを浮かべている。


 彼の身体がコーナーに詰まっていった。


 レフェリーがロープブレイクをかけようと近づいた、その時だ。


 膝蹴りを入れようと、一瞬チャンピオンが右足一本になった。


 吾郎はその瞬間を見逃さず、空中にある右足を肩に載せ、左足にタックルをかけた。


 たまらずチャンピオンはどうと尻もちをつく、


 逃れようとしたものの、逃れられなかった。


 吾郎の手足がチャンピオンの身体に、まるで蜘蛛が獲物を捕らえたかの如く絡みつく。


 どこが、どうなったのか、全くわからなかった。


 当然、チャンピオンはこの状況を脱し、立ち上がって反撃をする・・・・観客の誰もがそう思ったろう。


『ブック』通りなら、そうなる筈だった。


 しかし、そうはならなかった。


 レフェリーが駆け寄り、


『ギブアップか?』と告げかけた途端、彼は激しく両手を振り、試合の中止を宣告したのである。


 それまでの怒号と歓声と野次が一瞬、ぴたりと静まった。


 レフェリーがやや大仰な仕草で心配そうにチャンピオンの顔を覗き込む。彼は泡を吹いて、身体を細かく痙攣させていたが、やがてセコンドについていた若手が蘇生させると息を吹き返し、バツの悪そうな顔をして、辺りを見回した。


 レフェリーが新チャンピオンとして吾郎の腕を上げると、意外なことに客席からは歓声の方が遥かに多く響いた。


 吾郎は少し照れたような顔をしていたが、あまり表情を動かさず、自分のセコンドの手によって腰に巻かれたベルトを見下ろしていた。


 俺は彼が勝ったのを見届けて、椅子から立ち上がり、客をよけながら花道に近づいた。


 吾郎は仲間たちとリングを降りると、飛び交う歓声に軽く頭を下げて、そのまま控室に向かって歩いてゆく。


 俺は客に揉まれながら、辺りを見回した。


 確かに客の中には目つきのよろしくない連中の姿が何人も見受けられたが、まさかこんなところで襲い掛かったりしないだろう。



 控室に戻ったものの、吾郎も仲間たちも一様に無言のままだった。


 俺が入ってきても、黙ってうなだれていた。


 吾郎は試合前と同じく、ベンチに座って、リングシューズの紐を解きはじめる。


 するとそこに、いきなり鉄扉を開け、あのガマガエルが、目つきの悪い二人組を従えて入ってきた。


『塩原・・・・やってくれたじゃねぇか?』


『禁煙』という貼紙も構わず、ガマガエルが太い葉巻を咥えた。


『あれだけのことをやらかしたんだ。覚悟は出来てるだろうな?』


『ちょっと待ってくれ』


 俺が間に入った。


『話ならおれが聞こう』


『何だ?あんたは?』


『誰でもない。彼の知り合いさ・・・・ここは天下の後楽園ホールだぜ?こんな場所で騒ぎを起こしちゃ、カタギに迷惑がかかるだろ?』



 




 


 

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