76 幸せは

 ファウストと出会って一年近くが経とうとしていた時のこと。

 彼と会う予定も、二人の友人と会う予定もなかった私は、一人森の中を散歩していた。


 少なからずであれど、ヒトと関わる機会が増えると、そうではない時がやけに寂しく思える。

 小屋で静かに本を読み耽るのもよかったけれど、その寂しさを紛らわせる意味もあって、体を動かしたい気分だった。


 以前、私の力が暴走したことによって、あらゆるものが巨大化してしまったこの森。

 木々の根が大地を侵食し、草花が隙間を埋め尽くす、異形の様相となっている。

 見渡す限り全てものが巨大で壮大で、自分がちっぽけな存在のように思えてくる。


 しかし、それは飽くまで感覚的なもので、自分という存在の規格を私はよく知っている。

 今やどうでもいいものと意識の外に追いやっていることだけれど、それは紛れもない事実だ。

 そんなことをふと考えながら、山岳のような木々の隙間を歩いていると、私は見慣れた広場に躍り出た。


 そこは、白いユリの花が咲く場所。

 人語を介す花、ミス・フラワーがいる場所だった。


 しかし彼女は、一年半前の魔物が出現した頃から、沈黙を続けている。

 死んでしまっているわけではないのに、あの喧しいほどに陽気な声を私に聞かせない。

 それを確認したあの時から定期的に様子を見に来ているけれど、特にこれまで変化はなかった。

 しかし────


「はぁい、久しぶりね……アイリス」


 私が草を掻き分けて広場に身を乗り出すと、昔と同じように、花の中央にある顔が私に微笑んだ。

 白い花びらは少し弱々しくも、しかし花らしく咲き広がっていて、茎はその花弁を支えて伸びている。

 しばらく見せていた、今にも消えてしまいそうな、萎びた様子は全くなかった。


「ミス・フラワー……! あなた、また話せるようになったの?」

「ええ、一応ね。今までも全くできなかったわけではなかったのだけれど、ちょっとね……」


 予想外の出来事に私は思わず駆け寄って、私を見下ろすように花をもたげた姿を見上げた。

 するとミス・フラワーは陽気に微笑んで、優しい瞳を向けてきた。


「ごめんなさいね。心配をかけてしまったみたいで」

「別に心配は……いえ、まぁある程度気にはしていたわ。それで、何がどうなっていたの?」

「ふふ。そうね、それをちゃんと話さなくちゃ……それをあなたに伝えるために、こうして頑張っているのだから」


 私の反応を楽しむように微笑んだミス・フラワーは、そう言うとすっと目を細めた。

 その笑顔はいつものような陽気な華やかさのようで、よく見ればやや影が窺えた。

 無理して笑みを浮かべているような、そんな辛そうな色がうっすらと浮かんでいる。


「あなたに隠していても仕方がないから、率直に言うけれど。私は今、正直こうして話しているのも結構大変なのよ」

「確かに万全の状態のようには見えないわね。一体、何があなたをそうしているの?」

「運命、あるいは……使命、かしらね」


 ミス・フラワーは引きつった笑みを浮かべて、そう言いにくそうに口にした。

 それから私のことをまじまじと見つめてから、唐突に尋ねてくる。


「────ねぇアイリス。あなたは今、幸せ?」

「……? ええ、そうね。私は今、幸せよ」

「そう。それはとっても素敵なことね。あたなが幸せを感じ、生きていることに希望を見出していることは、私にとっても喜ばしいこと……」

「ミス・フラワー。一体何を……?」


 やつれた表情に懸命に笑みを作り、ミス・フラワーは柔らかい声を出す。

 その言葉は喜びを表すと同時に、何だか妙な哀愁を漂わせていた。


「アイリス。あなたは自らの力と、その役割をどう考えているの?」

「それは……理解はしているけれど、それを全うする気は今のところはないわ。私にはそれよりも大切なものがあるから」

「……でしょうね。本来であればそれでも構わないのだけれど。あなたという存在、そしてそこに求められた役割は、そうはいかないみたいなの」


 ミス・フラワーの言葉に繋がりを見出せず、私は首を傾げることしかできなかった。

 覇気が削がれている彼女は、もう既にかなり朦朧としていて、その言葉に意味なんてないのか。

 そうも思ったけれど、それにしてはその瞳には未だ意志が感じられる。

 私は取り敢えず、その言葉に耳を傾けることにした。


「あなたは世界によって、この世界の中身に進化を促す役割を与えられた。神秘を深め、より深い幻想に誘うために、世界そのものと通ずる大いなる力を与えられた。それは、他の神秘や、それを持つ者が担っている役割とは重さが違うの」

「それは何となくわかるけれど。でも、私を飽くまでヒトの形に生んだのだから、私の意志で生きていいのでしょう? この力をどう使い、そして与えられた使命を全うするかどうかも、決めるのは私でいいはず」

「ええ、そうね。それは間違いない。あなたの生き方はあなたが決めればいい。けれどね、アイリス。世界の望みに反する自由だけは、あなたにはないのよ」


 ミス・フラワーは、努めていつも通り朗らかに話している。

 けれど、どうしても弱々しくなっているその声からは、何か重いものを感じた。


「あなたが与えられた役割を後回しにし続けていたり、意識から外している、それだけなら構わないの。けれどね、それに逆行すること、或いは明確に方向性が違うことをあなたが目指すことは、許されないのよ」

「言いたいことは何となくわかるけれど……でも別に私はそこまでのことは考えていないわ。ただ、特に乗り気ではないだけで」

「ええ、そうね。あなたの認識では、そうなのよね。でもあなたの心は今、逸れつつあるのよ」

「私の心が……?」


 私という存在が、わざわざ世界自ら生み出した存在で、世界の力そのものともいえる力を持っている時点で、他とは違うことはもちろんわかっていた。

 だから、いつかは私も自らの役割に目を向けなければいけないのだろうなと、そういう風には思っていた。

 けれど今はそんなことよりも、目の前にいる愛すべき人たちと過ごす毎日が大切だから、目を向けていないだけ。

 それの一体何が、世界の意思に反しているというのだろう。


「アイリス。あなたは今、幸せだと言ったわね。それはとてもいいことなのだけれど、でもね、世界はそれを危惧しているの」

「は……?」

「世界は恐らく、あなたが世界のことよりも、自らの愛するものを選ぶんじゃないかと、恐れているのよ……」


 ミス・フラワーは笑みを崩して顔をしかめ、茎を少し折り曲げた。

 まるでこうして話していることが、命をかけたことかのように。


「ねぇ、アイリス。あなたは、あなたが大切だと思うヒトたちだけの為に生きたいと、そう思ったりしてない?」


 息も絶え絶えにそう尋ねられ、私の頭には瞬時に、ホーリーとイヴ、そしてファウストの顔が浮かんだ。

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