128 私は

 ずっと、疑問だったんだ。

 どうして私の中にドルミーレがいるのか。

 世界も異なって、何の繋がりも関連性もないはず私の中に、どうして『始まりの魔女』が眠っているのか。


 そういうことだったんだ。

 だからこそ、私みたいな何でもない存在の中に、彼女が……。


 私は、私が、私こそがドルミーレ。

 彼女が見ている夢の、その中の彼女自身。

 ドルミーレが見ている夢が、私。


 そんな滅茶苦茶な話と、一蹴する気は起きなくて。

 妙にストンと、私はその事実を理解した。


 ただ、でも、だけど。

 理解できることと、受け入れられることは全く別物で。

 私の心がその事実を拒絶して、体が反乱を起こした。


「────────」


 体を支える力は最早なく、私はその場でくず折れた。

『真理のつるぎ』は手からこぼれ落ち、無造作に投げ出される。

 胃が瞬間的に縮み上がり、中のものが勢いよく逆流してくる。

 全身に力が入らなくなってしまった私は、堪えることもできずにそのまま嘔吐した。

 魂すらも吐き出してしまいそうな勢いで。


 弛緩した体から、氷の様な汗が吹き出る。

 涙腺が決壊したかの様に涙が溢れ、視界が霞む。

 心が張り裂けそうな苦痛に苛まれて、わけがわからなくないなりながら、私はただその場に蹲った。


「ぁぁ……いや、いやぁ……ぁぁあぁぁあぁあああ……!」


 私は、ドルミーレ。私が、ドルミーレ。私は、彼女の夢にすぎない。

 私は、私じゃ、ない……。


 あちらの世界が夢から生まれたものだとしても、そこに生きている人たちは確固たる個。

 みんなそれぞれの心を胸に抱いた、一人ひとり確かに存在する人間だ。

 けれど私は、私だけは違う。


 私はドルミーレが見ている夢。夢そのもの。

 彼女が夢によって作り出したあちらの世界の、夢での姿。

 私は私ではなく、飽くまでドルミーレなんだ。

 彼女があちらの世界という夢を見る際の、視点に過ぎない。


 はじめから、私なんてものは存在しなかったんだ。

 だって私は、ドルミーレが見ている夢なんだから。

 彼女が目を覚ませばはたと消えてしまう、本当の幻なんだから。

 それがたまたま、こうして自我を持ってしまっただけなんだ。


「アリス、ちゃ、ん……」


 氷室さんの掠れる声が、僅かに私の鼓膜を揺らす。

 それを聴覚として認識しているのに、今の私の心には全く聞こえてこない。

 他に意識を割く余裕なんてなかった。


 私は、はじめから存在すらしてない。花園 アリスわたしなんてものは、無いんだ。

 だって私は飽くまでドルミーレなんだから。彼女の微睡みの幻影なんだから。

 それじゃあ、心の中に彼女がいて当たり前だ。

 彼女こそが本当で、私は偽物に過ぎないんだから。

 私の方が仮住まいなんだ。


 ────私は私。あなたは私よ────

 初めてドルミーレと面と向かい合った時、彼女が言っていた言葉。

 その意味が、今になってようやくわかった。


「そんなのって……うそ、だ……いやだ、いやだぁ…………!」


 受け入れられない。理解したくない。知りたくなかった。

 私が私じゃないなんて、そんなことわかりたくなかった。


 私が今まで歩んできた日々は、感じてきた気持ちは、繋いできた心は、なんだっていうの?

 私が花園 アリスわたしじゃないんだっていうのなら、私の今まではなんなんだ。


 私がドルミーレの夢そのものであるという事実。

 それは私自身の否定。私の今までの否定。私の心の否定。

 それが何よりも、辛く苦しかった。


 私が幸福を感じてきた日々、愛おしいと思ってきた人々への想い、培ってきた沢山のもの。

 それは全て私自身のものではなく、ドルミーレの夢物語だった。

 私が大切にしてきたものは全部、最初から私のものじゃなかったんだ…………!


 頭も心もぐちゃぐちゃ。思考も理性も、どこかへ行ってしまった。

 地面に突っ伏しながら、力の入らない手で頭を掻きむしり、ただ泣き叫ぶ。

 汗と涙と唾液と胃液に塗れながら、けれどそんなこと一切気にできずに。

 狂った様に泣き喚くことしかできなくて。


 あぁ。このまま狂い果ててしまえばどんなに楽だろう。

 辛い現実、苦しい真実を投げ捨てて、何もない空虚に身を投げられたらどんなに救われるだろう。

 このまま、苦痛の果てに心が壊れてしまうのも、それはまたいいのかもしれない。

 だってはじめから、花園 アリスわたしなんて存在しなかったんだから……。


『────アリスちゃん』


 そう自暴自棄になりかけた時、心の内側からとても優しい声が聞こえた。

 静かで涼やかで控えめな、消え入りそうな声。

 けれどそれは確かに、暗雲に包まれた私の心の中で声を上げた。


『自分を見失わないで、アリスちゃん────アリスちゃんは、アリスちゃんだから────それは、私が……よく、知ってるから……だから……』


 それは、何度も私に語りかけてくれてきた声。

 誰だかはわからないけれど、心の中の森で出会った、いつも私を助けてくれる声だ。


 そんな声が、必死で私に呼びかけてくれている。

 弱々しくも、確かな想いを込めて。


 けれど、花園 アリスわたしという存在が他人のものである以上、私自身なんてものは存在しない。

 この心だって、本来は存在しない、簡単に消えてしまう幻なんだ。

 どんなに呼び掛けてくれたって、私はそもそも……。


『そんなことは、ない……ないから……』


 それでもその声は、挫けることなく私に手を差し伸べてくる。


『始まりが、なんであったとしても。正体がなんであったと、しても。今ここで沢山のことを感じている、アリスちゃんの心は……確かに存在、してるから。こうして、私と繋がっているから……』


 でも、それすらも幻なんだ。はじめから存在なんてしていなかったんだ。

 私が感じるあらゆる気持ちも、私のものではなくて……。


『違う。アリスちゃんの気持ちは、アリスちゃんだけのもの……。他の誰のものでもない、あなたの、心……』


 そんなこと、ない。私はドルミーレの夢に過ぎなくて、この深奥には彼女がいる。

 そんな私の心が、私自身のものであるはずがないんだ。

 私が感じているものも、ドルミーレが見ている夢が描くもの。

 私自身のものなんて、はじめから何一つとして……。


『いいえ……ちがう、違うから……。私が感じているあなたの心は、紛れもなく、アリスちゃんのもの。この繋がりに、他の誰も混じってなんて、ない。私たちの繋がりは、私たちだけの、もの。アリスちゃんの胸には、確かに……アリスちゃんだけの心があるって、私が……知ってる』


 私だけの心。そんなもの、本当にあるのかな。

 ドルミーレの夢から生まれた私に、私だけのものなんて。


『ある……ある、から。だって、彼女には他人と心を繋げることなんて、できない。私や……沢山の友達と心を結べるのは、アリスちゃんだから……アリスちゃんの心、だから。それが、アリスちゃんが確かにアリスちゃんである、証……』


 私が私である、証────。


『そう。アリスちゃんに繋がる沢山の心が、あなたを証明、してる。だから、見失わないで。友達との、心の繋がりを。それが結ぶ、あなた自身の心を。あなたはアリスちゃん。他の誰でもない、私の大切な、友達────』


 ……そう。そうか。そうだ。

 孤独をまとい、寂しさに埋もれるドルミーレの心では、誰とも繋がれない。

 そもそも他人を必要とせず信じない彼女には、繋がるという概念がない。


 でもこの心には、私の心には、確かに沢山の友達が繋がっている。

 私が育んできたみんなとの想いが、私を沢山の人たちと繋いでくれている。

 例え私の心があやふやなものでも、この繋がりだけは確かに存在するものだ。

 この繋がりに込められた想いだけは、決して否定しちゃいけない。


 私は、みんなとの繋がりの中で確かに存在しているんだ。


 ドルミーレの夢に過ぎなくても。幻影のようなものだったとしても。

 私に繋がってくれている友達が、花園 アリスわたしを証明してくれている。

 この繋がりがある限り、私は、私だ────!


「はは……そうだよ……それで、いいんだ……」


 心に温かさが戻ってきて、私はゆっくりと顔を持ち上げた。

 どんなに言葉を並べても、私がドルミーレの見ている夢であるという現実は変わらない。

 けれど、この心をみんなが保証してくれているから、私は花園 アリスわたしでいられる。


「私は……私────私は、花園 アリスなんだ……」


 ありがとうと、心の中でお礼を言う。

 返答はもう聞こえなかったけれど、この心を包んでれる温かさがあの声の存在を教えてくれた。

 今も尚、ずっと私と繋がって守ってくれるその心。

 友達が、私をこの現実に繋いでくれる。


「もう、見失わない。私は、私を見失わない。どんな真実でも、どんな現実でも、私は私として今を生きてるんだ……!」


 腕に力が入る。足はもう震えていない。

 私はぐいと体を持ち上げて、足で地面を踏み締めて膝を立たせた。


 傍で自由のきかない体で蹲りながら、それでも心配そうに私に顔を向けている氷室さん。

 そんな彼女にそっと笑顔を向けて、再びその体を支えるべく手を添えた。

 私はもう大丈夫だと、今の自分の在り方を受け入れて、それでも前を向くんだと。


 その肩を抱いて、強く身を引き寄せる。

 彼女との繋がりもまた、私の証明だ。私を表してくれる大切な友達だ。

 絶対に、守らなくちゃいけない。


 苦しみや悲しみ、不安や恐怖はあるけれど。

 それでも、大切な友達が私を示してくれるから、踏ん張れる。

 今は、前を向く時だ。


 そう胸に抱いて前を向くと、レイくんは驚く様に目を見開いて。

 そしてとても嬉しそうに微笑んだ。

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