129 魅了に溺れて

「君なら……アリスちゃんなら、決して挫けないと信じていたよ」


 安堵の表情を浮かべ、レイくんはホッと息をついた。


「ごめんね、辛いことを語ってしまって」

「ううん。話してくれて、よかった。ありがとう」


 このままずっと知らないわけにはいかなかった。

 私がこの先も自分の運命に向かい合っていく上で、避けては通らないことだった。

 だから、それをちゃんと知れたことはよかった。


 私のお礼に、レイくんは静かに首を横に振った。


「お礼を言ってもらえる資格は、僕にはないよ。僕は君に何も言ってあげることはできなかったからね」


 そう言って、レイくんは申し訳なさそうに眉を寄せた。

 ドルミーレのことも、そしてそこから発生した私のことも、どっちもよく知っていて。

 その上でこれまで、その事実を口にしてこなかった罪悪感があるのかもしれない。


 けれどきっと、もっと前に聞いていても私は受け入れられなかったと思う。

 ここまできたからこそ、ここまでみんなが繋いできてくれたからこそ、私の心は強くなれたんだ。

 だから私は、レイくんを責める気にはならなかった。


「ただ僕は、君に対して、もう不義を働きたくなかったんだ」

「レイくん……」


 しっかりと力強く私を見つめるレイくんの表情は、凛と澄んでいて何の混じり気もない。

 考え方ややり方の反りが合わなくても、レイくんが私を想ってくれている気持ちはとても純粋なものだとわかる。


「僕は、アリスちゃんには誠実でありたかった。だって────」


 片膝をついたまま、レイくんはそっと私に手を伸ばす。

 その細く繊細な指先が、頬に優しく触れた。

 その煌びやかな笑みは、まるでお伽話王子様のようで。


「僕はこれから、君の心を踏みにじるのだから」

「────!」


 反応が遅れた。

 身を翻す暇も、地面に転がった『真理のつるぎ』に手を伸ばす暇も、ありはしなかった。

 レイくんの手は優しく私の頰を包んで、そしてその瞳は揺らぐことなく私を見据えている。


 瞬時に、頭に霧がかかったようにボンヤリした。

 甘く華やかな香りに包まれたように、気分がふわふわする。

 びっくりするような安らかさに満たされて、心を委ねてしまいそうになる。


 けれどそんな中で、私の理性が叫んだ。

 この柔らかさに身を委ねてはいけないと。

 心をしっかりと保てと。


「────」


 微睡の中のように、堕落への誘惑が強い。

 自分の全てを他者に預けてしまいたくなる。

 そんな誘惑の中で、これがどこからもたらされているものか本能が告げてた。


 目の前で、レイくんが優しく微笑んでいる。

 あの胸に飛び込んで、力強く抱かれたい────違う。

 あの笑顔を向けてもらえるのなら、私は何だってする────違う。

 レイくんが喜ぶのなら、私は自分の全てを────違う。


 ああ、あぁ、あぁぁ……。

 思考が、感情が、本能が。

 私を構成する全てが、レイくんに傾いていく。


 私の中の全てがレイくんに塗り替えられていくのがわかる。

 これが、これこそがレイくんの魅了。レイくんに魅入られるということなんだ。

 完全に油断した。レイくんははじめからそうしようとしていたと、わかっていたのに。


 レイくんに優しくしてほしい。レイくんに喜んでほしい。レイくんに褒めてほしい。レイくんに笑ってほしい。レイくんに、愛してほしい────違う!!!


 ちがう……ちがうよ、違うでしょ、私……!


 レイくんのことは友達とだと思う。好きだ。

 けれど、私の全ては────レイくんのもの────じゃない……!

 私の意思は────レイくんの為だけ────じゃない!!!


 私は、私の意思で、私の、心で……!


「無理をしちゃいけない。体に、いや心に悪いよ」


 心の中で歯を食いしばって踏ん張る私に、レイくんは甘い声を出す。

 頰を撫でるサラサラとした指先が心地よく、永遠に触れていてほしい。このまま、私の全てをその肌で包んでほし────ち、が、あぁあぁぁぁぁぁ……。


 目尻が下がっているのがわかる。

 口元が緩み、頰が赤らむのがわかる。

 自分自身が、レイくんに全てを許そうとしているのがわかる。


 ダメだ。負けるな。私はこんなこと望んでない。

 レイくんのことは好きだけれど、私が抱いている気持ちはこれじゃない。

 レイくんに全てを委ねることなんてできない。

 私は、自分の意思で、自分の心で、自分の道を、進むんだ。


「……やっぱり君には効きにくいなぁ。心の強さは、やはり一級品か。でもまぁ、問題はないだろう」


 レイくんの親指が私の唇を撫でた。

 優しい瞳は私を虜にして、私の心を縛り付ける。


「大丈夫。はじめは違和感があるかもしれないけれど、慣れたらきっと甘露だ。アリスちゃんは、僕に全てを委ねてくれればいい。僕が必ず、君の心を守ろう」

「────────」


 体が動かず、言葉も紡げない。

 抵抗も拒否もできず、私の体はレイくんの思うがまま。


 だめ、だめなんだ。

 レイくんの好きにはさせられない。

 この力を、思い通りになんてさせられない。


 私自身がドルミーレであるというのなら、尚のこと。

 私はこの力を持つ者として、彼女の夢として、責任を果たさなきゃいけない。

 この力から、ドルミーレから発生したあらゆる苦しみを、なくさなきゃいけないんだ。


 それを、誰かを傷つける為に、誰かを否定する為に、使わせるわけにはいかないんだ。


「レ、イ……くん────」


 辛うじて自分の意思で口にできた言葉。

 けれどすらも、意図していない甘みを帯びていて。

 私にできることは、ただ心を強く保ち、その想いを視線に込めることだけだった。


 不屈の意思を。揺るがぬ心を。レイくんへと向ける。

 でもレイくんの瞳が映す私の顔は、ひどくチグハグしていた。


「あぁ、アリスちゃん。君は本当に素敵な女の子だ。できることなら、もっとゆっくり時間をかけて、君と心を融け合わせたかった」


 レイくんが少し寂しそうに微笑む。

 やだ。もっと華やかに笑ってほしい────じゃない。

 堕ちるな……飲み込まれるな……わたしッ……!


「でも今は、もう手段を選んではいられないんだ。君の心を虐げて、危険に晒すようなことはしたくなかったけれど、仕方ない。僕が君を守るから、許してね」


 両手で私の頭を包んで、コツンとその額を合わせてくる。

 息遣いがわかる至近距離で、鼻先は触れ、唇もあと少し。


 このまま全てをかなぐり捨てて、融けてしまいたくなる気持ちを、意地だけで堪える。


「さぁ、一緒に。君の心の奥底へ飛び込もう。僕が深淵の扉を開き、彼女をもこの腕に抱こう」


 辛うじて抵抗できるのは、心だけ。意思だけ。

 レイくんに抱かれ、囁かれ、体が緩む。

 そして、私の意識は中へと落ちた。

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