73 残された道

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『まほうつかいの国』の外れ、『魔女の森』。

 ワルプルギスの本拠地である神殿から少し外れところに、巨大な木々に囲まれた海のように広い湖がある。

 そのほとりに、森の中にはそぐわないテーブルが設けられた。


 共に並べられている椅子には、一人の女が腰掛けている。

 闇が形を成したような漆黒のドレスは、夜の森の中に溶け込むように暗い。

 テーブルの上に置かれている小さなランプの火の光が、吸い込むようなその黒をチラチラ照らしている。


 ワルプルギスの魔女クロアは、一人森の中で紅茶を嗜んでいた。

 何者も訪れない暗闇の中で、かつてへと思いを馳せながら。


 天を覆い尽くす天蓋のような木の葉の隙間から、僅かな月明かりが差し込んで、その蝋のように白い顔を照らす。

 それは孤独と憂いをまとった女の表情を、更に強調させていた。


「やぁ、こんなところにいたのか。クロアティーナ」


 静寂を破る声が、草花を揺らす音と共にクロアに耳に届いた。

 手に持つカップをテーブルに置いてから振り返ると、夜闇に紛れた黒尽くめの姿が目に入った。


「……レイさん」

「懐かしいね。昔はよくここで、アリスちゃんと楽しいお茶会をしたね」


 ホッと安堵の息を吐くクロアに、レイは艶っぽい笑みを向けた。

 それはかつての夢のような日々を愛でる、優しく甘い顔。


「お邪魔してもいいかな?」

「はい、もちろんでございます。レイさんも召し上がられますか?」


 向いの椅子に座りながら頷くレイに、クロアは新しいカップを魔法で作り、ポットの紅茶を注いだ。

 深緑満ちた森の中で、芳しい果実の香りが漂った。


「リーダーのご様子はいかがですか?」

「もうすっかり落ち着いたよ。今はゆっくり休んでる。心配には及ばないよ」


 紅茶に一口含んでから、温かいと共にレイはそう答えた。

 体に染み渡る紅茶のお陰か、その表情はとても穏やかで柔らかい。


「その時はもう目の前だ。彼女には必要な時まで、その心も体も穏やかでいてもらわないと」

「左様でございますね。指導者が乱心なさっては、士気に影響が出てしまします」

「……そのことなんだけれどね、クロア」


 胸を撫で下ろすクロアに、レイが言いにくそうに言葉を続けた。

 飽くまで爽やかな笑みを浮かべたまま、軽やかな様子は崩れない。

 しかしクロアは、嫌な予感を覚え眉をひそめた。


「僕は、ホワイトのやり方に従おうと思うんだ」

「なっ……それは、本当でございますか……!? 多くの魔女を危険に晒し、多大な犠牲を払うであろうリーダーの方策に、レイさんが!?」

「ああ。僕もはじめは反対だったけれどね。でも今となっては、道はそれしか残されていない」

「そんな……そんなことは…………!」


 口元を両手で覆い、クロアは悲鳴のような甲高い声を上げた。

 元から白すぎるその顔は更に血の気が引き、青が差している。

 細い指は小刻みに震えており、その衝撃を受け切れていなかった。


「もちろん、僕だって犠牲は出したくない。けれど、このままではジャバウォックが顕れてしまう。そしてなにより、魔法使いの手にアリスちゃんが渡ってしまうことは避けなければいけない。どちらにしろ僕らは、生き残る為に戦わないといけないんだ」

「それは、わたくしとて承知しております。ですが! ですが、だからこそ姫様をお迎えするのではないのですか? 無用な戦い、犠牲を生まない為に」

「そうだね。けれどそれができる段階はもう過ぎてしまったんだ。アリスちゃんに全面的な協力を仰ぐのは難しい。とすると、僕らにはこうするしかないのさ」

「あぁ……! そんな…………」


 震える声を漏らし、クロアは手で顔を覆った。

 魔女の自由を求める自分たちが、同胞の犠牲を伴う行いをしなければならないという事実に、心が震えた。

 穏やかで温かな日々を望む彼女にとって、それはあまりにも対極のものだった。


 クロアが戦える時は、いつも愛おしきアリスの為だけだった。

 本来彼女は、率先して戦いに身を投じることのできる女ではない。

 最愛の少女の為ならば何でもできるが、しかしそれを除けばか弱い女にすぎない。


 死に怯え迫害に苦しむ同胞が、更に危険を冒さなければならなくなるなど、震えるほどに恐ろしい。

 悲嘆に暮れるクロアに、レイは柔らかい言葉をかけた。


「苦しいのは、辛いのはわかる。けれどこれも、全部アリスちゃんの為だ」

「姫様の、為……?」

「そうとも」


 小枝のように細い指から目を覗かせ、唇を震わせるクロアにレイは頷いた。

 その恐怖を和ませるように、温かい笑みを浮かべて。


「戦いは無謀だ。危険を伴うし犠牲も出るだろう。けれどそうして魔法使いを留めている裏で、再臨の儀式を行う。そうすれば僕らの勝ち、魔女の世界が訪れる」

「再臨の儀式を……!? しかし、姫様はまだそこまでお力を制御できてはおりません。それは本来、もっと時間をかけて行われるはずのことでは……?」

「ああ、そうだね。けれどこういう状況だ。アリスちゃんが彼女に打ち勝ち、力をものにするのを待つ時間はない。万が一それができたとしても、その力をアリスちゃんは貸してはくれないだろう。だから、最終手段を使う」

「まさか、リーダーは……!」


 驚きと共に顔から手を退けたクロアは、信じられないという目でレイを見た。

 それを受けたレイは静かに微笑み、小さく頷く。


「僕としては、アリスちゃんがドルミーレの力を完全に使いこなした上で、僕らの上に君臨して欲しかった。けれどもうそんなことを言っている場合じゃないからね。今優先するべきは、アリスちゃんの心と世界の再編だ。まぁこのケースを想定していなかったわけではないからこそ、ホワイトをリーダーに招いたんだからね」

「そうで、ございますね。大切なのは姫様を仰ぐことではなく、その身の安泰。そして目指す穏やかな理想の世界。その為ならば、多少のことには目を瞑るのも致し方ございませんね……」


 クロアは頷きながらぬるくなったティーカップを両手で包んだ。

 今の状況を鑑みてみれば、確かに最善を望み続けていられないことはわかる。

 最も守らなければならないものの為に、取捨選択は必要だ。


「姫様を手中に置けない以上、魔法使いとの戦いは避けられない。しかしその戦いを起こすことで、計画を最終段階まで進めることができるのならば……些か予定通りでなくとも、それが何より姫様の為であると、そういうことでございますね?」

「うん。これ以上アリスちゃんとぶつかったり、強制したりしたら、その心がドルミーレに喰われてしまうかもしれない。しかしそこに時間をついやしていると、魔法使いの手に落ちてしまったり、ジャバウォックの顕現を許してしまうかもしれない。アリスちゃんを思えば、これが最善だ」


 時間が経ち渋くなったであろう紅茶を見下ろしながら、クロアはその現実的な言葉を頭の中で反芻した。

 決して望ましい方策ではないが、それが愛おしいアリスの為ならば堪えて進むしかないと自分に言い聞かせる。


 いくら目の前の危険を回避したとしても、最終的に目的を達せられなければ何の意味もないのだから。

 アリスを失い、あの温かく幸せな日々を取り戻せなくなってしまったら、何の意味もない。

 一番大切なものはとうの昔から決まっているのだから、選択する道を迷う必要などない。


「わかりました。レイさんがそう仰るのであれば、わたくしも」


 怯えを全て飲み込み、クロアは顔をあげた。

 その決意は、ただ最愛の者を思うが故に。

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