34 今までとは違う

「クロアさん……!」


 私の腕を絡みとったのは、漆黒のドレスに身を包んだ魔女だった。

 母性に溢れた柔和な笑みを浮かべながら、まるで大切なものをいだくように私の腕を包み込む。


 私がその顔に向いて目を見開くと、クロアさんは更に笑みを綻ばせて、絡める腕の力を強めた。


「ご機嫌麗しゅう、姫様」


 まるで道端でばったり会ったような気軽さ。

 その場違いな朗らかさに毒気を抜かれそうになる。


 クロアさんから注がれるのは、ただ慈しみに満ちた温かな視線。

 まるで愛しい恋人にするように、私の腕を一体化しそうな勢いで抱きしめてくる。


 その細腕の繊細さと、対照的に柔らかさに富んだ圧力に挟まれ、気を抜けば強制的に思考を緩まされそうだった。

 それほどまでに、クロアさんが与えてくるものは穏やかだった。


「……クロアさん、私」

「無事に記憶と力を取り戻されたとのこと、お喜び申し上げます、姫様」


 なんて言葉をかけるべきか迷いながら口を開いた私に、クロアさんは微笑んだ。

 その温かな笑みを向けられると、かつての日々をどうしても想起してしまう。


 クロアさんとはここ最近色々あったけど、でも私たちは七年前に既に出会っていて、楽しい日々を共にしていた。

 こうして向き合うクロアさんは、暗躍するレジスタンスの魔女ではなく、あの日々で私に優しくしてくれたお姉さんだった。


『魔女の森』で過ごした約一ヶ月間。

 ずっと一緒にいてくれて、面倒を見てくれて、沢山お喋りをした。

 クロアさんは私のことをとっても大切にしてくれたし、私もクロアさんが大好きだった。


 あの日々を思い出すと、途端に情が溢れ返る。

 ここ数日の彼女の行き過ぎた行動も、その深い愛情故なのだと思えば、あまり責められないかもしれない。


 けれど、クロアさんは今、ワルプルギスの魔女。

 ホワイトをリーダーと仰ぐレジスタンスの一員だ。


「ごめんなさい、クロアさん。私、あなたに謝らなきゃいけないこと、沢山あります」

「良いのです。確かに悲しく思うこともありましたが、わたくしはあなた様の想いを尊重します。姫様を、愛しておりますので」

「…………」


 蝋のように蒼白な肌をほんのり赤らめ、クロアさんはふわりと微笑む。

 甘い柔らかさを持った瞳が、とろけそうな視線を送ってくる。


「話したいことだって、沢山あります。けど、今は…………今は、この手を放してください。私は、ホワイトを止めないといけないんです」

「申し訳ございませんが、それは致しかねます」


 視線を逸らしたくなるのをこらえながら、真っ直ぐ見つめて懇願すると、クロアさんはシュンと眉を落とした。

 叱られることを恐れる小さな子供のように。垂れ目気味な目尻からにはやや光るものがあった。


「それは、クロアさんがワルプルギスだからですか……? ホワイトの部下だから……」

「左様でございますと、申し上げるべきなのでしょうが……この場合は、いいえと」


 更に私の腕に締め付けながら、クロアさんはそっと首を横に振った。

 柔らかな感触の間にグイグイと腕が沈み込んでいくけど、締め付けの方が強くてあまり気にならない。


「わたくしはあなた様をお守りする為、お止めしているのです。姫様は今、戦ってはなりません」

「どういうことですか? 私だって別に好きで戦うわけじゃないですけど……今戦わなきゃ、被害が……」

「多くの被害より、御身です」


 私の目を覗き込むように見ながら、クロアさんはやや震える声で言った。

 その切実な言葉に気圧されそうになる。

 それでもなんとか飲み込まれないように気を張って、負けじとその目を見返した。


「私なら大丈夫です。今までだって何度も戦ってきたし、力を取り戻した今ならもっと上手く戦えます。だから……」

「そういうことではございません……!」


 声を荒げピシャンと言い放ったクロアさんに、思わずビクリとしてしまった。

 そんな私を見てクロアさんはハッとし、慌てて「申し訳ございません」と謝りながら項垂れた。

 それでも、絡まる腕の力は緩まない。


「あの……どういう、ことですか?」


 今すぐ戦いに飛び込んで、みんなを守ってホワイトを止めたい。

 その気持ちをグッと堪えて、目の前で子供のようにしょげるクロアさんに言葉をかける。

 この人は表現の仕方が下手なだけで、その強い想いは本物だから。

 無下には、できなかった。


 私の問いに、クロアさんは視線を落とした。

 その瞳にはキラキラと宝石のような涙が溜まっている。

 日の光を反射して輝くそれは、まるで新緑に浮かぶ滴のよう。

 場違いにも、その姿はとても可憐に映った。


「…………今だからこそ、なのでございます」


 瞬きと共に涙の滴がこぼれ、白い頬を伝う。

 しかしそのことに気を向けることなく、クロアさんは震える声で口を開いた。


「封印が解けた今だからこそ、あなた様は軽率にその力を使ってはいけないのです」

「力を……? でも、当時だって力は普通に……」


『まほうつかいの国』にいた間、私はその力を使って戦ってきた。

 そして封印されていた最近も、その一端を限定的に使うことで、様々な危機を乗り越えてきた。

 今更、使っちゃいけないなんて言われても……。


「姫様はお忘れでございますか? あなた様がどうして、自身を封印されることをご決断なさったのかを……」

「それは……」


 泣き付くように尋ねてくるクロアさんに、反射的に視線を逸らしてしまう。

 私がそれを決断したのは、当時の私ではドルミーレに対抗するだけの力がなかったからだ。

 彼女の力を使っているが故に、常に彼女の存在が迫ってくるのを感じて、それが恐ろしくなった。

 力を使い続けることで、『始まりの魔女』に飲み込まれてしまうんじゃないかって、そう思って────────。


 そこまで思い起こして、ハッとした。

 クロアさんが、唇を結ぶ。


「思い当たりましたでしょうか。姫様、あなた様のお力は始祖様よりいずるもの。その力を使えば……」

「ドルミーレが、私に迫ってくる……?」


 当時、王族特務の人たちに言われて、私は力を使いこなすための修練を積んだ。

 力を使えるようになればなるほど、私の心の中で眠るドルミーレの存在感が強くなっていくのを感じた。

 封印をされていた時はもちろん感じなかったそれを、今は同じように感じる。

 眠っているから静かではあるけど、確かに心の奥底に大きな存在がいると、感じてる。


 今私が力を使えば、また彼女の存在が大きくなってくるってこと?

 でも、それを押さえ込んで、最終的には立ち向かうために、私は心が強く成長するまで待ったんだ。

 レイくんや他のみんなも、今の私ならきっと大丈夫だって言ってくれた。


 ここ数日彼女と対峙することもあったけど、それだって乗り越えてきたし。

 今、そう簡単に飲み込まれるとは……。


「あなた様は確かに、強く逞しくご成長なされました。しかし、以前とはまた状況が違われると、姫様もご存知のはず」

「どういう、ことですか……?」

「この数日間、何度かドルミーレ様は表にお顔を出しになった。その度にあなた様はそれを押し込めていらっしゃいましたが、それは一重に封印があったからなのです」


 切迫したクロアさんの言葉に、背中に汗が伝った。

 嫌な予感が、ゾクゾクと全身を這い回る。


「恐らく封印という障害が、ドルミーレ様を抑制していたのです。しかし、それでもあの方はお顔をお出しになった。それはつまり、目覚める意志をお持ちになり始めたということ。以前とは、もう違うのです」


 私に縋り付くようにしなだれ掛かってくるクロアさん。

 その華奢な身体を私に預け、力強く訴えてくる。


「今、そのお力をお使いになられれば、あのお方の目覚めを促進することとなるでしょう。姫様、わたくしは……あなた様を失いたくはございません……!」


 涙混じりの訴えに、私は言葉を失った。

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