6 手に残る熱

 ひとしきり抱きしめ合ってようやく腕を放した頃には、ここまで走って来て熱っていた身体はスッカリ冷えてしまっていた。

 でもそんなことよりも今は氷室さんに極力引っ付いていたくて、私はその隣にピッタリくっ付いて座った。


「冷たッ!?」


 境目がないくらいに引っ付いて氷室さんの手を握ると、まるで氷のようにキンキンに冷たかった。

 元々氷室さんは比較的体温が低くて、その手はヒンヤリしてることが多いけど。

 それにしても尋常じゃない冷たさで、私は思わず悲鳴と共に飛び上がってしまった。


 慌てて顔や首元を確認してみると、案の定どこもかしこも氷の彫像のように冷たくて。

 それによく見てみればバレないようそーっと小刻みに震えていた。

 寒かったったんじゃんと私がツッコむと、氷室さんは私から視線を外してミリ単位でほんの僅かに頷いた。


 私は大慌てで近くの自動販売機で温かいミルクティーを二つ買って、氷室さんのほっぺにぐいっと押し付けた。

 雪のように白い肌にほんのり赤みが差して、澄み切ったポーカーフェイスがほんのちょっぴり緩む。

 もぅ、震えてるのにどうしてこんな寒空の中で読書なんてしてたんだか……。


 熱いくらいに温かなミルクティーを二人で並んで飲みながら、私たちはホッと一息をついた。

 まろやかな温かさが身体の内側から熱を広げてくれて、吐く息が白く濁る。

 熱いペットボトルを華奢な両手で包んで持って、ちびちびと口をつけている氷室さんは、まるで小さな子供のようで可愛らしかった。


 しばらく、私たちは静かにミルクティーの温かさを堪能した。

 会話は特にない。でも体を寄せ合って、肩が触れて、太腿までピッタリで。

 そんな風にくっ付いていると、何だかとっても落ち着いた。


「………………あの……アリス、ちゃん」


 ペットボトルの中身がなくなった頃、氷室さんが囁くように口を開いた。

 弱々しく伸びたその手は控えめに私の太腿に乗せられる。

 そして長めの前髪で目元をやや隠しながら、控えめに私を見上げてきた。

 黒髪の隙間から伺えるスカイブルーの瞳が、どこか不安げに揺れている。


「どうしたの?」


 口を開いたは良いもののなかなか次の句が出ない氷室さんに、私は優しく首を傾げた。

 脚に乗せられた手に自分の手を重ねる。

 白くて細いその手には、ミルクティーのじんわりとした温かさが残っていた。


 私の呼びかけに、氷室さんは視線を泳がせた。

 けれど懸命に言葉を紡ごうとしていたから、私はそれ以上催促はせずにゆっくりと笑みを送った。

 下にある氷室さんの手がモゾリと動いて、指の隙間に氷室さんの指が浮かび上がってきて、絡まる。

 そうやって私に縋り付くようにしてから、氷室さんはもう一度私を見た。


「…………やっぱり、帰りたい……?」

「氷室さん……」


 声は弱々しく、でも言葉には強い力がこもっていた。

 それが彼女にとってどれだけ切実な問い掛けで、そしてそれを口にすることにどれだけの勇気が必要だったか。

 それがひしひしと伝わってきて、ぎゅっと胸が締め付けられた。


 昨日記憶を取り戻した時、私は真っ先に帰らなきゃいけないと思った。

 その気持ちが今でもあるのは確かだ。

 けれどその衝動的な思考を正してくれたのが氷室さんだった。

 それは決して間違いではなかったし、私は止めてもらえて良かったと思ってる。


 でも一夜明けて落ち着いて、冷静になったところで不安になったんだ。

 私を止めたことは正しかったのか。私の本当の想いは、やっぱり帰ることなんじゃないかって。


 絡まる手から伝わる震えは、きっと寒さによるものじゃない。

 私を見つめるその鮮やかな瞳も、逸らしたいのを必死に堪えているように小刻みに揺れている。

 まるでお母さんに見捨てられたくない小さな子供のように、氷室さんは切実に私に縋ってきていた。


 その真摯な気持ちには、真っ直ぐ答えないわけにはいかない。

 私はもう片方の手を氷室さんの手の下に滑らせて、両の手で包み絡めとった。

 微かに、息を飲む音が聞こえた。


「帰りたいとは、思うよ。私はあそこに、沢山残してきてしまったものがある」

「ッ────────」


 そのまま心臓が止まってしまうんじゃないかと思うくらいに、ピキンと氷室さんの時間が停止した。

 ポーカーフェイスはそのままのはずなのに、その内側にある感情が引きつって、絶望の色が窺える。

 唇からこぼれる白い吐息は凍り付き、揺れていた瞳は私に釘付けになった。


 予想よりも激しいリアクションに、私は慌てて手に力を入れて否定した。


「ま、待って! ごめん、違うの! こっちを捨てて向こうに帰りたいって意味じゃないから! だから氷室さん、落ち着いて!」


 手を強くに握り込んで揺さぶると、氷室さんはゆっくりとその身体の硬直を解いていった。

 止まっていた呼吸が再開されて、微かに開いた唇の隙間から柔らかな息がこぼれる。

 それでも、そのスカイブルーの瞳は私を捉えたまま一瞬も外れなかった。


「ごめん、紛らわしい言い方をしちゃったね。帰りたい気持ちはどうしてもなくならないけど、でも私にはそれだけじゃないから。昨日約束した通り、私は氷室さんを置いてどこかに行ったりなんてしない。ここを捨てて行くなんて、絶対しないから」


 その小さな頭を撫でて、私は真っ直ぐに正直な言葉を口にした。

 氷室さんはほんの僅かに頷きながら、ささやかに頭を動かして、まるで猫のように自ら私の手に頭を擦り付けてきた。

 そのまま何度か艶やかな黒髪を撫でていると、私の手にはいつの間にかもちっとした頬が収まっていた。


 吸い付く白い肌が私の手の平を満たして、そのスベスベとした柔らかさが手の平と同化する。

 手に残っていた熱いペットボトルの熱が、キンと冷えたその頰に吸い取られていく。


 氷室さんはそのまま顔を私の手に預けてくるから、クニャッとふやけるように頰が歪んで、表情が緩んで見えた。

 普段無表情でクールな氷室さんには見られない少し抜けた姿に、私の心臓がトキメキで暴れた。


 今すぐこねくり回して愛でたいところだけど、グッと堪える。

 今はちゃんと、真剣にお話をしないといけない。

 私は胸の内で湧き上がる衝動を抑えるために、こっそりと息を吐いた。


 片手でその手をしっかり握り、片手ではその頬の柔らかさを受け止めながら、親指でささやかに撫でて。

 氷室さんを感じながら、私はしっかりとその瞳を見返した。

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