5 ただいま

 昨日記憶を取り戻した後、やっぱり私は頭と心の混乱が酷かった。

 昔の記憶と感情に飲み込まれるのは抑えられて、レイくんに自分の意思を伝えるとかはできたけど。

 それでもやっぱり、ずっと押し込めていたものが一気に込み上がって来たことで、私の精神は大分グラついた。


 それに、今までは限定的に、借りている形で使っていた力が私のものとして戻ってきた衝撃も大きかった。

 ドルミーレそのものが押し寄せてくることはなかったけど、私が当時使えていた力だけでも、それはとっても強力だったから。


 だから、そんな色々な事に心の中で折り合いをつけるのに必死で、私は正直周りのことが見えてなかった。

 思い出したは思い出したけど、その記憶の色々を精査できてなかったし。

 だから私はあれからすぐに家に帰って、一人でじっくり休むことにしたんだ。


 とっても心配してくれていた氷室さんが家まで送ってくれて、一緒にいるって言って泊まろうとしてくれたんだけど。

 でもその時は一人でゆっくり自分に向き合いたくて、その好意に感謝しながらも丁重に断った。

 不安定な心のまま氷室さんに甘えたい気持ちもあったけど、でも今は一人になるべきだって思ったから。


 でも、本当なら私は、記憶を取り戻してすぐに氷室さんに謝るべきだったんだ。

 約束を破ってごめんって、遅くなってごめんって、忘れちゃっててごめんって。


「私、本当に最低だ……!」


 果てしない時間を待たせすぎた。

 だからもう、一秒でも長く待たせたくない。

 だから私は、全速力で冬の街を走った。


 氷室さんは私の全部を受け入れてくれているし、今の私のことを想ってくれてる。

 だから、今更そんなこと良いよって言ってくれるかもしれない。

 もしかしたら、もう気にしてないかもしれない。


 だからこれは私の自己満足なのかもしれない。

 それでも私は、ずっとずっと助け続けてくれていた氷室さんとの約束をちゃんと守りたかった。


 一番に会いに行く。それそのものは、もうどうにもできないけど。

 でも、ずっと待ってくれていた氷室さんに、ちゃんとただいまって言いたいんだ。


 無我夢中で走る。

 身を切るような寒さが肌を撫でるけど、体が熱って全然気にならない。

 何よりとにかく、早く氷室さんに会いたかった。


 氷室さんがどこにいるかは、彼女の魔力の気配と、何より心の繋がりが教えてくれた。

 氷室さんは、昔よく私たちが会っていた公園にいる。

 たまたまかな。ううん、もしかしたら氷室さんも私を待ってくれているのかもしれない。


 そう思うと、自然と足が速く動いた。

 思わず魔法を使ってブーストをかけそうになるのを、必死で堪えながら。

 流石に日曜日の昼日中ひるひなかに超常的なスピードで街中を駆け抜けたら、色々問題だし。


「……いた!」


 公園はそう遠くない。

 あっという間に辿り着いて中を覗き込んでみれば、ベンチに座って本を読んでいる姿が見つかった。


 氷室ひむろ あられ。私のとっても大切な友達。

 涼やかな空気の中で、静かに文庫本のページをめくる姿は、まるで絵に描いたように清廉としていた。


 サラサラな黒髪のショートヘア。華奢な手脚に色白な雪のような肌。そして、鮮やかに澄んだスカイブルーの瞳。

 冬の景色にマッチしたその透き通る居住まいは、思わず見惚れてしまいそうなほど美しかった。


 こんな寒いのにわざわざ公園のベンチで読書なんて、なんだか氷室さんらしいなぁ。


「氷室さん!」


 走って来た勢いのまま公園に入り込んで、その名前を呼ぶ。

 周りで遊んでる子供達や家族連れの人たち。周囲の目なんて気にならない。

 私には、氷室さんしか見えてなかった。


 当の氷室さんは私の声でビクッと肩を揺らして、静かな動作ながらも素早くこちらを向いた。

 そのスカイブルーの鮮やかな瞳が、日の光を受けてキラキラと輝きながら私を映す。

 ほんの僅かに目を見開いて、驚きが窺える顔がそこにある。


「ア、アリスちゃ────」

「氷室さん、ごめん!!!」


 薄く開かれた唇が私の名前を呼び切る前に、私は氷室さんに飛び込んだ。

 タックルのような勢いでその胸に飛び込んで、首に腕を回してこれでもかと抱きしめる。

 氷室さんはびっくりしてるのかピクリとも動かず、体をギュッと強張らせた。


 しなだれ掛かるように覆い被さって、私はぎゅうぎゅうと抱きしめる。

 すると次第に氷室さんは体の力を抜いて、ゆっくりと恐る恐る抱きしめ返してくれた。


「氷室さん、本当にごめんなさい。私、約束したのに。すぐに帰ってくるって、約束したのに。ずっとずっと待たせて、挙げ句の果てに何もかも忘れて」

「…………」


 氷室さんの華奢な首元に顔を埋める。

 もう一瞬たりとも放したくない、できるだけくっついて、ずっと一緒にいたい。

 あの時から離れてしまった距離と時間の分を、今すぐ取り戻したい。

 そんな気持ちが、私を氷室さんから離さなかった。


「私、最低だ。本当に最低だよ。氷室さんはずっと私のこと信じて待っててくれて、遠く離れてても私を守ってくれてたのに。私はずっと自分勝手に、やりたい放題……。待ってくれてる人の気も知らないで、私は……」

「………………」


 氷室さんの細い指にじんわりと力が入って、私の背中をグッと捕まえる。

 ゆっくりと、でも確実に、私のことを捕らえるように腕に力が入っていく。

 氷室さんは何も言わないけれど、そこに彼女の気持ちが感じられた。


「…………アリスちゃん」


 そして、氷室さんがポツリと口を開いた。

 耳元で聞こえるその声は、とても静かで優しい。


「────おかえりなさい」


 恨み言でもなく、許しでもなく、慰めでもなく。

 氷室さんはただ穏やかに、そう言った。


 昔の私に言いたいことは沢山あるはずなのに。

 ここ数日一緒にいられているからって、それがチャラになるわけではないはずなのに。

 それでも氷室さんはただ、私を迎える言葉を口にした。


 その声を聞いて私はやっと、ちゃんと、本当に、帰って来た気がした。


「ただいま────氷室さん」


 心の奥底が、叫んだ。

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