24 もう一度名前を
「ちゃんと覚えてたか。お前忘れっぽいからさ、心配してたぜ。やりゃあできんじゃねぇか」
沈みかけのオレンジ色の日の光を背に浴びて、その燃えるような赤髪と相まってギラギラと濃い色を浮かべている。
彼にとっても笑えないであろう冗談を、薄い笑みで言うD8。
「…………!」
咄嗟に氷室さんがベンチから立ち上がって私を庇うように腕を広げた。
それにD8はつまらなそうに目を細め、鼻で笑う。
しかし飽くまで私しか見ていないとでもいう風に、氷室さんを通り越して私に向けてまっすぐ視線を送ってきた。
「そう言えばよぉ。この間もこんな感じの公園だったよな。ま、あん時はもう夜だったけどよ」
「…………魔法使いは夜にならないと行動しないって聞いたけど?」
私もベンチから立ち上がり、氷室さんの腕を下げて横に並び立った。
氷室さんは少し心配そうに私の方に顔を向けてきたけれど、私はそれに手を握ることで返した。
「よく知ってんなぁ、流石アリス。だがそれは魔法の不用意な露呈を避けるためってんで、人気の少ない夜を例えに上げてるだけだ。今はまだ日があるっつっても、ここにゃ人気なんかねぇだろ?」
D8は大仰に腕を広げて見せて、ニヤリと言った。
確かに、今この公園には私たち以外の人はいない。
この状況で人払いの魔法なりなんなりを使えば、彼らにとって気にすることは何もないんだ。
「……そう。それで何しにきたの? 連れ戻しに? それとも殺しに? 見たところ、今回は一人のようだけれど」
心を落ち着ける時間を稼ぐために、私はわざとらしく質問を投げかけた。
D8の姿を見た時から、私自身の心が激しく揺れている。
さっきまでの別のどこかから来るものではなくて、私自身の心が。
きっと私の中にいる『お姫様』が、D8に反応しているんだ。
そして私も、D8に対しては複雑な気持ちだ。
確かに彼とは以前激しくぶつかった。でも彼は私のことを想っていると言い、そして親友と呼ぶ。
さっきの氷室さんとの話を踏まえれば、彼らもまた氷室さんと同じ心境だろうから。
立場の問題で今こうして向かい合っているけれど、その胸にあるものは、悲しみや寂しさだろうから。
「……あぁ、まぁなんつーか、今回は俺だけだ」
D8はバツが悪そうに頭を描きながらモゴモゴと言った。
嘘をついているようには見えなかった。
ならきっと、不意を突かれたりするようなことはないと思っていいんだろう。
「ねぇ、D8」
「何だアリス。今日はやけに喋ってくれるじゃねぇか」
「……うん。私は、あなたと話がしたいから」
「話、ねぇ……」
D8は目を細めて噛みしめるように私の言葉を繰り返した。
そこには何か含むものが見えたけれど、D8は特にそれを口にしなかった。
氷室さんもまた不安げに私のことを見たけれど、敢えて口は開かずに見守ってくれている。
「この間は何もわからなくて、わけがわからなくて────今もわからないことだらけだけれど────でも、しっかりと話がしたいの。お互いのために」
「なるほど。それは確かに、お前らしい」
D8は微笑んだ。とても優しく、微笑んだ。
私が見たことのある、気だるそうな表情や荒々しい表情とは全く違う、柔らかい表情がそこにはあった。
虚を突かれた私は、思わず気を抜いてしまいそうになった。
「あなたたちは私のことを親友だって言った。そのことを私自身は覚えていないけれど、でもそれは事実みたいだから。なら私たちは、争わない方法で落とし所を見つけられるかもしれない」
「……お前は、まだあの頃のこと思い出してねぇんだろ?」
「うん、ごめんなさい。私は当時のことを断片的な知識としてしか知らない。でも私たちが大切な友達同士だっていうことは、この心が教えてくれたから」
空いた手を胸の前で力強く握る。
D8の姿に呼応して鳴動する心を強く感じるように。
私の中にいる、当時を切り取った『お姫様』。彼女は確かに二人のことを大切な友達だと言っていた。
私にとって大切な友達だったと、掛け替えのない存在だったと。
今の私はそれを思い出して実感することはできないけれど。でもその事実を大切にしたいと思う。
私を想って、私のためだと言ってくれるのであれば、私も私でかつての友達を想って、わかり合える道を見つけたいから。
「ちっ…………」
しかしD8は苛立ちを隠すことなく舌打ちをした。
咥えた煙草を嚙み切らん勢いで歯を食いしばっている。
「やっぱり、お前はお前なんだよな。忘れてたとしても、人が変わっちまうわけじゃねぇ。クソッ……」
「D8…………?」
天を仰いで大きな溜息をつくD8の様子は、私の不安を煽った。
彼が一体何を考えているのか。再び現れた彼は、一体何をしに来たのか。
その不安を堪えるように氷室さんの手を握る手に力を込めると、それに応えるようにもう一方の手を私の腕に添えてくれた。
「アリス、お前の言う通りだ。俺たちは友達だった。親友だったんだ。お前が国にやって来て、俺たちは一緒に冒険をしたんだ。楽しかったぜ。今でもよく覚えてる」
「そう、なんだ……」
「俺もアイツも、お前のことが好きだった。優しくて強いお前が大好きでよ、お前のする無茶にいつだって迷わずついていったもんさ」
かつてを思い出し語るD8の表情は、穏やかなように見えて苦しげでもあった。
楽しかった日々は、もう戻ってこないとでも言うように。
「俺たちは、あの頃を取り戻したかったんだ。またお前と三人で一緒に楽しく過ごしたいってよ。だから俺たちはお前を救うために魔女狩りになった。だけどよぉ、現実ってのは厳しいのな」
大きく煙を吐くD8。
赤い日の光に照らされた煙が、もやもやと緩い影を作りながら薄く伸びて消えていく。
「やっと見つかったお前は案の定何にも覚えてなくて、思い出す兆しも見えなくて、挙げ句の果てには逃げられて。今はもう魔女と仲良しときた。最悪だぜ」
明らかに憎しみのこもった目が氷室さんを射抜く。
それに氷室さんが動じることはなかったけれど、崩れぬポーカーフェイスに冷ややかさが増した。
「D8、私……」
「なぁアリス。俺たちは多くを望んだわけじゃねぇんだ。ただ、またお前と笑い合いたかっただけなんだ。それ以上のものなんか、ちっとも望んじゃいない」
D8は私の言葉を遮って、まくし立てるように言う。
それは心の内に溜まっていた苦しみを吐き出しているかのようだった。
「でもどうやら、それすらも叶えちゃいけないらしい。もう俺には、どうすることもできねぇ」
「できるよ……! 私たち、まだどうにでもなるよ。もっともっと沢山話せば、絶対。私、記憶や力を取り戻す糸口はあるの。今すぐは無理だけど、でも近い内に必ず。だから、そうすれば────」
「いやアリス。そういうことじゃねぇんだよ。俺が言いてぇのは」
D8は口元に薄い笑みを浮かべてゆっくりと首を横に振る。
燃え尽きた煙草を宙に放ると、燃えかすは細かな灰になって風に乗って消えた。
「どういうこと? ねぇD8。あなたは私を連れ戻したいんじゃないの……?」
「────なぁアリス。一つ頼みがあんだ」
私の問いかけには答えず、D8は爽やかに言った。
気心知れた友達に語りかけるように穏やかな表情で。
「もう一回、もう一回だけでいいからさ。俺の名前を、呼んでくれねぇか? 今のお前なら、それくらいはできるだろ?」
それに何の意味があるのかはわからなかった。
けれど、その言葉が何を意味するのかはわかった。
私自身は覚えていなくても、私の中にいる彼女が、それをしっかりと覚えている。
「────レオ……」
心の奥底から浮かび上がって来たその名前を、心のままに口にする。
その一言を聞いたD8は、少しだけ目を見開いて、そして噛みしめるように深く目を閉じた。
その口元は、綻んでいた。
「────あぁ、それだ。俺はそれが好きだった。お前にその声で名前を呼んで貰うのが好きだったんだ。やっぱりお前はアリスだよ。何もかも忘れてようが、お前はどうしようもなく、アリスだ」
D8は満足そうにニカッと笑った。
でもその笑顔は私に向けられているというよりは、その奥先、かつての私に向けられているような気がした。
「ありがとよ。これで俺は満足だ。満足だってことにする。だから俺はもう気兼ねなく────」
指先に火を灯して新しい煙草に火をつける。
最初の一口を大きく吸い、吐き出した白い煙がその表情を覆い隠した。
「迷うことなく、お前を殺せる」
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