第56話 藤乃さんは二股恋愛にあこがれる②
「なんですか。そんな潤んだ目で見られると恥ずかしいです」
放課後の図書館で僕の横に座った藤乃さんは、すぐに椅子をずらし距離をとった。いつものように段ボール箱の中から本を取り出し、データ入力を始める。
「ほら、そろそろ終わりが見えてきましたよ」
それは僕たちの関係のことだろうか。
この春から延々と続けてきた寄贈本のデータ入力も、やっとあと一箱にまでなったのだけれど。
「それはつまり『本の切れ目が縁の切れ目』って事なのかな」
うん? と藤乃さんは首をかしげた。
もうこれは思い切って聞いてみるしかないだろう。
「あの、藤乃さん。さっきの、更科日記って……」
すると急に藤乃さんの表情が曇った。
「ええ、実は」
にゃゔーーーーっ!!
背後から、極低音の鳴き声が響いた。
「あ、熱っ」
同時に強烈な熱気が押し寄せる。僕は恐る恐る振り返った。
「ネコ?」
紫色がかった炎をまとった巨大なネコだった。口を開くと、舌のように炎が伸びる。まぎれもなくネコ型文妖だ。
「藤乃さん、これ何?」
「えーと。わたしは『あずきちゃん』と呼んでいるんですが」
まあ、確かに紫色だけど。
「やっとオオカミさんを
藤乃さんは少し照れたように頭を掻いた。
「この子は、きっと『更級日記』のなかで焼け死んだネコじゃないかと思うんです」
そういって古い『更科日記』を差し出した。
ああ。大納言の娘の生まれ変わりだという、あのネコ。
だけど藤乃さん、文妖に好かれ過ぎ。
☆
「なんだ、面白くない」
才原未散が腕組みをして、口を尖らせた。無意識のうちに胸を強調するポーズになっている。
「てっきり別れ話が聞けると思って、楽しみにして来たのに」
相変わらず人の不幸が好きなやつだ。
放課後の図書館には、折木戸と埜地を除く図書委員が集まっていた。
「そうだよね。藤乃さんが二股って、あり得ないか。それに藤乃さんの周囲の男って、君依くん以外には埜地くらいだものね」
斎原が頭を振った。
「え、いや、埜地は……違うんじゃないかな……」
もごもご、と才原が口ごもる。
何か言いかけた斎原を、そっと月沼さんが止めた。
「それで、どうしようかなと思って相談したんです。これ」
藤乃さんは足元にうずくまる炎のネコを指さした。ネコというより、ほとんどライオンくらいのサイズがある。
そのあごの下を平然と撫でてやっている。怖くないのだろうか。いやそれ以前に熱くないのかが不思議だ。
「ああ、触っても別に熱くはないですよ」
ネコの『あずきちゃん』はついには仰向けになってゴロゴロと喉を鳴らしている。
「じゃあ、ちょっと失礼して」
ぼくは手を伸ばしてその腹に触れる。
じゅ、と音がした。
「あ、熱いんだけど!」
火傷したような気がする。本当に指先が赤くなっているし。
文妖は人間の精神に影響を与える。そして精神は肉体に直結しているから、こんな事も普通に有り得るのだ。
「相変わらず馬鹿だね、かがりは。こんなもの熱いと思うから熱いんだよ。文妖を扱う際の基本でしょ」
そう言うと才原は『あずきちゃん』の太い前足を掴んだ。
「……!」
すぐに手を離す。
「ほ、ほら大丈夫でしょ。あ、熱くなんかないんだから」
「脂汗かいてるじゃないか」
「冷やした方が良くありませんか」
「大丈夫だって言ってるでしょ。でも、ちょっとトイレ行ってくる」
才原は右手を押えて、そそくさと図書館を出て行った。
「それはそうと。才原さんって埜地のことを?」
信じられないという顔で斎原が目をまん丸くした。皆で顔を寄せ、小声になる。
「だって埜地だよ。あいつのどこに惹かれる要素があるというの」
斎原、埜地を嫌い過ぎなんだけど。
「最近そんな雰囲気を出していらっしゃいましたよ、才原さん。埜地さんの方は、……うーん、まだよく分かりませんけれど」
月沼さんも少し困惑気味だ。
「もしかして、わたしと埜地さんが付き合ってると思ってたんですか」
藤乃さんが僕の方を見た。細い目に、少し責めるような色がある。
「いや、埜地とは限定してなかったけど。なんだか、二股とかそんな事を、斎原が言ってたし」
「さあ、何のことかしら。ねえ、月沼さん」
「はい会長代理。全然、心当たりがありませんよね」
本当に仲のいい二人だった。
☆
「別にいいんじゃない、図書館で飼えば」
頭を撫でようとして『あずきちゃん』に牙を剥かれた斎原は、少しふてた様子で言った。
「君依く……いや、図書館の主の座を賭けて、私の李徴さんと勝負しましょう」
なんだか僕の名前が出たような。
「そんな事、言ってません!」
「いやでも確かに……、あ、すみません。気のせいでした」
斎原の殺気を浴びて、記憶が戻りました。
藤乃さんは僕と斎原を見比べて、不敵に笑った。
「いいですよ。望むところです」
現れた巨大なトラ『李徴さん』と、紫炎のネコ『あずきちゃん』は僕を挟んで睨みあった。
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