第53話 今日は、しののめ古本市
「早く起きなさい、君依くん。古本市が終わっちゃうでしょ」
土曜日の早朝。僕の部屋には、なぜか斎原がいた。
僕は布団を剥ぎ取られ、ゆさゆさと身体を揺さぶられている。
うー、やめろ。もう少し寝かせてくれ。
でもなんだか、変な気分になってきた。
「あの、斎原。そこ押さえられると、ちょっと困るんだけど」
斎原の片手が、しっかりと僕の股間に掛かっているのだ。
こんな寝起きの状態を女子に触られるというのは、うれし恥ずかしだ。
あわてて手を離す斎原。
「やだ、こんなものを無理やり握らせるだなんて、君依くんの変態!」
斎原は手を僕のシャツで拭っている。
確かに最後、偶然を装って握ったな。
断っておくが、僕はひとつも強要した覚えはないからね。
「……なんだよ、まだ始まってもいないだろ。この時間だったら」
目覚まし時計を見て、僕は唸った。
「何を言っているの。古本市はね、始まるまでが勝負なのよ」
そんな法則、初めて聞いたぞ。
「でも今日は店番をしなきゃいけないと思うんだけど」
うちの母親もその古本市へ出掛けていったのだ。僕まで古書店『
「ああ、心配ないよ。
そうですか。さすが斎原、手回しがいい。
☆
バスを降りると、すぐに市民会館がある。
この大ホールが東雲古本市の会場だった。会場に入り切れなかった人たちは、隣接する公園に店を拡げているほどの大盛況だ。
「相変わらず、すごい人数だな」
年に一度開かれるこの古本市には、全国からバイヤーが集まってくると言ってもいい。それだけ希少価値のある本が売りに出されるという事でもある。
僕たち二人は、会場前で立ち尽くしていた。
斎原が僕の手を握った。
「あの……、斎原?」
「勘違いしないでよね。これは、わたしの能力を補強するためなんだから」
ああ。僕と接触する事で、斎原の遺伝子が活性化されるんだった。確かにこの膨大な量の古書の中から目的の本を見つけるためには、斎原が持つ、本の声を聞く能力を強化した方が効率的だろう。
「でも、なんだか必要以上に汗ばんでないか」
体温が上がってる感じもするし。
「こ、これはきっと、さっきの君依くんの変な体液が付いてるのよ」
いや。出してないから、そんなもの。
「おかしいな、何も聞こえてこない。もう手を繋いだくらいじゃ、ときめかなくなったのかな」
なんだか倦怠期の夫婦みたいな事を言われた。ちょっとショックだ。
「しかたない、君依くん。後ろからハグして」
こんな公衆の面前で、バカップルみたいな真似ができるか。
「なによ、意気地無し。君依くんなんかの社会的地位と、わたしが捜そうとしている貴重な本と、どっちが重要だと思ってるの」
質問のしかたがおかしい。
「その場合、斎原もバカップルの片割れだと思われるんじゃないのか」
ああ、斎原は頷いた。
「なるほど。それは気付かなかった。それは絶対嫌だね。うん、前言は撤回します」
じゃあ、と斎原は急にもじもじし始めた。
「君依くんの遺伝子を直接もらおうかな」
「なあ、斎原」
僕は我に返った。
「……どうしたの、君依くん」
とろん、とした顔で斎原がささやくように言った。
斎原の両手は僕の首に回されたままだ。
「あのさ。僕たちはまた目的を見失っているんじゃないか」
「え……?」
斎原の目の焦点が合った。
ぐい、と濡れた唇を拭う。
「もう、君依くん。そういう事は早く言いなさいよ!」
慌てて時計を見る。そして絶望的な表情になった。
「いったい、どれだけの時間キスしてたの。このケダモノ!」
それは僕だけの責任じゃないと思う。
☆
「あー、すごく時間をむだにしちゃった気分だよ」
斎原は手ぶらでバスに乗り込んだ。
「まったく。君依くんがあんな事しようなんて言わなきゃ、もっと本が買えたのに。めぼしい物はみんな売れた後だったじゃない」
確認しておくが、言いだしたのはお前だ。斎原。
しかも。
「それで、この量かよ」
僕は両手に大きなバッグを抱え、背中には登山用リュックまでしょっている。もちろん中はすべて古書だ。
すごく、重い。
「じゃあ、うちまでお願いね」
まあここまでは、いつもの事なのだが。
「ところで、君依くん。今晩、泊まっていかない? これも文さんに許可もらってるから。……ただ、今夜は寝かさないよ。それでよければ、だけど」
斎原さん。爆弾発言、じゃないんですか、これ。
すこし潤んだ真っ直ぐな瞳で僕を見る斎原。
純真な僕の心は揺れる。
でもなー、本来の彼女である藤乃さんを差し置いて、斎原とそういう関係になるのも気が引けるし。いやいや、何もなかったとはいえ、藤乃さんとはすでに一晩一緒だったことがあるのだから、斎原だけを疎外する理由もない。
そうだな、斎原が誘ってきたのだから、これは断れないだろう。
だって僕は斎原の従僕なのだから。
そんな逡巡を知ってか知らずか、斎原は僕の手をとった。
「いい、君依くん。まずはね、廊下に積み上げてある本を整理して、今日買ったものを置くスペースを作らなきゃいけないんだよ。それって、どう考えてもわたしだけじゃ無理でしょ」
ああ。あの本が崩れてきたら、確かに命に関わるだろうな。
これは徹夜の作業になるのも無理はない。
僕は悄然とした足取りで小柄な斎原の背中を追った。
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