第51話 眠り姫に告白を

 僕たちは、帰る前にもう一度藤乃さんに会いに行った。

 小さな工房群は静まりかえり、蝉の鳴き声だけが響いている。

「今日は、お休みなのかな」

 折木戸は庭の真ん中で立ち止まり、周囲の建物を見回した。


 だが、そんな長閑のどかな状況ではなさそうだった。

 藤乃さんの病室に続く廊下に、藤乃さんの両親と高代こうじろさんが倒れていたのだ。


「待て、がっちゃん。犯行現場を荒らしたらだめだ」

 そう言いながら、折木戸は駆け寄っていく。どうやら、一度言ってみたかっただけのようだ。


「外傷は無さそうだけど、これは……」

 どれだけ揺すっても反応がない。気を失っているのか、よほど深い眠りに入っているのだろうか。


「そうだ、藤乃さんは」

 僕は病室へ駆け込んだところで、足を止めた。中の光景を見て言葉を失う。

 藤乃さんが、ベッドの上に身体を起こしていた。


 ぎぎぎ、と音が聞こえるような緩慢な動きで、藤乃さんがこちらを向いた。

「なんだか、ホラー映画で見たことがあるぞ……」

 折木戸が呻いた。


 虚ろな瞳が僕たちに向けられている。その目は何処も見ていなかった。


「藤乃、さん……」

 僕の声に反応したのだろうか、ひとつ瞬きする。

「待て、なにかいる」

 中に入ろうとした僕を折木戸が制し、部屋の隅を指差した。

 もやっとした何かがうずくまって、空気が揺らいでいる。


 その動きに注意しながら、僕は藤乃さんのベッドに近付いた。

「気がついたのか、藤乃さん!」

「……」

 藤乃さんの唇が少し動いた。


 透明な空気の塊が微かな光を発して、立ち上がった。

 それは巨大な四足獣の姿をしていた。


「オオカミだぞ、がっちゃん!」

 いつか高校の図書館に現れた文妖と同じモノだ。僕は思わず一歩退いていた。そいつにやられた右足首の痛みが甦る。


 オオカミが跳んだ。

 次の瞬間、僕は床に叩きつけられていた。太い脚が僕の胸を押さえつけ、大きく剥かれた牙が目前に迫る。


「逃げろ、折木戸!」

 僕は首だけ回して呼びかける。だが、折木戸は腕組みをしたままだ。

「おい折木戸。聞こえないのか」

「ああ、わたしなら大丈夫だぞ。そのオオカミの狙いは、がっちゃんらしいからな」

 だったら。

「もし良かったら、助けてくれない?」


 折木戸は、ふふんと笑う。

「どうしようかな。この前は、がっちゃんと斎原にひどく怒られたからな」

 まあ、確かに。でも、本があれだけ大量にバラバラになれば、僕や斎原でなくても怒るだろうけれど。

「それに今回は、わたしが手を出さない方がいい、という気がするのだ」


 オオカミの顔がすぐ近くまで寄せられた。吐く息がかかる。

「……貴様も、この娘の傷を知っているのであろう」

 うなり声が次第に人の声に変わっていった。


 藤乃さんの身体の傷。それは心の傷でもある。今、藤乃さんがこんな状態になってしまったのは、その心の傷がまた開いてしまったからなのだろう。


「それは、……本当に知っている、とは言えないかもしれないけど……」

 オオカミは喉の奥で嗤った。

「自惚れるなよ。貴様などに、この娘を救えはしないのだ」


 次第に実体化するオオカミは、僕の胸を圧迫する。呼吸ができない。


「この娘を救えるのは、儂だけだ」


 ☆


「それは、……違う」

 僕は苦しい息のなかで言葉を絞り出した。

「お前は藤乃さんを守ってきた。だが、もう藤乃さんには必要ない……、なぜなら……僕がいるからっ!」

 オオカミの尖った爪が胸に食い込んでくる。


「そういう貴様も、あの胸を見て、醜いと思ったのだろう」

 声の調子が変わった。どこか恥じるような、弱々しさが混じっている気がした。


「醜いなんて思う筈がないだろ。小さいのは恥ずかしい事じゃないんだ!」

 オオカミは鼻の頭に皺を寄せた。

「貴様よ……。儂が聞きたかったのは、そういう事ではない……」

 あれ。僕は何か大事なことを間違えたらしい。


 オオカミはゆっくりと僕の上から降りた。

 困惑した様子で折木戸の方を見る。顎をしゃくって、近くに来るよう促した。

「……こいつは、いつもこうなのか」

「ああ。残念だが、がっちゃんはいつもこんな感じだな」

 折木戸は迷い無く答える。


「あの、本人の前で悪口を言うのは止めて欲しいんだけど」


 はあっ、とオオカミはため息をついた。

「まったく。何故に、儂の主人はこのような馬鹿者の事を……」

「遺憾ながら、まったく同感だ」

 これは以前、斎原や月沼さんにも言われたような気がするのだが。いよいよへこむ。


「だが、しかたあるまい。こんな奴だからこそ、藤乃も斎原も、がっちゃんの事が好きなのではないかな」

 こんな奴だから、は余計だ。


「ところで、藤乃だが」

 折木戸はオオカミに向って言った。

「そろそろ起きる時間なのではないか? 寝てばかりだと胸が大きくならないぞ」

 ふん、とオオカミが鼻をならした。


「お前にだけは言われたくないだろう。だが、そろそろ頃合いかもしれぬ」

 そして僕の方を向く。

「口ではそれを望まないと言っていたが。貴様よ、ここまで来てくれた事に感謝しているぞ。儂も、そして我が主人、藤乃由依もな」

 頭を撫でようとする折木戸の手を躱しながら、オオカミは厳かに告げた。



「目を覚まさせる方法はただひとつ。かなり伝統的な方法だがな……」

 やはり、眠り姫には王子の口づけが必要らしい。


「そうか。では僭越ながら」

「待て。なぜお前が行こうとする、折木戸」

 引き留める僕を、折木戸は不思議そうに振り返った。

「なぜだと? がっちゃん。わたしは藤乃にとって白馬の王子様なのだぞ」

 いや、その自信がどこから来るのか分らないのだが。


「頼む。まず最初はわたしにやらせてくれ。満足したら交代してやるから」

 やはり藤乃さんにキスしたいだけのようだった。

「オオカミさん、がっちゃんを押さえていてくれるか」

 やめろ、僕の藤乃さんだぞ。


「逃げろ、藤乃さん!」

 だがそんな願いもむなしく、藤乃さんの唇は折木戸によって奪われてしまった。

「は、離せ」

 背中からオオカミにのし掛かられ、僕は動くことも出来ない。ただ、藤乃さんと折木戸のキスシーンを見せつけられるだけだった。


 長い時間が経過して、背中の重みがふっと消えた。


「……藤乃が戻って来たぞ、がっちゃん」

 折木戸は藤乃さんの背を支え、そっとベッドに寝かしている。


 僕は跳ね起きてベッドを覗き込んだ。

 少し潤んだ瞳が、僕をまっすぐに見ていた。すぐに、眩しそうに目を細める。

 折木戸のキスで目覚めた藤乃さんだった。


「もう。……捜さないでって、言いましたよね」

 ちいさな声で藤乃さんは言った。顔が真っ赤になっている。

「でも、捜してくれて、本当にありがとう」


 建物の周囲で、目を覚ました人たちの声がし始めた。



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