第40話 最後の日々

「なんだか……」

 そう言って折木戸は口ごもった。

 頬に涙が伝って、落ちた。


「お、おい」

 授業が終わり、みんな帰ろうとしている中で、僕と折木戸だけは椅子に腰掛けたままだった。そしてもう一人。

 一番前の席には藤乃さんのほっそりとした姿があった。


 ごしごし、と手のひらで涙を拭って、折木戸は照れたように笑った。

「すまない、どうしたんだろうな。藤乃を見ていたら、こうなった」

 なんだよ、変なやつだ。


「今までもそうだったけれど、今日は特に藤乃の影が薄いと思わないか、がっちゃん」

「それは、あまりにも失礼だろ」

 うむ、と考え込む折木戸。


「実は、授業中に藤乃を通して、黒板の文字が透けて見えたのだ。あれはびっくりしたぞ」

 いや折木戸。いくら影が薄いといっても、透けて見える訳がないだろう。

「そうかな……」

 やはり気のせいか。折木戸は呟いた。


 ☆


「だけどねぇ、これを修繕なおすのは大変だよ、かがり」

 昨日、僕が持って帰った本の残骸を前に、あやさんは大きく息をついた。

 古書店『獺祭堂だっさいどう』の店主をやっている、僕の母親だ。


「うちは売る方が専門だし、わたしもこんな本格的な和本は修繕した事がないから、アドバイスは期待しないでね」

「それは分ってる。完全に元通りにできるとも思わないし。でも、これは僕がやらなきゃいけない」


「なんで?」

 文さんが僕の顔を覗き込んできた。

「いや、なんでって。こんなになった本を、放っておけないし」

「へえー」


 文さんはその本の匂いを嗅ぎはじめた。

「おやおや、この匂いは。……この前、店に来た藤乃さんって子じゃないのかな?」

 おい。まさか、あなたが折木戸の本当の母親じゃないだろうな。


「だったら修繕してあげたいなぁ。あの子、まるで何かの妖精みたいに可愛かったもの。ねえ、そう思わない?」

 なんだよ、妖精って。まあ、可愛いのは認めるけど。

「でも、材料がなぁ……」


「こんにちは。文さん」

 店先で声がした。

 こちらは妖精というより、ちっちゃい魔王みたいな奴が立っていた。

「あら、美雪ちゃん。いらっしゃい」

 やはり斎原だった。


「ねえ君依くん。今、何か言わなかった?」

「いえ、まだ何も言ってませんが」

 いつもながら、勘が鋭いやつだ。


「はい、これ差し入れ」

 そう言って斎原が差し出したバッグの中には、多種多様な紙と、糸。更に和本用の特殊な糊など、僕が必要とするものが入れられていた。


「まったく。斎原家うちの工房に任せてくれたら綺麗に直してあげるのに」

「斎原、ごめん」

「いいよ。君自身で修繕したいんでしょ。気が済むまでやるがいいわ」

 苦笑いを浮かべる斎原。


 急に斎原は真面目な顔になって文さんに向き直った。

「ところで、文さん。代わりにオムレツの作り方を教えてもらえませんか?」

 斎原はエコバッグから、卵のパックを取り出した。


 ☆


 それから僕は毎日を本の修理に明け暮れた。申し訳ないが、寄贈本のデータ登録は藤乃さんに任せ、僕は彼女のとなりで、紙の繊維を繋ぎ合わせる、まるで外科手術のような作業を続けているのだった。

 二人とも、何も話さなかった。

 藤乃さんは時々パソコンから顔をあげ、僕を見ている。そして目が合うとにっこり笑ってくれた。


 僕にも、やっとそれが分った。

 藤乃さんは、だんだんとその存在が消えて行こうとしている。

 ふとした瞬間に藤乃さんの横顔の向こうに書架が透けて見えていた。以前、折木戸が言ったとおりだった。


 僕がこの本を修理すればするほど、藤乃さんはこの世界から遠ざかっていく。そして修理が終わったら……。


「もうやめよう。このままじゃ、藤乃さんが居なくなってしまうんだろ?」

 僕はほとんど泣き声になっていた。

 藤乃さんは困ったような顔で、少しだけ笑った。


 僕は何冊も本を修理してきた。

 こんな風に破損した本からは、『文妖』が現れるからだ。

 それらは、本の修理が終わると安心したように消えて行った。


「そんなのは、嫌だ……」


 藤乃さんは立ち上がって僕の後ろに立つと、手を回し、そっと肩を抱いてくれた。

 彼女の手に触れようとした僕の指は、それをすり抜けた。かすかに、水の中を潜ったような感触だけがあった。


 僕は声を押し殺して泣いた。


 ☆


 ある日を境に、藤乃さんは学校に来なくなった。

「病気で入院する事になったそうです。だけどお見舞いは遠慮して欲しいという事なので、藤乃さんの気持ちを尊重してあげて下さい」

 深町先生がホームルームで言っていた。


 藤乃さんの家にも鍵がかかり、人気がなかった。近所で聞くと、最近ずっと留守になっているらしい。


 放課後の図書館に藤乃さんはもういない。

 僕の手には、ほとんど元通りになった藤乃さんの本だけがあった。

 あちこち傷は目立つが、一ヶ月以上かけてどうにかここまで修繕したのだ。


 誰かが入ってくる気配に振り返る。

 やあ、と手をあげたのは、同じ図書委員の埜地のぢ祐介だった。


「動物記、ってシートンのかい? かがりくん」

 埜地が珍しそうにその本をめくっている。さすがに図書寮の一族の流れを受ける男だった。こんなにいい加減そうに見えても、本の扱いだけは丁寧だ。


 ”悪いオオカミ”と言われイジメられていた藤乃さんに、彼女のお祖父さんが贈ってくれたこの本。

 高貴な魂を持った狼王の物語だった。

 お祖父さんが筆で手書きした、この世に二冊とない藤乃さんの宝物だったはずだ。


「すごく立派な本だね。君の修理も今できる最善を尽くしたのがよく分るよ。でも」

 そこで首をかしげる。


「この本には、何かが足りない気がするんだけど……」

 いや、何となくなんだけどね。申し訳なさそうに埜地は言った。


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