第39話 失われて行くもの

「どうしたんですか、目が赤いですよ」

 不思議そうな顔で藤乃さんが僕の顔を覗き込んだ。

 これは、ほとんど藤乃さんのせいなのだけど。


「ああ、文面の『さようなら』ですか。深い意味というか、そうですね。……、今から馴れておけば、いざという時に君が悲しまないで済むかな、と」

 どうやら親切心から、だったらしい。それにしても、おかしいけれど。


「なんで僕と別れる気、満々なんだよ、藤乃さん」

「え、まあ。そこは、あれですから。人生、なにがあるか……」

 藤乃さんは微妙な笑顔で言葉を濁す。すごく気になるけど、今はそれよりも。


「そうです。大事なお話でしたね」

 えへん、と藤乃さんは咳払いする。


「わたし実は、……できました」


 聞き耳をたてていたらしい。折木戸が椅子から滑り落ちた。

 斎原の手にしたボールペンは真ん中で砕けている。


「で、で、できたって。な、何のこと。ま、まさか、藤乃さん」

 斎原は慌てて立ち上がると、必死の形相で藤乃さんに詰め寄っている。


「この前は君に、わたしの恥ずかしいところを見られちゃって」

 そう言うと藤乃さんは僕に笑いかけた。

「そうか、あの朝……」

 僕もやっと気付いた。

「ええ、君と一夜を過ごした翌朝の出来事です。おぼえてますか?」

「もちろん。そうか、できちゃったのか。おめでとう、藤乃さん」


 きーっ! 斎原が奇声をあげた。

「お前ら、許さん!」


「え、ちゃんと斎原さんと折木戸さんの分も持ってきましたよ」

 おっとりとした声で藤乃さんが言った。

「……藤乃さん、一体なんの話なの」

 僕はこんな混乱した斎原の顔を初めて見た。


 ☆


「まったくもう。料理の話なら最初からそう言ってくれればいいのに」

 斎原は藤乃さんが作って来た、だし巻き玉子を食べながら文句を言う。


 昼休み。僕たちは藤乃さんのお弁当の卵焼きを突っついていた。

 プレーンなものの他、生クリームとバターがたっぷり入った超高カロリー仕様も混ざっている。

「これは美味い。藤乃は料理上手なのだな」

 折木戸の言葉に、藤乃さんは恥ずかしそうに笑った。

 僕は、あえて何も言わなかった。


「わたしも、以前オムレツに挑戦したんだけどね。難しいのよ、卵料理って」

 腕組みをして斎原が頷いている。

 ……。

「なんで、みんな沈黙するの」

 それは、オムレツを作ろうとして、卵2パック分のスクランブルエッグを作ってしまった話を、みんな知っているからだろう。


 ☆


「まあ、お昼の玉子焼きは冗談として」

 放課後の図書館で藤乃さんは切りだした。

「本当に大事な話なんです」


 藤乃さんは一冊の文庫本ほどの大きさの本を取り出した。

 すごく綺麗な表紙の和装本だった。淡い藤色に染められ、細かな紋様が入ったその表紙には細長い題簽だいせんが貼られている。

『動物記』

 筆で書かれた美しい文字は、そう読めた。

 思い出した。これは藤乃さんがいつも持ち歩いている本だった。


 上質な紙を使用した本体の部分は、特殊な折り方をしているのが分る。紙を二つ折りにした後、端の部分を糊で貼り合わせ、それを束ねて糸で綴じてあるのだ。

 粘葉装でっちょうそうまたは、胡蝶装こちょうそうと呼ばれる和本の綴じ方だ。極々上質な紙で、丁寧に仕上げたものだと分る。


「わたしの、お祖父さんに作って貰ったものなんです。誕生日のお祝いにって」

 差し出されたその本に、僕は手を伸ばすことが出来なかった。

 その、美しかったであろう本が、今は、あまりにも無残な姿になっていたからだ。


 指が触れる部分に汚れが付くのは当然だ。それだけ何度も読んできた証である。時間がたてば色も褪せてくるし、あちこち傷んでくるのは仕方ないことだ。

 だけど、これは。


「誰がこんな事を……!」

 僕は目の前が血の色に染まるような気がした。


 その本は意図的に破損させられていた。

 表紙は破り取られたうえに引き裂かれ、の切れた本はバラバラになっている。明らかな靴跡まで付いていた。


 藤乃さんは寂しそうに俯いた。

「才原さんが拾い集めてくれたんです」

 それは図書館で起きた事件だった。才原未散が文妖を暴走させ、その被害を受けた二人の女子が病院送りになった、あの事件。

 才原があれだけ怒り狂っていた理由が、やっと分った。


「これを修理してください」

 藤乃さんは頭を下げた。


 僕は古本屋の息子だが、そんな技術はない。普通の本なら斎原に仕込まれたから、何とかなるけれど。

 でも、断る選択肢はなかった。

「分った。やってみるよ。藤乃さん」


 藤乃さんは、ほわっと笑った。

 なぜだか、僕は一瞬、藤乃さんが消えていくような錯覚にとらわれた。


「でも、もしわたしがいなくなっても、絶対捜さないでくださいね」

 きっと、君に迷惑が掛かりますから。

 強い口調だったが、どこか儚げな表情で言うと、藤乃さんはまた、本のデータ登録を始めた。



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