第35話 夜の図書館で二人きり

「実験をしてみようと思うんだ」

 斎原はそう言った。

「君依くんの遺伝子が、わたしにどんな影響を与えるのかについてね」

 その口調はまるで科学者のようだったが、なぜか顔が赤い。

 僕はいやな予感しかしなかった。


 夜の8時を過ぎると、さすがに辺りは暗くなった。

 まして今夜は新月なのだ。

 僕たちは図書館の『東館』と呼ばれる建物に入っていた。

 ここは小さな部屋に分れ、それぞれの部屋ごとに独立した図書館になっているといってもいい。また、基本的に生徒の立入が制限されているこの建物は、斎原家の私的な図書館という側面も持っていた。


「灯りは点けないのか、斎原」

「どうして。暗いところが怖いの?」

 いや、決してそういう訳ではないが。

 確かにところどころに非常灯があるので、目が慣れれば歩行に支障はないけれど。


 木造の板張り廊下は、歩く度に軋む音をたてる。

「じゃあ、この部屋にしようか」

 斎原はそう言うと、大きな鍵束からいちばん古そうな鍵を選び出した。

 立派な装飾が施された扉を開くと、中から少し埃っぽい、なつかしい気がする匂いがした。うちの倉庫と同じ匂いだった。


 部屋の両側は書架で埋め尽くされている。

 正面の小さな窓も鉄製のブラインドが下りているので、室内はほぼ真っ暗だった。

「これはさすがに貞操の危機を感じざるを得ないね」

 斎原はLEDライトを取り出した。光量を最小にして自分の顔を下から照らす。

「へへへ。子供の頃、よくこうやって遊ばなかった?」

 今の僕はおばけより、こんな斎原が怖い。


「おっと、こんな事をしている場合じゃなかったよ。あそこを見て」

 斎原はライトを消すと声をひそめ、書架の隅を指差した。

 僕もそれを見て小さく声をあげた。

「……光ってる。文妖が生まれようとしているのか」

 緑色の微かな光がそこで揺らめいていた。


「だけどこうして、本に触れずに文妖の卵を見るのは初めてだ」

 斎原はとなりで頷いたようだった。

「そうだね。この『東館』は図書館全体でいえば鬼門にあたるから、こういった現象が強く出るんだよ。その中でもこの部屋は特にね」


 ☆


 斎原はその光の方に近付いていった。

 蛍のような、ぼうっとした光に照らし出された斎原の表情は真剣そのものだった。

「よし、じゃあまずは文妖を孵化させないと」

「孵化させるって、そんなに簡単に出来るものなのか」

 それは、君依くん次第なんだけどな……斎原は呟いた。


「では問題です」

 突然、斎原が僕に向き直った。

「折木戸さん、藤乃さん。それとわたし」

 もうそれだけで、すごく危険な質問が予想できた。

「この三人を、君依くんが可愛いと思う順に並べなさい」


 なんだ、身構えて損したぞ。それなら簡単だ。もちろん藤乃さん、折木戸、それから、斎原という順番かな。

「な、なによ、その即答。……じゃあ、次の質問、ですっ」

 斎原の鼻息が荒くなったような気がする。


「この三人を、ずっと一緒にいたいと思う順番に並べて」

 え。これは難しいな。今まで考えた事もなかった。

 特に一位と二位が難しい。

「でもここは、折木戸、藤乃さん、斎原で!」


 ぽん、と音がして書架から緑色の炎が吹き上がった。

 文妖の卵が弾けて孵化が始まったのだ。そしてそれは部屋中の本に連鎖していった。

 燃え上がる炎は全く熱を感じられない、冷たい炎だった。

 斎原の瞳にその炎が映っていた。

「おのれ、かがり。よくもぬけぬけと」


「落ち着け、斎原。お前、肝心な事を忘れているぞ。僕が誰より信頼しているのはお前だ」

 斎原の口唇の両端が少し上がった。よかった。笑ってくれた、のか?


「いらないよ、そんな信頼なんか。もう、かがりのバカ!」

 火に油を注いだだけだった。


 燎原りょうげんの火とはこの事だろう。文妖が発する炎はどんどんその数を増やしていった。


 ☆


 しばらく肩で息をしていた斎原だったが、やっと我に返ったようだ。

「ごめん、君依くん。本気で取り乱しちゃったよ」

 謝りながらも恨めしそうに僕を見る斎原。

「それは、分ってたよ。もちろん分ってました、君依くんがそんなやつだと云う事はっ!」

 あれ、僕のせいにされてしまったようだ。斎原が訊いたから答えただけなのに。


「もう、こんなにいっぱい孵化しちゃったじゃない」

 やはり僕が責められている気配がある。

「どうしよう。朝までに片付くかな……」


 斎原は眉をひそめ、ひとつ咳払いをした。

「ねえ、君依くん。こうなった原因の一端は君にあるわけだから、ちゃんと協力してもらうよ」


「まずは、君依くんの遺伝子を採取したいと思います」

 おい。なぜ僕の下半身を見詰めている。

「え、なに? そ、そ、そんな事考えてなんかないから。やだ、なに言ってるの。もう、君依くんセクハラだよ、それは!」

 いや。まだ何も言ってませんが。


「ああ、そうだ。つい焦っちゃった。その前に現状を記録しておかないと」

 斎原はポケットからストップウオッチを取り出して、僕に手渡した。

 丸い銀色のアナログ式だ。実物は初めて見たぞ。


「じゃあ、いくよ」

 斎原は一冊の本を書架から抜き取った。

 本にまとわりつく文妖の炎は一層強くなった。その炎は斎原の手首から肘の辺りまで這い上がってきた。

 少し顔をしかめた斎原は、それを胸に抱きしめる。


 斎原の全身が、文妖の放つ炎に包まれた。

「あ、あっ」

 声を殺し、斎原は喘いでいる。僕は思わず手を出そうとしたが、制止された。

「もう少しだから。…大丈夫」


 やがて炎は収斂し、本の中に消えた。


 斎原は本を胸に抱いたまま、がっくりと膝をついた。本を床に置くと、大きく息をついている。

 動悸を押さえるように胸に手を当てたまま、斎原は僕を見た。

「どうだった、君依くん」

「うん。僕も文妖になりたい」

 図書寮の一族の女子が、そろって胸が大きいのはこのためだったのか。


「……文妖が消えるまでの時間を訊いているんだよ、この変態」

 斎原の目に殺気が宿っている。


「え、えーと。約3分30秒」

 斎原は不満げに首を振った。自分でも納得がいかないらしい。


「じゃあ、次は君依くんの遺伝子をもらうから」

「僕の遺伝子を、いったいどうするんだ」


 決まっているでしょ。斎原はなぜか目をそらした。

「わたしの身体の中に入れるの」


 僕の遺伝子を斎原の中にだと?


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る