第20話 キスをめぐる攻防
「じゃあ、コーヒー淹れてくるね」
そう言って藤乃さんは立ち上がった。どうやら一晩中寝ない覚悟らしい。
料理にはいろいろと問題を抱える藤乃さんだが、コーヒーを淹れるのは上手だ。決してインスタントとか、ペットボトルを温めただけでないのは、前回の朝食の時に分かっている。
しばらくしてポットとカップを二つ持って戻ってきた。
注ぎ分けると、室内にいい香りが漂う。
「ところで」
藤乃さんが何か思いついたらしい。その表情から、明らかにイヤな予感がする。
「コーヒーを口移しで飲ませ合うという遊びが有るのをご存じですか」
藤乃さん、この世界にそんな遊びはない。
「やめてよ。僕は猫舌なんだから」
そう言うと、口をへの字に曲げる藤乃さん。
「だったら氷でしましょう。口移し」
「ごめん。知覚過敏なんだ」
「じゃあ、卵の黄身ならどうですか」
「生玉子は少し苦手なんだけど」
「そんなに言うのだったら茹でてきますよ!」
そんな、逆ギレされても。喉に詰まったら死ぬから。
「もう、君って人は。だったらどうすればいいんですか!」
えーと。もしかして、藤乃さん。
「キスをしたがっている、のですか」
藤乃さんは、ぽっと赤くなった。
「だって、二人きりだし。でも自分から言い出すのも恥ずかしいし、どうかなと思うじゃないですか」
「さっき服脱いでたでしょ、藤乃さん」
キスをねだるより恥ずかしそうなのだが。
「あ、あれは君に秘密を作りたくなかったからです。キスとは別問題です」
また少し涙ぐんでいる。これはもう仕方ないだろう。斎原だって今の僕を責める事はできないはずだ。
僕は藤乃さんの肩に手をかけた。
「じゃあ失礼して」
唇が触れる直前、携帯の呼び出し音が鳴った。僕はおそるおそる通話ボタンを押した。聞き慣れた声が耳に飛び込んでくる。
「君衣くん、いま電話大丈夫?」
やはり斎原だった。
「連絡するの忘れてたよ。実はまた図書が寄贈されて……」
そこで斎原は何かに気づいたらしい。
「あれ、近くに誰かいる?」
「わたしです。もう、いいところだったのに」
横から藤乃さんが声をあげる。
「あれ、藤乃さん。……そうか」
一瞬の沈黙。
「じゃ、君衣くん。後で電話ちょうだい。感想も聞かせてね」
そう言うと、ブツッと電話が切れた。
感想。すごく怖いんだけど。
☆
「ええ? 帰っちゃうんですか」
不満そうな藤乃さんの声を背に、僕は家路についた。
藤乃さんと事に及んだ後で、斎原に電話する勇気はない。
☆
それって『ナインハーフ』っていう映画かな。斎原は眉を寄せて言った。
月曜日の朝のことだ。
「でもあれは口移しじゃなかったと思うけどね」
記憶をたどっている時の斎原の表情は、ずっと見ていられる気がする。それでこんな事を訊いてみたのだ。
「卵の黄身は多分、伊丹十三監督の『タンポポ』だと思う」
斎原って、なんでそんな事まで知っているのだろう。本当に高校生なのだろうか。
「タンポポオムライスってあったじゃない? オムレツがチキンライスの上に乗っていて、食べるときにナイフで切ると、半熟の中身がトロっと広がるの」
あれ、やってみたかったんだ。懐かしそうな斎原。
「中学の時、挑戦したんだから」
「へえ、じゃあ今度食べさせてよ」
「はあっ?」
急に彼女の顔色が変わった。
斎原でもこんな、やさぐれた表情をするのだな、と初めて知った。
そっぽを向き、小さな声で言う。
「結局、玉子2パック分のスクランブルエッグが出来ただけだったよ」
どうやら、斎原のトラウマだったらしい。
「で、口移しがなに。したいの?」
「もしかして、させてくれるの?」
斎原が僕をさげすむように見た。じつは、この視線も嫌いじゃないのだけど。
でも。
「すみません。冗談でした」
僕たちは並んで教室へ向かった。
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