第17話 藤乃さんがいない日

 僕は後ろの席に向かい、折木戸の顔を眺めていた。

「うん? どうしたんだ。がっちゃん」

 驚いたネコのような丸い目で僕を見返す折木戸。突然、ぽっ、と顔を赤くした。


「そうか、今ここで脱げというのだな。ああ、でも今日のパンツはがっちゃんの好きな、えっちな奴じゃないんだが……」

「誰がお前のパンツを見たいと言った。そんなの、もう見飽きてるよっ!」


(やだ、君衣くん。藤乃さんがいないから…)

(今度は折木戸さんにセクハラしているんだ、最低だよね…)

 そんな声が、ひそひそと聞こえてくる。


 しまった。僕のイメージがどんどん悪化していく……。


 折木戸の机に沈没していると、頭をなでてくれた。

「大丈夫だぞ。がっちゃんって昔から、そこまで好男子とは思われてないから」

「その原因は、ほぼお前のせいだと思うんだがな」


「一体、どこで間違えたんだろうな。僕のどこがいけなかったんだろう…」

 ああ、それは簡単だ。折木戸が、ぽんと手を叩く。

「斎原の従僕のくせに、ご主人様にタメ口だから、らしいぞ」

 僕の生活態度に問題があったのか…。


「君衣くんって失礼だよねー、と皆、言っているな」

「なんでみんな斎原を崇拝してるんだよ。女神と違うぞ、あの女はっ」

「いやいや、がっちゃんを従僕にしたいというやつも多いみたいだ」


 女子の憧れだからな。折木戸が、さらっと言う。


「僕が、か?」

 え、ちょっと頬が緩んだ。


「まさか。従僕とか執事をはべらせたい、という事に決まってるだろう。乙女の見果てぬ夢だからな」

 ……分ってたよ、そんな事は。


 ☆


「ところで、わたしに何か話があったのではないか」

 そうだった。もう、どうでもいいような気分ではあるが。

「折木戸。お前、メイクとかしてないんだな」

「おお、今はな。でも以前したことはあるぞ。ほら、中学の学園祭で」

「それは、お前がゾンビメイクで僕を追い回した、あの事件のことか」

 泣きそうだったんだからな。


「そんな特殊メイクじゃない。ふつうの、いわゆるお化粧のことだ」

「うん。しないな」

 即答だった。不思議な事を訊かれた、という顔だ。

「でも、なぜそんな事を訊く。ああ、がっちゃんもしたいのか。わたしは無理だが、斎原に頼んでやってもいいぞ」

「要らないよ。いや、僕の周りの女子はあまり化粧してないな-、と思っただけだ」

 斎原はそれでも多少、整えているようだが、こいつと藤乃さんは、いつも完全にすっぴんだ。だから藤乃さんの印象は小学校高学年、という感じなのだ。


 折木戸は、ぷぷっと笑い出した。

「おいおい、がっちゃん。それではまるで大勢の女子が、がっちゃんを取り巻いてるみたいに聞こえるぞ。現実には、わたしの他には斎原と藤乃しかいないじゃないか」

「それを認めるのには、やぶさかではないが」

 しかもこの折木戸は、女子枠に入れていいのかどうか迷うところだし。


「ああ、だけどな、がっちゃん」

 そこで折木戸は表情を改めた。そっと左右を伺う。

「藤乃は、止めておけ。あいつはいけない」

 小声で言う。

 僕の中に不安がよぎった。この前の女子会で何かあったのだろうか。折木戸は目を逸らした。握った右手を口許に宛てて考え込んでいる。

「おい、折木戸」

 こいつは馬鹿で無遠慮なやつだが、決して他人の悪口は言わない女だ。それがこんなに躊躇するとは……。

 折木戸は、意を決したように僕の目を真っ直ぐ見詰めた。

「藤乃はな、がっちゃん」

 僕はごくり、と唾を呑む。


「あいつは。…あいつは、わたしより胸がないのだぞ」


 よく知ってるから。そんな事はっ!


「ほう、わたしより先に藤乃を脱がせていたとは。さすが、がっちゃんだ」

 感じ入ったように、腕を組んで頭を振っている。

「おまえ、僕を退学にしたいのか。だって、見れば分るだろう!」

 背中にくっつかれた事もあるが、それは内緒だ。


 ちょっと待て。先に? まさか藤乃さんを、脱がせたのか?!

 おい、折木戸!


 ☆


 金曜日の夜。僕の携帯電話が鳴った。

『藤乃由依』

 表示にはそうあった。僕は慌てて通話ボタンを押した。


「だーれだ。…あれ、返事がない。しまった、間違えたかな。もしもし、わたしですよー」

「本当に、藤乃さん?」

「はい、わたしです」

 学校にいる時と全然違うんだけど。ちょっと不安になるくらいハイテンションだ。

「もう、退院したの。大丈夫だった、藤乃さん?」

 へへへ、心配してますね。藤乃さんは笑った。


「そんな君に朗報ですっ!」


 はからずもテレビショッピングみたいになってきた。

「あの、僕の膝が痛いのは怪我してるから、なんだけど」

 サプリメントは不要ですけども。

「違いますよ。そんな、今度の何とか、とか、冷めた反骨精神とかじゃありません」

 ……コンドロイチンと、サメの軟骨製剤、かな。


「検査結果、ほぼ問題ありませんでした。いえーい」

 こんな事は初めてだったらしい。それでこんなに浮かれていたんだ。

「よかったな。藤乃さん…、本当に良かった」

 ちょっと、涙が出てきた。


 その気配を察したらしい。藤乃さんがひとつ咳払いした。

「ありがとう、その…君衣、くん」

 ぐすん、と鼻をすする音がした。

 へへ、とすぐに照れ笑いした藤乃さん。


「そこで提案です。明日、君は暇ですか。きっと暇だと思うので、デートをしましょう。ではまた電話します、お休みなさい」

 一方的に電話が切れた。僕は呆然と電話の画面を見詰めた。


 僕は恐ろしい事実に気付いた。

 藤乃さん、最近、性格が斎原や折木戸に似てきていないか。友達は選ぼうよ、という典型的な例になっているような気がする。

 

 でも、藤乃さんが元気そうだったから、僕は心から安心したけれど。




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