第12話 斎原に怒られる一日

 月曜日の朝、教室に入ると折木戸が僕の袖を引いた。

「なあ、がっちゃん。藤乃の事なのだが」

 小さな後ろ姿を見ながら、しきりと首をひねっている。


「なんだか先週までと雰囲気が違うんだが、どうしたのだろう」

 どうって。まぁ心当たりが有るかと訊かれれば、無い訳ではないが。だがここでそれを喋る訳にはいかない。


「そ、それはきっと、このクラスに慣れてきたからだろ。変な勘繰りはやめろよ」

「いや。わたしが言っているのはそんな事ではないのだ」

 もっと重要な……、そこで折木戸は考え込んだ。どうも、いいたとえが見つからないらしい。普段本を読まない奴だから仕方ない。優しく見守ってやるとしよう。

「そうだ!」

 折木戸は急に大声をあげた。


「処女が初めて男を知った、みたいな顔になっているのだ。…これでどうだ、適切だと思わないか?」

「お前は存在として不適切だけどなっ!」

 表現としては最低だし、さんざん考えた挙げ句がそれかっ。


「よし。これは確かめる必要があるな」

 そう言うと、折木戸は止める間もなく、席に座る藤乃さんの後ろに忍び寄った。まだそれに気づかない藤乃さんは、どこかニヤけた顔でぼーっとしている。

「ちょっと失礼するぞ」

 折木戸は後ろから藤乃さんの胸を鷲掴みにした。


 すごい悲鳴をあげた藤乃さんを背に、折木戸が駆け戻ってきた。

「おかしいな。男に揉まれた形跡がない。わたしはてっきり、がっちゃんの仕業だと思ったのに。ほら、こんな風に」

 なんだか手付きがいやらしい。


「…当たり前だろ。実際、何もしてないんだから」

 それより気になるのは、僕が折木戸にセクハラ行為をやらせたような雰囲気になってることだ。

(君依くんって最低…)とか聞こえてる。


「これじゃ、また斎原に怒られるっ」


 ☆


「まったく、君依くん。あなたって人は」

 もう放課後というか下校途中なのだが、僕はまだ斎原に怒られ続けていた。

 先を歩く斎原の少し後ろを、刑場に向かう囚人のような足取りで付いていく。まあ、怪我が治りきっていないせいもあるが。


「いい? そんなに胸が揉みたいなら……」

 怒られている横をスクーターが通りすぎ、急停止した。

「ああ、やっぱり燎里かがりじゃないか。おやデートだったの。これはお邪魔しちゃったかな」

 振り向いたのは、君依きみい あや、僕の母親だ。

「ただの学校帰りだろ。それによく見ろ、斎原だよ」

「お久しぶりです、文さん」

 斎原が、途端に愛想よくなった。僕の母は斎原の伯母でもあるのだ。


「へえ、そうだったのか」

 何故か一人うなづく母。もう、嫌な予感しかしない。

「この前、お泊まりしたのは美雪ちゃんの所だったんだね。どう、おみやげ、ちゃんと使った? そういうとこ大事だからねー」

 一瞬で空気が凍った。


「あれ、もしかして違った?」

 僕の表情で何かを察したらしい。

「あ、ああ。そうだ、早く帰って店をあけなきゃ。じ、じゃあ、ごゆっくりー」

 そう言うと、慌ただしくアクセル全開で走り去っていった。


 母よ。もう一度言うぞ。

「何をしてくれて…」

「君依くん」

 斎原が僕の台詞をばっさりと遮った。

「話があるんだけど、聞いてくれる?」


 斎原の『依頼』は『命令』と同義語だ。断ると云う選択肢は最初から、ない。




 振り向いた僕は意外なものを目にした。

 絶対に怒り狂っているだろうと思った斎原が、泣いていた。じっと僕を見つめる瞳から涙がこぼれている。


「あ、あの。斎原、さん……」


「藤乃さんが原因だって言ったけど」

 感情を圧し殺した声。少し震えている。

「文妖が発生した原因は、それだけじゃないと思う」

 それって……。

「私だよ、君依くん」


 ☆


 図書寮の一族である斎原は本の声を聞くことができる。

 傷ついた本は声をあげ、助けを求めるのだという。その声を聞き取る事が出来るのが彼女の特殊能力だった。

 だが、本からの影響を受けると共に、強い影響を与えるのも彼女だった。


「私の心が文妖を引き起こしたんだ」

 以前、斎原は話してくれた。愛情、嫉妬、憎悪といった強い感情は本に影響を与える。そして、それが文妖を発生させる引金になるのだ、と。

「最近は気を付けて図書館には近づかないようにしてたのに」

 ただ単に、僕に図書委員の仕事を丸投げしてた訳ではなかったらしい。


「こんなことになるなんて。そのせいで君依くんも怪我を……」

 斎原は僕のシャツを掴んで嗚咽する。

「恥ずかしいし、悔しい。私が、こんな、……嫉妬なんて!」

 僕は震える斎原の背に手を回すべきか悩んでいた。


「だけど斎原。お前が嫉妬なんてするようには思えないんだけど」

 ぐすっ、と鼻をすすり斎原は顔をあげた。ようやく少し落ち着いたようだった。

「まさか、私は嫉妬深いよ。それが今回、よく分った」

 目の周りと鼻が赤い。僕は急に動揺した。…あれ、この気持ちは何だろう。


「斎原、お前……可愛いな」

 つい、言ってしまった。自分でもびっくりしたのだが。


 ぐふっ、と斎原の喉の奥で音がした。

「な、な、何を急に。はぁ? ちょっと意味がわかんないでしょ」

 真っ赤になってうろたえる斎原。


「いや。斎原にそこまで嫉妬されるって、その男がうらやましいな、と思って」


 ぴたりと斎原の動きが止まり、表情が消えた。左の頬が引きっっている。

「ほう。…その男が誰かって?」


 斎原の強烈な右ストレートが僕の脇腹に炸裂した。


「お前だよ、君依かがりっ!」


 ☆


「ちょっと、斎原。あ、あの、どこへ」

 彼女は僕の手を掴んだまま足早に歩く。


「もういいっ。私も君依くんと一晩過ごせるなら、退学になったって、斎原家の後継者から外されたって構わない!」


 そんな、僕は構うんだけど。構い過ぎるほど構うんだけどっ! そんな重大なことの原因には絶対なりたくはないから。




 東雲市の中心には、延々と続く水路と白壁で区切られた一画がある。道路から中を窺うことは出来ないが、その中に広大な屋敷が有るのを僕は知っている。

 僕たちはそれに沿って歩いているのだ。 


「ごめん、斎原。腕が痛いんだけど」

「うるさいな! だったら君依くんの腕だけ切り離して連れていってもいいんだよ」

 やめて、僕はプラナリアじゃないから、腕から再生はしないしっ。


 白壁が途切れたところに古い木造の門がある。斎原がその前に立つと、何かが軋む音と共に扉が少し開いた。何か自動的に開く仕掛けがあるらしい。


「さあ、入って」

 

 扉の奥には整えられた日本庭園が広がり、さらに彼方には寝殿造りとでもいうべき壮大な日本家屋がその威容を見せていた。

 僕は、千年以上続く図書寮の旧跡、そして現在は斎原の自宅に足を踏み入れた。



 



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