第10話 赤ずきんは戦いを始める
シャワーを浴びながら、彼女は胸元に目をやった。やはり高校生にしてはささやかな膨らみだと思う。
だが、それよりも目に付くのは胸の間から右の脇腹にかけて残る大きな傷跡だろう。彼女自身はもう見慣れているのだが、これを他人に見せるのは抵抗があった。
小学生の頃は酷い事も言われたから。
童話の『悪いオオカミ』と一緒だ、と。
彼はこれを見たら、何て言うだろう。きっと気持ち悪がるだろうな……。
藤乃由依は大きなため息をついた。
☆
土曜日の学校は思いのほか静かだった。
校庭ではテニス部が準備を始めているので、間もなく、ボールの音やかけ声が聞こえて来るだろうけれど。
学校の敷地の外れにある図書資材室はいつもと同じように人気がない。静謐なうえに、空気がひんやりしている。
「今日は斎原さんはいないんですよね」
藤乃さんは辺りを落ち着かなく見回している。
「うん。市内の高校の生徒会役員連絡会だとか言っていたから、昼まではね」
そうですか、と藤乃さんは笑みを浮かべた。
「じゃあ、午前中が勝負ですね」
また、きな臭い匂いがしてきたのだが。
「図書別館にオオカミが出たらしいじゃないですか。それでまた、そんな事に……」
データ登録をしながら、藤乃さんは僕の松葉杖を指差した。
これはその時のオオカミ、実際は文妖に襲われた結果だった。
「そんな目に遭わされたら、やっぱりオオカミって嫌いになりますよね」
何を言ってる? と思ったが、あまりに真剣な彼女の表情に、僕は考え込んだ。
あのオオカミはあくまで文妖だ。それとオオカミが好きかどうかは関係がないと思うが、なぜ藤乃さんはそこに拘るのだろう。僕は分らなかった。
「別にオオカミは嫌いじゃないけどね。それに、あの文妖も僕を傷つけるつもりじゃ無かったと思うんだ。ただ、力の加減を誤ったんじゃないかな」
全く敵意を感じなかったから、それは確かだと思う。
藤乃さんは困ったような、でもどこか安堵した表情で頷いた。
「それなら、良かったです」
☆
「ところで今日は、どうしてもやらなければいけない事があります。……それは、これです」
そう言って藤乃さんが出してきたのは、例の『図解・江戸性愛事情』だった。
「これを図書館に置くべきか、検討しなくてはいけません」
放っておくと更に熱弁を振るわれそうなので、ここで一旦疑問を呈する事にした。
「それよりも僕は、なぜ藤乃さんがこれを持っているのかを聞きたい」
これは確か、資材室の奥にしまい込んだ筈だ。
藤乃さんは首をかしげた。
「この学校は不思議な事が起こりますね。他の校区から転校してきたわたしは驚きの連続です」
「それは否定しない。でも今、自分のカバンから出したよね」
「本が人を呼ぶって事、あるんですね。わたしもおかげで読書に目覚めました」
「僕の質問に答える気は無いようだな」
まあ、だけどそれは一番最後だ。
「このデータ登録が終わったら、その検討に入る事もやぶさかではない、と思ってあげてもいい」
「全然、前向きさが感じられません。完全に政治家の答弁ですよ」
それは、まことに遺憾に存じます。
☆
さすがに、本気を出した藤乃さんは優秀だった。
予想よりもずっと早く作業が終わった。ちょうどお昼を少し過ぎたところだった。
「ありがとう、藤乃さん。何かおごるよ」
僕たちは資材室を片付け、学校を出た。
見かけどおり、といっていいのか。
藤乃さんは極端な小食だった。おごり甲斐がないとも言える。
でもそれは、よくあるダイエットとか、そういう理由ではない。幼少期に事故に巻き込まれ、大怪我をした影響で本当にあまり物が食べられないらしいのだ。
だから気を悪くしないで欲しいんだ、といって話してくれた。
「食事中にこんな話はどうかと思うけどね。お腹がぱっくり開いちゃって、その時、胃とか腸をかなり切除したんだ。いまでも左の肺と腎臓なんかもあまり機能してないみたいだし。よく生きてるね、っていつも言われてるよ。病院行くとね」
思ったより壮絶だった。以前言っていた、いまわたしが死んだら、というのも冗談ではなかったのかもしれない。
「だから」
藤乃さんは一瞬、黙り込んだ。僕は思わず身を乗り出した。
「わたしを彼女にすると、食費が掛からないですよ」
にっこり笑う藤乃さん。
さすがに心配になって来た。
「なにか気をつけて欲しい事、とかない?」
そうですね、と考え込んだ藤乃さんだったが、やがて。
「暴飲暴食は出来ないので、いただけるなら少量で高カロリーな物がいいです。それから、激しすぎる運動はNGです。あと、ストレスがあると全身の機能が低下するらしいので、そこを気遣っていただくと嬉しいです」
それが一番大事そうだ。じゃあ、具体的にはどうすれば。
「わたしの言うことを全面的に聞いてくれると、とっても長生き出来そうなんですけど。
やっと気付いた。藤乃さんって、物腰を柔らかくした斎原だったのだ。
☆
「はいっ、隊長に提案があります」
右手をあげる藤乃隊員。これまで見たことが無いくらい真剣な表情だった。
「これからあの本について検討しましょう。学校の図書館がだめなら私の部屋を提供します。それにたった今思い出したのですが、今朝からうちの両親は旅行に行って、明日の夕方まで帰ってこないのです。だから、時間はたっぷりとあります」
「つまり、遊びに来いということかな?」
「違います!」
藤乃さんは決然と、首を横に振って言った。
「お泊まりに来て下さい、と言っています」
却下だ。僕たちはまだそんな関係じゃないでしょうが!
「ふーん」
藤乃さんは不満そうに口を尖らせた。
「君は、付き合い始めたばかりの彼女を、玄関の鍵も掛かっていない不用心な家の中に一人で放置して平気なんですか」
「鍵は自分で掛けなさい」
「大丈夫ですよ、何もしませんから」
すがるような目で見られては、僕も断れない。
「ま、まあ別に、僕も何もするつもりは無いけど……」
「じゃあ、OKですね」
なし崩し的に、こんな事になってしまった。
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