第6話 戦闘の序章?
「女の匂いがする」
声に振り向くと、すぐ傍に折木戸の顔があった。くんくんと鼻を鳴らしている。
「うわ!」
僕は廊下の反対側まで飛び退いた。
「お前、いつの間にっ」
折木戸は得意げに制服の胸を反らした。
「なーに。がっちゃんに気付かれないように風下から近づいていたのさ。いやいや、そんな事はどうでもいい。これは誰の匂いだ。斎原ではないよな」
この女は、僕の制服に残った昨日の夕方の匂いを識別できるらしい。しかも風下から接近するって、獲物を狙う猛獣か。
「誰だったかな、嗅いだことはあるんだけれど……」
折木戸はぶつぶつ言いながら、僕に続いて教室に入った。
まだ早い時間だ。半数ほどの生徒があちこちで集まっている。藤乃さんも一番前の自分の席で何か読んでいた。まさかBL小説ではないだろうけど。
折木戸は教室の真ん中で立ち止まり、辺りを見回し始めた。
「何やってんだ、折木戸」
「おっ」
小さく声をあげると、真っ直ぐ藤乃さんの席へ歩み寄っていく。
止める間も無かった。
「おはよう。藤乃」
藤乃さんは顔をあげて、ちょっと怪訝な顔をした。
「おはよう、折木戸さん。どうしたの?」
普段、あまり話をすることがないのだ。不思議に思うのも当然だった。
折木戸はかがむと藤乃さんの顔をのぞき込んだ。
「ひゃうっ!」
藤乃さんが悲鳴のような声をあげた。手で唇を押さえている。
「ふむ、なるほど」
一方の折木戸は納得顔で頷いた。こちらを振り向き、ペロリと舌を出す。
「これは、がっちゃんと間接キスしたことになるのかな?」
でかい声で僕に訊くな。
当然だが、僕と折木戸は、そのあと斎原にすごく怒られた。
☆
放課後の資材室。
僕たちは昨日と同じように並んで作業をしていた。
やや藤乃さんの座る位置が遠くなったような気がする。声を掛けると、びくっ、とされるし。……、やりづらい。
「わたし、初めてだったんです」
「な、何のことかな」
藤乃さんの恨めしそうな目に、僕はたじろぐ。
「決まってるじゃないですか。キスですよ。それが二日続けて、こんな事に……」
申し訳ない。
沈黙。藤乃さんがキーボードを叩く音だけが響いた。
「責任とって下さい」
唐突に藤乃さんが言った。責任……って。
「まさか、結婚しろと?」
それは嫌じゃないけど。でも、僕たちまだ高校生だし。
「いえ。そんな事までは求めていませんけど。その、ですね」
藤乃さんが真っ赤になった。
「も、もう一回、その……キスを」
「だって、今わたしが死んだら、わたしの最後のキスは折木戸さんになっちゃいます。それって、あんまりだと思いませんか。せめて男子であって欲しいです」
まあ、そこまで言うのであれば、失礼して。
♡
「はー、舌の先ってこんなに敏感だったんですね……」
藤乃さんは大きくため息をついて、椅子に崩れ落ちた。
「実は、このお手伝いは、わたしから斎原さんにお願いしたんです」
放心状態から回復した藤乃さんが告白した。
「でも、なぜ僕なんか。一体どこが良かったんですか」
これは本心だった。小学校以来、女の子にモテた事など無かったからだ。常に折木戸が近くにいて、斎原からは下僕扱いされていたとはいえ、だ。
自分で言うのも何だが、モテ要素のない男だと思っているのに。
「ああ、それは。松葉杖です」
意外な答えに、僕は意味を理解しかねた。
「新学期早々、松葉杖を使ってたでしょ」
確かに。斎原を受け止め損ねて怪我したことがあった。
「好きなんです、松葉杖をついた男の人。それに子供の頃、市立図書館で助けてもらったし」
図書館の件は定かではないが、人の趣味は様々だと思わざるを得ない。
「怪我人フェチ、ってこと?」
「はい。若干」
藤乃さんは恥ずかしそうに俯いた。
「ご覧の通り、もう杖は使ってないけど。それでもいいの?」
「はい、またいつでも見られると思いますから」
……嫌なことを宣言された。
☆
「あ、この古い本って『雨月物語』ですね。これ好きなんですよ」
藤乃さんが僕に見せてくれた。古いどころではない。和本だった。タイトルは筆で書いてあるし。間違っても学校の図書館に置く本ではないような気がする。
「よく読めたな、こんな字」
「え、ああ。これはまだ簡単でしょ。読めますよ」
そう言うとパラパラとページをめくる。
「この男同士の愛情がね、いいんですよ」
何のことだ。そんな話があるのか、雨月物語って。
結構なペースでデータ登録を進めていた藤乃さんだったが、その手がぴたりと止まった。何だか、手にした本と僕の顔を交互に見て落ち着かない様子だ。
これは僕の配慮が足らなかったようだ。
「トイレなら、遠慮せずに行ってきていいよ」
「違います!」
「これ、何に分類すれば……」
「だからまあ適当でいいんだけどね。なんてタイトル?」
ず、図解……、そこでなぜか藤乃さんは言い淀んだ。
「ん?」
「図解・江戸性愛事情、です」
「何だって?」
藤乃さんの頬が引きつった。しばらくためらったあとで。
「江戸、性、愛、事情、です」
聞こえなかった訳じゃないので、もう一度言ってもらう必要はなかったのだが。
「それは、何の冗談かな」
そんな真面目な顔で言われると、対応に困る。
「本当ですよ、ほら」
僕はそれを受け取った。
「おお」
「でしょ」
中身は。な、なんと。まさに図解だった。
「ほらね」
「うむう」
言葉はいらない、とはこの事だろう。僕たちは食い入るようにページをめくっていた。しばらくして僕はやっと我に返った。
「ちょっと待って、藤乃さん。こんなもの図書館に並べられない」
「いいんじゃないですか。飛ぶように貸出しされると思いますよ」
「その場合、飛ぶのは僕のクビだよ」
図書委員をクビになったうえ、斎原に死ぬほど怒られるのは目に見えている。つまり、このまま資材室の奥深くに沈めるしかないのだ。
「でも、もう少し検討しませんか。これって貴重な資料かもしれませんよ。いわば、江戸時代の保健体育じゃないですか」
そう言われればそんな気もしてきた。継続審議としよう。
先を急ごう。まだまだ本はたくさん残っているのだ。
ふと、何かの気配に僕は書庫に接した入り口を振り返る。
薄暗い書庫の中に一匹の虎が
斎原が『李徴さん』と呼んだ、あのトラだった。こちらを一瞥し、低くうなり声をあげると、幻のように消えた。
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