第6話 「…見てられないんだよ。」
「…見てられないんだよ。」
そう言って、海はうなだれた。
「空の奴…最近みんなを避け始めてさ…」
「…富樫君も?」
「あいつは特に。何か落ち込んでるみたいだし。」
夜勤明け。
病院を出た所で、海と会って。
そのまま、公園のベンチで缶コーヒーを飲みながら話を聞く。
「空は、誰かを待ってるみたいなんだ。」
「……」
「電話の前でじっとしてる事があったり、窓の外を気にしたり…あいつ、付き合ってる男いたのかな。」
「……」
「この前もふらっと出かけるからついて行ったら、映画館に入ってさ。泉と行ってたからだと思ったら、泉はそこには行ってないって言うし。」
「…どこの映画館?」
「新しいビルに入ってるやつ。レイトショーが充実してるから、大人の客が多いらしい。」
「…海、実は…」
意を決して打ち明けようとすると。
「あ、ごめん。」
海の携帯が鳴った。
「もしもし。」
…すべて打ち明けよう。
そうすれば、みんなが楽になれるんだ。
ただ、空には…
「え?どこにも?」
海が俺の顔を見た。
「空がいなくなった。」
「え?」
「分かった。心当たり探してみる。じゃ。」
「いなくなったって、いつ。」
「さあ…ずっと部屋にいると思ってたらしいから…ごめん、俺、探しに行くわ。」
「待て。俺に心当たりがある。」
走り出す海に声をかけると。
「…わっちゃん?」
海は不思議そうな顔で、俺を振り返った。
「どこ?」
「…俺が行く。見付けたら連絡する。」
そう、海に言い残して。
俺は走り出す。
空…
おまえ、あそこにいるんだな?
俺は一旦家に帰って、目的地に車を走らせた。
* * *
「では、こちらにお名前とご住所をご記入ください。」
「……」
名前と住所…
宿帳に書き込みながら、他人の名前みたいな気がする。
そう感じてしまった。
まだ思い出せない。
あたしは本当に、二階堂空なの?
「おや、どこかでお見受けしたと思ったら、二階堂さまですね?」
ふいに番頭さんが宿帳の名前を見て言った。
「雰囲気が違ってらしたので、気付きませんでした。」
「……」
「では、
番頭さんはニコニコ笑顔で席を立たれた。
あたしを…知ってる?
少しして、若い仲居さんが現れた。
「あっ、二階堂様!!」
「……」
あたしは、その人を見つめる。
…全然分からない。
「ご案内して。木蓮の間だよ。」
「あの時と同じでございますね。」
その澄子さんは嬉しそうに、あたしに笑顔を向けた。
…あの時と同じ?
澄子さんについて階段を上がる。
広くて長い廊下を歩いて。
「どうぞ。」
開けられて入った部屋は、畳が新しいのか…いい香り。
「嬉しい〜。その後、どうされたのかなって気になってたんですよ。」
障子を開けると…
「……」
言葉が出なかった。
目の前に広がる湖が、とてもつなく美しくて…
「あたし…」
小さく声を出すと、澄子さんは。
「はい。」
あたしの近くに正座した。
「あたし、ここに来た?」
「…二階堂様?」
「あたし…記憶がなくて…」
「え…っ?」
「部屋で…ここのパンフレットを見つけて…それに、これは見た事のある景色だわ…」
外を見たままでそう言うと。
「いらっしゃいました!!そして、たくさん私にお話しして下さいました!!」
澄子さんは、あたしの手を握ってそう言った。
「…あなたに、話を?」
「はい。一緒に来るはずだった方が来られなくて…でも最後まで待ってみようって。」
「…その人、来た?」
「いいえ…来られませんでした。でも、仕事の忙しい人だからって、二階堂様、たくさんお土産を買ってお帰りになられました。」
「お土産…」
頭の中で、ボンヤリと…何かが…
「あたし…あなたに彼の事話した?」
「はい。」
「彼のどんな事を話した?」
「いつも約束をすっぽかされるって…仕事柄仕方ないんだけど、初めての旅行だから今回は頭に来たって、お酒をたくさん飲まれて…」
「…名前は?」
「あ…えっと…お聞きしたんですけど…あ、きれいな名前だなって…」
「きれいな名前…」
目の前に広がる湖。
あたしはここで、誰かを待ってた…
「番頭さんも、あたしの事…覚えてたみたい。」
あたしの言葉に澄子さんは小さく笑った。
「みんな覚えてますよ。二階堂様、強烈でしたから。」
「…強烈?」
「ご予約の名前、確か男性の方だったんですが、『こいつは来ません!!』ってマジックで塗りつぶされて…」
「…あたしが?」
「はい。」
「あの…あたしって、話聞いてると…すごくがさつな女みたいね…」
「がさつだなんて!!確かに色々衝撃でしたけど、とても楽しくて…あたしみたいな新人を、ずっとそばに置いてくださって…」
「……」
「あ、左腕、治りましたか?」
「左腕?」
「ええ。怪我されてたでしょ?ここ。」
澄子さんが、自分の左腕を指差す。
…よく痛む所だ。
「あの…今日ここへ来られること、ご家族の方はご存知なんですか?」
澄子さんが遠慮がちに聞いた。
「ううん…内緒で来ちゃった…」
「た、大変じゃないですか。今頃大騒ぎになってるんじゃ…」
「…でも、お土産とか買って帰ってるなら、心当たりの一つに入らないかな…」
「だって、ここに来られた時、秘密の旅行だっておっしゃってましたよ?」
「…秘密の旅行?」
「ええ。彼の事、誰も知らないって。だから、お土産も、どこにでもあるようなお煎餅にされてました。」
「……」
何かが…引っかかってる。
もう、そこまで見えてるのに。
「…ちょっと散歩に出てきます。」
「お一人で…大丈夫ですか?」
「ありがとう。大丈夫。」
澄子さんにお礼を言って、あたしは立ち上がる。
秘密の旅行…
まさか、不倫じゃないよね…
* * *
「すみません。今日、こちらに二階堂空って女性が来ましたか?」
俺がフロントでそう切り出すと。
「…お客様は?」
フロント係の男は、ジロリと俺を見た。
「彼女の主治医です。」
「え?主治医?」
俺は空の状態を説明して、自分の身元を証明するものも提示した。
「今、二階堂様は外出されてますが…」
「外出?」
「ええ。散歩に行ってくるとの事です。」
「散歩…」
「おそらく、そこを出た所にある桟橋じゃないですかね。」
男が指をさす方向に目をやる。
「ここからじゃ見えませんが、桟橋の先の方は景色が素晴らしいんですよ。前に来られた時も、ずっとあそこにいらしたので。」
「…ありがとうございます。」
宿を出て、深呼吸。
桟橋に向けて歩きはじめると、涙が出そうになった。
こんなに美しい景色の中に、空は一人でいたのか。
俺が沢渡君に同情して、自分の優しさに酔いしれてる時。
空は一人ぼっちで、この景色を見ていたのか。
…好きでいる資格さえない。
「……」
見付けた。
すすきに囲まれた水辺。
ボンヤリと湖を見つめているのは…
「…空。」
俺の声に、空は驚いて振り返って。
「…先生?」
キョトンとした顔で、俺を見上げた。
「…みんな心配してるぞ?」
「…先生、どうしてここが?」
「……」
空の問いかけには答えず、隣に腰を下ろす。
「きれいだな。」
「…ええ…」
「…みんな心配してる。帰ろう。」
「…ね、先生。」
「ん?」
「一泊だけ…しましょうよ。」
「…え?」
空は湖を見渡して。
「こんなに素敵な所に来たんですもの。せっかくだし…一泊だけ。ね?」
「……」
空の笑顔が久しぶりな事も手伝って。
俺は、つい…
「一泊だけだぞ?」
答えてしまった。
* * *
「二階堂様の隣のお部屋ですね?」
「はい。」
「では、お名前とご住所を。」
先生が宿帳に名前を書くのを、あたしはボンヤリと眺めた。
朝霧…渉…
ふうん…
みんな、わっちゃんって呼んでるけど、そんな名前だったんだ。
「あ、おかえりなさいませ。」
澄子さんがフロントに出てきて、笑顔で迎えてくれた。
「ただいま帰りました。」
「あ、澄子、この方が…」
番頭さんは、澄子さんに何やら耳打ちしてる。
そして、それを聞いた澄子さんは宿帳に目を落として…
「…あ。」
あたしを見た。
「澄子、ご案内して。」
「あっ、は、はい。」
澄子さんが先生の前に立って。
「こちらです。」
二階に上がった。
あたしも後に続く。
「お食事はご一緒でよろしいですか?」
「ああ、彼女の部屋で。」
「かしこまりました。」
「空、家に電話するから、後で来なさい。」
「…はい。」
先生が部屋に入って、あたしも自分の部屋に戻ろうとすると…
「二階堂様。」
澄子さんが、声を潜めて言った。
「そうですよ…朝霧様ですよ。」
「……」
「きれいな名前って。」
「…そう。」
「そうって…何か思い出されたんですか?」
「…さっき澄子さん、あたしが秘密の旅行だって…」
「…あ。」
「秘密の旅行先に先生が来た時点で、そうかなって。」
「じゃあ…」
「でもね…先生は、今までもすごく近くにいたのに、あたしの恋人だったなんて…言わなかったの。」
「……」
「…言いたくないのかもしれない。」
「そんな…」
「だから、あたしも…思い出すのやめる。」
「そんな…そんな…」
澄子さんは涙目になってる。
あたしは小さく笑って。
「ありがとう。」
澄子さんの手を握った。
「本当に、ありがとう。もう…満足だわ。」
あたしの言葉に、澄子さんはポロポロと涙をこぼして。
「先生も…きっと何か事情がおありなんですよ…」
って、小さくつぶやいた。
* * *
「ほら。」
受話器を渡すと、空はうつむき加減に。
「…心配かけて…ごめんなさい。」
小さくそう言った。
「ちゃんと明日帰ります。はい…はい…あ、先生に代わります。」
短い会話の後、空が俺に受話器を返した。
電話の向こうでは、織さんが元気のない声で。
『わっちゃん…空をお願いね…』
それだけ、つぶやくように言った。
「織さん、明日帰るから。その時にゆっくり。」
『ええ…』
「とにかく安心して。もう大丈夫だから。」
『ごめんなさい…私達が何もできないから…』
「そんな事ないさ…これは、誰のせいでもないんだ。」
『そうだけど…』
「…俺のせいだから。」
『…わっちゃん?』
「とにかく、明日。」
受話器をそっと置く。
空を振り返ると、窓から湖を眺めていた。
…俺が来なかったあの時も…
こうやって、一人で…
「…先生。」
「ん?」
空が俺に背中を向けたまま話し始めた。
「あたし…もう、思い出すのやめる。」
「……」
「こんなに…みんなに心配かけて…」
「空…」
「…このままでも…大丈夫だよね…?」
「…おまえが、望むならな…」
「新しい恋だって…できるよね…?」
「………ああ。」
「…さ、もうすぐ夕食かな。あたし、温泉に入って来ます。」
空は立ち上がると、俺の顔を見ずに廊下に出た。
…新しい恋…
俺は、何をしてるんだ。
空に打ち明けるつもりだったんじゃないのか?
土壇場になって怖くなるなんて…
「あの…朝霧様。」
「はい?」
部屋の外から呼ばれて引き戸を開けると。
「…仲居の分際で、こんな事…申し上げていいのか悩んだのですが…」
「……」
「私、澄子と言います。春に二階堂様が来られた時、お世話させていただきました。」
澄子さんは緊張した面持ちで俺を見据えると。
「どうして、自分が恋人だって、言ってあげないんですか?」
「…え?」
「二階堂様、もう…お気付きです。」
「…どうして。」
「今日、こちらに来られて…私、嬉しくて。あの時の事、話してしまいました。」
「彼女は覚えていなかっだろう?」
「はい。何も。でも…秘密の旅行だったって話したら…秘密の旅行先に先生が来られた時点で…相手って事ですよね…」
「……」
俺は髪の毛をかきあげて、溜息を吐く。
「…ずっと待たせてばかりだった。」
小さく答える。
「いつも待たせて…約束もすっぽかして…その挙句、事故の前にはふられた。」
「…ふられた?」
「ああ。結婚しようって言ったら、ふられた。」
「……」
「だから、思い出さない方がいいと思ったんだ。俺の事なんて…思い出したって辛い事ばかりだ。」
「でも!!」
「…彼女は今、温泉に行ったよ。」
「…はい…」
「俺も浸かって来る。帰ったら…すぐに食事にしたいから、支度を頼めるかな。」
俺が少しだけ笑って言うと。
「は…はい。もちろんです!!」
澄子さんは嬉しそうに答えて、廊下を小走りに消えて行った。
「…さて…と。」
温泉に浸かって…
余計な気持ちを洗い落とそう。
* * *
「うっわあ…すごいご馳走。」
目の前には、たくさんの料理と。
「空、これ食え。おまえ貧血気味なんだから鉄分摂らないと。」
先生の笑顔。
「もう、ちゃんと食べますよ。そんな…子供みたいな扱いして…」
それだけで嬉しい。
…記憶を失くす前も、こうやって…先生と食事してたのかな…
「あれ?お前ニンジン食ってるじゃん。嫌いだったのに。」
先生が、あたしを見て笑った。
「……」
「いいことだな。」
…先生、あれだけあたしの事、何も教えてくれなかったのに…
「…ねえ、先生。」
「ん?」
「あたしも…先生の事、わっちゃんって呼んでた?」
あたしの問いかけに、先生の箸が一瞬止まった。
「…ああ、呼んでたよ。」
「じゃ、今日はそう呼んでいい?」
「ああ。」
切ない。
思い出してないのに…切ない。
「さっきさ。」
先生が笑いながら言った。
「え?」
「下の売店に行ったら、すっげ名産物があんだよ。」
「…あったね…あたしも見た。」
「おまえ、前来た時の土産、カルルスだったぜ?」
そう言って、先生は大笑いしてる。
…どうしたんだろ。
いつもと違う…
あたしの事…診察の時は『空ちゃん』って言ってたのに…
この前から、呼び捨てだし…今日は、おまえ、って。
少しだけ嬉しい気持ちと、切ない気持ちとで複雑な心境のまま。
あたしと、先生と長い食事を楽しんだ。
『空、起きてるか?』
真夜中。
寝るのがもったいなくて、湖を眺めてると。
部屋の外から先生の声。
「…はい。」
あたしが小さく返事をすると、先生はゆっくりと入って来て。
「不用心だな。鍵閉めろよ。」
って、笑った。
「どうした?眠れないのか?灯りも付けずにそんな所で。」
先生は、窓枠にもたれかかってるあたしのそばまで来て座った。
「先生は?」
「…わっちゃんって呼ぶんじゃなかったのか?」
「……」
あたしは、先生を見つめる。
月明かりに照らされて、先生の髪の毛が銀色に見えた。
「わっちゃん…」
「ん?」
「澄子さんに聞いてると、あたしって…すごくがさつな性格だったみたい…」
「ああ、そうだな。」
「本当?」
「がさつで短気でクールで、ヤキモチ焼きだったな。」
「…いいとこないね。」
「でも、頭が良くて、料理が上手かった。」
「…あたしの料理、食べた事あるの?」
「毎日のように食べてた。」
「……」
先生が、湖に向けてた視線を、あたしに向けた。
「空。」
「…はい。」
「今まで、ずっと言えなかった。でも今日は…何もかも話そうと思ってる。」
「…何もかも?」
「ああ。おまえの過去の事。何か聞きたい事は?」
「聞きたい事?」
「お前が聞きたい事から説明してくよ。」
「……」
突然そんな風に言われても…
何から聞いていけばいいの?
「と…富樫さんが彼氏だって…どうして?」
「いつもそばについてる奴だし、彼は空の事を好きだから、きっと守ってくれると思った。」
「…あたしは、どんな仕事を?」
「とても危険な仕事をしてた。でも、仕事に誇りを持ってた。」
「あ…」
「他には?」
核心に迫れない。
先生が、あたしの恋人?
そう…聞きたいのに…
「あの…」
「ん?」
「お願いが…」
「何。」
あたしは意を決して、打ち明ける。
「…キスして…わっちゃん。」
少しだけ、懐かしい言葉のような気がした。
あたしの言葉に先生は小さく笑って。
「…あの時も言われたな。」
って…あたしの頬に触った。
先生の手が、あたしを抱き寄せる。
そっと重なる唇。
…ああ、この唇だ…
そう感じて、涙が出てしまった。
「…空?」
唇が離れて、先生があたしの顔を覗き込む。
「…見付けた…」
小さな声でそう言うと。
「…やっと来たよ。」
先生は、そう言って…あたしを強く抱きしめたのよ…。
「ありがとうございました!!」
両手いっぱいのお土産。
今度は、ちゃんとした名産物。
「二階堂様、またお越しくださいませね。」
澄子さんが、涙ぐみながら手を握ってくれた。
「ありがとう。」
記憶は戻ってないけど、あたしの笑顔が全てを物語っていると思う。
夕べあたしは一晩中…先生の腕の中で懐かしさを感じていた。
「必ず、また来るから。」
「お体に気を付けて下さいね。」
「澄子さんも。」
「空、行くぞ。」
「はい。」
助手席に乗り込む。
たくさんのお見送りを受けながら、車は動き始めた。
「…楽しかった。」
小さくつぶやくと。
「それは良かった。」
先生は満面の笑み。
「帰ったら、みんなにちゃんと話そう。」
「話す?何を?」
「俺と空の事。」
「……」
そうだ。
「ね、先…わっちゃん。」
「ん?」
「どうして、あたし達は…内緒で付き合ってたの?」
あたしの問いかけに。
「さあ…それは俺も知りたいな。」
って、先生は首をすくめた。
「どうして?」
「どうしてって、それは空が秘密にしようって言った事だから。」
「…あたしが?」
「ああ。」
あたしが秘密にしようって?
どうしてだろう。
「峠に入るから、ちゃんと深く座ってろよ。」
「…はい。」
スッキリしない気持ちで、あたしはシートに深く座る。
車は峠を走り始めて、右に左にと曲がる道を、気持ち悪いな…なんて考えてると…
「危ないっ!!」
突然、山からウサギが…!!
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