第7話 「ううん、いいよ。ありがと。うん。じゃあね。」
「ううん、いいよ。ありがと。うん。じゃあね。」
ルミちゃんとの電話を切る。
あれから五日。
「…どこまでタバコ買いに行ってんだよ…っ。」
泣きたくなった。
でも、泣かない。
どこかで事故にでも遭ってるんじゃないかと、心配になった。
だけど、昨日ルミちゃんが携帯に電話すると、慎太郎はそれに出たそうだ。
そして。
『今、ちょっと忙しいんだ』
って。
何なのよ、それ。
あたしにはタバコ買いに行くって書置きだけ。
電話にも出ない。
仕事だって、マネージャーが何とか上手くやってくれてるからいいけど。
あたしと寝た途端…いなくなるなんて、さ。
まるで、あたしがここに居るから帰って来ないんじゃないか、って。
♪♪♪
家の電話が鳴って、あたしは慌ててそれを取る。
「もしもし。」
『ああ…いたか。』
「…何なの?どこまでタバコ買いに行ってんのよ…」
『悪いな。』
「どこに居るの?いつ帰るの?」
まくしたてるように、そう言うと。
電話の向こう、たばこの煙を吐き出す気配。
「…お店だって、みんな心配してるよ…」
『分かってる。』
「分かってる…?」
何が分かってるんだよ!!
「…店のみんなの事は分かっても、あたしの事は分かんないんだね。」
『…あ?』
「あんな書置き一つで、連絡も取れなくなって。あたしが、どんな気持ちで…」
『……』
「…もう、いい。早く帰って来て。」
『もう少し帰れねえな。』
「…今どこ?」
『お前には関係ない。』
カチン。
あんなに、あんなに抱き合って。
気持ちが…つながったと思ってたのに。
所詮慎太郎は家出娘のあたしを連れ込んで、最初は弟にして、最後は女にして。
いいように遊んだら、面倒になったんだ。
きっとそうだ。
「…そっか。あたしには関係ないか。」
『……』
イライラした。
イライラして…爪を噛んだ。
こんなの、初めてだ。
「分かった。出てく。今までありがと。さよなら。」
『おい…なんでそうなる。』
「慎太郎は、そう言ってるようなもんだよ。」
『…紅美。』
「…何…」
『とりあえず、あと何日か待て。それから、店は辞めろ。』
「……え?」
『惚れた女に弟のフリなんてさせてらんねーしな。』
「……」
『俺から店に電話入れておく。凛は他の店に移る事になったとか適当に言うから、おまえは部屋から出るな。』
「…そんな…急に言われても…」
『ああ…飯は『影』で食え。帰れる頃になったら、また連絡する。』
「慎太郎。」
『あ?』
「…本当に…帰ってくる?」
あたしの心細い声に、慎太郎は少しだけ間を空けて。
『ああ、帰るさ。だから、ちゃんと待ってな。』
少しだけ、優しい声で言った。
* * *
「ただいま。」
「お疲れ様。」
あれから…あたしは、お店を辞めた。
慎太郎は、電話があった二日後に。
何の連絡もせず、突然帰って来て…あたしを泣かせた。
…あたし、不安だったんだろうな…
お店のみんなは、突然あたしが辞めた事を悲しんでくれたそうで。
今でも、みんなのプリント作りだけはやりたい。
そう、慎太郎に言うと。
「…ま、あいつらも勉強熱心になってるから、それは頼む。」
って。
マキちゃんは英語に目覚めて、英会話教室に通い始め。
ナナちゃんは俳句の奥深さに魅かれて、もっと日本文化に触れたい、と、茶華道を始めたらしい。
「紅美。」
「ん?」
ふいに、キス。
慎太郎は、以前の女関係をきれいにするために、あちこち動き回っていた。と、言った。
…確かに、うちに来る女は、いつも違ってた。
もしかして、あたしもその不特定多数の中の一人なんじゃ…って。
いなくなってた期間、不安になって疑ったけど。
女関係をきれいにしてくれてたなんて…
それが、あたしのためだって言うのが、すごく嬉しい。
「…何?」
突然、慎太郎があたしの手に、小さな包みを持たせた。
「やる。」
「…開けていい?」
「ああ。」
慎太郎はあたしから離れると、ジャケットを脱いでソファーに座った。
あたしは慎太郎の隣に座りながら、包みを開ける。
「…あたしに?」
「俺に似合うか?」
包みの中は、ネックレス。
あたしの誕生石、パールの上に小さな冠がついてる。
「ミルククラウンみたいだね。」
「ミルククラウン?」
「しずくを落とした時にできる形。」
「なるほどな…つけてやるよ。後向きな。」
慎太郎はあたしからネックレスを取って、付けてくれた。
「ど?似合う?」
「思ったより…な。」
「もう。」
慎太郎の胸に顔を埋めて、ネックレスを触る。
嬉しいな…
慎太郎がプレゼントだなんて…
「…伸びたな。」
慎太郎が、あたしの髪の毛を撫でる。
「短い方がいい?」
「…いや、すっかり凜太郎じゃなくなったな。」
「…あたしは、紅美じゃなくてもいいよ…」
「……」
あたしが小さくつぶやくと。
「やってる最中に弟の名前呼ぶ趣味はねえな。」
慎太郎は笑いながら、あたしの首筋に唇を押し当てた。
* * *
「…コーヒー飲む?」
ソファーに寝転んでる慎太郎の髪の毛を撫でながら、問いかける。
「あー…そうだな…」
最近…
慎太郎は、元気がない。
年が明けたぐらいから様子がおかしいと思って、しつこく問いかけると。
「…刑事が来た。」
短く、そう言った。
それは、お店の事で?
それとも、あたしの事で?
ドキドキして、聞けなかったあたしに。
「他の店からタレコミがあったらしくて…帳簿から何から引っ掻き回された。」
慎太郎は、大きく溜息を吐いた。
それについては、何もやましい事も落ち度もないけれど、一度目をつけられると面倒な事も起きやすいそうで…
「冷やかしに来る客が増えて困ってる。」
そうボヤいてた。
あたしは何もできないけど。
できないけど…慎太郎を支えたくて。
できるだけ、家に居て、慎太郎が帰って来た時に安らげるよう。
掃除をしたり、食事の支度をしたり。
…以前のあたしからは、信じられないぐらい。
ちゃんと、女をしてる。
「…いい天気だね。お店も休みだし、散歩にでも行かない?」
季節はそろそろ春。
本当なら…もうすぐ卒業式。
でも、そんな事はどうでもよくなってる。
あたしは、今の生活が大事。
「…紅美。」
「ん?」
「俺と、行く勇気あるか?」
「行く勇気…?」
急にそんな事を言われて、あたしは目を丸くする。
「行くって、どこへ?」
「わかんね。ただ…もうここにはいられねーかもしれない。」
「……」
お店…そんなに大変な事になってるのかな…
今更ながら、もっと深く聞いておけば良かった、と後悔する。
「…行く。」
慎太郎の手を握って言うと。
「後悔しねえか?」
慎太郎は目を細めた。
「うん。」
「……」
「後悔なんか、しないよ。」
慎太郎はあたしの手を握り返すと。
「支度しろ。」
あたしの肩を抱き寄せて言った。
* * *
「ちょっと遊んでくか。」
慎太郎が笑顔で言った。
「…遊ぶって?」
あたしは眉間にしわを寄せる。
「その辺だよ。考えてみりゃ、おまえと出かけたのって…」
「パチンコだけだよね。」
顔を見合わせて笑う。
「よし。ゲーセン入るぞ。」
「あはは。慎太郎がゲーセンって。」
楽しい。
逃避行の前だからなのか。
なんだか二人ともテンションが高い。
「おし。バイクで勝負だ。」
「あ、知らないよー。あたしに負けたって。」
「おー、強気だな。」
…知らない土地で、慎太郎とやり直す。
不安がないと言えばうそになるけど…
でも、信じられるのは慎太郎だけ。
「くっそー!!おまえ、飛ばし過ぎだ!!」
「えー!?何!?」
あたしのバイクは、慎太郎を追い抜いてゴール。
…父さんのバイク、よく後に乗せてもらってたっけな。
母さんはいつまでもバイクなんて乗るなって怒ってたけど。
あたしは、父さんがバイクに乗るの…好きだった。
…はっ。
何思い出してんの。
ぶんぶん、と、頭を振る。
「何やってんだ。」
「なんでもない。あ、次あれにしよっ?」
「今度は手加減しねえぞ。」
「よく言うわ。」
きっと…どこに行っても。
あたしは、慎太郎と一緒なら。
こうやって、笑っていられるんだ。
歌わなくても。
沙都がいなくても。
…家族も友達もいなくても。
* * *
「あー、これ、変な顔。」
二人で撮ったプリクラ。
「どこが。最高にいい男じゃねえか。」
肩には、慎太郎の手。
空は…オレンジ色。
何となく、その色が気持ちを急かす。
「そろそろ行くか。」
「…うん。」
楽しい時間って、本当にあっと言う間。
でも、きっとどこへ行っても…
「俺、ちょっと店に顔出してくる。」
「え?」
「おまえ、駅で待ってな。」
「あたしも…行っちゃダメ?」
慎太郎は、あたしをマジマジと見て。
「店の奴らに何て言うんだよ。」
眉間にしわを寄せた。
まあ…確かに…
あたしと慎太郎は、みんなを騙してたわけだし…
「…みんなに…会いたかったな…」
小さく愚痴ると。
「…悪かったな。」
慎太郎はあたしの頭を撫でた。
「…じゃ、待ってる。」
「表の時計台の下にいな。すぐ帰ってくる。書類渡すだけだから。」
「ん。」
慎太郎は、あたしの頭を撫でてた手を頬に持ってきて。
「紅美…おまえ、明るい所で見ると、いい女だな。」
笑った。
「なっ…何だよそれ!!」
「ははっ。なんで怒る?褒めてんだぜ?」
「うっ…も、早く行けっ。」
「ああ…紅美。」
「え?」
「愛してる。」
「……」
公衆の面前ってやつだよ?
何やってんだよ。
慎太郎、あたしの頭を強く引き寄せて、かなり濃厚なキス。
「…んじゃな。」
「…バカ。」
駆け出す慎太郎の後姿を見送って、あたしは駅の表の時計台に向かう。
…どこに行くのかな。
北かな、南かな。
慎太郎は何も言わないけど、きっと…北生まれ。
雪を見て実家を思い出したり、妙に魚に詳しかったり。
漁港の生まれだったりして。
『お客様のお呼び出しを申し上げます』
駅から、賑やかなアナウンス。
オレンジがだんだん闇に変わっていく。
…久しぶりだな…こういう雰囲気。
少しだけ荷物を詰めたバッグを抱きかかえて、小さく笑うと。
「紅美ちゃん。」
ふいに、肩を掴まれた。
驚いて振り向くと…
「さ…」
沙都が、立ってる。
「な…なんで…」
「帰ろう。」
「な…何言ってんの?」
「…あの人は来ないよ。」
「……え?」
沙都の言葉が、何を意味するのか分からなかった。
「慎太郎さんは…来ないよ。」
「……」
沙都は何を言ってるの?
頭の中がパニック。
どうして、沙都の口から慎太郎の名前が?
どうして、慎太郎が来ないって…?
「…これ、預かった。」
沙都がゆっくりと封筒を差し出した。
あたしはそれを奪うように取ると、乱暴に手紙を開いた。
『紅美、家に帰れ。それが俺の最後の願いだ』
たった一行、それだけ。
「紅美ちゃん…」
「…どうして…」
「紅美ちゃん!?」
あたしは駆け出した。
お店に…お店に行かなくちゃ!!
「紅美ちゃん!!」
追ってきた沙都が、あたしの手を掴む。
「離してよ!!」
「あのお店も、もうないんだ!!」
「…え?」
「ないんだ。もう…違うお店になってる。」
「……」
力が抜けた。
いつから?
いつから慎太郎は…こうしようって考えてたの?
「…お店には…行かせて。」
「紅美ちゃん…」
「自分の目で…確かめたい…」
「…分かった。」
ゆっくり歩き始めると、沙都はあたしの隣にピッタリと寄り添った。
…あんなに居心地の良かった沙都が…
今は、まるで知らない人のように思える。
「……」
確かに、お店の看板は変わってた。
外に立ってる客引きの男も、知らない人だった。
「…沙都、あんた中に入って、女の子の名前見て来てよ。」
「えっ?」
「ルミちゃんとか、マキちゃんとか…ナナちゃんとか、エミリちゃんとか…」
「…もう、みんな卒業したんだよ。」
「……卒業?」
「うん。紅美ちゃんが勉強教えて、慎太郎さんが新しい就職先を見付けて…みんな、お店辞めたんだ。」
「……」
あたしだけ。
あたしだけが、取り残された。
「…どうして…?」
「…紅美ちゃん、帰ろう。」
「どうして、あたしだけ…?」
ポロポロと涙がこぼれ落ちる。
沙都は…そんなあたしに一瞬驚いてたけど。
「…おばさん、入院してるんだ。」
あたしの肩に、手をかけて言った。
「……」
「紅美ちゃんがいなくなって、体調崩して…誰とも喋らなくなって…」
「…誰のせいで…」
「だから、探さなかったんだよ。」
「……」
「おばさん、自分が紅美ちゃんを苦しめた、って。紅美ちゃんが自分の意思で出て行ったなら、探す必要はないって。」
一度に色んな事がありすぎて。
あたしの思考回路はおかしくなっていたと思う。
ただ…慎太郎の最後の願いが『家に帰れ』だった事も手伝って…
「…帰る…」
あたしは、沙都に寄りかかって…家に向かった。
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