放課後
日が傾いてきて寂しげな香りを漂わせる帰り道には、部活をやっていない生徒たちやその他予定の無い生徒の姿がちらほらと見える。
自分もその一人だが、今回は少し違う。目の前には小柄な少女がポニーテールをぴょこぴょこと揺らしながら歩いていて、しかも時折後ろを振り向いて俺がちゃんと着いて行っているかを確認している。
いつもなら一人で黙って自転車で駆け抜ける下校道だが、今日は彼女が一緒にいるせいで、自転車から降りて彼女の背中を見守っている。
まだほんのり熱い頬を触りながら周りの風景をぐるり、と見回し、彼女の背中へと視線を戻す。別段良い景色ではないが、彼女が何も話さないので暇を持て余してしまっていた。
「あのさ」
不意に数歩先の涼が俺の歩調に合わせて隣に来た。
「今日貸した本なんだけどね、本当に面白いんだよ」
彼女は笑顔でそう言った。
「そうなのか。でも読む暇が……」
空の赤い方を見ながら髪をかいていると、
「いつ返してくれてもいいよ」
また笑顔で返してくれた。
くるっ。と彼女が頭の尻尾を揺らして振り返り立ち止まった瞬間、急に冷たい風が頬を刺すように吹いてきた。
「うわっ、寒っ」
慌てて上着を着ようと思ったが、今朝玄関を一歩出たとたん外の生ぬるい空気のせいで上着を置いてきたことを思い出し、むなしく腕を空振りさせた。
「私ね」
二の腕をさすって温まろうとしていたところに、彼女は背中を向けたまま話した。
「最近どうしたら良いか解らなくなっちゃって……」
「え?」
同じワイシャツ一枚だというのに彼女は一ミリも体を震わせずに続けた。
「ちょっと最近憂鬱になっちゃってね……今年の秋みたいに」
ふ、と薄く笑ってこちらに振り向き、こう聞いた。
「翔は今年の秋はどう思う?」
「どう……って言われてもな。寒かったり生ぬるかったり、そうかと思えばまた寒くなったり、どうかしてるんじゃないかって感じかな。でもまあ……別にそんなに気にする季節でもないし何とも思ってないな」
「そう……」
下唇を軽く噛み、また俺に背中を向けて歩き出した。
「実はね、私……」
その後は何秒開いただろうか。何台かの自転車が通り過ぎ、いつの間にか風も冷たくなくなり、俺は二の腕から手を離していた。
「やっぱり何でも無い」
「……そうか」
まだ何か言いたげな彼女から、それ以上何も聞き出せなかった。
それからはお互い無言のまま帰路についた。
「じゃあ、また明日ね」
さっきとは打って変わっての彼女の笑顔を見送って真っ直ぐ家へと帰っていった。
部屋のドアを開け放し、ベッドのすぐ横にカバンを放り投げた。
「……」
先程の彼女の表情、言おうとした言葉。やはり彼女には何か大きな悩み事があるに違いない。出会って日は浅いが、友人としてそれを解決しなければならない。しなければならないのは解ってるいるが、どうすれば、何をすればいいのかが解らなかった。肝心なところで彼女はいつも口を噤んでしまう。
特に具体的な得策も思いつかぬまま、気が付けば彼女が貸してくれた小説をカバンから取り出していた。
『今日貸した本なんだけどね、本当に面白いんだよ』
最初のページを空けた瞬間、彼女の言葉と笑顔がパッと現れて消えた。しかし特に考えもしないままページをめくっていった。
小説の内容は、戦前の話で、陸軍が極秘裏に作った諜報組織が世界各国で暗躍する話だ。
スパイが出る作品といえば、アメリカやイギリスが作っているあれやこれを思い浮かべる。隠密行動とかしなくてもいいのかというくらいに、最終的にはドンパチ賑やかに話を締めくくるのだ。だが、それらのスパイモノとはまた違った、静かに、しかし激しく進行していく物語に、いつの間にかのめり込んでいた。
「はっ……」
本に張り付いた顔をはがし、ばたんと音を立てて本を閉じた。
「……読み終わった……」
意外にも読み終わってしまったことに驚嘆してあたりを見回してみると、まだ一時間も経っていなかったことにまた驚嘆してしまった。
そんなにも集中していたのか。いくら短編とはいえ、これは速すぎる。
また頭の中と上にはてなを浮かべながら本を机の上に置いて窓を開けた。
どんよりと暗い雲、さっきまで少し暖かかった風も冷たくなってしまっている。何かおかしい。彼女が転校してきた頃からだ。寒くなったり、暑くなったり。まだ九月のはずなのにこんなことがあるのだろうか。
「変な季節だ……」
自分でも聞こえない程小さな声で呟いて窓を閉めた。
「涼、この本ありがと。あっという間に読めた」
次の日俺は教室で彼女に会って真っ先に本を手渡した。
「面白かった?」
彼女は本を受け取りカバンの中をごそごそしながら聞いてきた。
「ああ。結構面白かった。たまにはこういうのも良いな」
「でしょ? はい、これ」
そう言って彼女は俺にまた新しい本を差し出した。
「これは?」
「昨日貸した本の続編だよ」
「はあ。ありがと……」
前作と同じ厚さの本だ。ぺらぺらとめくって中身を確認した。
前と同じで挿絵は無しと……
挿絵が無ければ読めないというわけではないが少し物足り無い感があった。しかし俺はそんな感と本をカバンの中の教科書と交換しようとしたが、
「あれ?」
「どうしたの?」
無い。一時間目の授業に使うノートが無い。
「ノートが無い。置いて来ちまったか」
「大丈夫? ルーズリーフ貸そうか?」
「ああ。悪い」
彼女がルーズリーフを持っていて助かった。危うく違うノートの後ろの方に書いてページを無駄にしてしまうところだった。別にそれでも良かったが。
「おい、津上」
涼のカバンからルーズリーフが取り出されるのを心待ちにしていた時だった。
少し声の低い女子が話しかけてきた。とっさにその声の主の方へと体を向ける。すらっとした体で髪を両方で束ねている彼女は……たしか相川だったっけか。
「これ、さっきお前に返しといてくれって。隣のクラスの奴が」
そう言って彼女が差し出したのは俺のノートだった。
「ああ! そういや貸してたな……ありがと。相川」
ノートを受け取るその一瞬、俺の指と彼女の指が軽く触れてしまった。
「っ……」
「どうした?」
彼女は微妙に頬を赤くするようしてすばやく俺から顔を背けた。
「何でも無い」
そのまますたすたと歩き去っていった。
それを目で追っていると涼が、
「鈍感」
一言そう言い放った。
「え?」
「何でも無い。ねえ、今日も一緒に帰る?」
「え? ああ。別に問題ないけど……」
「ありがと」
それから、俺と涼は毎日の様に一緒に下校していた。時折見せる影はあるものの、彼女と一緒に帰るのは何故か楽しかった。涼が先を歩いて、俺が黙って着いていく。涼が楽しそうに喋って、俺がそれを聞く。涼が笑って、俺も笑う。その全てが楽しかった。なんとなく俺はこの人しかいないんじゃないかと考えた時もあった。
「なあ津上」
昼休みの事だ。いつもの様に昼休みに芦原と仲良く昼食を取っていた。
「何だ」
「お前樋口と一緒に帰ってるんだってな」
「ぶ」
とっさに飲もうとしていたお茶を噴出してしまった。
「けほっ……お前、またそんな事を……誰から聞いた?」
芦原は咳き込む俺を心配する素振りも見せず答えた。
「誰って……皆知ってるぞ? お前皆知らないと思ってたのか?」
てっきりそうだと思ってた。俺は顔を真っ赤にして頷いた。
「しかしまあ……仲良いよな。お前ら」
「そうか?」
今は誰も座っていない涼の机を眺めた。
「少なくとも俺にはそう見えるな。でもな……」
芦原は肩をすくめたと思えば、
「女ってのは凶暴な生き物だ」
ぐわっと両手を広げて彼なりの怖い表情を見せた。
「いつか食われるぞー」
「はいはい。気を付けとくよ」
迫り来る芦原の頭を左手で受け止めて昼食を再開した。
今日の放課後も涼の揺れる髪をただ見つめて歩いていく。それが日常になっていた。いつの間にか木の葉も色を変えて、山の色もすっかり変わっていた。
いよいよ秋めいてきた。いや、安定してきたと言った方が良いか。ともかくそんな時の事だった。
「そろそろ文化祭か……」
通学路に植えてある木を見つめながらこぼした。
「文化祭って何するの?」
彼女の瞳は好奇心で満たされている。
「そうだな……売店やったり、各部活の発表したり。まあ文科系のクラブしかやらないだろうけど……」
「へえ……楽しみだね!」
しばらく無言のまま秋の風と匂いを顔に浴びて歩いていく。
「ねえ、次はどんなジャンルの本が良い?」
突然思い出したかの様にくるっと振り返って言った。
彼女に本を返した後、俺は次に貸して欲しい本のジャンルをリクエストするようになっていた。なんでも彼女の家にはちょっとした図書館が出来てしまう程本が置いてあるらしい。おかげで雨でどこでも出かけられない日にも退屈しないそうだ。
「そうだな……次はSFモノとかがよさそうだな」
「SFね。わかっ……」
た、の口のまま彼女の表情が凍りついた。
「何? 何故? 誰?」
三つ程小声で言ったのが聞こえた。
彼女がゆっくりと振り返った先には、見知らぬ少女が立っていた。
季節はずれな白いワンピース、長い黒髪。
尖った目から放たれる視線は、激しく涼を突いていた。
「あなたは誰? 負の力? それとも私と同じ?」
負の力?
「あら? あなた知らないの? 私を」
ワンピース姿の少女は静かに言った。
「知らない……“同業者”だとしても、顔はお互い知らないはずよ。」
そう。と少女は小さく静かに放ち、視線を落とした。
「とりあえず今の私にあなたは……」
ここで後ろの俺に気づいたようだ。少女は一瞬俺を見て言い直した。
「あなた達は邪魔でしかないわ。悪いけど」
少女の周りに風が吹いたと思うと、少女の手には水、いや水で出来た短剣の様なものが握られていた。
「ここで消えてもらう」
そう静かに言った後、信じられない程の速さでこちらへ突っ込んで来た。
「翔! 逃げて!」
叫びながら涼もまた右手に短剣の様なものを作り出した。彼女のそれは枯葉の塊のようだった。
「くっ……!」
少女の短剣を自らのそれで受け止めた涼は今まで見たことが無いほどに顔を歪めている。
「あなたは誰なの? そんな力を使えるってことは!」
激しく切り付けあいながら涼は叫ぶように問うた。
「誰だっていいじゃない。どうせここで消えてもらうんだから」
それに対して少女は顔色一つ変えずに答えた。
しばらく無言の斬り合いが続いたが、それに苛立ちを覚えたのか少女がゆっくりと口を開いた。
「……あなた『秋』でしょ?」
「え?」
一瞬涼の手が止まる。
「くぁっ!」
すかさず少女が短剣を振り払い涼を投げ飛ばした。
「あなた……そう、あなたが“同業者”なのね……でも何故?」
涼は地面に尻餅をついたままだ。
「どうだっていいじゃない」
少女は冷たい目で言った。
「私にはやるべきことがあるの。そのためにあなたは……あなた達は……じゃ、邪魔に……」
突然、彼女の顔色がみるみる悪くなっていき、地面に跪いた。
荒い息を整えながら彼女はゆっくりと立ち上がって両手を顔の辺りへと持っていった。
そして、一瞬つばを飲み込んで、
「邪魔になるのよ!」
校舎に届くほどの大声で叫んだ後、両手を思い切り前へ突き出した。
肌を切り裂くような風と共に、一センチ程の水の塊が大量にしかも高速でこちらへ飛んできた。
「翔!」
ようやく体を起こした涼がよろめきながら俺のもとへと走ってきた。
「させない!」
力いっぱい叫びながら黒髪の少女も両手を前に突き出した。
「うっ!」
その瞬間、目の前に丸い巨大な壁が現れた。ただの壁ではない。さっきの短剣と同じ素材だ。俺の前に立ちふさがった涼が少女の方へ突き出した両手から、渦を巻くようにして枯葉が壁を作り出している。
「何なんだよ……一体!」
その壁は機関銃から発せられるかの様に次々と飛んでくる水の塊を防いでいた。
言葉で表すのは簡単だが、到底理解できそうにない。
突然誰かも解らぬ少女が目の前に現れ、「水で出来た短剣の様なもの」で襲ってきたのだ。水が液体のままこの重力下であのような形になるのはありえない。というよりまずいきなり少女の手に水が現れるのもありえないのだ。
短剣、弾丸、壁。誰もが知っているものが、水や枯葉で出来ている光景を目の当たりにしている。ありえないことが続けざまに起こっている。これは夢か? だとしたら早く醒めて欲しいと心の中で何回も繰り返したが、どうやらそんな願いも叶わないらしい。
俺はただ、どういう原理か全く解らない水の弾丸から、これまたどういう原理か全く解らない枯葉の壁で守ってくれている涼の背中を見ていることだけしか出来なかった。
「くっ……長くは持たない……」
凄まじい音を立てている中で涼の声がかすかに聞こえた。
じりじりと壁に押されて涼はどんどん後退していった。
「きゃあっ!」
悲鳴と同時に枯葉の壁が轟音を立てて崩れ去り、涼の小さな体が宙を舞った。辺り一面に舞い上がる枯葉の向こう側に、少女の声が聞こえてきた。
「やっぱり今日は駄目ね……次に会うときは必ず消すわ」
そんな声を聞きながら落ちてきた涼を受け止め、予想外に軽いことに驚きながら周囲を見渡すが誰一人いない。ただ道が濡れ、大量の枯葉が落ちているだけだった。
俺の腕の中で息を荒くしている涼に問いかけた。
「おい、今のは? 何だったんだ?」
「…………」
涼は無言のまま俺のもとから離れ、よろめきながら歩き始めた。
「ごめんなさい……」
一歩止まってそれだけ言い残し、俺を置いて足早に自分の家の方へと向かっていった。
俺はただ黙って彼女が道の向こうへと消えていくのを見送るしかなかった。
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