寒い秋

@mamossan

秋の訪れ

 人間の記憶は、脳だけではなく、空気中を漂う匂いの中にも保存される。小学生の頃にそう確信した。厳密には、ある出来事を経験した時に嗅いだ匂いを、状況場面と一緒に脳内にしまっているだけに過ぎないが。ともあれ、特定の匂いが鼻に触れた途端、忘れかけていたような記憶が蘇ってきたことが何度もある。ご馳走の良い香りや、公衆トイレの刺激臭などの極端にわかりやすい匂いだけではない。何か心踊る体験をした時に、どこから発せられたかもわからない匂いも同時に記憶している。そんな匂いを何気ない瞬間にふと感じると、条件反射のように気持ちが高揚してしまうことがある。

 季節によって空気が違う匂いを運ぶこともある。ある秋の日に外を歩いていたときだ。突然ふわりとした優しい風が、同時に匂いも運んできた。優しさと暖かさをまとい、微かに干草を感じさせる匂い。他の季節では出会えない匂いだ。


 夏休みが終わってちょうど一週間。例年通りなら、この頃は微かな秋の匂いの中にまだ夏の残り香を感じる。いわゆる残暑だ。しかし今日はどうだろう。不思議なことに夏の匂いも秋の匂いもしない。これは完全に冬のそれだ。今朝の気温は十度。これが九月上旬の気温といえるだろうか。


「なあ芦原」

 予鈴が鳴りそうな時刻だが担任はまだ教室には入ってこない。別段することもなかったので前の席の奴に話しかけてみた。

「何だ」

 相も変わらず愛想の無い返事だ。

「何かさ、九月にしては今日寒すぎないか?」

「うーん……確かに」

「なあ、寒いよな」

 たったこれだけで会話は終わってしまった。俺は窓の外に目をやり、どんよりと曇った空を見上げていた。このクラスは真面目なのか夏休み明けで体が慣れていないのか、非常に静まりかえっていた。普段の生活ではごくごく小さな誰かの咳払いや、鼻をすする音でさえこの静けさでは教室中にこだまして聞こえてしまう。


「皆注目! 転入生を紹介するぞ!」

 咳払いや話すすりが支配する静寂を破ったのは、担任が扉を力任せに開ける音と、それに追従する大声だった。何人かはその音に肩を揺らして驚く者もいた。が、全員の注意は担任の大声より、ちょこんと可愛らしく立っている転入生に集まっている。


「じゃ、自己紹介して」

 そう小さく担任が促すと、

「初めまして、樋口涼子といいます。えっと……よろしくお願いします!」

 転入生はその小さな体をさらに小さくするようにお辞儀した。


「なあ、かわいいよなあ」

 ぐいと体をこちらに向けて、芦原はにやけた顔で言う。

「うん? ああ……悪くは無いかもな」

「だろー? いやあーかーわいいなあ……」

 にやけた顔をさらににやけさせたまま前を向き、両手を頭の後ろに持っていき椅子をがたがた揺らし始めた。

「うるせ」


 確かに整っている顔立ちではある。教室を見渡す希望と不安に満ちた瞳もどこか、普通の人間は滅多に持っていないような、神秘的な雰囲気を有しているようだ。

「じゃあ、席は津上の隣が空いてるな。そこに座ってくれ」

「は、はい!」

 樋口とかいう転入生は、作り物ではない可愛らしい声で返事をし、毛先を微妙にカールさせ肩まで伸ばした髪を揺らしながら、隣の席にちょこんと座った。

 不思議なことに、彼女を追いかけてきた風からは、ある日嗅いだ秋の様な匂いがした。

「よろしくね! えっと……津上君!」

「うあ、ああ。よろしく」

 まさか、人から秋の匂いなんて感じることは無いだろう。マニアックな香水メーカーでもあるのだろうか。そう考えながらしばらく転入生の顔をじっと見ていた。

「な、何?」

「あ、いや……何でも……」

 間近でみると芦原が絶賛するのも改めて理解できる。吸い込まれそうな彼女の瞳は、ついじっと見つめてしまう程だ。

 しかし、

「おい、照れてんじゃねえよ」

 芦原の一言がそれを阻止した。

「照れてねえよ。あ、お前可愛い転入生が俺の横に座って羨ましがってるんだな?」

「な! そんなわけないだろ!」

「図星だな。どうだ羨ましいだろ」

「勝手に言ってろ!」

 そういって彼は前を向いて教科書やらノートやらを乱暴に机の上に置いた。


 授業の最後が自習になってしまったが、別段やる課題が無いのでまた暇になった俺は、隣でなにやらせっせと問題を解いている転入生を眺めてみた。

「…………」

 転入生の横顔は、やはり美しいというよりは可愛らしいと形容した方が良い。今朝自己紹介をしているのを見ていた時は、明るくはつらつとした顔だと思ったが、よく見るとどこか憂いを帯びた顔をしている。俺には何か深刻な悩みを抱えているように見えた。


「なあ」

 思い切って話しかけてみた。

「え?」

「何か悩んでる?」

「え、ど、どして?」

「いやー、何かそんな顔をしてたから」

「ああ……ごめんね。何も無いよ。何も」

 とても何も無いような顔には見えないが。

「ふーん。そう。何か悩みがあれば、いつでも言ってくれよ」

「うん! ありがとう」

 と言ってまた問題を解き始めた彼女の顔はさっきと変わらず、むしろ瞳に涙を溜めたような潤みを帯びたような気もする。


 が、突然顔を上げて聞いてきた。

「あ、そうだ! ねえ津上君、本読まない?」

「本?」

 彼女は瞳から涙を消し、今度は思い切り光らせて言った。

「そう。読まないの?」

「あ、いや……そうだな。小学生の時に少しだけ……」

「へー、そうなんだ。もったいない、今も読みなよ」

「まあ、そうだな……」

「私なんて世の中に本が無ければ退屈で死んでしまいそう」

 随分と大げさな物言いだ。まるで他に暇つぶしの物が無いようだ。

「ねえ、明日本持ってくるよ。貸してあげる」

「え、ああ。そりゃどうも」

 じゃ、また後でねと彼女が言ったとたんに昼休みの始まりを告げるチャイムが鳴った。それを待っていたかのように彼女はいそいそと教室から出て行く。弁当も持たずどこへ行くのだろうか。今朝来たばかりだから、ここの事はよく知らないと思うが……


「なあ、津上」

 彼女の姿が見えなくなるまで目で追い、前を向いたとたんこいつの顔があった。

「おう、何だ」

「おう何だじゃ無いって、お前転入生が来て早々に仲良くなりやがって。ええ?」

 怨む様な眼つきでせまってきた。

「さすがだな、友達だけは作るのは上手いんだお前は昔から」

「そうか? あの子が悩んでそうだったから話しかけただけだ。お前は話しかけないのか?」

「話しかけられるわけ無いだろ。俺みたいな奴、どうせ話しかけても反応してくれないに決まってる」

「おうおう、ひねくれてるね」

「そりゃひねくれたくもなるさ、目の前で友人がとてつもなく可愛い子としゃべってたらよ!」

「悪かったよ」


 その後も数分間芦原の話は続いたが、俺はその半分も聞いてはいなかった。機械的に口へ昼飯を運び、何秒か置きに彼女に関することを考えていたような気がする。どこへ行ったのか、どこの学校から来たのか、どんな本を読むのか、どんな本を貸してくれるのか。

「だからさ、俺もそう思ったわけでさ、なあ? 聞いてるか?」

「え? ああ、すまん聞いてなかった」

「だろうな」

 芦原は荒々しく弁当箱を重ね自分の席に戻っていった。少しくらいは話を聞いてやった方が良かっただろうか。スイッチが入ったときに話すと止まらないのは彼の悪い癖だが、それに付き合うのが友人というものだろうか。まあいいか。そう心の中で呟いて窓の外を眺めた。


 窓の外は相変わらず曇りだ。雨が降りそうなほど気持ち悪くのっぺりとした厚い雲が空一面を覆っている。明日も寒いのは勘弁だ。取るに足らない不安を抱きながら次の授業の用意を机の上に並べているうちに予鈴が鳴った。と同時に、さっきまで誰も座ってなかった転入生の席に、彼女が座っていた。


「あれ?」

 当然、驚いた。

「えっと、いつからここに座ってた?」

「え? あっ! しまった……」

 はつらつな顔、悲しそうな顔に続いて彼女が見せたのは、ひどく慌てた顔だった。目を見開き耳まで赤くしている。器用な子だ。

「しまった?」

「ああ、いやいやいやなんでも無いよ! 気にしないで」

 そんな風に言われて気にしないほうが難しい。昼休みの動向も少し気になったので、

「あのさ、さっきどこへ行ってた?」

「え、さっき?」

「そう。さっき」

「さっきね……えっと……」

 天井を仰ぎ蛍光灯を数えるように思い出す仕草をする。

「ああ、もうチャイム鳴っちゃうからまた後でね」

 彼女は悪戯に微笑んだ。もしかしてごまかされたのだろうか、その後の休み時間でも彼女は昼休みの事を教えてはくれなかった。


 放課後、異常気象の影響で普段よりさらに冷えたロッカーにはさまれながら、履き替えた靴をロッカーに収めようとしていた時、

「津上君!」

「のわっち!」

 突然後ろから声が聞こえた。あまりにも突然の事だったために勢い良く目の前のロッカーに頭をぶつけてしまった。

「いてえ……」

「だ、大丈夫?」

「ああ。大丈夫、と、思う」

「ごめんね……驚かせちゃって」

「本当びっくりしたよ。気配も無く後ろから声かけるからさ」

「へ?」

「いやだから、足音消すのは良いとして気配が全く無かったから……」

「しまった……」

 また「しまった」だ。今度こそ逃さない。

「何が?」

 うつむく彼女の顔を覗き込むように問いかけた。

「ああ、ううん。何でも無いよ」

 そう言って彼女は必死に首を横に振る。それに合わせてさらさらと揺れる髪は美しく見とれてしまいそうだった。逃すまいとした気合いは何処へやら。男の悲しいさがだ。

「あの、本当に何でも無いから」

 いそいそと靴を履き替えながら彼女は言った。

「じゃ、じゃあ、明日ね。本持ってくるから!」

「あ……」

 特に呼び止める様な用事も無かったが、待てよと声をかけようとする前に彼女は風のように去って行った。


「……変な奴」

 ふと視線を下へやると、イチョウの葉が一枚落ちていた。黄色く染まったその葉はどこか暖かい秋の匂いがした。今朝の彼女の匂いと似ている。

 こんなに寒い上にもう紅葉するくらい秋なのか。まだ九月なのに。

 そう思って下足室から出て外を見回すが、イチョウの木は下足室の付近には無かった事を思い出した。下足室から遠く離れた裏門近くに何本かあった様な気がする。結構な距離があったが、風で飛んできたのだろうか。一枚だけだし、彼女が拾ってポケットの中にでも入れていたのかもしれない。

 夏が終わるや否や色付き散ってしまう稀有なイチョウを一目見ておこうという好奇心が沸いた俺は、裏門へと走っていった。


 ……イチョウの木は確かにある。だが、葉は一枚たりとも散っている様子はない。そればかりか、まだ黄色くもなっていなかったのだ。

「そんな……」

 では自分の持っている物は一体何なのか。もう一度手にしているイチョウの葉をまじまじと隅々まで眺めた。確かに本物だ。百円ショップで売っている様な物ではない。正真正銘本物の、黄色いイチョウの葉だ。

 しかしそんなはずは無い。今、目の前にあるイチョウの木には青々とした葉が生っている。


 昨日は夜遅くまで起きていたし、今朝いきなり寒くなっていた温度差も影響して疲れているんだろう。

 そう思うしかなかった。

 俺は、大きく伸びをして駐輪場へ向かった。


 一晩中考えた結果、昨日見つけた黄色いイチョウの謎はとうとう解けなっかった。ネットで検索しても、本棚に眠っていた植物図鑑を参照しても、この時期にイチョウは黄葉しない。

 釈然としない気持ちのまま、俺はイチョウの葉を部屋の机に置いて家を出た。


 空を見上げれば昨日と変わらずべた塗りの灰色だ。しかし、吹く風は顔中を撫で回す様な気持ち悪く生ぬるい。昨日の寒さは嘘の様だ。

 そんなぬるい風をかき分けながら、予鈴ギリギリの時間に学校へと到着した。

 うちの学校では、一年生は全クラス三階にある教室で授業を受ける。半年程上り下りを繰り返している割にこの階段だけは慣れない。中学生の頃の経験からすると、このまま慣れない内に三年生になって階段を滅多に使わなくなって卒業してしまうだろう。


 そんな階段を上り終えて真っ直ぐ教室に向かい、扉を開ける。何人かが俺に気付き「おう」だとか「うす」だとか言ってきたが、適当に返して俺は足早に机に向かってカバンを脇に置いたまま突っ伏した。


 そこまで疲れているわけでもなかったが、もう少し寝ていたいという気持ちがあった。本鈴がなるまでの数分間で良い。とりあえず寝ておきたかった。授業中に寝て減点されては元も子もないから……

 あれこれ考えるのもこれが限界。冷たい机に意識を吸い込まれるように眠りに落ちていった。


「……うぁっ!」

 しまった。本鈴が鳴るまでのほんの数分の間目を閉じて休むだけのつもりだったのに、完全に寝入ってしまった。今は何時だ、何時間目だ、何の授業だ。なぜ誰も起こしてくれなかった! 深い後悔と焦りを抱えたまま時計を確認した。


 本鈴三分前。


「あれ? え、あれ?」

 何回も変な声を上げた後、誰かが話しかけてきた。

「おはよう、津上君」

 転入生だ。

「はい、これ」

 そう言って彼女はハードカバーの本をカバンから取り出して自分に差し出した。

「ああ、ありがとう」

 彼女の小さい手から本を受け取りじっくり眺めた。なにやら軍人、しかも将校の様な見かけの人物が表紙に描かれてある。

「それさ、結構面白いから気に入ると思うな」

「ありがとう。えっと……」

「あのさ、涼って呼んでくれない?」

 彼女は少し頬を赤らめて言った。

「ああ。えっと、ありがとう。涼」

 女子を下の名前で呼ぶのは滅多に無かった俺も、心なしか頬が赤くなって体が火照っていた様な気がした。


「じゃあさ、津上君の名前は何ていうの?」

「ああ、俺の……翔」

「しょう? じゃあそのままで良いね。翔」

 そう言った時の彼女の瞳程美しいものは見たことが無い。そんな錯覚に追いやられた。

 そのまま彼女は自分のカバンから教科書類を机に並べていった。


「あのさ、涼」

「んー? なにー?」

 涼はこちらを向かないまま答えた。

「俺さ、本鈴の鳴る五分程前に寝たんだ……睡眠時間は三分も無いと思う。でも二、三時間寝た様な気がするんだ」

「ああそれは……」

 少し考え込んだ様な仕草を見せた後、

「一炊の夢。っていうのじゃない?」

 天井に上げた人差し指を自分の顔に近づけて言い放った。

「ああ、そうなのか……」

 そんなことわざもあったか。

 多分そういう意味ではないだろうとは思ったが、昨日のイチョウに続き、何をどう考えても謎は解決しそうになかったので、これ以上考えるのをやめて俺も机の上に教科書類を並べた。


「なあ津上、お前樋口と下の名前で呼び合ってるんだって?」

 昼休みの時だった。

 どこで聞いたのか、芦原が弁当の包みも開けずに聞いてきた。

「……悪いか?」

 弁当箱で顔を隠すようにして返した。

「悪いな」

「どこが」

「全部が。うらやましすぎる」

「そうかい。じゃあこれもうらやましいだろう」

 俺は芦原に涼から借りた本を見せた。

「何だそれは」

「涼から借りた」

「何!? 見せろ!」

 本を奪おうとする芦原の腕を避け、素早くカバンにしまった。

 芦原は軽く舌打ちした後、

「良かったな」

「何が?」

「何も」

 芦原は唇をへの字にひん曲げて弁当の包みを開けた。


 下足室にあるロッカーは相変わらず冷たかった。

 その冷たい箱から自分の靴を取り出して履き替える。イチョウの葉に一炊の夢。昨夜から考え漬けでなんとなく疲れた俺は少し乱暴に上履きをロッカーに投げ入れた。

 カバンを肩にかけ、下足室を後にしようと思ったとき、後ろから音が聞こえてきた。上履きを擦って歩く音だ。

「翔」

 足音が止まって、そう聞こえた。

「ん?」

 振り向くとやはり彼女だった。今回はちゃんと足音が聞こえた。

 彼女も同じ様にロッカーを開けて靴を履き替え、とんとんと地面を蹴ってはみ出したかかとを靴の中へ納めていった。

 その姿に見とれてしまっていた自分が居た。さっきは気付かなかったのかそれともやってなかったのか、髪を頭の後ろにまとめて束ねている。いわゆるポニーテールのゴールデンポイントと呼ばれる、顎の先端と耳をつないだラインの延長線上で結ぶのではなく、やや下の目と耳のラインの延長線上に結んである。

 これくらい語れるほどポニーテール狂な俺は、心臓の鼓動が速くなっていくのを感じた。

 彼女はゆっくりとこちらを向いて、頬を赤らめながら言った。

「あー……あのさ、一緒に……帰らない?」

 真っ直ぐな涼の瞳に見つめられ、その言葉を聞いた俺の心臓は今までに無い速度で全身に血液を送っている。ほんのり顔も熱くなってきた。そんなことを言われたのは今の今まで一度も無かったからか。

 俺は小さく頷き、

「そうだな。じゃあ行こうか」

 赤くなった顔を見られないように俯いて下足室を出た。

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