第四章 グラーシェ・オッドーは心配性

第一話 闇夜は紅い瞳と共に

ロミニアホルン角音女学院の夜は就寝時間までの自由時間が存在する。


その時間はそれぞれが各々の趣味に使う場合がほとんどであり、例えばハンナであれば趣味のパンクなアクセサリーの手入れをしたり、ピルピィであればハッコウコトカゲのクルルと戯れたり。


そうでなくとも、角音の練習を細々とやっている生徒もおり、ミウもこの場合が多い。


ただそうでない時、ミウはよく本を読む。


大昔の物語が特に好きで、原初の角奏者である少女が角音の力でいろんな事件を解決しながら旅をする『ロミニアホルンの旅人』なんかは愛読書と言ってもいい。


ミウが角奏者に憧れていた理由の一つに入るほどだ。


けれど、今日の彼女の自由時間は少し趣が違った。


「……何の用事なんだろう……」


ハンナに適当な理由をつけて、ミウは学生寮の廊下を進む。


生徒数が多いだけあって、廊下の距離も長く、そして両側に並ぶいくつものドアが、ミウの感覚を狂わせる。


ぎしり、ぎしりと木製の床が足音を立てる。


今、ミウは制服に身を包んでいる。


ただ、普段なら上に羽織っているセーラーカラーの付いたポンチョを、今は身につけていない。


襟付きのシャツ、リボン、そしてスカートと一体になったボタン留めの制服のみ。


そんなミウの脳裏に、昼間のアカリの声が蘇る。





────今日の夜の自由時間、一人で私の部屋まで来て。





溺れるような、水の中から聞こえたような小さな囁き。


それでいて、耳の奥をとろけさせてへばりついたような、甘い声。


ただ、その響きは冷たく凍りついたような、冗談の欠片も感じられないような真剣なもの。


「え、と……アカリさんの部屋は、確か……」


ぞわりと妖しい感覚のする耳の奥に気を取られながら、ミウは周りを見回す。


ミウの部屋からアカリの部屋は割と離れていて、廊下の突き当たり近くである。


そこには外が見える大きな窓があって、そこからは月の光が差し込んでいる。


そしてそこに、


「……待っていたわよ、ミウ」

「……!」


月明かりに照らされたアカリの姿があった。


同じように制服を着て、さらにその上にポンチョを羽織っている。


薄暗闇の中に、彼女の紅い瞳が良く映える。


どきり、と胸に痛みが走る。


それの意味が分からず、困惑しながらミウは問う。


「何の用……かな。アカリさんが私を呼び出すなんて、珍しいね」


しかし、彼女は何の表情も浮かべないまま、向こうを向いてしまう。


「……付いてきて」

「え。う、うん」


そのまま、月明かりの洩れる窓を横切って廊下の奥に向かうアカリ。


ミウは言われるがまま彼女に付いていく。


ミウの前で、おしとやかかつ堂々とした振る舞いで進む彼女の黒い髪が、物静かに揺れる。


ぼんやりとした光を艶やかに反射するその髪は、人のものではないみたいに思えてしまう。


見惚れるとはまさに、こういったことなのだろうと思った。


ふと、ミウの肌に、冷たい風が吹き抜ける。


「……どうしたの。早く来なさい」


アカリは振り向いて、そう告げる。


しかし、彼女が開けたのは寮の玄関の扉だ。


「だ、駄目だよ。自由時間でも寮からの外出は……」

「許可は取っているわ。ほら、早く」

「あ……そう、なんだ」


そう答える彼女に、呆気にとられながらも後についていく。


先生からの期待も厚い彼女なのだから、きっと外出の許可を得るのも難しいことではないのかもしれない。


寮は学院の敷地内にあるため、少し奥を見やれば荘厳な外観の学院が瞳に映る。


立派な校舎だ、とミウは思う。


世界でも有数の角音の女学院であるからこその、この巨大な校舎なのだ。


何百とある教室、西洋的な外観、月を貫くように高いとんがり屋根と巨大な時計。


こんな規模の校舎の中で、自分という存在はなんてちっぽけなのだろうか。


そう考えていると、ミウの肩がぶるりと震える。


「寒……」

「ああ。あなた、上は着てこなかったのね」

「外に出るなんて思わなくて……」

「……そうね、悪かったわ。少し待っていて」


そう言うと、アカリは腰のベルトに下げていた角笛を取り出す。


一般的な角笛はアカリの力でその姿を変えていく。


うっすらと赤いグラデーションがかかった薄灰色の横笛へと変化したそれ──角笛カグツチ──を、アカリは咥え、旋律を奏でる。


「……!」


角笛を奏でるその姿は凛としていて、とても綺麗だと感じた。


そしてそれと一緒に、ミウの手の中に炎の玉が一つ現れる。


ミウは驚きながら、慌ててそれを手放そうとするが、


「わっ⁉︎ あ、あつっ……く、ない……?」

「寒いのなら、それを抱いていなさい」


それは、炎というよりかは柔らかいジェルのような感触で、中に小さな太陽が入っているかのようなふんわりとした温かみを感じる。


こんなこともできるんだ、と改めて角音の有用性に驚かされる。


「ありがとう。こんな難しそうな角音も使えるなんて、さすがアカリさんだね」


特に、返事は無かった。


野外を進んでいき、校舎へと入る二人。


夜の学校なんて入ったことがなく、ミウは少し気味が悪いとすら感じてしまった。


明かりの点いていない廊下は、側面が大きなガラス窓のために月光でなんとか先が見える。


しかし、普段は人で溢れていて上品さを感じるくらいに美しい内装が、まるで怪物屋敷か何かのように感じてしまう。


人気の無い広大な建築が、これほどまでに異様な空気を生むとは。


しかし、アカリは臆せずどんどん進んでいく。


「ねえ、どこに向かってるの? どうして私なんかを誘ったの……?」

「質問が多いわね。……図書室に向かっているのよ。あなたとでなければ意味がないの」

「私でなくてはって……」


ミウは、心の中に謎の充足感が生まれるのがわかった。


人間離れするほどの天才、アカリ・ミヤシロが、どうしてかは分からないが自分を求めてくれる。


他の誰でもなく、ミウジカ・ローレニィという人間を。


ただそれが、意味がわからなくとも嬉しかった。


「えへ……」

「何を笑っているの? 気味が悪いわね」

「ご、ごめん。でも、アカリさんがそうやって言ってくれるのが嬉しくて」


ミウの心が、少しばかり高揚する。


だから、少し踏み込んだことも言ってしまうかもしれない。





「────私、アカリさんとも友達になりたいな」





気付けば、口からそんな言葉が洩れていた。


「は?」


そして、返ってくるアカリの反応は決して良いものではなかった。


けれど、既に今日は同じことができた。


「今日ね、キラリエさんとほんの少しだけ……仲良くなれた気がするの。私、いろんな人と仲良くなりたいなって思ってて……だから、アカリさんとも……」


なら、きっとアカリとも仲良くなれるはず。


完璧で完全なアカリにだって、人間らしい部分があることに気付いたのだから。


だから────。


「くだらないわね。あなたと仲良くすることに何の意味も感じないわ」

「え……」


否。


彼女の心は固く、冷たく、ミウの手の中で温かさを放つものとは真逆に感じられた。


全く動かない彼女の表情筋。


こちらを睨みつけるような紅の瞳。


それら全てが、こちらを凍りつかせる絶対零度のようで。


「それに、キラリエはああ見えて寂しがりなのよ。今日だって、部屋に戻ればあなたやピルピィのことを耳にタコができるくらい話していたわ」

「そ、そう、なんだ」

「自分からは興味がないような素振りはしていたけれど。元々、あの子は気の置ける友人を欲していたのよ」


嫌そうな表情でキラリエのことを語るアカリ。


それは、キラリエが見せるような見た目だけのものではなくて、本当にうんざりしたような。


「で、でも。実技試験の時、アカリさんは私のこと見守ってくれてて……」


そうだ。


必死に使えない角音の練習をしていた時、アカリはずっと図書室からミウのことを見守ってくれていた。


あれは、友情とは違うのだろうか。





「────馬鹿な子ね。私はあなたを見守っていたのではないわ、あなたののモノに興味があって見ていただけよ」





その言葉に、親しみは一切無かった。


ズキリ、と胸に突き刺さる痛み。


それは彼女の表情が、初めて笑みに変わったから。


そう。


微笑みとは真逆の、馬鹿にするような嘲笑に。

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