第2話 ふたりきり


 昼下がりの午後。

 千里ちさとは掃除機をかけていた手をとめて、窓の外を見た。薄い雲が、いくつも流れていく。水色の明るい空。

 庭先では、咲いたばかりのクレマチスが風に揺れている。赤い蕾を抱いた山茶花さざんかの木と、花壇に植わっているガーベラの群生。住宅街の家々と、電信柱の電線にとまる鳩。


 そんな午後の風景を見ていると、千里はいつも——閉じ込められている気がした。この家のなかにしか、いられないような。それはともすると、手足が冷たく痺れていくような、ぞっとする感覚だった。千里は知らず、こぶしを握りしめる。


 いつから、こうなってしまったのだろう。この不自由さを、一時は愛していた。誰かとともに暮らしていくことが、これほど困難な葛藤や、憂いで満たされたものになるなんて、千里は全然知らなかったのだ。


 五年前の結婚式の眩しさは、よく覚えている。二人で永遠の愛を誓ったあと。教会の外は、雲ひとつない紺碧の空だった。

 五月の美しいひと日。あの頃は、その多幸感がずっと続いていくのだと思っていた。結婚と同時に失われるものを、千里は想像することさえできなかった。


 (離婚すれば)


 千里はときどき、その考えに魅了される。まるでどこかの国の、めずらしいお菓子を眺めるような気持ちで。


 そしたら解放される。

 生活は厳しくなっても、ずっと自由に振る舞えるだろう。千里は、夜の外出を禁じられていた。友達に会うことすらできなかった。日々の過ごし方や、家事のやり方に細かく口を挟まれることもない。自分の不注意で、彼をこの上なく怒らせてしまうことも。


 千里は掃除機をしまおうとして、右の横腹が鋭く痛むのを感じた。とっさに手をはなす。バタン、と音がして、掃除機は横向きに倒れた。

 千里は痛んだ箇所に、手を伸ばす。そこには、真新しい傷があった。昨夜、彼に蹴られたときの傷だ。執拗に何度も蹴りつけられるので、内臓が潰れてしまうような気がした。


 彼が激昂するとき、千里はその時間が過ぎるのを、じっとひたすら待っているだけでよかった。何も考えずに。物言わぬ人形のように。そうしていれば、早く終わるからだ。


 無駄な抵抗を一切しなければ、彼の暴力が優しく思えてくることもあった。実際に手加減はしているのだと思う。誤って骨を折ってしまわないように。病院へ行くほどの大怪我にならないように。


 彼がつけた傷跡の名残が、千里の体にはたくさん残っている。それはすべて、服を着ていれば分からないものだった。でも、裸になった千里を誰かが見たら、それが数限りない殴打の跡だということが分かってしまうだろう。


 表は春の日差しだ。少しずつ薄着になる。

 そうしたら、打擲ちょうちゃくはより目立たない場所へ移行していく。

 そうしたいつもの一時の激情が過ぎると、彼はいつも泣いて許しを請う。千里はすがりついてくる彼の髪を撫でなければいけない。泣きやむまでずっと。


 かと思えば、次の日にはその懺悔は跡形もなく消えて、彼は些細なことで千里をなじり倒し、文字通り馬乗りになったり、ときには首を絞められることさえあった。


 (離婚すれば)


 何度も、——咀嚼するように、そう思った。


 でも、その考えを前にすると、千里はいつも動けなくなってしまう。きっとこの家が静かすぎるからだ。この静寂のなかで、私という個体はどんどん失われて、どこへも行けない錯覚におそわれる。


 痺れたように、千里は立ちつくしてしまうのだ。

 どれだけ傷を負っても。彼の絶望を、どれだけぶつけられても。


 (私の心の一部はもう失われて、永遠に戻ってこない。はるか昔に置いてきてしまったもの。

 私たちはいつのまにか、傷つけあうことでしか、お互いを認識できなくなってしまった)



 ぼうっとしていたら、夕方になっていた。

 西の方では、太陽が黄昏の光に染まる雲の合間へ淡く溶けていく。

 ルビー色の空。

 その夕映えに呼ばれるように、千里はサンダルをはいて、家の外に出た。


 夕暮れは、まるで世界の終わりのような一瞬のきらめきを放射させていた。その様子を眺めながら、千里は自然と歩き始めていた。長く伸びる影。子供たちが戯れている歓声。

 清涼な風が吹いて髪を揺らした瞬間、千里の胸に哀しみがこみ上げた。


 このままどこかへ行ってしまうことだって、本当はできるのだろう。そうしたら、もう二度とあの家に戻れない。この五年間で失った数々のものを、遠くの町で見つけることもできるのかもしれない。


 それは夢のように、現実感のないことのように思えた。縛られ続けたのは、手放せないからだ。

 ずっと昔——心の半分を、彼に明け渡してしまったから。



 星々が暗い夜空で光り始める頃、千里は町を一周してようやく帰り着いた。

 鍵は開いていた。

 ドアを開けると、玄関の上がり端で、彼は悄然と座り込んでいた。スーツ姿のままで。


 振り上げたこぶしは、顔の直前でとまった。そして唇の隙間から、嗚咽のような小さな声が漏れた。



「——もう二度と、会えないかと思った」


 その言葉は、千里を切り裂いた。

 千里は髪を撫でる。いつもいつも、そうしているように。


 これからも彼は、私を殴るだろう。

 蹴飛ばしたり、引きずったり、あらゆる折檻を繰り返すだろう。それしか愛する方法を知らない小さな子供のように。


 ひとりきりじゃなかった。本当はずっと、ふたりきりだった。まるで迷子のように出口を見つけられず、閉じ込められたまま、これからもふたりきりでしかいられないのだ。


 夕暮れの輝く光が脳裏に浮かびあがって、千里は不意に泣きだしたくなった。

 この手をはなしたい。はなしたくない。一緒にいたい。はなれてしまいたい。


 相反する気持ちが急激に混ざり合って、千里は途方に暮れた。そして静かな家の入り口で、涙をぬぐうこともできなかった。


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